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2006年07月21日 09時38分34秒

銀座で見かけた天使とヴェロタクシー

テーマ:日々のあれこれ

銀座4丁目の交差点から有楽町方面に向かうと、右側に天賞堂があります。その角に、夏も冬も、いつもこの天使がいます。身長は80センチメートルぐらい、恋のキューピットなのでしょうか?ハートの矢を射るために目指す獲物を見つけています。残念ながら、僕は撃たれたことがありません。




さて、こちらは環境にやさしい、と言われている「ヴェロタクシー」です。銀座4丁目の交差点に鎮座していました。なかなか美しいスタイル、実際に見ると思った以上に大きいですね。客待ちなのか、それにしても、運転手が見あたらない?


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銀座・天賞堂の角で天使を見た!
環境にやさしい「ヴェロタクシー」!
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2006年07月20日 13時41分51秒

ドイツ・ワールドカップサッカー 「変な・・・」編

テーマ:道々寄り道だよん

ドイツ・ワールドカップサッカー、人はここまで変なこと、やるんですね!

脱帽です。お見事、お見事!







2006年07月19日 12時49分30秒

「やわらかい生活」の街、池上本門寺!

テーマ:道々寄り道だよん

池上本門寺に、あの「力道山」のお墓があるなんて、映画「やわらかい生活」を観るまで知りませんでした。しかも、力道山の銅像が立っています。小説「イッツ・オンリー・トーク」では居候の祥一が大田区の地図を買い、なんとか自分で外出するようになります。「どこへ行くのか」と優子が聞くと、「六郷土手や池上本門寺でぼーっとしているのだ」と祥一は答えます。まあ、そこだけが「池上本門寺」の出てくるところですが、映画の方では優子が楽しそうに力道山の銅像に絡むシーンがありました。そんなわけで「やわらかい生活」の街として、どうしても行かねばなるまいと、池上本門寺へ行って来ました。



川崎や蒲田へ車で行くときに、よく「第二京浜」を通ります。途中、「本門寺入口」という交差点があるので、おおよそ場所は知っていました。しかし、本門寺へ行くのは初めてです。車で行ったので、出たところが本門寺の裏側の駐車場。樹木もなく、アスファルトの駐車場が広がり、建物は逆向きだったので、なんじゃこれはと、一瞬勘違いしました。「大堂」の真裏、「寺務所」の方へ出てしまいました。車を駐車場へ置いて「お休処」を横に見ながら境内へ入り、長い階段を下りて、つまり、逆の経路を辿ったわけです。



「総門」から出直し、元禄年間の建立、本阿弥光悦の筆による扁額が掲げられています。「総門」を入ると、急な階段が目の前にあります。「此経難持坂」、加藤清正が寄進したと言われる99段の石段です。左手には朱塗りの山門が目を引く「理境院」があります。静まり返った庭が素晴らしい。石段を上ると、右手には「長栄堂」、朗々と響き渡る読経の声が聞こえました。その日は「壱萬遍唱題会」が行われていました。石段の上からは、池上や蒲田の街が一望できます。



堂々とした「三門」をくぐり抜けると、目の前にはたしかに大きい「大堂」が、左手には「鐘楼」があります。梵鐘は加藤清正の娘、瑤林院の寄進だそうです。その奥には一段と古さを感じさせる「経蔵」があります。江戸中期の建物で、心柱を軸に書架がまわる珍しい輪蔵形式だそうですが、残念ながら見られませんでした。右手の墓苑を奥に進むと、1608年に建立された国指定重要文化財の「五重塔」、その奥に目指す力道山の墓所があり、腕を組んだ胸像もありました。



力道山といえば空手チョップ、シャープ兄弟やルー・テーズ、デストロイヤーやブラッシーと戦い、敗戦後の日本国民に勇気を与えてくれたヒーローです。なにしろよほどのお金持ちしかテレビがない時代でした。「プロレス」が放映されるときには、国民はこぞって街頭テレビか、電気屋の前のテレビを見に行ったものです。さんざん力道山が痛めつけられても、最後は伝家の宝刀空手チョップが炸裂、見事に勝って番組が終了したものです。そうそう、先日公開されたソン・ヘソン監督の韓国映画「力道山」がありました。



日蓮宗大本山 池上本門寺
2006年07月18日 00時01分38秒

「嫌われ松子の一生」を読んだ!

テーマ:本でも読んでみっか


2003年2月10日の第1刷発行だから、3年半前ということになりますが、その頃から気になっていた本でした。たまたま1ヶ月ぐらい前にブックオフで買っておいたものを、つい最近読み終わりました。幻冬舎創立9周年記念特別作品、とあります。9周年とは、これまた中途半端ですが。書き下ろし、原稿枚数1071枚(400字詰め)、上下2段組、なにしろ長編です。


重松清が僕はどういう作家なのか知りませんが、「嫌われ松子の一生」について、次のように書いています。一晩で読了した。ページを繰る手を止められなかった。夜明けの訪れとともに本を閉じて、泣いて、惚れた。どうしても幸せになれなかった松子さんに。かなしくて、せつなくて、いとおしい彼女の物語に。そして不運な一人の女性の「生」を描ききって、愛しきった山田宗樹さんに、ぼくはいま、猛烈に嫉妬しているのだ。と、ありますが、さすがに僕は一晩では読了できませんでしたが、それでも2日半ぐらいで読み終わりました。2段組、長さだけでいえば、世界文学全集のロシヤ文学、といったところでしょうか。


以下は、本の帯の引き写しですが。30年前、松子24歳。教職を追われ、故郷から失踪した夏。その時から最期まで転落し続けた彼女が求めたものとは?一人の女性の生涯を通して炙り出される愛と人生の光と影。気鋭作家が書き下ろす、感動ミステリ巨編。とあります。30年前、美人教師、松子24歳。泣きながら故郷を捨てたあの日。一瞬にして人生の歯車が狂った。教職を追われた松子を待ち受けるどこまでも数奇な運命。一人一人の男とのであいが、松子を出口のない闇へと落としていく。残酷なまでの人生に誘うのは、不幸を呼ぶ業か、偶然の悪戯か。懸命に松子の軌跡を追う19歳の甥が最後にたどり着いたのは、遺骨に刻印された松子の精一杯生きた「生の証」だった。


九州から上京し2年目の夏を迎えた大学生・川尻笙は、突然の父の訪問で30年以上前に失踪した伯母・松子の存在と、その彼女が最近東京で何者かに殺されたことを知る。松子の部屋の後始末を頼まれた笙は、興味本位から松子の生涯を調べ始める。それは世間知らずの彼にとって凄まじい人生との遭遇だった。殺人歴を持つ男やかつての友人との出会いを経て、松子が聖女ではなく小さな幸せを求め苦闘した生身の女性であったことに気付いていく笙。いつしか彼は、松子の彷徨える魂を鎮めるために、運命の波に翻弄され続けた彼女の人生の軌跡を辿っていく。(カバーの見返しより)




著者の山田宗樹がどういう作家なのかは、僕はまったく知りません。山田宗樹の経歴を調べると、1965年愛知県生まれ。98年「直線の死角」で第18回横溝正史賞受賞。「嫌われ松子の一生」の他の著書に「死者の鼓動」「黒い春」などがあるとあります。「書き下ろし」でこれだけの読ませるものを書けるというのは、相当な力量なのではないでしょうか。「感動ミステリ巨編」とありますが、まったくミステリを読まない僕にとっては、この作品がミステリなのかどうか、判断が付きません。もしかして、これってノンフィクション?と感じさせる内容です。ミステリはグイグイ読ませなくてはならない?


その辺がエンターテインメント系の作家は上手い。この物語は現在に生きる笙と、過去に生きた松子のふたつの視点から語られているところが構成の特徴で、それが物語をドラマチックなものにしていると思います。単に松子を時系列的に単線的に描いただけでは、こうした効果は期待できなかったでしょう。しかし、読ませるけどやっぱり浅い感じ、薄っぺらな感じが最後までつきまといました。人間が描き切れていない。松子の父親、そして、笙の父親、つまり松子の兄、について描き切れていない。松子の病弱な妹についても、なぜ父親がなぜ、松子でなく妹の方を愛したのか。笙の彼女である明日香についても同様。肝心の松子の心の動きもほとんど描かれていません。ただやるせない事件が推移するだけで。


波瀾万丈の「女の一生」ものか?自業自得だろ。簡単に男に騙される。こんな馬鹿な女がいるんだ。やることなすこと、みんな裏目に出る。松子が教師を辞めてからの転落の人生、40歳から以降、亡くなるまでがさっぱり描かれてなく、またどうして無惨にも若者の集団に殺されなければならないのか、疑問だらけ。どうしてタイトルが「嫌われ松子」なんだろうという疑問も。松子は、人から嫌われるような人柄には描かれていません。実直な家庭に生まれ、成績優秀で真面目。中学校の教師として人生のスタートを切った松子を襲う不幸の数々。なぜ彼女は殺されたのか、なにが彼女を転落させたのか。「東電OL殺人事件」を思い出します。桐野夏生は東電OL殺人事件をも出るに「グロテスク」を書いています。


「祈り」と題された終章、現代の若者である笙と明日香が、人生について、生きるということについて、真剣に考え立ち向かっていこうとする姿勢に変化していく様が描かれています。明日香は一応、笙と分かれて医者を目指します。松子の転落の原因をつくった龍が、哀しそうな目でこう言います。「許せない人間を許す。それが・・・」。聖書かよ。教会かよ。神様かよ。これはちょっと猪突で、しかも、陳腐な感は否めません。物語の終わり方として、それでいいのか?


過去の関連記事:

桐野夏生の「グロテスク」

2006年07月17日 10時00分12秒

ビートルズ来日40周年で記念イベント

テーマ:道々寄り道だよん


1966年にビートルズが日本を訪れてから40年目を迎える今年、各地で記念イベントが開かれた。ビートルズが来日の際に宿泊したキャピトル東急ホテル(当時は東京ヒルトン)では、今年暮れの閉館・建て替えを前に、ビートルズが泊まったプレジデンシャルスイートを可能な限り当時のままに再現し、特別公開を行った。ホテル側は50─60代の客層を見込んでいたが、あらゆる世代のファンが数多く訪れたという。このほか、銀座では、来日中のビートルズに密着して撮影された写真の展示が行われるなど、各種イベントが開催されている。ビートルズの日本滞在期間は短かったが、そのヘアスタイルやファッションが流行するなど、日本のカルチャー・シーンに与えた影響は大きい。
ロイター:2006年 7月 3日


1966(昭和41)年のビートルズ来日からちょうど40年目にあたる今年の夏、あちこちで記念番組やイベントをやっているようです。日本航空のはっぴを着たビートルズの「そっくりさん」までもが来日?もちろん僕も人並みに「ビートルズ世代」、今から考えるとそれほどでもないのですが、当時は大変、いち早く長髪になりました。当然、ビートルズのレコード、古い~、CDの時代、レコードですよ、レコード、まあ、だいたい全部持っていますよ。そうは言っても、レコード・プレーヤーがないので、宝の持ち腐れですが。

 


本棚にある本も、ちょっと探しただけで4冊見つかりました。これ、もしかしたらマニアにしたらお宝本なのかな?きたやまおさむの書いた講談社現代新書「ビートルズ」もあるし、ビートルズ関連の細々した本、まだたくさんあるんじゃないのかな。僕はジョン・レノン派です。ジョン・レノン・ミュージアムはもう何度か行きました。パソコンの前には、ジョン・レノンの写真が掲げてあります。



先日、NHK衛星放送で2時間半にわたるスペシャル番組を放送しているのを見てしまいました。来日40周年記念「ビートルズ・スペシャルナイト」というヤツでした。ビートルズに影響を受けたゲストミュージシャンとして、ムッシュかまやつと泉谷しげる、かみ合わないトークが面白かったですね。ゲストは白井貴子、忌野清志郎、ビートルズの曲を歌っていました。



「銀座では、来日中のビートルズに密着して撮影された写真の展示が行われるなど」と、上の新聞の記事にありましたが、これ、浅井慎平のことですね。もう若くはないんだから、テレビに出るときに、いいかげんジー・ジャンを着て出るのは止したら、肩にセーターをかけるのも止めたら、と言いたくなりますが。ビートルズというとしゃしゃり出てきますが、まあ、唯一の公式カメラマンだから仕方がないか。



たまたまソニービルの前を通りかかったら、「THE BEATLES IN TOKYO 1966 浅井慎平・写真展」なるものをやっていたので、見てきました。1966年4月29日にソニービルのショールームがオープンし、その2ヶ月後にビートルズが来日したそうです。ですから、ソニービルも40周年記念だということです。来日当時日本側唯一の公式カメラマンが浅井慎平、ビートルズに100時間密着してとり続けたもののほんの一部が展示してありました。ビートルズの到着からコンサート、ホテルでのプライベートシーン、そして日本を出発するまで、素顔のビートルズが見られました。ジョン・レノンのパンツ姿がカワイイ。ほとんどがモノクロの時代でした。


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数寄屋橋交差点から見たクリスマス風景
2006年07月16日 00時10分13秒

篠原一男氏が死去 東京工大記念館の建築家

テーマ:なぜかケンチクでも
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「東京工業大学百年記念館」などを手掛け、住宅設計の第一人者として知られる建築家で東京工大名誉教授の篠原一男(しのはら・かずお)氏が15日午後1時13分、川崎市の病院で死去した。81歳。静岡県出身。東京工大建築学科で清家清氏に学び、1970年、同大教授に。「久我山の家」「から傘の家」「白の家」「ハウス・イン・ヨコハマ」など、伝統的な民家が持つ趣と幾何学的に計算された機能美を大胆に融合した作品を発表した。逆ピラミッド形でガラス張りの「熊本北警察署」や、日本浮世絵博物館(長野県松本市)も手掛けた。
共同通信:7月15日

篠原一男は、1925年生まれ。東北大学数学科卒業後、東京工業大学へ入学、清家清に学びます。1953年卒業後、東京工業大学の助手となり、1967年に「日本建築の空間構成の研究」で工学博士、1970年に東京工業大学の教授となります。受賞歴は、1972年日本建築学会賞、1989年芸術選奨文部大臣賞、1990年紫綬褒章、1997年毎日芸術賞特別賞、2000年旭日中綬章、です。いわゆる「篠原スクール」として、伊東豊雄、長谷川逸子や、坂本一成、高橋寛・晶子、を育てました。篠原一男の生涯は、一貫して「前衛」であり、「アバンギャルド」であったといえます。



昭和45年に出版された篠原一男の著作集、「住宅論」(SD選書49)の中に納められている「住宅は芸術である」という論文には、当時の建築関係者は総じて驚かされました。「住宅は建築といわれている領土から離れて独立することを、それは意味している。国籍は絵画や彫刻、あるいは文学等々と同じく芸術という共同体に移されなければならない。」という書き出しで始まります。また「住宅は美しくなければいけない。空間には響きがなければいけない」とも言いました。昭和50年には「続住宅論」(SD選書96)も出版されました。


篠原一男は、師の清家清とは異なった形の「住宅作家」でした。「からかさの家」(1962年)、「白の家」(1966年)、「山城さんの家」(1967年)、「鈴庄さんの家」(1967年)、「篠さんの家」(1970年)、「未完の家」(1970年)、発表するものすべて、人々の注目を集めました。「谷川さんの住宅」(1974年)の床は土の斜面です。「空の矩形」や「直方体の森」、「同相の谷」など、ますます単純な立体になり、「東玉川の住宅」や「成城の住宅」、そして「ハウス・イン・ヨコハマ」へと至りました。

住宅以外の作品としては、「日本浮世絵博物館」(1982年)、「東京工業大学100年記念館」(1987年)、「熊本北警察署」(1990年)、などがあります。

2006年07月15日 15時18分56秒

暑い夏は「ナイルレストラン」で「ムルギーランチ」を!

テーマ:美味いものでも食うか


おっ、団体さんが勢揃いして記念写真を撮っていますよ。彼らはたぶん「はとバスツアー」だよな。あれが取り壊し問題が起きている「歌舞伎座」ですね、と思いながら、お昼はなにを食べようかと、三原橋交差点の辺りをウロウロ。そうだ、知り合いの知り合いがやっている串揚げやさんがこの近所にあったよ、今日のお昼は久しぶりにそこへ行ってみようか、でも、暑いからどうかな、などと考えながら歩いていると、同行していた家人が突然、「あの人がナイルさん」と言いました。ん?ナイルさんって誰?よく見るとインド人のような人が、お店の前で何人かのお客さんと話していました。真っ赤なお店の看板には「ナイルレストラン」とありました。



「これがカレーで有名なナイルレストラン」と、言われても、エジプトのナイルがなんでカレーなの?「えっ、知らないの?」と、馬鹿にされながら、なにも知らない僕は、狐につままれた気持ちでした。あとで調べてみると、ナイルカレーのナイルは、エジプトのナイル(川)の地名ではなく、インド独立運動の闘士であったA.M.ナイル(Nair)氏が、第二次世界大戦後日本で創業したインド料理店「ナイルレストラン」だそうです。ナイルレストランは、日本のインド料理店の草分け的存在で、特にムルギーランチ(骨付きチキンカレー)が有名で、現在経営は二代目G.M.ナイル氏に受け継がれているということです。

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お店の前にいた人がナイルさん?とりあえず、記念に写真を撮っておけという言う家人の命令で、ナイルさんにお願いしたら、ナイルさん、いつも写真を撮るときは赤い服を着てるんですが、今日は通勤着で申し訳ないと言ってました。それでもかまわず、記念にバシャリと。お店へ入ると、1階はお客さんでいっぱいで、2階に案内されました。メニューを見て、チキンカレーを頼もうとしたところ、ウエイターの人は、このお店は「ムルギーランチ」がお得ですよと言われ、ほんじゃまあそれに、とコロッと主旨を撤回して「ムルギーランチ」を注文しました。


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「ムルギーランチ」ってなに?出てくるまでは、まったくわかりませんでした。出てきたものは、カレーの上にチキンの脚が一本そのままのっています。ウエイターさんがチキンの骨と肉をフォークでほぐしてくれました。まあ、ターメリックライスとスープカレー、その上にマッシュポテトや野菜、野菜はドイツのザワークラウトのようなものですが、チキンのほぐした肉がのっているって感じですね。これが思っていた以上に辛い。汗がジワーッと出てきます。僕らの隣のテーブルで食べていたインド人らしきご夫婦と、辛いけど美味しいねと、アイコンタクトでニッコリ。あとで調べてみると、これはしっかりと混ぜて食べるのが正しい食べ方のようです。まあ、暑い夏はやはり「カレー」に限りますね。

ナイルレストラン


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カレーの店「ASIAN SOUL」でお昼を!

2006年07月14日 06時07分37秒

栗田有起の「お縫い子テルミー」を読む!

テーマ:本でも読んでみっか

一昨日、朝刊を開いたら「ナツイチ」と称して集英社文庫の広告が載っていました。「好きな本を一冊作ろう。ナツイチ。夏の一冊。集英社文庫。」全国の参加書店でフェア実施中!とあります。キャラクターには蒼井優を配したキャンペーンのようです。って、誰?ちょっとまえには、「新潮文庫100冊」だったか、こちらも大々的に広告を載せていました。夏になるとやるんですね、本屋のキャンペーンを。若者に夏休みに、本を読んでもらいたくて。だいたい僕は、テレビのCMなどで「キャーンペーン実施中!」とか言われると、「勝手にやれば~」と言いたくなる方です。


その「ナツイチ」で「お縫い子テルミー」が文庫本になったことを知りました。取るものもとりあえず本屋に駆けつけ、「ナツイチ」のコーナーを覗いたところ、「お縫い子テルミー」だけがない。ん、なにかおかしい?本屋のお兄さんに聞いたら、なんと新刊本のところに平積みされていました。置く場所、変えるなよ、と言いたくなります。ちなみにもう一冊、中公新書の「マグダラのマリア」という本も買ったのですが、中公新書の置いてあるところにはなく、この一冊だけ「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の特設コーナーに置いてありました。キャンペーンやるのもいいけど、置く場所、変えるなよ、と言いましたよ、本屋のお兄さんには。


さて「お縫い子テルミー」、以前、芥川賞候補に上ったときに、誰かは忘れましたが、ある選考委員がこの作品を高く評価していたのを覚えていて、機会があったら読もうとずっと思っていました。本屋を探しましたが単行本が見つからず、今回、集英社から文庫になり、「ナツイチ」の広告で見つけたというわけです。とはいえ、どんな内容の本かは、詳しくはわかりませんでした。「お縫い子テルミー」は、わずか80ページ弱の作品、いつもの如く、一気に読み終わりました。続けて、アルバイトをしてひと夏の経験を買う小学五年生、小松君のとぼけた夏休みをつづる「ABARE・DAICO」も、併せて読み終わりました。


本の帯には、恋をして、一針入魂。テルミー、職業は「流しの仕立て屋」。最近、気になる言葉は「運命」──。とあります。内容は、というと、以下のようです。依頼主の家に住み込み、服を仕立てる「流しのお縫い子」として生きる、テルミーこと照美。生まれ育った島をあとにして歌舞伎町を目指したのは十五歳のとき。彼女はそこで、女装の歌手・シナイちゃんに恋をする──。叶わぬ恋とともに生きる、自由な魂を描いた芥川賞候補作の表題作。


「お縫い子テルミー」のきっかけとなったイメージはどんなものなのか、という問いに、栗田有起は以下のように答えています。「お縫い子テルミー」の時は、何も持っていない女の子が一人で自立していく物語を描きたいという思いが、まずありました。じゃあ、“その女の子がささやかだけど、自分の世界をちゃんと持ちながら若いなりに自立できる道ってなんだろう?”とイメージを膨らませた時“手に職だな”と。そこで、私自身が子どものころ、これで食べていきたいと思っていたほど大好きだった――というか、今も大好きなんですが、縫い物を思いついたんです。さらに、自由な解放感を出したかったので、主人公には定住する家がない、という設定にしました。


名前は鈴木照美、だからテルミー、これには「な~んだ、そうか」と思いました。名刺には「一針入魂 お縫い子テルミー」と印刷してあります。この心意気がいい。ミシンは使わない、正真正銘のお縫い子です。なにも持たない若い女が独りで生きていこうと思ったら歌舞伎町しかないと、母に言われ、水商売をするつもりが、得意な縫い物でいつの間にか仕立屋として暮らせるまでになります。自分の枕を持たない「流しのお縫い子」、二つバックを持っています。右手のバックには生活道具、左手のには裁縫道具が入っています。


どんな無謀な注文にも全力で応えるプロフェッショナルです。そうかといって、自分の主張を押し通すわけではありません。初めて注文をくれた女装のシナイちゃんに叶わぬ恋をするけど、実らず、切ない悲恋物語です。がしかし、ジメジメしたところはまったくなく、逆にいつもカラッと乾いています。特徴は、不思議な設定と展開です。読むものの度肝を抜きつつも、心をあったかくしてくれます。現代のお伽話というか、ファンタジックな物語なのです。文庫本の解説は「世界との距離」と題して、さもありなん、江國香織です。栗田有起の小説は冒頭の一行でいきなり立ち上がる、と書いています。「流しの仕立て屋をはじめて三カ月がたつ」が、「お縫い子テルミー」の「でだし」です。


栗田有起 著者の栗田有起は、1972年長崎県生まれ。名古屋外国語大学外国語学部英米語学科卒。製薬会社の会社員、ビジネスホテルのフロントなどを経て、2002年「ハミザベス」で第26回すばる文学賞を受賞し、同作品で作家デビュー。「お縫い子テルミー」「オテルモル」「マルコの夢」と、立て続けに芥川賞候補となり、大きな話題を集めています。


ナツイチ・集英社文庫

2006年07月13日 03時03分31秒

「アルベルト・ジャコメッティ―矢内原伊作とともに」展

テーマ:ゲ~ジュツ見てある記
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渋谷から「JR湘南新宿ライン」に乗ると、なんと1時間弱で逗子まで行ってしまいます。JR横須賀線「逗子」駅からは、京浜急行バス「海岸回り葉山行き」で「三ヶ丘」下車、所要時間約18分で「神奈川県立近代美術館・葉山」へ着きます。「20世紀美術の探究者―アルベルト・ジャコメッティ―矢内原伊作とともに」と題された展覧会が開催されています。僕自身としては、今まで断片的にしか知らないジャコメッティの作品を、纏まって観られるまたとない機会となります。この葉山館は、2003年3月に竣工、10月に開館した、神奈川県立近代美術館の3番目の建物です。海に向かって開かれた風光明媚な場所に建てられているというので、美術館を観るのも楽しみの一つです。


この展覧会は、20世紀美術の類い稀な探求者であるアルベルト・ジャコメッティの全貌を紹介し、そのモデルであり記録者でもある矢内原伊作との交流に焦点を合わせたものです。目に映るものを「見えるとおりに」表わす。簡単そうに思えて、実際には不可能なほど難しい、このただひとつのことを、ジャコメッティ(1901―1966)は、生涯をかけて追求していきました。ジャコメッティといえば、針のように細い彫刻像、灰色の画面から静かに現われてくる人物像が知られています。この展覧会は、ジャコメッティの没後アトリエに残されていたいくつもの未発表作品と、彫刻だけにとどまらず、多くの油彩画とデッサンをあわせて総計140点を越す作品、さらに、新たに発見された様々な資料によって、ジャコメッティの全貌を見渡すことができるようになっています。


今回の出品作のうち、最初に展示されているのが、ジャコメッティがわずか10歳の時に葛飾北斎の浮世絵を模写したものでした。これには驚きました。ゴッホの描いた「タンギー爺さん」を持ち出すまでもなく、日本の浮世絵版画の印象派、後期印象派の画家たちに与えた影響が、ジャコメッティにまで及んでいるとは知りませんでした。展示の構成はⅠ~Ⅳに分かれています。  
第Ⅰ章 初期/キュビスム、シュルレアリスムを経て
第Ⅱ章 モデルたち―ディエゴ、アネットを中心に
第Ⅲ章 ヤナイハラとともに
第Ⅳ章 空間の構成と変奏―人物、生物、風景、アトリエ


矢内原伊作(1918-1989)は、実存主義のサルトルなどを研究した哲学者です。1956年10月、2年間のパリ留学が終わる間際、矢内原は知り合って一年になるジャコメッティに帰国の挨拶に行きました。その時ジャコメッティから「君をちょっと描こう」と言われ、その「ちょっと」は72日間になり、矢内原は何度も帰国を延期しました。帰国して大学で教えていた矢内原は、その後もジャコメッティに招かれてパリに出かけてモデルをつとめ、その日数は延べ230日に及んだといわれています。


帰国後、矢内原伊作は、ジャコメッティについて大小約60もの文章を発表しています。矢内原がジャコメッティから譲り受けた彫刻、デッサン、版画などの一部は、後に神奈川県立近代美術館に所蔵されました。今回の展覧会は、この「矢内原コレクション」と、共催者であるパリのアルベルト&アネットジャコメッティ財団からの作品を核に構成されています。



感動したのは、何度も同じような素描を繰り返し描くというところです。紙ナプキンや雑誌や新聞の切れ端に、執拗に描きます。針のように細い彫刻像、灰色の画面から静かに現われてくる人物像、それらの作品は、20世紀美術のなかでもひときわ個性的です。一見未完成に見える、ラフに見える作品も、纏まって見ると、それが独自のスタイルとなっています。ジャコメッティの作品は、スケッチ、素描にせよ、油彩、彫刻にせよ、観る人に強い印象を与えながら、「見る」ということはどういうことかと問いかけます。



神奈川県立近代美術館

アルベルト・ジャコメッティ―矢内原伊作とともに

2006年07月12日 11時55分17秒

鎌倉の名所「鶴岡八幡宮」と「長谷の大仏」を訪ねる!

テーマ:街を歩こう

鎌倉を代表する名所といえば、「鶴岡八幡宮」と「長谷の大仏」です。僕は、中学の修学旅行以来、もう何度となく鎌倉には観に来ています。が、家では自慢にはなりません。家人は、婦人大学の「文学散歩」と称して、毎年のように鎌倉へ来ています。特に「鎌倉文学館」の周辺にはよく行っているようです。先生の解説付きで、グループで文学に関連する名所旧跡を訪ねているようです。


お昼はどこが美味しいとか、お茶するにはどこがいいとか、お土産を買うにはどこがいいとか、詳しいことは詳しいんですが、何人もの人たちと連れだって歩くので、自分一人では目的のところへは行き着きません。距離感といい、方向感覚といい、「地図の読めない女」の部類に属するようです。先生が紹介してくれた美味しい「鰻屋」があるからと行ってはみましたが、結局見つかりません。歩いている間に見つけた「かき揚げ蕎麦」と看板のある、カウンターだけの椅子が5つほどの小さなお店で昼食をとりました。そんなわけで、鎌倉でのお昼は「鰻」が「かき揚げ蕎麦」に急遽変更になりました。

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鶴岡八幡宮は、康平6年(1063)源頼義公が、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。その後、源頼朝公は、治承4年(1180)由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。現在の御本殿は、文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉公の造営による代表的な江戸建築で、若宮とともに国の重要文化財に指定されています。境内には、静御前ゆかりの舞殿や樹齢千年余の大銀杏が八百年の長い歴史を伝えています。

(鶴岡八幡宮HPより)

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「若宮大路」を真っ直ぐ歩いて鶴岡八幡宮の境内に入ると、修学旅行生でいっぱい。集団でちょろちょろしていて、ちょっと目障りでした。「本宮」へ昇る大石段の手前にある「舞殿」が修復工事中でした。仮設のシートに覆われているんですが、そのシートに原寸大の写真が貼り付けてあり、本物と見まごうばかり、なかなか粋な計らいでした。大石段の横にある樹齢1000年を誇る大銀杏、何度もここでリスを見かけましたが、どうしたことか今回は見られませんでした。

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江ノ電「長谷」駅から切り通し方向へ7~8分ぐらい歩くと「高徳院」の門前に出ます。「長谷の大仏」は「高徳院」の境内にあります。鎌倉を代表する観光名所です。鎌倉の仏像等の中で唯一、国宝に指定されています。大仏は正式には「阿弥陀如来像」、青銅製で、台座を含め高さ13.35メートル、顔の長さ2.35メートル、目の長さ1メートル、耳の長さ1.9メートル、重量約121トンとのこと。東国にも大仏の建設を夢見た頼朝に仕えていた稲田野局が、主君の願いを実現するために将軍宗尊親王の力を借りて建立しました。



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1238年(暦仁元年)に着工され6年後に完成しましたが、木造だったため台風によって壊れ、その後1252年(建長4年)に青銅の大仏が鋳造されました。当初は建立された大仏殿に収まっていましたが、地震や大風で大仏殿は倒壊し、現在の露座となったようです。大仏の後ろ、観月堂の右の木立に囲まれたところに、与謝野晶子の歌碑が立っています。

「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は美男 おわす夏木立かな」

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鎌倉を歩くと、たくさんのリスに出会うことが出来ます。しかし、鎌倉で見かけるリスは台湾リスという種類のリスで、江ノ島で飼われていたものが逃げ出して鎌倉で繁殖したらしく、昔からいたシマリスの方は勢力争いに負けて、ほとんど見かけなくなってしまいました。


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鶴ヶ岡八幡宮
高徳院(大仏殿)


鎌倉の名所・旧跡一覧
古都鎌倉自由自在


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