2011年06月15日(水)

指導とか上達ということ

テーマ:スキーの話
 今日はチェリスト青木十良さんの言葉を借りて、少しスポーツの指導とか、上達ということについて考えてみます。
 青木さんの本に書かれているチェロの指導方法は、わたしが感じているスポーツの指導と大きく重なるところがあります。まるで、かつてわたしが書いたスキーの本から、どこか抜粋したかのような文章もあるほどです。

 まずはスタート地点を、『翔べ 未分の彼方へ』から選んだ次の文章としてみます。

「(ある作品の楽譜が)だんだん読め、だんだん弾けて、そうして少しずつ進むうちにいつか、その作品の本質が、ドーンとやってくる。そのドーン、とやってきたものは、そのひとの人生そのものである」
 その人というのは作曲家のことです。
 つまり、作品を突き詰めて勉強していくと、作曲家の人生にドーンと出逢うというのです。
「こんなに哀しかったのか、こんなに辛かったのか、こんなに嬉しかったのか、こんなに楽しかったのか」と自分の体験であるかのように感じるというのです。
 どんな作品にも作曲家の人生が詰まっているので、それを理解し、共感する過程を、青木さんは勉強と呼んでいます。もしくは作品を通じて、作曲家の人生にたどり着く過程を勉強と呼んでいます。

 再現芸術としての音楽が、作曲家の人生を再体験し、それを聴き手に伝えるものとしたら、スキーのターンや飛びに、自分の人生を詰め込むことも可能になるでしょう。そして、わたしはそんなスキーを目指したいし、みんなにも滑って欲しいと考えています。

 人生にはそれぞれの段階で、人に訴える感情や意識があります。どの年齢が優れているとか、劣っているとかという話でなく、それぞれの年代やレベルで、訴えたいことがあり、表現できることがあるはず…という話です。
 そうなると、ターンの限界は技術の限界以上に、人間そのものの限界を現すことになります。

 本のなかで青木さんは、大好きなポール・ヴァレリーの言葉から、次を選んでいます。

「作品から私が一つの『精神』を呼び出すとしたら、それに答えられるのは私自身しかいない。認識というのは、自分が自分の存在について、おそらく自分の肉体についてもちうる意識をもって限界とする」
 この文章に続いて、こんなことも書いています。
「至高の向かう道はすべて自分の内にあり、一個の石、一本の樹、一つの動き、一つの物象を心像とし、造形するのは、自分自身の実質をもってするのである。つまり、結果は結局、自分自身しかでてこないのである」
 青木さんは「どんなに勉強しても、結局自分が出てくるし、自分の枠は超えることができない」と云っているのです。
 しかも自分の枠というのは、『自分の肉体についてもちうる意識をもって限界とする』というのです。芸術家にしてこの言葉ですから、スポーツ選手にあてはめたなら、いったいどうなるでしょう。

 スポーツ選手にとって、この『自分の肉体についてもちうる意識をもって限界とする』という言葉はまさしく真理を突きます。なぜなら、自分の体を動かすための意識そのもの…身体意識そのものが、スポーツ選手の限界を作っているのですから。


 長い指導経験を振り返って、青木さんの言葉に、わたしは深く共感できます。
 スキーに当てはめるなら、「スキーヤーは、自分の内面(人間性)を超えるターンやジャンプはできない」ということです。

 ただし、もしそれが正しいと仮定したら、それは更なる問題を生むことにもなります。それはジャッジの資質という問題です。ジャッジ自身の限界は、彼ら個々の人間性の限界ということになるからです。
 そうなると長い間存続している組織のなかでは、人間性の均一化が起こってくるということにもつながります。そして、そのレベルが低かった場合、それは競技者にも伝播し、しいてはスポーツを取り巻く人たちにも伝播することになります。日本で云えば、全日本スキー連盟の創り出す枠が、選手にも押しつけられやすいということ。もちろん、レベルの高い選手の存在が、同時に連盟自体を押し上げることにもつながります。

 こうした見えない枠組みは、会社組織についても云えるでしょう。そして政治についても、学校にも、家庭にも当てはまることかもしれません。

 かつての日本が、こうした枠組みで高く評価されてきた理由は、価値観が生死に直結するという緊張した社会環境があってのことなのかもしれません。それは『不名誉を死で濯ぐ』という武士道的な価値観から生まれたのでしょう。

 青木さんも音楽の深さは、死生観に深く根ざしていると云っています。人間性とは死生観だとも書かれています。

 初期のエアリアル選手たちには、どこかしらこうした緊張した精神的背景を感じられました。
 まだ初期のフリースタイルスキーが魅力的だったのは、技術レベルはともかく、人間性が深く、高いレベルにある大人たちが始めたスポーツだったから…と云えないでしょうか。
 プロスキーヤーから生まれたスポーツですから、創世記にあっては、自ら選択した大人たちの集団だったのです。

 『翔べ 未分の彼方へ』には子どもたちの陥りやすい危険も、みごとに書かれています。
 そこには「心を亡くして、指だけが動く」音楽家となる危険性についても書かれています。
 英才教育の進行するスキーやスポーツにおいて、真剣に考えなければならない落とし穴が、見事に音楽界の事実として書かれています。

 個人というのは、それぞれの限界の中でしか、ものごとを観ることができません。理解することもできません。
 ですから技術の裏側に、それを実現させるための精神的要求がなければ、他人を動かしたり、感動させたりはできないでしょう。スキーに当てはめるなら、「スキーだけ動いて、感動やおもしろみのない滑り」ということになるのかもしれません。

 チェリストの書いた本ですが、スポーツを真剣にめざす子どもたちのご両親にぜひ読んでいただきたい本の一冊です。

翔べ未分の彼方へ―チェリスト 青木十良の思索/丘山 万里子

¥1,631 Amazon.co.jp

いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)

トナカイさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

コメント

[コメントをする]

1 ■創造と意識

スポーツでも音楽でも、自分がこうなりたい、速く、高く、遠くへ、美しく・・・その創造力は肉体を変えていき心を作っていくのだと思います。自分が思っている以上の自分はいない?どこまで追っていけるのか?追求していけるのか?ダメだと思えば出来ない、出来ると思えば出来る?出来るまでには根気と情熱を1ミリずつ重ねていくような練習があって、挫折もあれば後退もあって・・・
でも人間は信念があって進めるのです。
内面の力・・・神や愛も内面力だと私は思っています。人間の心、内面は美しいほど澄み渡り、軟らかく、もろいものですが、やると決めた時は剣のように固く壁を突き破るものだと言ってきました。肉体は心に呼応しています。感性を研いで敏感に、いや、神経質なくらいでいいのです。鈍感では成長できません。
内面を磨く事・・・成長の基本です、
いくつになっても少年のような心をもって突き進みたいです。実はその少年のような心こそ神に通じる内面であったりするのでしょう・・・(持論)

コメント投稿

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。