みつのブログ
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ゴジラ2014 注:ネタバレあり

注:ネタバレしてます。2014年ハリウッド版「ゴジラ」未見の方は読まないように。



2014年版ハリウッド制「ゴジラ」を観た。

ローランド・エメリッヒ版「ゴジラ」は未見なので分からないが今回のギャレス・エドワーズ(この監督の”ギャレス”て名の響きも怪獣っぽい)版「ゴジラ」はゴジラという日本のモチーフへのハリウッド制作陣の敬意のみならず311、そして原爆という記憶と精神的外傷を抱え続けなければならない日本という国への配慮も感じられた。

311の再現シーンは観ている者の胸を不穏に騒がせるに十分な画であったが「ゴジラ」が負わなければならないエンターテイメントという絶対目標の中で誠意によるハンドル調整が絶妙になされていたと私は感じたし原爆についても又、芹沢博士に広島の原爆投下で時を止めた懐中時計を突きつけられた米海軍司令官が「ヒロシマ」と察し、黙する場面を作ったのは原爆投下を行ったアメリカがアメリカ国民に見せる映画の判断としてはかなりの踏み込みであったのではなかろうか。

今回の「ギャレス・ゴジラ」において他に意外だったのが登場する米軍、兵士がゴジラに対してことごとく無力だった点だ。
いや、ゴジラ映画なのだからいかな米軍といえどそうでしょうよ、と言うかもしれない。
でもハリウッド映画は結果論として人間の可能性、というよりアメリカ人の全能感を肯定し、補てんし、称揚して来たのだ、これまで。
宮崎駿の主人公のようにあらゆる敵となる環境、自然や兵器や政治的権謀術数や悪漢を暴力的なまでの「我こそ正義也」という妄念で折伏してきた。
主人公を遮る不条理以上の強引さでアメリカンヒーローは勝利する。勿論例外はあるがそれがまずもってハリウッドの変わらぬ伝統の鋳型だと思う。

「ギャレス・ゴジラ」の米軍はMUTO(ムートー)にもゴジラにも歯が立たない。
MUTOをゴジラに倒させるという物語の展開上、今回の米軍の無力は必須なのだがそれでもこてんぱんにやられ続ける米軍というのはちょっと感慨深い。(勿論ロシアの潜水艦とかもやれれてるのだが)
MUTOの電気パルスで蚊取りマットのCMの蚊のようにぼとぼと落っこちる戦闘機。
泳ぐゴジラのおこす波に木っ葉のように翻弄される巡洋艦。効かない兵器。
そして重なる作戦失敗の挙句の「ゴジラに丸投げ」作戦。
そのあからさまな「米軍の敗北」に観ているこちらがアメリカ人観賞者を心配したほどだ。
それとももう既に「ゴジラ」は「アメリカのヒーロー」としてアメリカの大衆に認知されてるのだろうか。
それはそれでまるで「ベスト・キッド」のノリユキ・パット・モリタ役をジャッキー・チェンに獲られた時のような苦さがあるのだが。(将来老境に入った真田広之があの役を日本人に再び取り戻してくれると個人的には信じてる)

まあ、言いたいのは映画の米軍の無力ではない。
個人的に「ゴジラ」とは破壊神ゴジラへの畏怖と同時にその神に立ち向かう人の行為、すなわち徹底した執拗なゴジラへの攻撃を目の当たりにすることによって観客はゴジラへの想いを深めていく、という構造こそが醍醐味であると考えてる。
観客は自分たちの社会・文明を一顧だにしないゴジラの獣性と狂暴を畏れ、焦がれ、魅かれるのだ。
ゴジラは恐怖だけでなく枠組み破壊という一切の解放でもある。
だからこの破壊神への攻撃に心から快哉を叫べない。ゴジラへの攻撃の通じなさには「やっぱりゴジラはスゴイや」と誇らしく思い、ゴジラが苦痛を感じれば「やめろー!ゴジラをいじめるなー!」というゴジラの破壊したしがらみの外で発生した新たな自分の幼い声がどうしたって聴こえて来てしまう。
そのむず痒い感覚がゴジラ愛だ。愛がしっくり来ないならゴジラ欲でもいいかもしれない。

だけれど今回、映画の米軍は深追いせずあっさりゴジラへの攻撃を放棄した。
ゴジラを痛めつけるのはつがいのMUTOのみ。
MUTOとゴジラのバトルも見物ではあるがここはせっかくの米軍と言う大物があるのに人間側がゴジラを痛めつけてくれないとゴジラ欲は満たされない。ゴジラは怪獣と格闘するだけでは足りない。人がゴジラを攻撃してゴジラ欲はハラハラと高まる。

「ギャレス・ゴジラ」は日本の「ゴジラ」へのリスペクトとしてCGゴジラの動きをわざわざ人のゴジラアクターに倣ったというこだわりようであったが当然ながら「ハリウッド」的でもあった。
ゴジラが救世のヒーローになるといったオチを指してもいいだろうがそれよりハリウッド色を燦然と放つのがMUTOだ。

ゴジラの敵としてつがい設定で現れたMUtOはその点ではモスラ幼虫の双子を思わせるがモスラ幼虫がインファント島と日本の救国のヒーローであったのに対しここではゴジラがヒーローでMUTOこそが地球を破壊する邪神と立場が反転している。
MUTOの造形ははっきりと悪魔的である。ゴジラのデザインがキリスト教文化圏で忌まれ、聖人によって退治されるドラゴン的なものである以上、より邪悪であるためにははっきりと悪魔そのものである必要があったのだろう。
又、そこにつがいでもって繁殖するMUTOは邪淫を表すと同時に「女という性の持つ生殖能力」への男性の根源的な恐怖と嫌悪をありありと反映している。
メスのMUTOの腹部から透けてのぞく燃えるように紅く爛熟する卵子の描写の禍々しさはこの男性特有の恐怖と嫌悪から来ている。
これは一連の「エイリアン」シリーズにも見られた恐怖と嫌悪にそのまま通じるものだ。
胎の卵が熟し、いざ、発情し繁殖に狂走するメスは男にとっては一種おぞましい存在でもある。
古来からキリスト教圏(って詳しくないからここんとこ自信ないけど)において邪淫や姦淫は女の性が為す罪とされて来たのもこうした背景と決して無縁ではないはずだ。

「ギャレス・ゴジラ」の最もハリウッドな部分はここだろう。この男性目線の恐怖と嫌悪。
これをラスト、ギャレス・ゴジラはメスMUTOとの最後のバトルで「このクソアマがーーーーーーーっっっ!」とばかりに顎を引き裂き、体内、いや胎内めがけて青白の怒りの放射能火炎を叩き込み、頭部をもぎ取るという残忍さでもってカタルシスとするのである。

私はここでフェミニズム的な解釈をもって「ギャレス・ゴジラ」を批判しない。
フェミニズム的解釈をするには私は到底アタマが足りないし「ギャレス・ゴジラ」も「エイリアン」シリーズも男性的目線ではあるが男性優位主義とは又違う。
何より私はこうした見方でもってこの映画を楽しんでる。
そして最後に、芹沢博士演じる渡辺謙さんがゴジラを最初から最後まで「ガディラ」でなく日本語発音で「ゴジラ」と言い切っていたのが何より良かった。
「ゴジラ」、その名はやはり譲れない。








都議会 セクハラ野次と嘲笑

 http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20140619-1320216.html
東京都議会 定例会の一般質問で18日、女性議員に対するやじで議会が混乱した。みんなの党 ・塩村文夏議 員(35)の女性の晩婚化問題について質問中、男性議員から「自分が早く結婚した方がいい」「産めないのか」などのやじが飛んだ。塩村議員は「自分が悩ん でいる当事者として言葉にならなかった」と涙した。同党の両角穣幹事長によると「あいつ不倫してるんだぜ」などのやじも聞こえたという。両角幹事長は「こ んなセクハラ 発言、首都の議会として恥ずかしい」と怒り心頭だった。24日の議会運営委の理事会で正式議題に上げるよう働き掛ける。

 [2014年6月19日9時8分 紙面から]

以上、引用終わり。



非道い事件だ。朝、知ったが未だに怒りが収まらない。

結婚や出産を女の優劣の如く語るこの野次はまごうことなき差別発言だ。

又、こうした「性」の話題で男性が女性を威嚇し委縮させようという(野次は相手を委縮させる目的でなされてる)腹が下劣でなくてなんであろう。

個人を特定出来ないところからこうした差別的野次をもって相手を委縮させようと目論む、これはあの醜いヘイトスピーチ団体のあの態度とどれだけ違うのか。

舛添知事はじめこれを笑った議員たちも居たという。

笑った者も同罪だ。

幸い、東京都民、また都民以外でも意見することは可能だ。

以下がそのアドレスになる。


https://www.gikai.metro.tokyo.jp/FormMail/demand/FormMail.html


そして以下が私の送った意見。


先の都議会での塩村議員への「早く結婚しろ」「子どもを産めないのか」という野次を放った議員を早急に特定し、公の場で自身の発言(野次)についての見解を述べ、しかる後に世間の判断を仰ぎますよう、断固要求します。
又、件の野次を笑った舛添知事及び他議員、問題を矮小化しようとした吉原幹事長も同様に願います。
今回の野次と嘲笑は性差別に基づいたものであり女性の性を侮蔑したものです。
野次議員、性差別を品位とすり替えた吉原氏、笑った舛添氏、笑った議員たちは市民の代表者としてその任に就く者であり今回、市民の約半数を占める女性を差別・愚弄した発言・振る舞いについて説明をし、世間の審判を受ける必要があります。


女性の性と人生を優劣で語り、それを攻撃材料にし、果ては嘲笑する、そんな態度は絶対に許されるものではない。

追記:野次議員の処分を求める署名先も貼っておく。

http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%80%A3-%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF-%E9%83%BD%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E5%86%85%E3%81%A7%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%B7%AE%E5%88%A5%E7%99%BA%E8%A8%80%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%9F%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E9%83%BD%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E5%93%A1%E3%82%92%E7%89%B9%E5%AE%9A%E3%81%97%E5%8E%B3%E6%AD%A3%E3%81%AB%E5%87%A6%E5%88%86%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%88%E3%81%86-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%80%A3%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%97%E3%81%A6%E5%BC%B7%E3%81%8F%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%99?recruiter=33254552&utm_campaign=twitter_link_action_box&utm_medium=twitter&utm_source=share_petition

チョコレートドーナツ

映画「チョコレートドーナツ」を観る。
ゲイのカップルがほぼネグレクト状態のダウン症児を養子として引き取ろうとする物語だ。
ダウン症児のマルコの母親は薬物依存症で薬物の不法所持で逮捕、そのまま服役することになり母以外に保護者の居ないマルコは施設に引き取られることになる。
クラブのドラァグ・クイーン、ルディは施設から抜け出したマルコに行き会い、恋人ポールと共にマルコを自分たちで育てようと決心する。

正直、映画としてはあまりに感傷的過ぎて好みではない。
ベタな感傷がまんまんとしてるのにマルコへのカメラが遠慮気味なのはダウン症児の持つ愛嬌に映画の画が頼ってしまうことへの警戒と言おうか、マルコを演じるアイザック・レイヴァも非常にチャーミングなキャラクターであり、そこを愛玩動物的目線へのウケを狙いやがって、と非難されるのを恐れた結果なのだろうと推測する。が、そこは敢えてカメラを寄せるべきだろう、と個人的には感じた。
ゲイという存在に迫るならダウン症児にも迫らねば不均衡だ。

そんなワケで個人的には不満足な映画だった。ゲイの登場人物を以て映画のジャンルにしてしまうのは乱暴に過ぎるが作品の要素としてのゲイという創作人物はどうしたって比較される。
「蜘蛛女のキス」「苺とチョコレート」「トランス・アメリカ」「プリシラ」「ヘドヴィクアンドアグリーインチ」、以上、ざっと思い出す限りの魅力的なオネエ系を並べてみる。
ルディを演じたアラン・カミングは十分魅力的だったが比べるとどうしても地味だ。まあ、仕方ない。ステキなオネエでなく彼はまずもって「親」として描かれてるのだから。

だから映画の感想としては特に無い。
ただ、映画の中のポールの台詞「誰が知的障害があって背が低くて太ったこどもを養子にしたいと思うのか....僕たち以外に」にどうしても思い出させられる記憶があるので記しておく。

先に書いた通り、ダウン症児は愛嬌がある。
映画のマルコ=アイザックを見れば分かるがそれ以前に私はダウン症児を知っている。
多分、日本の平均的な人たちよりほんの少し多くを知っている。というのはまず第一に小学校の友人の妹がダウン症児だったこと、そして通っていた中学が現在はどう呼ぶかは知らないが特殊学級と呼ばれるダウン症や自閉症、他の障碍を持つこどもたちのクラスを併設していたからだ。

彼等の教室は校門から昇降口と呼ばれる玄関へ至る校内の道沿いにあり、誰もが彼等を見、彼等の声を聞き、彼等の様子を知った。
校舎の一階のいちばん目に触れる表側に彼等の教室があるのはおそらくは災害時の避難上の関係もあったのだろう。でも、ただそれだけでなく実際に彼等は移動教室等で私たちと一緒のバスに乗り、一緒にコンサート等を鑑賞した。
クラスは違えど、それがごく当然のことであり、国士舘出身の体育教師が特に彼等を可愛がっていたせいもあるだろうか、表だって彼等への悪意を表すような人間は居なかった。
そして何より、自分たちの経験から彼等が他人を傷つけるような行動に出ることはないことを私たちは知っていた。
彼等を取り巻く皆が善人だったわけでは決してない。
ただ、そういうこどもたちが居ることを知っていて彼等の懐っこさ、不思議な愛嬌を傍で見る機会があった。
それだけで、私たちは彼等を無駄に忌避せず、恐れないという生活態度を特に意識することなく体得したのだと思ってる。

だから「ダウン症児を欲しがる人は居ない」という台詞にちょっと違和があった。
時代、という背景があるにしても、ダウン症児が身体的に虚弱であるにしてもまるで彼等の生物としてのそんな弱さから生を得るための本能の方策としてあのこちらをふと突くような淡く輝くようなチャームを有しているのではないか。そう疑いたくなるくらいに彼等にはこちらを引き付ける何物かがあるのだ。

これが私の「思い出させられる」記憶ではない。
そんな甘いものではなくて思い出すのは高校一年、まだ入学したばかりの15歳の記憶だ。

私の入学したのは一応、地元では進学校と呼ばれる都立の高校でそこに私の住む市から進学した生徒は少なかった。
クラスの最初の自己紹介が終わった後、一人の女の子が話しかけて来たのだ。
可愛らしく、頭の回転の速そうな利発な雰囲気の少女で一目でああ、この子はクラスの人気者になるだろうな、と分かる女の子。自分とはタイプの違う、昔のスティーブン・キング翻訳風に表現するならぴかぴかの女の子だ。(キングは”パリパリ音がしそうなくらいパリパリな”と書いていたように思う)
当人もその自覚と自負が十分にあった筈だ、こちらがそう感知できるほどの自信と余裕を湛えた態度で彼女は私に話かけて来た。
曰く、自分も同じ市の出身であり、本来なら同じ中学に進む学区であった、だが、あそこの中学は障碍児学級が併設されているから中学だけ私立に通い、また改めてこの都立校を受験して来たのだ、と。

彼女にしてみればそしてアメリカンに表現するなら「OH!ハイ!アタシ、アナタと同じ市の出身よ!それに学区が同じだからきっと家は近所よね。他所の市の子たちばかりの中でアナタに会えて嬉しいわ。よろしくね、仲良くしましょう」という同郷のよしみでの挨拶に過ぎない。
その上で軽く地元の共通の話題を振ったのだ。より親しみを表現するために。
違ったのは彼女と私の障碍児学級、障碍児への認識は全く共通されるところがないことだった。
彼女は障碍児という存在について全く知らず、触れずに過ごして来たのにも係らず明快に、そう、実に明るく3年間彼等の近くで”過ごさざるを得なかった”私へのライトな憐憫と同情を、そして障碍児への侮蔑をやすやすと示してみせた。
「全く、市の方針とはいえああいう障碍児と一緒に過ごさなきゃならないなんて、まいっちゃうわよね」、そんな雰囲気でもって彼女は同じ地元の同じ憂いを抱えるアッパー志向の娘同士として親しみを込めて話しかけてきたのだった。

私は彼女の言葉の中の今まで聞いたことのない蔑みに衝撃を受けて黙るだけだった。
そして傷ついていた。
それは何も知らない人間が彼等を蔑んだことへの残酷や不条理に対してではなく、今、こうして当時を思い出し正直に告白するなら、イケてる女の子から私が普通だと認識していた世界を「あれは蔑むところだから」と指摘されたことに対して傷ついたのだ。
15歳の私はその程度の人間だった。善とか良識において、障碍児を蔑んだ彼女と大きな差があったわけじゃない。

今でもあのときのことを折に触れては思い出す。
例えば今回の「チョコレートドーナツ」のひとつの台詞からのように。
そして胸が痛くなる。
あの時何も言えなかったモサくてダサい15歳の自分がぴかぴかの女の子の差別と偏見に傷ついたっきりだったことに、劣等感という網があの時一瞬で自分の世界と思考をあんなにも簡単に覆ってしまったことに、そして醜いことを言い放ちながらなおぴかぴかしてた女の子に。
彼女の中のあの明快な無知によるまばゆいばかりの思慮無き傲慢が彼女の40年を越えようとする人生のどこかで拭い去られていればいいと思う。
少しばかり残酷な期待混じりに私はそう願ってる。







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