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 自分を好きになる女などいないと思っていた。もしそんな素振りを見せる女がいたとしても、単に自分の中味をよく知らないか、別の男に振られた後で、たまたま自分が手近にいたからちょっとそんな気になっているだけだと思っていた。
 思っていたといっても、そう明確に思っていたわけではない。ただ恋とか恋愛とかいうものは、自分がある女を好きになって、しかし振られるという、そういうものだと漠然と信じ込んでいたに過ぎなかったのである。
 二十六歳の私は、一つ先輩だが年齢は一つ下の篁響子さんに、もう二年越しの苦しい片想いをしていて、相手の拒絶にもかかわらず諦めきれず、彼女が飛び立って行った留学先へ、翌年自分も行くという恐ろしい目論見を秘めていた。
 友人の少ない私は、友人らしく振舞ってくれる人間が現れると、嬉しくなってしまうという癖を持っているらしい。杉村劉一などは、ちょうどそういう私の気持ちにするりと入りこんで、一時期は友人だと思っていた男ということになるのだろう。
 杉村は大学院で私の一学年下だったが、年齢は二つ下だった。私は大学へ入る時と大学院へ入る時にそれぞれ一浪していたので、杉村は確か、大学に入る時に一浪だったのではあるまいか。
 杉村は国文科の卒業だったが、大学院へ入った時から、慶應三年生まれの民俗学者エムの研究をすると決めていたらしい。その頃ちょうど世間ではエムがちょっとした流行になっていて、柳田、折口に続く民俗学第三の巨人のように言われていたし、その英国での活動やら、裸で山野を跋渉したという奇人ぶりに、注目が集まっていた。
 民俗学の好きな人というのが私の周囲にもほかにいたのだが、私はどうもこの学問をうさんくさいと思っていて、というのは彼らは、柳田とか折口とかエムとか、民俗学者の研究ばかりしていたからで、それは「学者学」なのではないかと思ったのと、そういう「巨人」たちの仕事が私には面白いと思えなかったせいもある。のちに、私は民俗学の、非科学的なところや「学者学」になってしまうところを執拗に批判するようになるが、その原点はこのあたりにあった。
 杉村のことを、周囲の人びとがどう思っていたかというのは、今もってよく分からないのである。「俳優みたいな顔」だと言った女性がいたが、確かにそんな感じで、今の市川海老蔵と同じ系統の顔だちだった。もっとも、どうも杉村自身が、自分は女にもてると信じている風が見苦しかったために、周囲の女性たちも、総ツンデレみたいになって、表では杉村を嗤ってみせながら、蔭では狙っているみたいな感じがあった。
 杉村ははじめ私のことを、酒飲みだと思っていたらしく、あとで、
 「田中小実昌みたいな人かと思っていた」
 と、よく分からないことを言った。ちょうど杉村が大学院へ入ってきた時に、駒場の西部邁先生が、宗教学者の中沢新一を社会科学のスタッフに迎え入れようとして、委員会では通ったが教授会で否決され、西部先生が抗議して辞職し、活字やテレビで、盛んに東大を攻撃していた。
 私の当時は、大学院生が学年ごとにかなり異質で、私の一学年上には、右翼的な教授たちとそりの合わない人が多かった。その一人で、西洋哲学を専攻していた園田佑子さんが、一年遅れて私と同時に修士論文を出したのだが、博士課程へは行けず、いったん夫のいる京都へ行くというので送別会を開いた。天皇の代替わりがあった年のことである。
 この時集まったメンバーは、私からすると二学年上の熊木さんという男と、杉村、それに広沢高子さんという、アメリカ人と結婚していていくらか年かさの女性だった。
 園田さんは明朗な人で、国際基督教大学出身だったから、まずみなで武蔵野にあるその大学のキャンパスを訪れてから、深大寺そばを食べて、日が暮れるころに、広沢さんのお宅へ入った。これは簡易住宅みたいなところだった。そこで、私と同期の江國桃子さんがあとから来るかもしれないという話になり、熊木さんは江國さんが好きだということになっていたから、早く電話して訊いてくれと、熊木さんが園田さんをせっついた。園田さんは江國さんに電話していたが、戻ってくるとにやにやしながら、
 「もう遅いからやめにしておくって、残念だったねー熊木さん」
 と言った。
 熊木さんは、一般的にはもてる感じの人ではなく、何人かの女性を口説いては振られるというくりかえしらしかったが、少しも悪びれるところや落ち込むようなことがないので、園田さんはそこを買っていたようだった。さて、この「にやにやした」雰囲気の中で、杉村だけが、意味が分からずにいて、
 「え?」
 という感じだったので、園田さんが、
 「もう」
 鈍いんだから、という風情で、広沢さんと二人で杉村の両脇に寄って、目顔で知らせようとした。
 その時の半日の逍遥と、この、杉村の両側から二人の女性がにやにやしながらはさみこんでいる光景を見て、ああ、この男はもてるんだなと思ったのである。
 それより前の三月に、私と江國さんは、八王子の大学セミナーハウスで行われた合宿で、修士論文に基づいた研究発表をしていたのだが、江國さんは、芯は強いのだが話したりするのが得意ではなく、準備不足でもあって、発表中に資料をがさこそさせるなど、不手際が目立った。六月には、学会発表もあるので、なぜか熊木さんと杉村の二人で、江國さんのトレーニングが始まっていた。小さな学生室で、準備した草稿を彼女に読ませて、二人がダメ出しをするという形だったが、杉村は江國さんとは同年とはいえ、この頃になるとだいぶ態度も大きくなっており、
 「夢みる少女みたいな雰囲気を出したいんだ」
 などと言うので、私は苦笑するほかなかった。確かに江國さんは、二十五歳になりながら、少女めいた雰囲気のある人ではあった。ほっそりしているため、小柄だと勘違いする人が多かったが、上背は一六〇センチくらいあるのだった。
 その年四月の大学院の新入学者には、女子が多かった。日本人は四人いて、美人やかわいい子もおり、三月の合宿でのガイダンスでは、小説で新人賞をとったという、女子大から来た田島光子がいて、これは美人ではなかったが、笑顔がかわいらしかったし、博識で話が面白かった。
 中で、一番美人だったと言っていいのは、T大から来た岡室佑子だったが、彼女は「西洋派」だったし、菊池教授や室田教授といった権力者たちとはいくらか距離があった。香川真由子もT大フランス科の出身だったが、卒業と大学院入学の間に、結婚して出産しており、美人ではなかったが人柄がとびぬけて良かった。あと室田教授の娘の雛子さんもキリスト教系の私大から入ってきたのだが、これが意外にもさばさばした性格のいい子だったから、みな、あの変わり者で頑固な室田教授に、よくぞこんな素直な娘がいたものだと内心で思ったものだった。外語大から来た村岡澄子は、地味に見えたがやはり美人の部類だった。一学年下は、男子が多かったので、その一人で、サークル時代から知っている中本悟史に、
 「今年の新入生は美人が多くて良かったね」
 と言ったら、中本は生まじめな顔で、
 「それは皮肉ですか」
 と答えたから、なんで皮肉かな、今の修士二年生の女子は美人じゃない、という意味で皮肉なのかな、と思ったりしたが、もしかしたら中本には、新入生がそれほど美人には見えていなかったのかもしれない、と後で思った。
 ところが、いざ大学が始まって、新入生歓迎コンパやガイダンスなどが続くと、俄然、男たちの注視を浴びるようになったのは、高校時代から父親の転勤でアメリカへ行っていて、アメリカの州立大学を卒業して、半年の間を置いてT大の院に入ったという前原翠子で、彼女はやせ型で顔も細く、前歯が出ているビーバー顔だったが、さすがに半帰国子女だから日本語にまだ不自由なところがあり、普通なら研究生をしてから受験するのに、一発で受かるのは凄いと言われていたが、それでいてキュートだった。帰国してから半年近く、画家の竹井俊麿の助手をしていたそうで、なぜか昨年まで主任だった菊池教授も、今年から主任の室田教授も、この竹井とはフランス留学時代からの友人らしく、嘗めるように前原翠子をかわいがった。概してこの研究室の教授には、美人の女子学生となるとなりふり構わずかわいがる癖があり、当時五十代の坂本助教授も、そんな感じだった。
 菊池教授は、前原翠子の出た大学が
 「××マズー大学」
 といって覚えにくい名前だったので、
 「会津、ワカマツー」
 といえば覚えられるんだ、などと公言していたし、六月ころになると、廊下で、
 「これから前原さんのお父さんに会ってくるんだ」
 などと言っていて、みな、えっ、なんで教授が院生の父親に会うのだ? と思ったが、黙っていた。
 欲望の模倣もいいところだが、教師がかわいがっていると知ると、私もまたその子が気に入ってしまうのが習いで、留学している篁さんもだいぶかわいがられていた。博士課程一年目の私は、室田教授の四限目のゼミで彼女らと一緒になり、楽しい日々を過ごした。熊木さんは、博士一年は天国だよと言っていたが、その通りだった。
 前原翠子は、日本語がまだ十分でなく、私はいつの間にか、そのレポートの日本語を見てやることになって、本郷の総合図書館で待ち合わせて、夕方から始めた。前原は紙袋に入れたアップルパイを持ってきた。私は何気なく口にして、うまい! と言ったら、うふふと笑うようにして、
 「モンテローザのアップルパイは美味しいんです」
 と言った。もうこの辺りから、私はやられ始めるのである。中学時代の友人の後藤に言わせたら、「モンテローザのアップルパイは美味しいんです」とか言われたら、君はイチコロなんでしょ、と言われるところだが、その頃私は、あまり後藤とは話をしなくなっていた。もし、留学しつつある彼女を追っていく、などと話せば、私ががっくり意気阻喪するようなことを言うに決まっているからだが、後藤でなくとも、分別ある大人なら誰でもそのようなことを言うに違いなかったのだ。
 確かに、なるほど帰国子女とはこういうものか、と思うほどに、前原の原稿にはおかしな日本語があり、手書きだったせいもあって、「芥川襲之介」などと書いてあったりした。それをいちいち直し、もう暗くなってきた外へ出るあたりで、前原翠子は少し肩を落として、
 「やっぱり、日本語がダメなんで、落ち込んじゃいました・・・」
 と言ったのだが、それなら私がこれから付きっ切りで指導してやるよ、と言いたくなるような状況である。ただ、私は少し表現を弱めて、いやまあ、私も見てあげるから、と言っただけだった。
 その頃前原翠子が、菊池教授の授業で発表をしたが、それが面白かったので、私はその才能に惚れ惚れして、
 「いやあ前原さんの才能って凄いですねえ」
 などと口走っていた。


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