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 私は歴史的な記述をする時に、一九七〇年以降は、西暦だけで、元号を併記しないことにしている。だいたいそのあたりから、元号がリアリティを失い、人々が西暦を使うようになったと考えるからである。もっとも人によっては反対して、それなら一九八〇年のほうではないかと言うかもしれない。確かにその通りで、もっと厳密に言うと、私個人がその同時代に、西暦を使うようになったのは、一九七五年ころからである。一九七〇年前後は、まだ多くの人々が「昭和四十五年」といった元号を用いていた。それどころか、「元号」という言葉自体が、のち大平正芳内閣で元号法が成立した際に広まった言葉であり、当時は、西暦という言葉はあったけれど、人々はむしろ昭和を使うのが当然と考えていたから、せいぜい「昭和の年号」というだけで、「和暦」という言い方も使われてはいなかった。
 それで思い出すことがある。私は昭和四十四年四月に、茨城県水海道市立水海道小学校に入学したので、これは翌年か次の年の正月のことだったはずだが、一月七日あたりに行われたのだろう三学期の始業式で、生徒たちが校庭に整列している前で、校長先生が話を始めたのだが、「今年は昭和四十六年です」と言ってから、六年生だったかのある組の、背丈順に低い方から並んでいる一番前の生徒を指して、「西暦では何年ですか」と訊き、その生徒は「一九七一年です」と答えた。「そうですね」と校長は満足そうに頷くと、私の組である二年二組の、やはり一番前の生徒を指名して、「干支は何ですか」と訊き、補足するように、「去年は戌歳でしたが、今年は何でしょう」と言った。私は、背は低かったが、前から三番目だった。
 私はどきっとした。今年は猪である。私には分かるが、一番前の生徒に分かるだろうかと思ったからだ。果して、その生徒は、分からなかった。一瞬の沈黙があったのち、
 「猪です」
 と答えたのは私だった。指名されてもいないのに答えてしまったのである。校長は、それに気づいただろうが、素知らぬ顔で、そうですね、と言った。それから教室へ帰ると、担任の海老原先生という女性が、
 「××くん、えらかったわね」
 と言った。これは、一番前の生徒の名であった。ほかの生徒たちは、口々に、
 「ええー、言ったのは藤井君」
 と言ったが、海老原先生は、あら××くんでしょ、と言って相手にしなかったのは、私が指名もされていないのに答えたのを、咎めるのを避けるためだっただろう。
 私は、それからたびたび、この「どきっ」という感覚を味わうことになる。指名されているのは他の者だが、自分には答えられる、という時の、もどかしい感じを、味わうことになるのではないか、という「どきっ」である。
 海老原先生は、子供の目で見たから分からなかったが、当時まだ二十代ではなかったか、田舎の女教師としては見識のある人で、国語は大切だからというので、独自の判断で、一日のうちに二時間、国語の時間を設けたりしていた。もっとも、それにも思い出がある。入学して最初の授業の時、それが国語の時間だったが、先生は、
 「みなさん、にわとりさんの絵の描いてある教科書を出して下さい」
 と言ったのである。もちろんそれが国語の教科書なのだが、その時、ああこいつら、字が読めないのかとがっくりしたもので、もちろん今なら、小学校入学前にひらがなくらいは教えておくものだが、当時の田舎の小学校では、何も知らずに入学してくるという前提だったのだ。
 海老原先生は二年間担任で、私がこの小学校にいたのも、ほぼこの二年間であった。その間、おそらく学期ごとに席替えが行われただろうから、うち一学期に過ぎないだろうが、敦子という名の女の子が隣りだったことがあった。この子と、仲が良かったのだが、小学校一、二年生だと、男女で仲が良くても、当人も周囲も別に気にしなかった。しかし、敦子というのは自分の名前に似ていたから覚えているが姓は忘れた。顔だけは覚えていて、それは美人だったからではなくて、醜かったからである。だが頭が良く、成績は組でも私と一二を争う感じだっただろうか。なおその当時、「クラス」という言葉は使われなかった。「組」である。
 敦子は、漫画を書くのも趣味で、この年齢ならその当時はそういう子は多かったろうが、私も描いたから、二人で漫画を描きあっては見せ合っていた。敦子は優等生タイプで、私は成績は良くても(体育を除いて)、落ち着きがない、協調性がない、統率力はまるでないというので「優等生」ではなかった。敦子はいつも、はきはきと物を言い、私は気弱そうにぼそぼそと物を言い、私はいじめられっ子でもあった。入学当初、入口の下駄箱に、ちゃんと靴を揃えて入れるように指導された。もちろん私も、ちゃんと揃えて入れていた。それがある日先生が、それではみなさんがちゃんと下駄箱に揃えて入れているか見に行きましょう、と言って、ぞろぞろと入口へ向った。
 ところが、私の靴が、乱れて入っていた。先生はそれを見つけて、「藤井君」と言って叱った。私は、きちんと揃えたはずだったから、泣いた。先生は、
 「また泣くう」
 と言ったが、その頃の私はよく泣いたのである。だが、この時泣いたのは叱られたからではなくて、ちゃんと揃えて入れたはずだったからだ。その日、後になって、下駄箱のところへ行くと、悪童が、揃っている私の靴を乱しているのを見つけた。これも、よく考えると変なので、せっかく意地悪をしても、したことが分からないのではつまらないと思った悪童が、私が来るのを見すましてわざとその、前にやったのと同じことをして、自分がやったと教えていじめようとしたのかもしれない。実際私は、悪童に飛びかかったりすることができず、むしろそいつが怖くて、悪少年が去っていったあとで、怯えるようにして自分の靴を直した。
 さて、二年生の時だったかと思うが、学年で演劇と踊りをやるという企画が持ち上がった。もしかすると毎年やっていたのかもしれないが、組単位だったのかどうか、記憶が曖昧である。先生が、まず演劇のほうで、推薦したい人の名を挙げるように言った。私は、実は演劇が好きであった。別に幼い頃から演劇を観ていたというわけではないが、演技をするということになぜか関心があって、後になって私は長いこと、金田の伯母という、母の姉と、その息子で私より二歳くらい年上の子と三人で、東京へ、木馬座のやる「リンカーン」を観に行って、それに感激して演劇好きになったのだと思っていた。しかし私は、幼稚園が二年目になった時に、演劇部のほか三つあるクラブのどれかに入ることになっていて、勇躍して演劇部に入ったのである。だから「リンカーン」を観に行ったのは、それより前でなければならない。しかし、最近になって調べてみると、昭和四十四年八月によみうりホールで上演された「不滅の人リンカーン」で、小学校一年になっていたのである。
 子供だから、劇場というのは暗く、しかも前の人などが邪魔で良く見えなかったように思うのだが、最後にリンカーンがブースに撃たれて、妻や子が、
 「あなた!」「お父さん!」「あなた!」「お父さん!」
 と繰り返し叫ぶのが印象に残った。母はその日、越谷市西方の伯母宅で待っていて、私たちはそこへ帰った。有楽町だから電車だけで一時間程度だったろう。帰ってすぐ私はその「あなた!」「お父さん!」をやってみせたのを覚えている。
 だが、それが小学一年の時だとすると、それ以前から、演劇に対する憧れがあったのは、やはりテレビなどでさまざまな番組を観て、演技という観念があったからとしか思えない。ところが、演劇部で上演することにしたのは「白雪姫」で、私は七人の小人の一人にされ、やることといったら、歌って踊るだけだった。幼稚園児にやらせる演劇なのだからそんなものだろうが、私はひどい失望を覚えて、劇の稽古に出なくなり、「この後、演劇部の人は集まって下さい」と言われても、逃げるように園庭へ出て、木の根方に拗ねたように立っていて、通りがかった先生から、
 「ほら、小人さん、行かないと」
 と言われたが、黙ってやり過ごしてしまったのを、覚えている。
 その私が、今また演劇の門の前に立ったのである。だが、他の生徒たちが、手を挙げて推薦した中に、私の名は出なかった。一度も出なかったのである。いちばん強く推されたのは、敦子であった。組が一つしかなかったという記憶はないから、仮に二つ組があったとして、その後の実技などをへて決まったのだろうが、敦子はその演劇で主役をやることになった。そう言えば、先生が「××さんが主役に決まりました」と言ったような記憶もある。そして恐らく一ヶ月後くらいに、講堂で行われた本番を観て、私は自分を推す声がなかった理由に気づいた。この、水海道小学校の講堂というのは、私が転校して行った後で、本部校舎とともに、文化財として水戸の茨城県歴史館に移築されたから、今でも、この時の講堂を観に行けるわけである。
 さて、舞台中央に現れた敦子は、山羊の扮装をしていた。動物たちが住む村の話だったわけである。そして敦子は中央にすっくと立って、講堂全体に響き渡るような声で、
 「めえええー、めえええー、僕はこの村の……」
 とセリフを言い始めたのである。あ、と思った。小学二年生だからとはいえ、まったくおめず憶せず、ひるみというものがまったくなしに、腹の底から全力で声を出していたのである。これは、僕にはできなかった、とその時気づいたのであった。これは、演劇をやろうとする人間がしばしば陥る過ちで、声を出すというのが演劇の基本であることを知らず、台詞さえ言えればいいのだと思ってしまう。それを私はこの時学んだような気もしたが、それはさて、踊りのほうで手を挙げてしまった私は、まことに情けない思いをしなければならなかった。もちろん群舞だが、日本舞踊でなかったくらいしか覚えておらず、どういう曲に合わせてどういう踊りを踊ったのかも覚えていない。だいたい踊りというのはスポーツの一種だから、運動神経のダメな私にうまく行くはずもなく、練習中にもさんざん注意されて、泣きたいほどだった。母が作ってくれた妙な衣裳をつけて出て、両親とも観に来てくれたが、何だかただ恥ずかしかった。
 それに、担任はもちろん、級友も、
 (藤井のやつ、本当は演劇に出たかったのに、誰も推薦しなかったもんだから…‥)
 と思っているような気がした。
 友達がいなかったわけではなく、学校へ通う途中に教会があって、そこの子供の「聡」という名前の友達がいた。またしても姓を忘れているのだが、いつもこの子が、自分の名前を「耳ハム心」と言っていたので覚えているのだ。いっぺんだけ教会の中へ入って、その子のお父さんの牧師さんの話を聞いたことがあるが、紙芝居のようなものを使って、「はい、この悪い人は誰ですか」と言うと、そこの子供が三人いて、「×××」と答えたりしていたが、私には何だかちっとも分からなかった。今でも、聖書に出て来る悪い人というとユダくらいしか思いつかない。幼稚園はキリスト教系だったのに、私には今日に至るまでキリスト教の教養というものが身についていない。
 私はこの、水海道市森下町にいる間に、二度交通事故に遭っている。一度目は幼稚園に行っていた昭和四十二年の十一月ごろで、四十四年に小学校に入って、ずいぶん遠い通学路を歩いて通ったものである。それが、当初は集団下校だったのか、おばさん二人くらいがついて帰路についたことがあった。途中で、右へ曲る道があり、おばさんは、私にもそっちへついて来いと言った。その先に、私が事故に遭った幹線道路があり、そこを無事に横断させたい、と思ったのだ。ところが私はその日、そのまままっすぐ行って先のほうで右に曲がると、母が迎えに来ていることになっていた。なぜ、その日だけそんなことになったのか、覚えていないのだが、私がそう言ってもおばさんは聞かず、手を引っ張った。私は、それを頑強に振り払って、一人で歩きだした。だって、私がそちらへ行ってしまったら、待っている母はどうなるのか。
 果して母は、二歳になる弟をおぶい、ねんねこを着て体を揺らしながら、私を待っていた。それで母と一緒に幹線道路のところまで出ると、さっきのおばさんが、息を切らせて走ってきた。
 「あっちゃん、もう渡っちゃったかなあ、って思いながら、走ってきたんです」
 と言ったが、私は、何を言ってるんだろう、お母さんが待ってるって言って、現にこうして待っていたじゃないかと思った。
 私は長いこと、二度目の交通事故に遭ったのを、一九七〇年十一月だと思っていたが、どうやらそれは、その二十五日に起きた三島由紀夫の自衛隊乱入と自決のほうと混同していたらしい。先に、一九六八年や、一九七二年について書く人が出たと書いたが、一九七〇年のこの事件については、嫌になるほど多くの人が書いている。中には、それを「文学史」上の事件のように言い、戦後文学のエポックメイキングな出来事のように言う人すらいるが、それは間違いで、有島武郎が心中した程度には文学史上の事件だが、それで何かが変わったというほどのものではない。それにあの事件は、午前十一時に自衛隊に入り、懇談ののち総監を縛り上げ、交渉ののちバルコニーへ出て演説したが、野次と怒号で声が届かず、七分で中断している。映像は残っているが、これは明らかに編集してあり、テレビで同時中継したとは思えないのだが、同時中継を見たと言う人が多い。おそらく記憶の錯誤であって、あの日は水曜日だから、小学生は何も知らずにお昼を食べていただろう。


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