今井兼次の「建築とヒューマニティ」を読む!
今井兼次が初めて取り組んだ作品に「早稲田大学図書館」があります。建築の作品は、建設に関わった多くの人々の作物であると考える今井は、図書館建設に携わり働くそれらの人々を讃美しています。
「正面大玄関ホールの真白い六本の円柱を皆さんはご覧になったことと思います。この六本の柱を仕上げるのに一つの物語があります。残り少ない時間に、若い二人の左官職は励みにはげんで仕事にかかっていたのです。あるときは蝋燭の燈火で懸命に働かねばならない事もありました。二人は二本、三本と、日を追って柱を白く塗り上げていったのです。塗り上げてしまう最後の六本の日が来ました。この日の朝、年上の職人は正装した自分の妻と三人の幼い子供を連れてこの大ホールの一隅の茣蓙の上に座を占めました。この左官職は若い職人と一緒に相変わらず二人で働き続けて最後の柱は遂に仕上げられました。希望をもって働いた左官職は終日そばに座している妻子とともに、今まで自分たちが仕上げて来た六本の白い柱を飽かず眺めて心安らかな姿でホールから去って行きました。この光景はいじらしいほど、私には有難いものでした。」(建築とヒューマニティより)
もう何度となく読んだこの文章ですが、この箇所を読むとき、僕はいつも胸が詰まります。「建築とヒューマニティ―ヴィトルヴィウスよりル・コルビュジェまで―」のごく一部の文章です。この本、「建築とヒューマニティ」(早稲田大学出版部)は、1953年8月に出版された今井兼次の処女出版であり、「建築とヒューマニティ」「旅記随想」「身辺記」の3章からなっています。僕の手元にある本は昭和60年(1975)4月30日第1刷発行で、「早稲田選書」として再刊されたものです。敬虔なカトリック信者でもある今井兼次のヒューマンな精神性が、この本全編に貫かれています。そもそも早稲田大学とはまったく縁のない僕がどうしてこの本を購入したのか、あるいはこの話がこの本に載っていることをどうして知ったのか、まったく覚えていません。いずれにせよ、僕の手元にあり、時々取り出しては拾い読みしている本です。
蛇足ですが、「近代建築の目撃者」には、人見絹枝に言及する箇所が2カ所に出てきます。シベリア鉄道をともにした女子陸上選手、人見絹枝もスウェーデンのヨーテボリのオリンピックに出場するから同行してくれと言われたが、自分はストックホルムに行くためにしばし一行と別れたという箇所があります。その前に、ソ連国境へ入ってから20日間、モスクワ、レニングラードなどを回ったとありますから、その間は人見絹枝たちとずっと一緒だったと思われます。そして、人見絹枝たちがベルリンへ直行するのでぜひ一緒にとせがまれて、デンマーク行きは後日の機会に譲ることにしてあきらめ、すぐベルリンへ入ったという箇所です。
このエピソードから、若きアスリート人見絹枝が取り上げられる際に、その恋人として出てくるのが若き日の今井兼次のようです。人見絹枝は今から78年前、1928年に行われたアムステルダムオリンピックで、当時、世界記録保持者として出場した女子100m準決勝で敗退し、追い詰められた人見は経験のない800mに突如エントリーし、銀メダルを獲得しました。「女が太ももをさらし競争するなど、はしたない。」と言われた時代でした。しかし、24歳で永眠してしまいます。この逸話は、人見絹枝選手の苦悩と挑戦といったテーマでいくつかの本にもなっています。例えば、小原敏彦著の「人見絹枝物語」(朝日文庫)があります。また、テレビドラマにも何度となく取り上げられました。1992年の「紅い稲妻-人見絹枝」(製作:毎日放送、テレビマンユニオン)があります。この番組は、僕は偶然見ました。
切手になった人見絹枝
陸上女子800mで銀メダルを受賞した人見絹枝選手とオリンピックスタジアム。(写真:共同通信社)アムステルダム大会で初めて採用された陸上女子種目のうち、800mに出場した人見絹枝選手が2分17秒6のタイムで2位に入賞。日本女子選手初のオリンピック・メダリストとなった。人見選手は100m準決勝で思わぬ敗退を喫し、その雪辱のために未経験の800mに出場して快挙を達成した。