シロの大冒険 | トナカイの独り言

トナカイの独り言

独り言です。トナカイの…。

 七月、薬殺されるはずの真っ白な子猫に家内共々一目惚れしました。
 保健所からいただいて飼いはじめ、もうすぐ五ヶ月になります。

 子猫から若猫に育つ彼女は今が遊び盛り、いたずら盛りのまっただ中です。
 家に来てから四ヶ月というもの、いつも家の中にいたので、彼女の夢は 「外の広大な世界で思い切り走り回りたい」 です。
 体重が二キロを超え、卵巣摘出手術も受けました。そして、ようやく手術の傷も癒えたので、外に出してやるようになりました。

 庭に出すと、いつもわたしを挑発して 「追いかけっこをやろう」 とします。
 そばに来て、足にすりついては、パッと逃げるのです。
 「ねえ、追い駆けっこしようよ!」
 そう目で訴えかけます。
 こちらが乗せられて追い掛けると、まるでチータになったかのような猛スピードで、庭中を走り回ります。そして、勢い余ると木に登ります。

 $トナカイの独り言-Shiro1


 そんなある日のことです。
 追い駆けっこから木に駆け上がり、一気にかなり高いところまで登ってしまいました。

 かつて飼っていたミー太君も木に登り、下りられなくなったことがあります。結局、ハシゴを掛けて下ろしてやったのです。
 そんなことを想い出しながら見ている間に、彼女はどんどんと登っていきました。

 登っていったのは写真の松の木です。
 この木には枝が多いので、「しばらくしたら、きっと下りてくるだろう」 と気楽に考えていました。
 すると、ほぼ木のてっぺんまで登り、そこからパッと隣りの巨木に飛び移ってしまったのです。
 「しまった!」 と想いました。
 なぜなら、この巨木にはほとんど枝がないからです。

 樹木に詳しい方がわたしの家を訪れると、必ず 「おぉ、これは素晴らしい柱になるなぁ。まあ、困ったときはこれから売るといい」 なとど云ってくれるまっすぐな大木です。高さも二十メートルはあるでしょうか。
 この木は地面から七メートルくらいまで枝がなく、登ることはほぼ不可能です。
 この大木から元の細い木に、シロが飛び移れるとは、とても想像できません。

 そして、シロもやはり高さが怖くなってきたのでしょう。時々こちらを見ては泣くようになりました。

 猫の爪はR状になっているため、引っかけて登ることは容易くとも、頭を下にして下りることはとても難しいのです。シロは下りようとしては枝をうろつき、ダメだとわかると枝を一本上に登るということを繰り返し始めました。

 家内も木の下から心配そうに眺めていたのですが、かなり時間が経ったこともあり、落ちて死んでしまうことを想像したのでしょうか。もう涙目になっていました。
 わたしたちが下にいるので、こちらを見つめてはシロが大声で叫びます。

 枝は下向きに生え、下がっているため、下りられると思ったシロが、枝の先の方に歩いて行きます。しかし、最後には無くなってしまうので、そこで途方に暮れてふたたび泣き出すのです。そんなことを繰り返していると、細い枝が折れ、落ちそうになって必死にしがみつきます。もう高さも十五メートルを超えています。
 コンクリートの上に落ちれば、子猫とは云え、ひとたまりもない高さです。

「ここでぼくらが見ているからシロが焦るのかもしれない。一度家に入って静かにしてみよう」
 そう家内を説得して、いったん家に入りました。
 家内はもう泣いています。

 家の中からしばらく見ていても、同じことの繰り返しでした。
 枝の先まで這っていき、そこで途方にくれ、戻ってはもう一本上に上がってしまうのです。もう二十メートルの先端に近いところにいます。何度も枝が折れ、そのたびに腕だけで必死に枝にしがみついています。

 頸椎の手術をしたばかりのわたしは、上を向きすぎて辛くなってしまいました。
 そんな時間の問題もあり、わたしは一大決心をしました。
「よし、安全ベルトを作って登ってやろう!」

 丈夫そうなロープをいくつかに切り、体を木にしばるための安全帯を作りました。
 そして、大木にはしごをかけ、登り始めました。

 この巨木には最初枝がまったくありません。やがて枝が出て来てもたいへん間隔が離れています。釘を打って足を掛けることも最終手段として考えました。

 わたしが登り始めると、シロはそれを見て、泣きながら、少しずつ下りようとします。
 幹に斜めにしがみつき、そろそろと下るのです。しかし、下の枝まで遠いので、何度も落ちそうになります。
 家内は泣きながら 「シロのバカッ!」 と叫んでいます。

 もう数メートルというところまで近づくと、驚いたことにシロはゴロゴロ鳴き出しました。こんな危機的な状況でも、よほど嬉しかったのでしょう。ゴロゴロ言いながら、枝に頭をこすりつけてはこちらに近づこうとします。
 わたしは枝に膝をかけ、安全帯を少しずらしては上に移動することを繰り返します。シロもそろそろと、わずかずつですが、近づいてきます。

 
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 ようやく手を伸ばせば、触れるところまでやって来ました。

 するとシロは安心したのか、危ない姿勢を取ってはこちらをドキドキさせます。

 一番の問題は、ここからです。
 シロを捕まえ、背負っているバックパックに入れ、ジッパーを閉めるまでは安心できないのです。特に捕まえた瞬間がいちばんの難関です。
 シロが暴れたら終わり、わたしがシロを落としても終わり。

 シロとわたしの位置から、捕まえるには右手しか使えないことが分かりました。これは、とてもまずいことでした。なぜなら、わたしの右手は後縦靱帯骨化症のせいで、握力が二十程度しかなくなっているのですから。

 しかし、それ以外に方法はありません。
 まず、背中のバックパックを下ろし、左腕の付け根に掛け、バックパックの口を思い切り開きました。

 しばし呼吸を整え、思い切って手を伸ばします。
 シロはわたしの伸ばした手に甘え、頭をこすりつけて来ました。
 彼女の頭をさすってやりながら、わたしはうまくつかめる首筋を探しました。ここでしっかりつかめないと、後がありません。
 深呼吸して一気に思い切り首根っこを捉まえ、彼女を持ち上げました。

 「シロ、カバンに入って」 と言いながら、バックパックの口に近づけました。
 もしここで落としたら、一生後悔することになります。
 しかし、バックパックの口に近づけるには、わたし自身が木から離れる必要があります。
 いくら安全帯を付けているとはいえ、ただ木に巻き付けているだけなので、手を離したらずり落ちてしまいます。
 手を離さなくてもいいだけのわずかな幅の中で、「シロ、なかに入って!」 と叫びました。
 すると、彼女も分かったのでしょう。自分から中に入って行ったのです。

 震える手で、ジッパーを閉めました。
 バックパックを背負い直し、そろそろと下り始めました。

 しばらくしてハシゴまでたどり着き、ハシゴに足を掛けて、ほっとしました。
 そして 「やった!」 と熱いものがこみ上げてくるなかで、ハシゴを下りました。

 地面に下りたわたしに家内が飛びついてきました。
 わたしにとっては、まるで生まれて初めて雪の上で二回宙返りをした時くらいの出来事でした。

 こうしてシロと角皆家の大冒険は無事に終わったのです。

 後日談があります。
 あの日以来、わたしは上を向くことが苦でなくなりました。
 もしかして、わたしのリハビリのため、シロが仕掛けた決死の大作戦だったのかも?