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2005年04月30日 02時24分46秒

韓国純文学の最高峰「麗しき霊の詩」

テーマ:本でも読んでみっか

麗しき霊の詩


この本は、昨年の7月半ば頃、出版関係の知人に紹介されたもので、2004年8月20日の発売日前の、たぶん8月始めに入手して読みました。その時は、韓国語からの翻訳本であり、しかも430ページもある長編なので、どうにも韓国の風習地名人名にすんなりとは馴染めず、読むのに1週間ぐらいかかりました。結局のところ、読んだとはいえ、ほとんど頭に入っていませんでした。最近、読み直す必要が出てきて、もう一度読み直しましたが、集中して読んだせいか2日間で読み終わりました。実はA4のメモ用紙に、登場人物と簡単なプロフィールを書きながら読み進めました。


昔の長編のロシア文学によくありましたよね、登場人物のリストのようなものが。あれと同じようなものを読みながら作っていったのです。もちろん、人に見せられるような代物ではなく、自分だけが分かる人物リストですが。登場した人物は25人前後の人がいました。しかも名前がキム・ユジンとか、これは主人公の女性の名前ですが、イ・サンチェン、ナム・キチョル、アン・ヨンヒ、等々、韓国の名前は馴染みが薄く、覚えるのに一苦労しました。ですから、人名が出てくるとすぐにリストに記入し、参照しながら読み進めました。これが功を奏したのか、もちろん2度目ということもありましたが、1度目よりはるかに本の内容が分かりました。とはいえ、どれだけ理解し得たかは疑問ですが。


麗しき霊の詩 」韓末淑著 中村欽哉・本橋良子訳 文車書院 定価2940円
本の帯には、待望の日本語訳なる!韓国純文学の最高峰!、既に英語・仏語・独語・伊語・中国語・チェコ語・ポーランド語・スエーデン語、翻訳済み、とあります。


主人公ユジンは、中学の講師をしている中年女性です。夫と裏山の薬水飲み場に通うのが日課です。そこに集う人々との交流が描き出されます。不法バラックに住むカン老人と曾孫のソッキュ、大学教授のチャン博士と病弱の妻ナ・ヨンスク夫妻はユジンと親しくつき合います。祖父の妾(第2夫人)だったチョンイムや、その友人オ・ヒョン道師がユジンと係わってきます。他に大学の先輩で昔の恋人ナム・キチョル、その妻で中学講師のアン・ヨンヒ、等々。作者は、それぞれの登場人物にそれぞれの哲学を語らせます。息子や孫を日本の侵略朝鮮戦争で奪われたカン老人は、それを「前世の罪」として捉え、苦しい日々を真面目に生き抜いています。幼いソッキュは純真な信仰心で、熱心に教会へ通います。教会に多額の寄付をするチョンイムは、財産を巡るトラブルで殺されます。そのを清めるために祈るオ・ヒョン道師は、輪廻や因縁について語ります。


そして、ユジンの昔の恋人キチョルの突然の死があり、妻のアン・ヨンヒはパリへと旅立ちます。チャン博士と心の病を持つナ・ヨンスクのドロドロした愛憎劇は、これだけでひとつの作品になるような迫真の描写があります。ユジンと結ばれるかと思ったのもつかの間、チャン博士の突然の自殺。やっと幸せになる道が見つかったかに見えたソッキュの死。様々な事件が相次ぎます。仏教的な生死観、キリスト教的な生死観。このふたつが奇妙に融合する韓国的な精神世界。ユジンは魂や霊について思いを深め、東洋的な精神世界へと入っていきます。人々が織り成す愛憎や生死、そして宗教観歴史観等々が交響楽的響きをもって迫るこの作品は、韓国人の精神世界を見事に表現しています。


さてこの本は、韓国純文学の最高峰と銘打っていますが、読後の感想は、純文学というより、大衆文学、大河ドラマのような雰囲気を持った作品でした。というのも、韓国では純文学という分野は、まだ確立していないと言われています。それでもなお、純文学といわれるのは、韓国では文学のなかで初めて「自我の芽生え」が見られるからです。この本は、冬から始まり、春、夏と過ぎて秋で終わる、全体を4章に分けた構成になっています。日本人的には、春・夏・秋・冬というような流れですが。韓国では秋は最後の季節、凋落と収穫、冬は生命の種を育む、命の始まりと捉えているようです。僕は「冬のソナタ」はまったく見ていませんが、やはり同様に「冬・春・夏・秋」という4部作になっているそうです。


作品に描かれている時代は、確かなことは分かりませんが、たぶん1970年代であろうと思われます。著者が上流階級だということもあってか、登場人物は、ほとんどが資産家で生活には困らず、医者や教師、翻訳家、編集者等々、知識階級の人たちです。全体を通じて、人間が描き切れていない、生活感がないという批判がありそうです。いずれにせよ、現代韓国の社会を描いた純文学作品の翻訳出版は、この作品が始めてのようです。「韓流」のようなマスメディアに作られた流行ではなく、今後、韓国文学の翻訳出版が日常的に増えることが、韓国と日本の理解を深めるためにも必要なことではないでしょうか。

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2005年04月29日 11時58分01秒

「ベルギー象徴派展」を見てわかったこと!

テーマ:ゲ~ジュツ見てある記

東急本店の8階、「なだ万茶寮 」へは12時ジャストに着きました。お店の人に聞くとまだ来ていないと言う。店の外の椅子に座って待っていると、来ました、エレベーターの方からサングラスをかけてシャネルのスーツを身にまとったた妙齢の女性が。「お久しぶりです」――中略――生ビールを2杯飲み、フォアグラの茶碗蒸しまで付いた食事が終わり、お腹は満腹。二人でエレベーターに乗って1階まで下り、「それでは、また」ということで別れました。このまま帰るのもなんかなと思って、そうだ、「ザ・ミュージアム」でなにかいいのやってないかなと周りを見回すと、受付のところにBunkamura ザ・ミュージアムの赤いチラシが置いてありました。やってる、やってる、「ベルギー象徴派展 」だ、確か見たいと言ってた人がいたな。これはちょうどいい、お先に見ておこうかと、行ってきましたよ、「ベルギー象徴派展 」へ!


「渋谷Bunkamura ザ・ミュージアム」、企画されるものはいいものが多かったんですが、いつも混んでいてあまりいい印象は持っていなかった美術館でした。そうはいっても、近いのでちょくちょく行く美術館です。この前は今年の1月に行った「グランマ・モーゼス展 」でした。その前は「グッケンハイム美術館展 」だったかな?なんの先入観もなくふらっと立ち寄ったのですが、僕としては今回は好印象が持てました。お客さんが少なくてゆっくり見ることが出来たこと、展示してあった作品は大作や有名どころの作品は少なかったけれども、量的にもけっこうあって、それぞれの作品が真面目な感じがして好感が持てたこと、そして展示の仕方が非常によく見やすかった、等々、理由を上げればそんなところかな。


さて、「ベルギー象徴派展 」、チラシに描かれている女性と男性、一見して感じました、なんか似ています、イギリス象徴派の画家ロセッティやバーン=ジョーンズに。チラシの絵は「アクレイジア」と「プリートマート」、ベルギー象徴派を代表する画家フェルナン・クノップフは、やっぱりイギリス象徴派に大いに影響を受けていたんですね。クノップフ、デルヴィル、ロップス、フレデリック・・・世紀末ベルギーに現れた奇才たち。静けさに包まれた神秘を幻想の世界に、失いかけていた真実を見出した画家たちがいた。と、チラシには書いてあります。デルヴィル、聞いたことのある画家だな。そうか、「世紀末」と「象徴派」か、そうなるとやっぱりサロメの画家モローの宙をヨハネの首が飛んでいく「出現」かな!髪の毛が蛇になる「メデューサ」もありそう?


思い出しました、確かそれについての本があったな、ということで探してみましたら、なんと、ありましたよ新潮社とんぼの本「世紀末美術の楽しみ方」という本が!「世紀末の物語絵は、なんらかの逸話を物語ると同時に、作者自身の内部をも映していき、そして物語らぬようになる。様々なイメージに、様々なシンボルが託され、錯綜していく。」これが「象徴派」の説明になるわけですね。同時代の「印象派」とは決定的に違うんですね。そしてこの本は「エロス」「愛と死」「信仰と秘技」など18のキーワードで世紀末の闇を解き明かしていきます。「シンボル」か、「象徴派」、一般に「シンボリズム」と言われたりもします。聞いてはいましたけど、今回「ベルギー象徴派展」を見て、その意味するところが朧気ながら分かってきました。


メジャーでない、排斥されたすべてのもの。キリストや聖書よりも悪魔や聖書外典、社交界の優雅さよりもオカルトの儀式、太陽神アポロや女神ヴィーナスよりも酒の神ディオニソスや眠りの神ヒュプノス、そして活気付く都会よりも誰もいない森、放漫な若い女性よりも青ざめた死に顔の美しさこそが、表現すべきものであった。そして青空の下での観察よりは、部屋にこもっての夢想が出発点だったという。それが起こったのが当時の新興国ベルギーだったこと、その背景には人類が初めて経験する産業化のなかで進行した人間疎外があると言われてます。なるほど、逃避的で、幻想的な世界、この不思議な魅力を持った世界が「象徴派」にあるんですね。ということが、この展覧会を見てわかりましたよ。


「世紀末美術の楽しみ方」河村錠一郎著
1998年11月20日発行 新潮社とんぼの本

画像をクリックすると大きくなります。

(あまり深い意味はありませんが)


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2005年04月28日 10時07分30秒

「迎賓館参観のお知らせ」のお知らせですよ!

テーマ:なぜかケンチクでも

今年も「迎賓館参観のお知らせ 」の季節がやってきました。去年、僕は新聞の小さな記事で見て申し込みました。僕の記事を見て「迎賓館 」を見たいという方が何人がいらっしゃったので、ここにお知らせします。といっても「迎賓館参観のお知らせ 」を見れば分かることですけど。今年は4月26日に発表がありました。



実は、迎賓館が平成18年3月から平成20年3月まで改修工事に入るので、その間は「迎賓館参観 」は行われないんですよ。それもあってか、今年は例年より5千人多い、3万人が見学できます。要点は以下の通りです。平成17年の迎賓館参観は、7月30日(土)から8月8日(月)までの10日間実施します。5月26日までに、参観希望日を書いて、官製往復葉書で申し込むこと。6月下旬に通知予定ですが、申込者が多数の場合は抽選にて参観者を決定。ということです。僕のように去年見た人は、今年は申し込めません。がしかし、何とかして今年も見に行くぞ!





迎賓館についてはこのブログで、昨年12月10日「旧赤坂離宮、現迎賓館 」と、1月14日「鳥の目になって迎賓館を見る 」という二つの記事を書きました。その頃の記事は、僕のつたない知識では画像が1枚しか張れず、もっと画像が貼れたらよく伝わるのにと残念に思っていました。その頃に比べれば、最近は記事の内容の薄さを隠すためか、やたらに画像をベタベタと張り付けていますが。迎賓館 とはどんなところか、その時の記事を補うために画像を掲載します。




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2005年04月27日 10時10分08秒

福島県三春町の「三春瀧桜」

テーマ:道々寄り道だよん

日本人はなぜか「」を好みます。ものごと「」で括って説明されると、簡単に納得しちゃうから不思議です。古くは「三種の神器」とか、野球では「三冠王」等々、また最近では「三K職場」「三高主義」などの言い方があったりします。観光地でも「ここは日本三大○○の一つです」と解説されることがよくあります。どんなところがあるか、例を上げると、「日本三名山」は富士山(静岡県・山梨県)、立山(富山県)、白山(石川県・福井県・岐阜県)。「日本三景」は松島(宮城県松島町)、天橋立(京都府宮津市)、宮島(広島県宮島町)。「日本三名瀑」は華厳の滝(栃木県日光市)、袋田ノ滝(茨城県大子町)、那智滝(和歌山県那智勝浦町)。「日本三名園」偕楽園(茨城県水戸市)、兼六園(石川県金沢市)、後楽園(岡山県岡山市)。等々、よく話の端々に出てきますよね。



さて、このブログでも「」の話題が多々ありましたが、もう関東地方はほとんど散ってしまい、急速にその話題も終息した感があります。新緑が目にしみる「葉桜」もこれはこれでいいのですが。「日本三大桜の名所」といえば、高遠(長野県高遠町)、吉野山(奈良県吉野町)、弘前城(青森県弘前市)ですね。そして「日本三大桜」といえば、三春滝桜(福島県三春町)、薄墨桜(岐阜県根尾村)、神代桜(山梨県武川村)といわれています。まあ、桜の花見は国民的な行事、自分のところの近くにもけっこういいところがあるので、わざわざ混雑する名所まで行かなくても見ることは出来るのですが、でも行ってこの目で見てみたいという「物見遊山」の気持ちも大いにあります。



実は「三春瀧桜」、是非行ってみたいと前々から思っていたところです。がしかし、また今年もチャンスを逃してしまいました。桜は時期を決めるのが難しい。いつ満開になるかなかなか判断が付かない。ちょうどいいその日に行けるかどうかも分からないし。つまり、僕は今年も「三春瀧桜」には行けなかったのである、残念。と思っていたところへ知人から、「三春の瀧桜へ行ってきたよ」というメールと「画像」が届きました。三春町の出している資料によると4月22日(金)から25日(月)の4日間が満開で、なんと知人が行ったのが4月23日(土)だそうで、満開の中日みたいなもの、最高の「瀧桜」花見日和だったようです。これは悔しい。ホントに悔しい。がしかし、どっこい、こちらもただでは起きない。じゃあ、画像を頂戴して記事に書いてやれと考え、知人の了解を得ました。日本列島、縦に長いから、当然、桜の開花に関しては時差があります。これから秋田の角館とか、青森の弘前城へ桜前線がの上昇して行くわけです。札幌は5月の連休中が満開になると聞いています。



三春瀧桜」は、福島県田村郡三春町大字滝字桜久保にあります。三春町を含む田村郡一帯は、枝垂れのエドヒガンザクラが数多く見られるそうです。「三春瀧桜」は、資料によると樹高12メートル、根回り11メートル、枝振りは幹から北へ4.6メートル、東へ10.7メートル、南へ13.9メートル、西へ14.5メートルの巨木です。樹齢は1000年以上と言われるエドヒガン系の紅枝垂れ桜です。大正11年には国の天然記念物に指定されています。「瀧桜」の名は地名の「」から名付けられたとも言われていますが、樹高12メートルの梢から地上に着きそうなところまで垂れ下がる濃紅艶美な姿が流れ落ちる滝を連想させるので、この名で呼ばれるようになったとも言われています。



送られてきた元々の大きいままの画像には圧倒されました。ブログに載せるため画像は縮小してあるので「瀧桜」の雄姿が上手く伝わりませんが、その一端を皆さんにも味わっていただきたく掲載させていただきます。
三春瀧桜情報サイト

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2005年04月26日 01時51分24秒

鎌倉・建長寺の法堂など重文指定へ文化審が答申

テーマ:道々寄り道だよん
建長寺 の法堂(鎌倉市)=文化庁提供

「鎌倉・建長寺 の法堂など重文指定へ文化審が答申」という新聞記事(2005年04月25日)が目に入りました。文化審議会(阿刀田高会長)は、建長寺の山門と法堂(神奈川県鎌倉市)など9件(新規8件、追加1件)の建造物を「重要文化財」に指定し、青森県黒石市の中町保存地区など3カ所を「重要伝統的建造物群保存地区」に選定するよう中山文科相に答申した、という記事でした。


そういえば前に「建長寺放火か、総門の一部焼ける」という記事が(2005年03月29日)ありました。3月29日午前4時ごろ、神奈川県鎌倉市山ノ内の建長寺の総門付近から出火。総門の左側に連なる板塀の屋根の一部、約1.62平方メートルが焼けた。消防によると、午前4時前、鎌倉市消防本部に男の声で「建長寺が燃えているぞ。おれは鎌倉に住む20歳のテロリストだ」と通報があった。同本部が建長寺に確認の連絡を入れ、火災に気がついたという。

以上、朝日新聞記事。



鎌倉はここ最近、行ってませんね。家人は年に一度ぐらいは必ず行ってるんですね。季節もよくなったことし、僕も行って見たいという願いをこめて、今回は鎌倉の建長寺 について書いてみましょう。


鎌倉五山の第一位に列する建長寺 は建長5年(1253年)、北条時頼が幕府の興隆と北条家の菩提のために宋から禅宗の高僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(大覚禅師)を招いて創建されました。日本最初の禅宗道場が開かれ、往時は千人を超える雲水が修行したと伝えられます。現在は臨済宗建長寺派の大本山として末寺に406ヶ寺をひかえ、臨済宗第3の規模を誇ります。広大な敷地に一直線上に配された総門、三門、仏殿、法堂の特徴的な伽藍配置は、中国宋代の禅宗様式を取り入れたものです。と、まあ、一般的な鎌倉のガイドブックには、こう書いてあります。



さて、まずは「総門」、寺の入り口にあり、1783年に京都の般舟三昧院に建てられたものを、1943年に移築したといわれています。次の三門、禅宗では山門ではなく三門と呼んでいます。悟りに入る三つの法門、つまり三解脱門のことです。この下を通ると、心が清められるといいます。三門から仏殿へ行く敷石の両側には柏槇(びゃくしん)の古木があります。これは蘭渓道隆が宋から持ってきて植えたものとも言われています。幹回りが7mのものもあります。創建当時から750年もの歳月を生き抜いてきました。




小泉淳作画伯の渾身の筆致で描かれた「雲龍図 」は、2003年、創建750周年を迎える記念事業の一環として、建長寺法堂の天井に設置されています。 法堂は住職が説法する場で、本来尊像は安置されず、禅宗法堂の多くは天井に雲龍を擁します。小泉淳作は1924年鎌倉市で生まれです。何年か前に「雲龍図 」の制作過程を取材したNHKのドキュメンタリー番組を見ました。伝説の生き物である龍を描いた「雲龍図 」は48枚のパネルからなる縦10m×横12mの巨大な水墨画で、約2年をかけて制作されました。


禅宗では本堂のことを仏殿と呼んでいます。本尊地蔵菩薩座像をお祀りして儀式を行います。建物は江戸初期の1647年(正保4年)に徳川2代将軍秀忠の夫人崇源院の霊廟を、芝の増上寺から移築したそうです。また、茅葺き屋根の鐘楼に創建当時の梵鐘が下がっています。1255年(建長7年)、北条時頼が鋳物師物部重光に作らせたものです。梵鐘には蘭渓道隆の銘文があり、国宝に指定されています。境内は豊かな自然に包まれ、桜、さつき、紫陽花、萩などが季節毎に咲きます。方丈の背後には夢窓国師の作庭といわれる「さんぺき池(心字形の池)」を中心とした庭園があります。


さて、「けんちん汁」語源ですが、建長寺と関係があります。その昔、建長寺の小坊主が豆腐を床に落してグチャグチャにしてしまって困っていると、蘭渓道隆が壊れた豆腐と野菜を煮込み、おいしい「建長寺汁」を作りました。「建長寺」を中国語読みすると「ケンチャンスー」になり、これがなまって「けんちん汁」になったそうです。


北鎌倉駅を降りて、円覚寺建長寺鶴岡八幡宮 にかけて歩くと、リスがたくさん出会うことが出来ます。しかし、鎌倉で見かけるリスは台湾リスという種類のリスで、江ノ島で飼われていたものが逃げ出して鎌倉で繁殖したらしく、昔からいたシマリスの方は勢力争いに負けて、ほとんど見かけなくなってしまいました。

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2005年04月25日 00時09分44秒

ツェッペリンNT号、画像の総集編

テーマ:道々寄り道だよん

76年前、世界一周の訪問地として日本にも飛来したドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」の後継機にあたる「ツェッペリンNT号」が東京上空を飛んでいたのを何度か目撃しました。全長は75メートルと巨大な船体は迫力十分です。愛知万博(愛・地球博)PRのため、日本郵船の関連会社「日本飛行船 」が購入、全国で宣伝飛行をしています。愛知万博の宣伝ですから、モリゾーとキッコロは飛行船の下にしっかりと描かれています。ということで、このブログでも何度か書きましたが、今回はツェッペリンNT号の総集編として、僕が目撃し撮影した画像を、纏めて載せてみます。


西郷山公園上空1

 


西郷山公園上空2

 


西郷山公園上空3

 


西郷山公園上空4

 


自宅ベランダ1

 


自宅ベランダ2

 


自宅ベランダ3

 


目黒川上空
木の枝に引っかかってるんじゃなくて、
木の枝の向こうに蓑虫みたいに見えてます
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2005年04月25日 00時03分00秒

徳川光圀公と西山荘

テーマ:道々寄り道だよん
西山荘の入園券

 

首都高速から常磐自動車道に入り、三郷から約1時間、おおよそ120キロぐらいでしょうか、水戸の先の那珂インターで降ります。西山荘 は水戸市の北約20キロの常陸太田市の西部にあります。水戸藩二代藩主であった光圀公が元禄3年(1690)10月、63歳の時に兄頼重の子綱條(つなえだ)に家督を譲り、翌4年5月9日に隠居されたところです。太田の西山(にしやま)に建てられたので西山荘 (せいざんそう)と名付けられました。

 


 

光圀公は江戸城という当時最高の栄華を極めたところから、隠居直後に西山荘 の生活に移りました。栄華を極めた環境から質素な環境に自らをおけるという光圀公の人柄が偲ばれると思います。光圀公は元禄13年12月6日73歳でなくなるまでの10年間、丸窓の書斎で書を読み、自らが始められた「大日本史編纂事業」に生涯を捧げました。編纂の傍ら多くの領民と親交を重ね、多くの人々から「黄門さま」と慕われました。

 


 

折にふれ庭を散策し、月見の宴や和歌の会を催して、心字の池に開いた白蓮などを詠まれるなど、質素な中にも優雅な晩年を過ごしました。その後、この建物は文化14年(1817)の野火により焼失しました。その2年後の文政2年第8代藩主齊脩公により、約3分の1に規模を縮小して再建されました。西山荘 は、35万石藩主隠棲の地としての風格と、華美を嫌った公の信条を、往時の面影そのままに垣間見ることができます。

 


 

幾つか出ている案内書を取りまとめると、おおよそ上のようになります。僕が行った時は新緑が鮮やかで、筍がムクムクと土を持ち上げ始めていました。テレビの「水戸黄門 」が多くの人に支持されて、お化けのような長寿番組になっていますが、黄門さまはほとんど西山荘を出たという記録はないと言われています。ましてや全国を漫遊したという話は、後世の講談などによって作られた話のようです。以前、20年ぐらい前に一度行ったことがあるのですが、その頃はもっと鄙びた感じがしましたが、今は当時と比べるとやや観光地化が進んでいるような気がしました。



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2005年04月24日 00時03分12秒

岩野亮介展「肖像の研究2」

テーマ:ゲ~ジュツ見てある記
岩野亮介展・案内の葉書

中央区入船の「アートスペースモーター」だというので、地下鉄、東京メトロを乗り継いで八丁堀まで行って来ました。新富町でもよかったんですが、まあ、あの辺は地下鉄が網の目のように通ってるんで、ちょっと歩けば次の駅に着いちゃいます。帰りに地下鉄の構内でもらったチラシを見てみると、「東京メトロ全線1日乗り放題」という一日乗車券大人710円であるんですよ。なんだ、もっと早く気がつけば安くすんだのにと、帰ってきてチラシを見て気がつきました。しかも、その券を見せるだけで、30もの美術館や博物館が割引してくれます。これはうまく計画して使えばおトクなんじゃないでしょうか。まあ、僕の場合、いつも行き当たりバッタリですから、とても計画通りには進みませんけど。

 

そんなことはどうでも、「アートスペースモーター」で行われた「岩野亮介展・肖像の研究2」へ行って来ました。いただいた葉書の案内図がわかりにくい地図で、同じように会場を探している人から声をかけられて、一緒になって探し、なんとかたどり着きました。その葉書には「6時30分よりささやかなパーティーを開催します。どうぞお越しください。」とあったので、図々しくもその時間に間に合うつもりで行ったのですが、会場に着いたのはやはり15分ぐらい遅れました。狭い会場はもう人でいっぱいで、人をかき分けないと奥まで行けませんでした。どうも今回は写真展のようなので、壁に掛かっている作品を見ながら、持ち前の図々しさでなんとか奥までたどり着いたらビックリ仰天、なんとそこには赤いワンピースを着た女の人が椅子に座っていました。

 

 


 


 


岩野京介さんは1960年生まれの彫刻家です。写真のモデルとしての彫刻を作り始め、2004年に銀座の画廊で「青空娘」を発表、その時も案内があったので見に行きました。そして2005年「肖像の研究2」を発表、今回の写真展になったわけです。木の彫刻からわき出る暖かさのせいか、人なのか人形なのか、風景の中にその人(人形)がいると、その人が人形だからこそ、観る側に豊かなイメージを起こさせてくれます。と、まあ、なにを言っても、とても言葉では言い表せない不思議な世界です。撮ってきた写真を掲載しますので、不思議な世界を味わってみてはいかがでしょうか。


 


 

 

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2005年04月23日 11時04分53秒

歌舞伎座、建て替えへ 松竹など検討開始

テーマ:なぜかケンチクでも

日本で唯一の歌舞伎専門の常設劇場である歌舞伎座 (東京・銀座)を所有する株式会社「歌舞伎座 」と興行主の「松竹 」は21日、老朽化している劇場の建て替えの検討を始めると発表した。50年に完成した現劇場は国の有形文化財に登録されているが、老朽化で建て替えが必要という。近く東京都や地元の商業関係者などから意見の聞き取りを始め、具体案作りを本格化させる。工事時期や新しい施設の形は未定。松竹は「歌舞伎座は街のシンボルなので、関係者の声をきいて案をまとめたい。工事期間中はほかの場所を確保して興行を続ける」としている。
アサヒコム:2005年04月21日

上記のような新聞記事が目にとまりました。歌舞伎座は銀座4丁目、和光や三愛ビルのある交差点を、晴海通り沿いに築地方面へ少し行ったところの左側にあります。正面外観は、城郭建築と社寺建築を基調にした「桃山様式」で、元々は、辰野金吾の弟子である岡田信一郎の設計で、大正14年(1925)に建てられました。お堀端に雄姿を誇る「明治生命館」や、大阪では中之島にある「大阪市公会堂」を設計した建築家です。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階地上4階建て、構造設計は、当時の耐震構造の権威、内藤多仲でした。後に彼は東京タワーの構造も担当しました。

この歌舞伎座は、昭和20年(1945)5月の東京空襲により大部分が消失し、残ったのは正面の一部と1階の外壁だけでした。しかし、早くも昭和22年(1947)には岡田信一郎の弟子でもある吉田五十八にその復興改築が依頼され、設計はその年から翌年8月までかかりました。戦後の混乱期、費用の関係もあって、焼け残った部分を残しながら、修復改築で最大の効果を上げるという大変な設計の課題でした。工事は翌24年10月に開始し昭和25年12月に竣工しました。盛大なこけら落としが行われたのは翌昭和26年1月3日でした。

外部は岡田の桃山様式のデザインをほとんど残しましたが、内部の意匠は徹底して吉田流で仕上げられています。「料理屋は芸者がきれいに見えなければいけない。芝居もそうです。女の人は芝居を見にくるのが50%、あとは自分を見せに行く。やっぱり芝居はプラス観客なんです。廊下をお客が右往左往してきれいに見える。こっちはそのことを勘定に入れて設計しているんですよ。」と、ある対談で吉田は述べています。

玄関ドアを入ると、豪華な大広間があります。大理石の階段を数段上がると、天平風の模様が入った赤い絨毯が敷き詰められています。漆を塗った太い丸柱が2階までの吹き抜けを貫いて立っています。2階のロビーは、横山大観川合玉堂などの作品が並べられたギャラリーになっています。観客席は4階まで吹き抜けになっている観客席は、奥の関から舞台の方向に12本の大竿縁が走っています。この大竿縁、中に照明が仕込まれていて天井を照らし、照明器具が見えない間接照明になっいています。観客席の内壁のほとんどが「業平格子 」紋様の連続したパターンになっています。「業平格子 」は在原業平が好んだ柄といわれ、江戸時代の歌舞伎役者歌右衛門が用いたことから流行しました。

先日、歌舞伎座の前を通ったら、着飾ったご婦人方で黒山の人だかりでした。「松竹110周年記念18代目中村勘三郎襲名披露4月大歌舞伎 」をやっていました。そう言えば「中村勘三郎邸」(昭和32年)も、日本調と英国調を併せ持つ民芸調の吉田の設計でしたが、既に建て替えられたでしょう。すべて改装改築の設計でしたが、喜田五十八の係わった東京の代表的な三つの芝居小屋、「明治座」「新橋演舞場」は既にありません。近々「歌舞伎座」がなくなると、吉田五十八の絢爛豪華な芝居小屋は、見ることは出来なくなるわけです。虎ノ門の前を通ったら、霞ヶ関ビルが目の前に、霞山ビルのコンクリート打ち放しの外壁がむき出しで見えました。あれっ、吉田五十八の設計した「国立教育会館」がない。もう取り壊されて、きれいに更地になっていました。

*吉田五十八の関連記事はこちら

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2005年04月22日 10時40分04秒

妹・向田和子による「向田邦子の恋文」

テーマ:本でも読んでみっか

この本「向田邦子の恋文 」、第1部が、N氏と向田邦子による「手紙と日記」、第2部が、向田邦子の末妹・和子による「姉の“秘め事”」という13編の文章の2部構成になっています。「手紙と日記」は、想像していたほどの量はありません。昭和38年11月27日のN氏の手紙から、昭和39年2月18日のN氏の日記まで、わずか30数通の日記と手紙です。最後の日記の次の日にN氏は自ら死を選びます。向田邦子は時間を見つけては、3時か4時頃N氏の家へ夕食の材料を持って訪れ、夕食を作り、2人で夕食を食べて、だいたい10時頃に帰ります。ラジオやテレビドラマの脚本で売れっ子になりつつある33、34歳の向田邦子の「秘め事」の世界です。

向田邦子の恋文 」、昨年の1月ですから、お正月ですね、TBS系でテレビドラマ化させて、前評判が高かったせいか、主役が久しぶりの山口智子だったからか、たまたま見たのか、どうしてだかはわかりませんが僕も見ました。山口智子以外の配役、特にN氏とその母親役についてはちょっとどうかなという面がありますが、おおむね思い描いていた通りでした。向田邦子のことはいろいろ聞いていたのでしょう、つまり、ドラマを先に見たというわけです。今回、本の方を読んでみて、はるかに本の方が感動が大きかった。泣いたとは言いませんが、グッと来るところが多々ありました。

向田邦子は、昭和58年8月、51歳9ヶ月で台湾で航空機事故で亡くなりました。向田邦子とN氏の手紙N氏の日記などがおさめられた茶封筒は、昭和56年初秋、遺品を整理しているときに見つかりました。実際に和子が茶封筒を開けてみたのは平成13年になってからで、邦子が亡くなってから20年近く経っていました。それだけの時間が必要うだったと向田和子は言う。

この本の著者和子は、向田邦子の末妹です。「ままや」を20年やって、平成10年3月に閉店します。最初の3年3ヶ月は向田邦子と二人三脚で、邦子が事故で亡くなってからは、和子がそのまま引き取り、17年目、総菜・酒の店「ままや」の暖簾をたたみます。その後、邦子関連のエッセイ等を多数出しているようです。以下は、向田邦子が書いた総菜・酒の店「ままや」開店の案内状「おひろめ」です。

「蓮根のきんぴらや肉じゃがをおかずにいっぱい飲んで、おしまいにひと口ライスカレーで仕上げをする、ついでにお総菜のお土産を持って帰れる、そんなお店をつくりました。赤坂日枝神社大鳥居の向かい側通りひとつ入った角から2軒目です。店は小造りですが味は手造り、雰囲気とお値段は極お手軽になっております。ぜひ一度おはこびくださいまし。」

実はその頃僕は、赤坂にある事務所に勤めていたことがあり、知人に誘われて「ままや」へ行ったことがあります。確かその時は「豆腐料理の店」と聞いたような記憶があります。意外に値段も安く、安月給の僕でも行けるお店なので、何度か通ったことがありました。向田邦子のお店だとも聞いたので、たぶん開店してまもなくのことで、向田邦子の亡くなる前だったと思います。

このブログでも取り上げたことのある「負け犬の遠吠え 」のなかで酒井順子は、独身女性のあこがれの女性として、向田邦子を挙げています。


仕事で活躍するのはもちろんのこと、美人でオシャレで料理も上手だった向田邦子。彼女はとある男性と長い間不倫関係にあったことが、今では発表されています。不倫によって婚期を逸するとは、まさに高齢未婚女性の典型的なパターンであり、現在でも多くの同類の共感を呼んでいます。彼女は飛行機事故によって独身のまま、50代で命を閉じました。まるで桜花のような散り方がまた、不世出のカリスマ独身女、という感を深めました。今、向田邦子に続くあこがれの独身女スターは、存在しません。向田邦子的、つまりは「美しくて女っぽくて、異性のにおいはしつつも結婚しない」という、いい女系の独身女

向田邦子の代表作といえば、「阿修羅の如く 」、これはNHKで連続テレビドラマにもなりました。僕は見てましたね。最近、映画にもなりましたが、そちらの方は見ていません。NHKドラマの「阿修羅のごとく」、その中でかかっていた曲、しばらく耳にこびりついて離れませんでした。最初はスコットランド民謡のバグパイプかと思いましたが、調べてみるとそうではありませんでした。この曲、トルコの古い陸軍行進曲で、「ジェッディン・デデン 」(祖先も祖父も)というタイトルです。

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