小谷野敦のブログ

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 海軍大将の長男で、三度も将校として出征した孝則にとって、敗戦後の日本が居心地が悪かったのは否定できない。職業軍人ではないから、公職追放などの具体的な処分はなかったが、父のことはなるべく隠すようになり、そのことを父に申し訳なく思った。
 ドイツ語関係の人間の世界でも、孝則はずいぶん醜いものを見た。ナチス関係のものを翻訳し、序文でそれを礼讃したりしていたことを隠して、一転して平和主義・民主主義者に変貌する者たちが少なくなかった。京大の哲学や地理学の世界では、大東亜共栄圏の後押しをしたというので職を辞する、というより辞めさせられる者がいたが、ドイツ文学の世界では、単に語学の能力を国家に利用されただけだということで、おとがめなしが多かったため、かえって近くにいる者には醜さが見えた。
 「一億総懺悔」の名のもと、大東亜戦争の後押しをした詩人たちは苦しんだ。高村光太郎は山奥へ籠って『暗愚小伝』を書き、千家元麿も苦悩していた。
 日独文化協会は、西欧学芸研究所と名前を変えて存続し、孝則はそこに勤めて雑務をこなし、昭和二十二年から、解放社の『ハイネ選集』を井汲とともに編纂し、詩集を訳した。解放社は、その名が示す通りのマルクス主義的な出版社で、孝則は社会主義的な新日本文学会に参加した。
 ハイネはマルクスの友人の社会主義者であったから、そんな出版社から出たのだが、孝則自身も、もう戦争は起こしてほしくないと思っていた。だが、戦後日本の知識人が、雪崩を打つようにマルクス主義になったことを、竹山道雄は批判していた。竹山は確かに正しいと孝則は思ったが、自分は竹山のようには振る舞えない。
 太宰治は、戦後、人気作家となり、『斜陽』などがベストセラーになったが、二十三年六月、玉川上水で情婦と心中してしまった。それより先の三月には、千家元麿が六十歳で死去していた。
 その年、孝則はシラーの『瞑想詩集』と『人間の美的教育について』の翻訳を、西洋の文学・哲学書を出す小石川書房から刊行した。後者は、シュヴァイツァー研究者の医師・野村実から回ってきた仕事だった。戦時中に出したシュヴァイツアーの『ゲーテ』も新教出版社というキリスト教系の出版社から再刊された。横山喜之という子供の頃からの友人が、内村鑑三門下のキリスト教徒で、その影響もあって孝則は、シュヴァイツァーの新教的平和主義に次第にひかれていった。
 一方、新日本文学会では、松本正雄と親しく、昭和二十九年、孝則は松本とともに平凡社に入社した。もう五十二歳になっていた。中嶋洋典もいて、平凡社は百科事典など学術的な価値のある著作を出す志の高い出版社で、孝則は居心地良く勤めができた。
 太宰治は、没後ますます人気が高まっていた。特に高校生から大学生あたりに人気があるらしい。昭和三十二年には『富岳百景・走れメロス 他八篇』という短編集が岩波文庫に入ったのを、新聞広告で見て、孝則はほうっと息をついた。聞いてみると、昨年から中学校の国語の教科書にも「走れメロス」は載っているという。
 それから二年した昭和三十四年のことだ。新日本文学会の西洋文学者たちによる会食があり、孝則も松本正雄に誘われて出かけていった。ほかに井上正蔵という、都立大の助教授をしている四十六歳のドイツ文学者がいて、岩波新書から『ハイネ』などを出していた。
 「小栗さん、太宰治の『走れメロス』って、あれはあなたの訳業を下敷きにしているでしょう」
 と話しかけてきた。
 「うん・・・・・・」
 「ほかの訳なら、ダモスとピンチアスです。メロスとセリヌンティウスというヴァリアシオンを使ったのはあなたのだけで、太宰はあれを読んで書いたのですよね」
 孝則は、口を濁した。あまり触れられたくない話題だった。
 「私は今度、『新日本文学』に何か独文関係の話を書かないかと言われているので、そのことを書くつもりです」
 「!」
 孝則は、そうですか・・・・・・と言っただけだったが、あとで井上に、それを書く前にいっぺん話をしたい、と言い、自宅へ招いた。
 自宅は相変わらず高田老松町で、井上は背広姿でやってきた。孝則は五十七歳になる。ドイツの詩の話などをしてから、孝則は、
 「『走れメロス』だがね・・・・・・」
 と切り出した。
 「誰か関係ない人が見つけて書くなら差し支えないんだが、『新日本文学』に君が書くと、僕が書かせたと思う人がいやしないかと思うんだ」
 「はあ」
 井上も、意味はおおむね分かったようだった。
 「すると、たかが翻訳したくらいで、剽窃でもされたかのように、しかも目下の者を使って書かせた、と思われやしないか・・・・・・」
 井上は、沈黙した。
 「しかし、書くなじゃない。書いてもいいけれど私のことには触れないでください」
 「そうですか・・・」
 孝則は、井上の意気込みを挫くようで、悪い気がして、茶を啜った。
 「しかし、世間ではあれについて、シラーの詩ではダモスとピンチアスなのに、メロスとセリヌンティウスとしたのは、古伝説を見たからだと解している人が多いのですよ。あなたの本にはメロスとあるのに・・・・・・。いや、私もあなたの「新編」のほうは古書店で見つけたんですがね。あれは今はほとんど見かけませんからね」
 「お気持ちはありがたいが、そこは頼みます」
 「前から伺おうと思っていたんですが、小栗さんは、なぜそう・・・・・・」
 みなまで言わせず、孝則は、
 「三回も戦争へ行ったからですかね。人と争うのが、もう嫌になりました」
 井上は息を呑んで、ほどなく辞去した。
 九月の『新日本文学』に、井上の「シラーと太宰治」が載ったが、そこでは、単にシラーの「人質」を太宰が利用したとあるだけで、メロスとも小栗とも出てこなかった。あまりにあっさりしているので、孝則も拍子抜けがしたほどだった。
 昭和三十七年に、孝則は六十歳で平凡社を定年退職したが、その後も嘱託として平凡社の仕事を続けた。その年アメリカのMGMで「ダーモンとピチアス」という映画が作られていた。「走れメロス」の原典を脚色したものだが、日本では公開されなかった。日本で公開すると、「メロス」だと思われてしまうからかもしれない。
 ほとんど孝則は、以後、翻訳も文章を書くこともしなくなった。昭和四十二年に住居表示が変わり、高田老松町は目白台と変わった。東側には獨協高校、西側には日本女子大があった。
 一九七〇年三月二十五日 宮崎丈二が七十三歳で死去したあと、孝則は結核を発病し、入院して二年八ヶ月療養、いったんは退院したが、体調が優れなかった。松本正雄は「過去と記憶-回想・1930年前後」を『文化評論』に連載したが、一九七六年四月十五日、松本は七十五歳で死去し、あとを追うように五月十七日、七十四歳で小栗孝則は死んだ。
 その後妻の千枝は、『死せるマリア』の翻訳が絶版になっていたのを私家版として復刊した。
 香川大学の角田旅人が、「走れメロス」のネタ本は小栗の訳した『新編シラー詩集』だとする論文を発表したのは、小栗の没後七年たった一九八三年だった。小栗孝則は、一冊の詩集を残すこともなかった。平凡社と新日本文学会で編集者をしていた小林祥一郎の『死ぬまで編集者気分』には小栗もちらりと姿を見せるが、「走れメロス」の原典となった詩の訳者として紹介されている。
 孝則に子供がいたかどうか、それも分からない。シラーの『人間の美的教育について』は、二〇一一年に法政大学出版局から新版が出ているが、訳者の著作権保持者は不明だということである。

(おわり)


参考文献
『河』日本近代文学館架蔵
ハイネ『死せるマリア』小栗孝則訳、創元社、一九五二、私家版、一九七六
「読売新聞」大正十四年七月二十一日「不景気風は武勲の家にも 三浦のかた田舎に引つこむ小栗海軍大将の一家」
兼清正徳「歌人福崎季連」『芸林』一九八九年六月

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