角田光代の「対岸の彼女」を読んだ! | とんとん・にっき

角田光代の「対岸の彼女」を読んだ!


角田光代の「対岸の彼女」が第132回直木賞を受賞したときの芥川賞は、阿部和重の「グランドフィナーレ」だったんですね。これを書くので調べてみるまで、まったく気にもとめませんでした。「グランドフィナーレ」は文芸春秋に掲載されたときに読みましたが、あまりいい作品だとは思いませんでした。「対岸の彼女」は買うまでに、唯川恵の「肩越しの恋人」と何度も間違えて、結局「肩越しの恋人」は意味もなく2冊買ってしまいました。まあ、どちらも「ブックオフ」だからいいようなものですが。ということで、やっと購入した「対岸の彼女」、なんとか読み終わりました。また、いつものように「なんでこれが直木賞なの?」という疑問が、むくむくと起きあがってくるのを押さえ切れませんでした。


出版社の「内容説明」によると次のようにあります。
30代、既婚、子持ちの「勝ち犬」小夜子と、独身、子なしの「負け犬」葵。立場が違うということは、時に女同士を決裂させる。女の人を区別するのは、女の人だ。性格も生活環境も全く違う2人の女性の友情は成立するのか…?


どうも売り出すときに出版社側が、ことさらに「勝ち犬」「負け犬」と煽ったようですが、読んでみて「勝ち犬」「負け犬」的なくくりでの対比的な捉え方は、「対岸の彼女」ではほとんど感じられませんでした。「女の人を区別するのは女の人だ。既婚と未婚、働く女と家事する女、子のいる女といない女、立場が違うということは、ときに女同士を決裂させる。」これらの設問も、今までに多くの人たちに言い尽くされたことで、男の僕としてはいまさらの感がありました。どうしてお互いの立場を尊重して、それぞれをあるがままに認めようとしないのか?ま、そんなことを言ったら小説にならないか!


「対岸の彼女」は働きに出る主婦の側のエピソードがステロタイプで。特に旦那との関係。口では理解があるようなフリをしてるけど、内心、女房は家にいたほうがいいと思ってると。そういう旦那っていかにも多そうなイメージだけど、現実にはそんなにいない気がする。今どきの旦那は育児参加したがる人のほうが多くて、専業主婦の奥さんが家にこもって一生懸命子育てすることはかえってうっとうしいと思うんじゃないか。個人的にはこの家庭にいまいちリアリティを感じないんですよ。口うるさいお姑さんもめちゃめちゃ古典的なパターンだし。最初に出てくる公園デビューの悩みの話も、「だったらとっとと認証保育園に入れろよ」とかいらいらするし。いざ就職が決まってから、認可保育園に入れるのがたいへんだと急にあわてはじめたりするのも現実味がない。これ、「文学賞メッタ斬り!」でお馴染み大森望の「リアリティがない」発言、まったく同感です。


「自殺未遂の後。結局、どうなったの」と仕返しのつもりで小夜子が聞いたことに、葵はおもしろおかしくかいつまんで話します。仕返しのつもりというところが女特有の嫌らしさです。3人の社員が同時に辞表を出す中で、小夜子が「もし掃除を手放すのだったら、私もやめようと思う」と言ったときの、葵の胸中を想像するに、何とも言えないやりきれなさが込み上げてきました。「葵は泣こうとしてみる。出てこない涙を誘うように、うえーん、と子どものように声を出してみる。涙はいっこうに出てこない。」これは男の涙です。奈落の底に突き落とされたとはこのことか。空漠とした寂寥感。既婚と未婚、働く女と家事する女、子のいる女といない女、そのどれにも属さない男の僕が、この作品の中で唯一同化できるのは、この零細企業主の葵のこの瞬間の哀しみだけかもしれません。


参考:
メッタ斬り!版 芥川賞直木賞 角田光代「対岸の彼女」
過去の記事:
いまさらですが「負け犬の遠吠え」
芥川賞発表!阿部和重の「グランド・フィナーレ」
唯川恵の「肩ごしの恋人」を読んだ!