待井寛君の想い出 | トナカイの独り言

トナカイの独り言

独り言です。トナカイの…。

 リリハンメルオリンピック日本代表の待井寛君が亡くなりました。

 41才でした。

 驚きだけでなく、「もっとも失いたくない人間の一人を失ってしまった」という強い喪失感を感じています。


 わたしが彼に初めて逢ったのは、彼が17才の時のこと。わたしもまだ20代後半のころでした。

 当時、木崎湖にあったウォータージャンプの大会に出場し、大会終了後、民宿のお風呂に入ったときのことです。

 まだ明るい日差しの差し込むお風呂に、一人の青年が入っていました。青年というよりまだあどけない少年のような面影をもった若者と言ったほうがいいかもしれません。

 お風呂に二人だけだったこともあり、「ウォータージャンプの大会に出たのですか?」とたずねてみました。

「ええ、でました。前宙をやったんです!」

 前方宙返りが珍しい時代でした。

 しばらく話をすると、体操競技をやっていたこと、フリースタイルスキーが大好きなこと、真剣にやってみたいこと、などを話してくれました。

 当時、わたしは選手の間なら知られていましたが、どうもわたしのことは知らないようでした。



 後日、お風呂から一年以上も後のこと。

 わたしがリーダーを務めていたチームリステルに、彼が「一緒に活動したい」とたずねてきたのです。

 そんな彼に、「もう前に逢ったことがあるんだよ」というと、とても驚いていました。そして、お風呂のことも、よく覚えていてくれました。

 「あのときの方が、角皆さんだったのですか!」


 それからしばらくして、今度はお父さんと一緒にお逢いしました。

「息子が、本気でフリースタイルスキーをやる決心をしました!」

 そうお父さんがおっしゃる横で、シャイな彼が座っていました。

 白樺湖のホテルでした。



 リステルにスキー場を創ることになり、わたしが現場から遠のいても、彼はよく連絡をくれました。

 いよいよスキー場で働く段になり、未曾有の雪不足に襲われ、苦労の連続となったとき、現場でいちばん働いてくれた選手は、彼でした。

 たくさんの想い出があります。

 日本で初めておこなうワールドカップの直前、じっさいにジャンプ台を作る人間がいないため、わたしと彼の二人だけで、夜間作業でジャンプ台を作ったこと。そこで飛ぶ人間であるにもかかわらず…、加えて徹夜に近い夜間作業であるにもかかわらず、彼は自らスコップを持ち、ずっとつき合ってくれました。

 ほんとうにありがとう。


 二人でツーリングにも行きました。

 彼もアメリカンのバイクに乗っていて、遠くは新潟の海、近くは会津若松や喜多方に行きました。



 わたしは時々、日下公人(きみんど)さんの書く本を読んだり、エッセイを読んだりします。

 日下さんの本には、時々美化しすぎではないかと疑うほど、気高く、美しい日本人が出てきます。安倍元首相のテーマだった「美しい国」は、日下さんから学んだと信じられるほどです。

 日下さんの本に出てくる日本人を思うにつけ、わたしは待井君を思い出してきました。

 待井寛は、ほんとうに純粋で、自分の心に影の射す行為ができない人間でした。他人を裏切ったり、他人を傷つけたりすることができない人でした。頼まれたら、イヤと言えない人間でした。

 自分には厳しくなれましたが、他人に厳しくすることが苦手でした。

 彼の死は、それだけ「純粋な心を持つ日本人が生き辛い社会」になっているのを実感させてくれます。

 美しい国をめざしながら、そこから遠ざかる日本を感じさせます。


 彼の通夜に向かう時、わたしは岡谷市内で道に迷いました。

 30分以上迷ったところで、思い切って誰かにたずねようと、スーパーマーケットの駐車場に入りました。すると、たまたま車を停めた隣りに、タクシーが停まっていました。

 メモした住所をもって、運転手さんにたずねると、しばらく地図をみてくれたのちのことです。

「わたしに着いてきてください」と言われました。

「そ、そんな、おおよその方向を教えていただければ大丈夫ですから」

 そういうわたしに、運転手さんは笑顔で、こういいました。

「すぐそこですから」

 タクシーに先導され、かなり走りました。「すぐそこ」ではありませんでした。

 待井君の家の前で、「それでは」と言って走り去ろうとする運転手さんに、わたしはたずねました。

「すみませんが、名刺をいただけますか?」

 すると、彼はこう答えたのです。

「いいんですよ。困ったときはお互いさまですから」


 待井君の家の前で、わたしは「待井のような人に導かれた」と感じました。きっと彼は、困っている人間に出合ったなら、同じことをして、同じことを言ったでしょう。

 彼のことだから、きっと人に辛くあたれず、すべてを自分で解決しようと、袋小路に入ってしまったのかもしれません。


 待井が望むなら、通夜だけでなく、葬儀もでようと考えていました。

 しかし、彼の死に顔を見つめていると、「角皆さん、大会で思う存分、あばれてきてください」と、彼が言っているような気がしてきました。

 ショー活動が大好きだった待井。

 「飛びたいんだ!」と言ってくれたなら、今でも飛ぶ場所を提供できたかもしれません。

 彼の安定したフィリフィスなら、どんな大きな会場も沸かせられたに違いありませんから。

 昨年、最後に逢ったときも、これから二人でできるかもしれないエアショーの話で盛り上がりました。


 MildSeven


 待井…。

 ほんとうにお疲れさまでした。

 向こうで、大きなショーの準備を進めていてください。

 いつか、また一緒に飛びましょう!

 待井を弔って、今、初雪が降っています。




PS.これを読むチャンスは少ないでしょうが、岡谷市のタクシーの運転手さん、ほんとうにありがとうございました。

 おかげで、日本という国の深いところに、誇りを感じることができました。

 「困ったときはお互いさま」という言葉を、忘れることのないよう、頑張ってみます。