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2005年02月28日 01時57分37秒

いまさらですが「負け犬の遠吠え」

テーマ:本でも読んでみっか
負け犬の遠吠え 」という酒井順子 の書いた本があります。2003年10月に発売以来、一大ベストセラーになった本です。昨年の流行語大賞トップテンにも堂々と入賞しているので、ご存じの方も多いでしょう。

定義としては狭義には、「未婚」、「子ナシ」、「30代以上の女性」のことを示します。この3つの項目だけが一人歩きして、酒井順子の書いたものとは違う方向にいってるという話 を聞いたことがあります。実際、この本を読んだという人のことは聞いたことがありません。それではまずかろう。運よく、というか、ちょうどブックオフに出ていたこともあり、この機会に読んでみても悪くない、ということになりました。僕も「負け犬の遠吠え 」という本のことは知っていましたが、まさか僕が読む羽目に陥るとは思いませんでした。

読売新聞社が行った「結婚観」に関する全国世論調査 (面接方式)で、「結婚しなくても1人で幸福」と思う未婚女性が7割超に上っていることがわかったそうです。2003年の前回調査より10ポイントも増え、独身女性の間で、未婚を否定的にとらえない傾向が強まっていることを示しています。こうした意識が「晩婚化」や「少子化」にも拍車をかけています。という記事が25日、新聞に掲載されていました。これこそまさに「負け犬派」が増えていることを裏付けるデータといえそうです。

酒井順子 の「負け犬の遠吠え 」が誤解されているのは、初めから「勝ち犬」、「負け犬」という分け方にあると思います。酒井は、「勝ち犬」がよくて、「負け犬」が悪いと言ってるわけでは決してありません。「既婚子持ち女に勝とうなどとおもわず、とりあえず『負けました』と、自らの弱さを認めた犬のようにお腹を見せておいた方が、生き易いのではなかろうか?」と、言ってるだけなのです。それを、勝った方がいい、負けた方が悪いととらえてるところに、誤解が生じていると思われます。

勝ち犬」とは、「負け犬」とは逆に、普通に結婚して、子供を産んでいる女性のことを指します。「負け犬」は、結婚をしたくない、もしくは結婚する意志はあっても、自分が欲するような男性からは結婚相手として求められていないので、家庭という分野に進出できないでいる。「勝ち犬」は、社会で働きたくないとか、働くことより子育ての方に使命感を覚えたとか、子育ての他にその人出なければ出来ない仕事がなかったからという理由で、家庭という分野に留まっていることになる。そして「勝ち犬」と「負け犬」は、相手に欠けてる部分を見つけては、お互いに不完全だと言い合うのです。

酒井順子 が「負け犬」であるために、言うことがまったくその通りで、読み応えがあります。前半の「余はいかにして負け犬になりし乎」と、6つの文章が入った「負け犬発生の原因」の項は、圧倒的な説得力があります。それ以降の文章は繰り返しが多く、付け足しが目立ち、甘くなっていますが。「イヤ汁」、つまり、未婚のまま生腐りしていきそうな女性たちから滴り落ちるかに見えるイヤーな汁の意、という言葉の定義には妙に納得。

1977年の映画「結婚しない女 」が、シングルズ・ウーマンという女性の新しい生き方を教えてくれました。これは大ヒットしました。ずいぶん前の映画なので、あまり細かいところまでは覚えてはいませんが。松原惇子の「クロワッサン症候群 」とか、谷村志穂の「結婚しないかもしれない症候群 」とか、関連した本が前に出ているようですが、僕は読んでいないので何も言えません。

さて、酒井は「負け犬の遠吠え 」のなかで、3つの映画やドラマを取り上げていますが、そのうちひとつは「ブリジット・ジョーンズの日記 」です。30代で独身の働く女性、つまり「負け犬」ですね。編集者だったが上司との恋愛に破れ、テレビ局に転職したという経歴のようです。つい先日見た映画の予告編で「ブリジョン」やってましたね。小太りの女優でした。酒井は「ブリジョン」と自分に共通する部分が多いことに驚き、「へーえ、ロンドンにも同類がいるんだぁー」と、素直に感動したそうです。いずれにせよ「負け犬」は、大都会の産物なのかも知れません。
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2005年02月27日 13時46分39秒

吉田初三郎の一番弟子「前田虹映」

テーマ:日々のあれこれ
三太・ケンチク・日記」の1月14日に、「鳥の目になって迎賓館を見る」という記事を掲載しました。すると、すかざすコメントが入りました。ネットのことに詳しい知人に相談すると、コピーして、すぐに削除した方がいいよ、とのアドバイスを受けましたので、現在はそのコメントは載っていません。

その時の記事は、ほとんどタイトル通りです。新聞に掲載された迎賓館の航空写真が僕は気に入ったので、皆さんに見てもらおうと思って掲載したものです。そして、なんたらかんたら、あることないこと、いろいろと述べました。そして「鳥瞰図」というのがあるよと話を敷衍し、2002年5月にNHKの日曜美術館でやっていた「ワガ美の国・日本“大正の広重”吉田初三郎」という番組で紹介されていた、観光地を紹介する鳥瞰図を描いていた「吉田初三郎」の作品を取り上げて、また、吉田の一番弟子である「前田虹映」をも取り上げたものでした。

さて、そのコメントですが、「僕は前田虹映息子です。ぜひお話したいので、電話をください。」とあり、そして、携帯の電話番号が書かれていました。え~っ、そんなことがあるんだと、僕はビックリしましたよ。だって、明治、大正時代の話ですから、僕らの時代とはまったく違う話を書いたつもりです。ホームページに掲載されている絵を見ても、完全に一時代前の絵です。まあ、つまり、「レトロ」です。僕にしてみれば歴史を書いているわけですから、そうした軽い気持ちで書いた記事に、反応があったとは、しかも、その息子さんから電話が欲しいと!これはオドロキです。

ということで、恐る恐る電話をしましたよ。そうしたら、大変おおらかな人で、愛知県小牧市に住んでいること、若い頃はオヤジに反発したこともあり、オヤジの絵には興味がなかったこと、土木関係の仕事をしていたが、今は退職してのんびりとした生活を送っていること、姉も東京近郊に住んでいて、時々訪ねたりもしていること、自分の名前は吉田初三郎がつけたこと、実は前田虹映のホームページを作ったのは自分であることなどを話されました。年齢は、たぶん、僕より一回り以上、上の方でした。そして、8月頃、東京に行く機会があるので、是非お会いしたいと言われました。そんな電話だったので、こちらから連絡先を書いたメールを送りますと、約束して電話を切りました。ところが、1ヶ月半以上過ぎたにもかかわらず、気にはしていたんですが、日々の雑用にかまけて、メールを出していませんでした

ところが昨日、普段はほとんど事務所に置きっぱなしの僕の携帯、珍しく外出する予定があったので家の方にもって帰っていました。その携帯が突然鳴り出しました。「もしもし、前田ですけど・・・」、あちゃ、やばい、メール出していなかったよ。そこは僕なんかと違って「器」が大きい、またオヤジの絵が出てきたんですよ、と嬉しそうに話ながら、「地図センター」からプリントが出たので送りたいから住所を連絡しなさいと言われてしまいました。そして、8月に会うのを楽しみにしていますと。いやはや、面目ない。ということで、さっそく、非礼を詫びてメールを差し上げました。東京へいらっしゃる際は、万難を排して、どこへでも出かけるつもりでおります。僕の方こそ、お会いできるのを楽しみにしています。という内容のメールですが、あれっ、それだけ?内容がナイヨー。言い訳がましく、こんな記事を書いているなんて、まったく、お恥ずかしい限りです。
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2005年02月27日 02時15分21秒

張春祥京劇教室と邱雪痕鑼鼓教室の京劇発表会

テーマ:道々寄り道だよん
張春祥京劇教室と邱雪痕鑼鼓教室の「京劇合同発表会」に行って来ました。世田谷区烏山区民センターのホールで行われました。400人ぐらい収容のホールが、だいたい8分の入りでしたね。教室の発表会ですから入場料は無料、ほとんどが出演者の家族や友人、関係者ばかりでした。でも、あなどれません、出演者の皆さん、熱のこもった演技で感動しました。

京劇は、唱(うた)、念(せりふ)、倣(しぐさ)、打(立ち回り)、この四つの要素を持ちます。その立ち方から始め、慣れない中国語の台詞と唱の歌詞。教室の連中、役者も楽士も日本人の生徒です。果たして大丈夫だろうか、そんな心配は無用でした。張春祥 さんは、「出来るか、出来ないか、やってみなければ判らない。僕の生徒は京劇に挑戦し、その挑戦は成功した」と言いました。

張春祥 さんは、北京京劇院出身の京劇俳優で、1989年に来日しました。テレビドラマ「赤い月」、映画「五条霊戦記」、舞台「セツアンの善人」、「中島みゆき夜会」などに出演しています。96年から「新潮劇院 」を主宰、現在まで16回の自主公演を行っています。脚本や演出も手がけ、伝統劇の復活を基礎に、創作京劇や伝統劇の新演出も上演しています。各地で京劇講座を開講し、受講生は現在まで200人を超えています。

さて、本日の演目は、前半は、「虹霓関」A組、「覇王別姫」A組、そして「鑼鼓楽曲演奏」、休憩を挟んで、「虹霓関」B組、「覇王別姫」B組、最後に「打焦賛」でした。ではでは、ここで演目の簡単なあらすじを、といっても、プログラムからの引用ですが。「虹霓関」、夫の敵討ちのために東方夫人が戦いに出ますが、仇はよく見ると幼なじみの王伯太党。彼は以前より強くなっただけでなく、いい男になっていたので、夫人は思わず色仕掛けで迫ります。王伯党は断り続けますが、夫人は無理矢理、彼を連れ帰ってしまいます。

覇王別姫」、これはおなじみですね。秦の始皇帝の圧制に立ち向かった項羽と劉邦。次第に戦は二人の天下取りになり、項羽は劉邦に追いつめられる。戦に負けて帰ってきた項羽は、虞姫が剣舞で慰めますが、そこに敵陣から項羽の国の歌声が。周囲の味方が皆降参して、敵に囲まれたと思い絶望します。これが「四面楚歌」ですね。「打焦賛」、戦に苦戦し援軍を求めると、志願してきたのは炊事係の少女・楊排風。彼女が棒の達人だと知った孟良は、彼女を連れて帰ることにします。俳風を見た焦賛は「こんな小娘が」と相手にしません。「じゃあ、戦ってごらん」と挑発され、焦さんは俳風と試合をすることに。

鑼鼓楽曲演奏」ですが、京劇打楽器(鑼鼓)の演奏曲は、それぞれに名前の付いた短いパターンが100種類以上あり、すべてを口伝で覚えます。単皮鼓の演奏者、この人は指揮者でもあるんですが、彼の手の動きを見て次のパターンとリズムを判断して演奏をつなげていきます。今回は武戯の場面を取り上げて、役者の動きに合わせた演奏を紹介してくれました。演奏のパターンとしては、八大倉、四撃頭、急急風、馬腿、水底魚、等々、あります。演奏に合わせて、張さんが見本として踊って見せてくれました。京劇を見て、一番判りづらかったところが、この鑼鼓の部分です。演技者の方を見ないで、あらぬ方向に目がいっていながら、音がぴったりと合ってる。単皮鼓の演奏者が指揮者だったんですね。これは「京劇入門編」として、非常にわかりやすかった。他に、京胡、笛・チャルメラ、月琴、京二胡は、賛助出演の方々でした。

覇王別姫」というと、「さらば、我が愛・覇王別姫 」という映画を思い出されるかと思います。項羽と虞姫を持ち役にした2人の俳優の生涯を描いた映画でした。戦前、戦中、そして新中国の建国、文化大革命。時代に翻弄されつつも、深いところで結びついていた2人の人生が、「覇王別姫」の物語とオーバーラップするという、2時間52分の超大作。監督はチェン・カイコウ 、主演はレスリー・チャン1993年の香港映画です。その後、レスリー・チャンは、香港・中環(セントラル)のマンダリン・オリエンタル・ホテル24階から飛び降り自殺 しました。

僕が張春祥 さんの京劇を最初に見たのは、1996年に「新潮劇院 」を設立する前ですから、10年ほど前です。その時の演目は「覇王別姫」でした。ですから僕の場合、京劇というと「覇王別姫」となるわけです。それからもお誘いを受けて、何度か見に行ってます。最近は張さんの出る京劇の公演が少なく、主として烏山区民センターを使って、定期的に「ワークショップ」をやっていたようです。今年の6月4日には、待望の「2005年京劇公演」をやるそうです。演目は「孫悟空~竜宮で大暴れ~」、「鉄弓の縁」、「三岔口」のようです。張さんも、やっぱり、中年になったようで、10年前と比べるとちょっと太りましたね。あれっ、僕も同じか。
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2005年02月26日 00時05分19秒

奈良御所市で異国風仏像レリーフが大量出土!

テーマ:道々寄り道だよん
奈良県御所(ごせ)市 北窪で、7世紀末白鳳期の寺院の金堂とみられる建物跡が出土し、内部を飾った仏像の土製レリーフ(セン仏=「セン」は「土」へんに「專」)の破片約200点が一緒に見つかった。国内で出土例がない異国風の顔立ちの5人の群像もあった。県立橿原考古学研究所が23日発表し、古い地名から「二光寺(にこうじ)廃寺」と名づけた。

破片をつなぎ合わせたところ4種類のレリーフの一部とわかった。このうちほぼ全体の構図がわかる「方形三尊セン仏」(縦22センチ、横13センチ)は中央に如来、左右に菩薩(ぼさつ)が並び、空には飛天も見える。冠や首飾りを身につけた5人の群像は「大型多尊セン仏」(推定55センチ四方)の一部とみられインドやペルシャの影響を指摘する専門家もいる。同セン仏の下部と推定される破片には年代を表す「甲午」の文字があり、694年の製作らしい。

という新聞の記事が載っていました。いい顔していますね。確かにインドやペルシャの人の顔ですね。新聞の画像はこの他にあと二つ、三つ、レリーフの断片がありました。こんな見事なレリーフが、土の中に眠っていたなんて、これはおどろきです。イタリアに負けず劣らず、日本も捨てたもんじゃない。掘ればまだまだいろいろなものが出てきそうです。まあ、どこでも掘ればいいというのではなく、奈良とか京都でしょうが。

さて、「御所市 」ってどこだろうと、ムクムクと疑問の虫が湧き上がってきました。というのも、去年、ちょうど1年前ですね、「飛鳥路」を歩いてきたんですよ。去年行ったときに買った「奈良・大和路 まっぷる」という観光案内雑誌に付いていた付録の地図を引っぱり出して調べてみました。御所市は、去年僕らが行ったところとは、近鉄御所線 を挟んで、ちょうど反対側のようです。ということで、以下は、去年行ったときに書いた文章の一部です。

旧知の仲間たちと一緒に、一泊泊まりで「飛鳥ツアー」へ行って来ました。奈良へは以前にも何回か行ってるんですが、東大寺、春日大社、法隆寺、薬師寺、唐招提寺、等々、なぜか今回まわる辺りはほとんど見ていません。東京駅朝6時発の新幹線で行こうと思ったら自由席は満杯、急遽、30分遅れの新幹線に乗り京都へ、京都で9時発の近鉄特急に乗り換えて9時34分に近鉄奈良着。前日の夜行バスで来ていた仲間たちと合流、早速レンタカーに分乗し「飛鳥ツアー」へ出発。

稗田の環壕集落 、斑鳩の法輪寺法起寺を見て、「やまのべの道」を通り、前方後円の古墳を見学。一日目のハイライトは真言宗豊山派の総本山「長谷寺」。仁王門から399段ある登廊が圧巻。本堂は舞台造り、ご本尊は10mもある十一面観世音菩薩。外舞台から眺める境内は絶景、“花の御寺”と呼ばれるにふさわしく、春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は寒牡丹と四季折々楽しめるそうです。

宿舎へ行く途中、夕闇迫る中、ライトアップされた「石舞台古墳 」を見る。「飛鳥ツアー」の案内人は“駄洒落の達人”関西大学のM先生、そのご尽力で宿舎は明日香村にある関西大学飛鳥文化研究所 、ほとんど貸し切り状態で泊まることが出来ました。

次の日は小雨模様でしたが、そんなことでは怯まずに予定を決行。「大宇陀 」へ向かい、旧伊勢街道沿いの歴史的な町並み保存がなされている松山地区を見学、町は「重要伝統的建造物群保存地区」を目指して改修を行っています。旧内藤家住宅を改修したまちづくりセンター「千軒舎 」、造り酒屋や「森野旧薬園」を見学、「葛の館 」で本場の“葛きり”を味わいました。

その後、二日目のハイライト、真言密教の道場、女人高野とも呼ばれる「室生寺 」へ。天平時代の高さ16mの国宝五重塔や鎌倉時代のやはり国宝の灌頂堂(本堂)、そして弥勒堂や十一面観音像が安置してある金堂を見ながら小雨の降る中、延々と上りましたよ、鬱蒼と生い茂る原生林の山道を奥の院まで。奥の院には舞台造りの位牌堂と弘法大師の像を安置した御影堂がありました。「飛鳥路」を堪能した帰りには、近鉄奈良駅の売店で買った名物の「柿の葉寿司 」を、新幹線の中でじっくり堪能しました。
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2005年02月25日 00時12分30秒

「センセイの鞄」は川上弘美の最高傑作なのだ

テーマ:本でも読んでみっか
川上弘美の本、ちょっと本棚から出してみたら、僕が思っていた以上にたくさん出てきました。えー、そんなに読んだっけ?といっても、たったの5冊ですが。前にこのブログで、2003年の作品、「ニシノユキヒコの恋と冒険 」についての記事を書きました。「どうして僕はきちんと女に人を愛せないんだろう。」というやつですが。その他に、手元にある本は、1994年の「神様 」、これは文庫本です。1996年の「蛇を踏む 」、これは芥川賞受賞作品です。1999年の「溺レる 」、なぜか「レ」だけがカタカナですが。それから2001年の作品、「センセイの鞄 」は谷崎潤一郎賞受賞作品、川上弘美の最高傑作と言われています。この作品は純文学としては異例の15万部を超える部数を売り、川上弘美は一挙にベストセラー作家の仲間入りしたと言われています。あれ、これはまだ読んでいませんが、2003年の作品、「光ってみえるもの、あれは 」という本が出てきました。

このほかに、川上の作品で知られているのは、1996年の短篇集「物語が、始まる 」、1997年の恋愛小説「いとしい 」、1999年のエッセイ集「あるようなないような 」、2002年の短篇集「龍宮 」などがあります。不思議な生き物を描く短編作家、幻想とうつつのあわいを描かせたらナンバーワン、と言われています。断っておきますが、僕は「川上ワールド」という言い方が嫌いです。なんでも、どの作品でも「川上ワールド」と言って、それで解決しちゃうことが納得できません。作品は、ひとつひとつが異なっているからです。まあ、そんなことはどうでもいいことですけど。

さて、ここではもう何度も読んだことのある川上弘美の最高傑作センセイの鞄 」について書いてみたいと思います。手元にあるのは2001年6月25日初版第1刷の半年後、2002年1月25日初版第10刷ですから、たった半年で10刷、いかに売れ行きが凄かったかわかると思います。ですから僕は、今から3年前に最初に読んだということです。川上弘美の作品では、一番読まれていると思いますので、もう読まれた方も数多いと思います。あるいは、WOWOWテレビドラマ化 して放映され、またその後、フジテレビ系でも放映されているので、テレビドラマ の方は見て知ってるという方も多いでしょう。僕は、WOWOWは入っていないので見られませんでしたし、地上波での放映時には確か仕事の関係で出張していて見られませんでした。演出は久世光彦、ツキコさんは小泉今日子、センセイは柄本明です。この配役は異論がありそうですが。

小説全体が、17の短い文章に分かれているんですが、そのひとつひとつが織りなす世界が、ツキコさんとセンセイの愛の物語、といっても言い過ぎではありません。物語の始まりからして、素晴らしい出足です。

「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのとほぼ同時に隣の背筋のご老体も、「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。趣味の似たひとだと眺めると、向こうも眺めてきた。どこかでこの顔は、と迷っているうちに、センセイの方から、「大町ツキコさんですね」と口を開いた。

いや、もう、これだけで参っちゃいますよ。70歳の元国語教師と、その教え子で37歳の女性が、居酒屋のカウンターに並んで、酒を酌み交わしながらの交流が始まる。時には、巨人阪神戦をめぐって、巨人ファンのセンセイとアンチ巨人のツキコさんが、にらみ合ったりもする。そのうち、合羽橋へ行ったついでに、センセイへのプレゼント、といっても1000円の卸金ですが、を買うようになるツキコさん。「キノコ狩り」や「花見」へも行くんですが、二人は付かず離れずの状態を保っています。途中、小島孝が出てきて、ツキコさんは二人の男のあいだで迷い出します。しかし、

「何もかもが遠かった。センセイも、小島孝も月も、遠い場所にあった。タクシーの窓越しに流れる風景を、わたしはじっと眺めていた、タクシーは、夜の街を、びゅんびゅん飛ばしていく。センセイ、とわたしは声に出して言った。声はタクシーのエンジンの音にすぐにかき消された。」そして難攻不落にみえたセンセイがついに「ツキコさん、次の土曜日曜と、島にいきませんか」と、まえぶれもなく言ったのだった。

「ツキコさん、ワタクシはいったいあと、どのくらい生きられるでしょう」突然、センセイが聞いた。センセイと目が合った。静かな目の色。「ずっと、ずっとです」わたしは反射的に叫んだ。「そうもいきませんでしょう」「でも、ずっと、です」センセイの右手がわたしの左手をとった。センセイの乾いたてのひらに、わたしのてのひらも包むようにする。

ここには、ただ、単純な言葉づかいで綴られたせつない愛の物語があり、そのそこかしこから、生きることのかけがいのない喜びと豊かさと美しさが、馥郁(ふくいく)と香り立っているばかりだ。と、本の帯には書いてあります。やはり「センセイの鞄 」は、川上弘美の最高傑作なのだ、と再認識しました。
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2005年02月24日 01時34分10秒

鉄道にまつわる僕の思い出話

テーマ:道々寄り道だよん
ブルトレ機関車4台、最後のそろい踏み、JR東が公開」という新聞記事。

2月いっぱいで東京駅発のブルートレインが大幅削減されるのを前に、JR東日本は21日、東京都港区の田町車両センター内で東京駅発着のブルートレインの機関車を報道陣に公開した。85年から「あさかぜ」を牽引してきた電気機関車EF66などで、ヘッドマークをつけた4台の機関車がそろい踏みするのは2月で最後。3月のダイヤ改正で「あさかぜ」と「さくら」が姿を消し、機関車に引かれる東京駅発のブルートレインは「富士・はやぶさ」と「出雲」の2本だけになる。

ブルートレイン」とは、JR各社が運行する寝台特急列車のことです。青い車体に白・金・銀のいずれかのラインが入っている鉄道車両で、すべて電気機関車やディーゼル機関車に牽引されて運転される夜行列車、ということのようです。「あさかぜ」は1956年11月に東京-博多間を17時間25分で結ぶ夜行列車として運行を開始しました。1958年10月にブルーの車体が印象的な「20系」車両を導入し、これがきっかけで「ブルートレイン」という愛称がつきました。「さくら」は「さちかぜ」として1957年に東京-長崎を結ぶ夜行列車として運行を開始、1959年に「さくら」に改称されました。

電気機関車か、懐かしいな。僕が子どもの頃はほとんどが蒸気機関車で、滅多に電気機関車やディーゼル機関車に乗ることはもちろん、見ることもできませんでした。

電気機関車ディーゼル機関車というと、幼稚園のころだったと思いますが、母親の佐世保の実家に行くというので、東京駅から長崎行きは「雲仙」、佐世保行きは「西海」という名前のついた長距離列車に乗ったことを思い出しました。その頃は寝台車じゃなかったので、たぶん3等車だったのかな、普通の座席で、一昼夜、24時間ぐらいかかったと思いますが、汽車に揺られて行きました。その列車、雲仙号西海号を牽引していたのが、電気機関車かディーゼル機関車だったと思うのですが。今から思うと、まだまだ戦後の雰囲気が色濃く残っている時代ですから、車内での雰囲気は、中国大陸横断シベリア鉄道の旅、といった感じですね。「ブルートレイン」の前の時代の話ですね。

その後、高校3年の頃だったと思いますが、やはり佐世保へ行ったときは、夜の10時頃東京駅を出発し、次の日の昼過ぎには佐世保に着いたんじゃないのかな。その時は寝台車だったような気がしますが。でも、たぶん14時間ぐらいはかかっていたわけです。

大学を出たときには、ということは、4~5年後ということですが、友人たちと連れだって、磯崎新の設計した「大分県立図書館」と「福岡銀行大分支店」を見に行くので大分まで、その時も寝台車でしたね。その時は夜11時頃東京駅を出発、次の日10時頃関門海峡を通過し、やはり昼過ぎ頃に大分に着いたのかな。その後、僕は友人たちと別れて単独行動、大分から日田を通り久留米を抜けて佐世保まで行き、白井晟一の設計した「親和銀行本店」を見に行きました。その頃は世の中ものんびりしていたので、不意の見学者に対しても、銀行はけっこう奥まで案内してくれました。いい思い出です。

この辺は思い出しながら書いているので、だいぶ数字的に不確かなところもありますが。ちなみに、現在、東京~佐世保間をネットで調べてみると、新幹線と特急を利用すると、8時間ぐらいで佐世保に着きます。

8時間といえば、ヨーロッパへ行ったときに、マルセイユに宿泊して、その後、TGVでパリまで、約8時間時速300キロの旅をしたことを思い出しました。今から15年ぐらい前かな、その頃は日本の新幹線より速く、世界最速でしたね。TGVは、超高速列車(TRAIN A GRANDE VITESSE)の略だそうです。車内は全席指定席で、椅子も広くて、ゆったりと過ごせたように思います。日本の新幹線との決定的な違いは動力方式で、日本の場合は動力分散方式(各車両にモーターを搭載するタイプ)、TGVの場合は両端動力車方式(機関車により客車を牽引するタイプ)と大きく異なります。というのは、今回調べてみて、初めてわかったことなんですが。

東京~長崎間の「さくら」と、東京~下関間の「あさかぜ」が2月末に廃止されることで、東京駅には「ブルートレイン」の雄姿をカメラに収めようと、多数のファンが押し掛けているようです。ということで、鉄道にまつわる僕の思い出話、でした。
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2005年02月23日 16時09分28秒

彼岸と此岸・海がきれい

テーマ:なぜかケンチクでも
なにしろ海がきれいです。島に向かって一直線に伸びた橋。この世のものとも思えない、あの世への架け橋のような感じがしたので、この画像を載せてみました。通行料のいらない一般道の橋としては日本最長古宇利(こうり)大橋が2月8日、沖縄県で開通しました。今帰仁(なきじん)村の古宇利島と名護市の屋我地(やがじ)島を結ぶ1960メートル。観光客でにぎわう那覇市中心部の国際通りより長く、2000年に開通した山口県の角島(つのしま)大橋(1780メートル)を抜いて1位になったそうです。

古宇利島は、半径1キロの小さな島で、361人が暮らしています。これまでは今帰仁村の運天(うんてん)港との間を1日5往復する小型フェリーで結ばれていました。1979年に地元から架橋を望む声が上がり、93年度から約270億円をかけて完成しました。この橋ができたことで、島の診療所の瑞慶覧(ずけらん)元(はじめ)医師(31)は「悪天候で急患を搬送できないという不安も解消される。船の時間を気にすることもなくなり、介護サービスも受けやすくなるのでは」と話しています。

沖縄の地名や人名、なかなか読めませんね。古宇利島がどこにあるのか、地図で調べてみました。仲宗根という地名が出てきました。昔、沖縄出身の「仲宗根美樹」という歌手が♪病葉(わくらば)を今日も浮かべて、と歌った「川は流れる」が大ヒットしました。今帰仁、これは読めませんでした。故・大竹康市、富田玲子、樋口裕泰の3人を核に結成された象設計集団が、1977年に「今帰仁村中央公民館」を設計したので、それで初めて僕は読めるようになりました。

この公民館は、ピンクのコンクリートブロックとブーゲンビリアやガジュマルをはわせた屋根が特徴です。芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞しました。その後、象設計集団は、1979年に「名護市庁舎」公開設計競技で最優秀賞を勝ち取るんですね。この作品で1982年に日本建築学会賞を受賞しました。南側は、「アサギテラス」というコンクリートブロックで作った日除けをモチーフに、やはりブーゲンビリアやガジュマルをはわせた建物で構成しています。道路側は、シーサーが何体も乗った柱が特徴です。沖縄の本土復帰を記念する「波照る間の碑」も、象設計集団の設計です。1983年に創立者の一人である大竹康市さんが急逝。お別れの会を「進修館」で行い、僕も末席ながら出席しました。

沖縄以外でも、もちろん、たくさんの仕事をしています。東武動物公園の前にある「宮代町進修館」とか、「笠原小学校」は素晴らしいコミュニティ建築です。調布駅前のポケットパーク「くすのきサロン」や、愛知県の「常滑トイレットパーク」も、小さな作品ですが、象設計集団らしさが出ています。杉並の「ドーモ・アラベスカ」は専用住宅ですが、僕は内部を見学することができました。田園都市線の用賀駅から「世田谷美術館」へ住宅街をぬって行く歩行者専用道路「用賀プロムナード・いらか道」も、象設計集団の作品です。

僕は、一度も沖縄には行ったことがないんですよ。ブーゲンビリアやガジュマルに覆われた「今帰仁」や「名護市庁舎」、地域に定着した姿をぜひ見てみたい。なにかの機会をとらえて、行ってみたいと思っています。
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2005年02月23日 00時53分58秒

林真理子の原点「文学少女」

テーマ:本でも読んでみっか
またまた、本屋のおばちゃんが導入部で、申し訳ない。本をツケで買っていた頃、どこかへ出かけた帰り道、本屋に立ち寄り、なにかめぼしい本はないかと一回りして、レジのところを通りかかったら、「本が届いてますよ、持って帰りますか?」と言われ、なにを頼んでいたのかと思ったら、その頃大ヒットしていた渡辺淳一 の「失楽園 」でした。この本、超ベストセラーでしたし、「失楽園」は社会現象にもなりました。

阿部定事件 」も話の中に織り込んだ「失楽園 」は、飛ぶ鳥を落とす勢いで映画にもなりました。小説の舞台となった、出来たばかりの七里ヶ浜の鎌倉プリンスホテル は、いつも超満員。主演は黒木瞳、ん?「東京タワー」ですね、これでは。ということは「東京タワー」は二番煎じ?日本対北朝鮮のサッカーの試合の夕方、家路を急ぐ道すがら映画館の前を通ると、しっかりと列ができて並んでいる人たちがいる。なんだと思ったら、映画「東京タワー 」の列。もちろん、主役は黒木瞳。ほとんどが女性。世の中、半分は、日本対北朝鮮に興味がない人たちがいる。もしかしたら、これは健全なのかも。そのような趣旨のコラムが新聞の隅の方に載っていました。まあ、その日は水曜日、映画館は、女性割引の日でもあったようですが。

実は、僕は、渡辺淳一 の本は、初期の本はけっこう読んでいるんですよ。ずいぶん昔の話ですけど。「無影燈 」はなかでも傑作だと思っています。傑作といっても、純文学ではなく、大衆文学としてですが。「外科医の直江は、なぜ大学病院の講師の職を捨てたのか。酒を飲み女性たちと関係を続ける彼には人知れぬ秘密が隠されていた。躰の交渉を重ねながらも、倫子にとって直江は、依然、不可解な存在であった。酒に溺れ、複数の女性とも関係があるようだ。密かに麻薬を打っている気配もある。正月休みに直江から旅に誘われた倫子は、その優しさに当惑しながらも、ともに雪の北海道へと旅立つ。しかし、この優しさの内にはある重大な秘密が隠されていた。」ってな感じです。黒木瞳で、テレビドラマにもなりました。黒木瞳、モテモテですね。リメイク版の「白い影 」というテレビドラマもありました。中居正広と竹内結子でした。なぜか僕は、毎回見ちゃいました。たぶん、暇だったんでしょうね。

本屋のおばちゃんに、「菅野美穂」とか、「マドンナ」の写真集も出たら連絡しますよと言われたことは、前に書きましたが、それの林真理子バージョンです。そのおばちゃんから、「失楽園」をもって帰るときに、「林真理子 の『不機嫌な果実 』もありますよ」と、言われてしまいました。いやいや、僕はそんなエッチな本は読みませんよ、とばかりに、その時は無視しました。が、実は最近、といっても2~3年ぐらい前ですが、ブックオフで105円で売っていたのでやっと購入して読みました。「不機嫌な果実 」は、確かその頃、これもテレビになったと思いますが、どちらにせよ、大評判になっていました。映画にもテレビドラマにもなったんじゃないのかな?さすがにこれは黒木瞳ではなかったと思いますが。確かにこの本、読んでみるとまったくの駄作でした。といっても、その手の本は、読んだら右から左に、どんどん忘れていってしまうので、細かいところはほとんど覚えていません。というようなことを書いていると、話がどんどん逸れていってしまいます。

ここでは、半年ぐらい前にブックオフで買った本、林真理子 の「文学少女 」の話をしたいと思っていたんですが。この本は1991年から1993年にかけて「文學界 」に掲載された林真理子の7つの短編を集めたものです。山梨で小さな本屋をやっている母親への愛情、その苦労を見ながら東京へ出て文学の道を歩もうとする青春の日々を綴った、林真理子の原点がここにあると思います。どこがよかったかって、貧乏しながら物書き目指して頑張っている姿が、なんとも言えず、読む人の胸に突き刺さります。「物書きになるということ、小説を書くと言うことは、常人には考えられない残酷さを持つことでもある。だいいち肉親の目の触れる場所で、自分の性のことを語る職業があるだろうか。」田舎出の、決して人より容姿がいいわけではなく、自意識過剰、劣等感の固まりの少女が、いかにして文壇にデビューしたか。この本は、その辺を解き明かしてくれます。
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2005年02月22日 13時59分18秒

羽根木公園の「せたがや梅まつり」

テーマ:日々のあれこれ
昨日はお天気もよかったので、散歩がてら歩いて、小田急線梅ヶ丘駅の北側にある羽根木公園 の「せたがや梅まつり 」を見に行ってきました。梅ヶ丘といえば、有名なのは「美登里寿司本店 」、お店の前は長蛇の列。これじゃあ、2時間待ちって感じ。もちろん、昨日は素通りでしたが。梅といえば、関東地方では熱海の梅園とか、水戸の偕楽園とかがありますが、僕のところからはちょっと遠い。東京では湯島天神 が有名ですね。思いついたらすぐ行くというようなわけにはいきません。

その点、歩いて、と言ってもちょっとありますが、歩いていけない距離ではない。日頃の運動不足を埋め合わせるのにちょうどいい距離です。朝のテレビで、今年は寒い日が続いていたので、水戸の偕楽園の観梅はちょっと遅れているというニュースを観たので、おっと、羽根木だったら今がちょうどいい時期かなと思い、それじゃあ、思い立ったが吉日、今日、行こうということになりました。

せたがや梅まつり 」、羽根木公園 の梅は、そんなに長い歴史があるわけじゃなく、昭和42年に笹が生い茂る丘に、初めて55本の梅が植えられたことに始まったようです。その後、10回の植樹が行われ、本数も約700本、その内訳は紅梅約170本白梅約530本だそうですが、昭和46、47年頃の約230本の記念植樹で一気に梅園としての名声が高まったようです。とはいえ、あくまでローカルな小さな公園の梅林ですので、熱海や水戸とはとても比較になりません。ちょうど5分咲きという感じでした。

さて、梅というのはたくさんの品種があるんですね。羽根木には紅白合わせて60種以上あるそうです。この中には薄紅大輪の「見驚(けんきょう)」、そして、花良し、実良し、香り良しというところから名付けられた「花香実(はなかみ)」、同じ木で花弁が紅白同居し、一輪一輪違う「思いのまま」など、珍しいものもあります。と言うことは、いただいたチラシに載っていたのですが、それにしても昔の人はうまいこと名付けたりしたんですね。なかなか面白いですね。

公園内を梅を見ながら歩いていると、小さな碑が目に入りました。その両側にこれも小さな、そうですね、高さ1mぐらいの梅の木がありました。どうもそれが紅梅、白梅のようで、「飛梅」と書いてありました。なるほど、これか。「飛梅」とは、菅原道真にまつわる梅の伝説 に登場する梅の木のことです。聞いたことがありますね。平安時代、時の右大臣だった道真が、太宰府に左遷され、京を発つときに、日頃大切に育てていた梅の木に向かって「東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ」と詠むと、梅は主人を慕って太宰府まで飛び、根付いたという言い伝えですね。羽根木にある「飛梅」は、平成7年に太宰府天満宮 から寄贈されたものだということです。この話、よく聞きますね。あちこちの天満宮に「飛梅」って、あるんじゃないかな?

ついでに、公園の奥にある「羽根木プレーパーク 」を覗いてきました。プレーパークについては、前にも書きましたので 興味のある方は、ご参照ください。久しぶりに訪ねたプレーパーク、子どもたちがどろんこになりながら、思い思いの遊びをしていました。そんな中で、おじいさんが木っ端を燃やしながら大きな鍋になにかを入れてぐつぐつと煮ていました。あれっ、なにを煮ているんだろう。どうもすいとんとか豚汁ではなさそうです。興味深そうに鍋を覗いたら、すかさずそのおじいさん、説明を始めました。実は竹とんぼの材料、つまり羽根になる部分をちょうどいい長さに切って、重曹を入れたお湯で煮沸して、竹の油分を抜き出しているんだそうです。そうすると、竹にかびが生えたりしないそうなんですが、竹が硬くなり削ったりするのがやや難しくなるそうです。あのお歳で、子どもたちのために、作業の労をいとわない、見習いたいものです。

ここまで順調に話を進めてきましたが、実は、またまた大失敗、というか、大きなポカですね。羽根木公園 の一角に、古民家の部材を生かして作られた「星辰堂」と、茶室の「日月庵」があるんですよ。「梅まつり」をやっているので、それと併せてそれらの木造の建物の内部を見学しようという魂胆だったんですが、あえなく撃沈。昨日は月曜日、つまりまたまた休館日に行ってしまったんです。いやいや面目ない。お話になりません。
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2005年02月21日 22時58分06秒

ニコール・キッドマンの「アザーズ」を観た

テーマ:映画もいいかも
ニコール・キッドマン 主演の「アザーズ 」を、昨日、テレビで観ました。「ムーランルージュ 」の記事を書いたときに、ニコール・キッドマンの映画、僕は「めぐりあう時間たち 」と「白いカラス 」しか観ていないと書いたので、rhasaさんが「アザーズ」をトラックバックしてくれました。そろそろビデオでも借りて観ようと思っていたところへ、「アザーズ 」、タイミングよく、昨日テレビで放映されました。

新聞の小さな紹介記事は見ましたが、どんな映画かはまったくわからずに見始めました。そういえば、トム・クルーズ が監督から映画化権を買ったとか、製作総指揮は二人でとか、トム・クルーズとは別れたとか、「オープン・ユア・アイズ 」のアレハンドロ・アメナバール 監督だとか、いろいろと話題になっていたことを思い出しました。そんなことは僕にとってはどうでもよいことで、僕はただニコール・キッドマンさえ観ることができればいいと思いました。そんなことでこの映画は、なんの予断もなく素直な気持ちでに観られたと思います。が、しかし、なにこれ、僕の大嫌いなサスペンス映画ホラー映画じゃないですか、もう参りましたよ、まさかこんな映画だとは思いもしませんでした。

映画の舞台は1945年、第二次世界大戦末期のイギリス、チャネル諸島ジャージー島、ということですが、どこにあるのかわかりません。夫が従軍して帰ってこない大邸宅で、子供たちを教育しながら留守を守っているグレース。子供は光を浴びると死んでしまうというアレルギーを持つという幼い娘と息子。昼間でも分厚いカーテンを引き、薄暗い屋敷の中。しかし、なぜかある日、使用人たちは突然いなくなり、誰も訪ねてこなくなる。

そこへ突然、以前勤めていたという3人の使用人が現れる。ミセス・ミルズとリディア、そして庭師のミスター・タトルの3人だ。その中で一番若いリディアは言葉を喋る事が出来ないという。その頃から屋敷の中で不思議な現象が次々に起こり出す。人の気配や足音、話し声や鳴り出すピアノ。鍵をかけたピアノが、後で行って見たら開いていた。娘のアンは、老婆と男の子を見たと言う。つまり、怪奇現象が次々と起こり出す。僕は、こういうの、ぜんぜん信用できません。怖くも何ともないんですよ。ちょっと怖かったのは、白い布をかぶせてある像を一枚一枚剥いでいくときと、娘が白いレースを被っていて振り向いたときの顔が一瞬老婆の顔だったときですね。

ニコール・キッドマンは、さすがに美しい。子供に対しては厳格で、しかも、上品で気高い女性の役はぴったりです。ヒッチコックの映画に出てきそうな髪型でした。ライフルを手に侵入者を捜しながら、ヒステリックに叫ぶところなどは圧巻でした。子役は、普通は可愛いんですが、それほどではなく適度で、また、ニコール・キッドマンを相手に、堂々とした演技で、実に上手いですね。ホラー映画では子役が大事ですよね。

僕がボケてるのかどうか、なんか、最後がよくわからないんですよ。いわゆるオチが、よく見ていなかったせいなのか。「アザーズ(存在) 」が見えた時、全てが変わると、rhasaさんは書いてましたが。ハッピーエンド?そんな?なにしろ、最後がわかりません。ま、いいや、ビデオを借りて、もう一回見てみますから。
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