桐朋学園芸術短期大学芸術科演劇専攻         同窓会

桐朋学園演劇科同窓会のページです。

会員皆さんの近況、公演情報等およせください。


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 ■「桐朋演劇科を築いた人達。第10弾!
    事務職 山崎 武信さん 西川 萬亀子(旧・丸山)さん 児玉 ミヨコ(旧・大森)さん」



聞き手・4期 福永
聞き書き・5期 吉川

福) お忙しいところお集まり頂きまして有難うございます。早速ですが山崎さんから伺いますが、大体何期から何期まで受け持たれました

山) 第1回目が4期が専攻科生になってから9期まで。当時は人事異動があって第2回目からは14期から18期の間でした

福) 西川さんは何期頃からでした。

西) 4期が1年生になった時が事務だったから・・・1期がコース(演劇科は1・2年生がコース、3年目からは専攻科、若しくは千田ゼミ・田中ゼミ・安部ゼミと選別されていた)にいた時は神山さん(ご主人が俳優座の方)が研究室に事務と助手を兼ねていらしたし、神山さんがお辞めになった後、石母田さんと児玉さんが入られたの。だから私は4期から8期を知ってる位かな・・・。

福) 児玉さんは。

児) 私は1年位しか研究室に居なかったと思います。

西) うそ、私とダブっているからもっと居ましたよ。

児) ええっ、全然記憶にないですねー・・・。

福) 何れにせよ、お三方は殆ど同時期に演劇科の事務に携わってらしたと捉えて構わないですよね。

西) そうそう、大体私の後に山崎さんが事務に居らして、私と児玉さんがダブって居たと。

福) 分かりました。では1期から8期位までは何等かのかたちで記憶に残っていると思いますので、担当された当時の一番思い出に残っている事を、山崎さんから順に伺わせて頂けますか。

山) まず、初めての社会でした。演劇なんて何にも知らないし、何が何だかちっとも分からないところだったね・・・。でも事務だったから、業界関係への支払いとか、俳優座側との交渉とか、いわゆる制作の仕事も行った。・・・本当に初めてそのものでしたから、分からないところが多かった。

福) 一般の学校事務の仕事とは完全に異なっていた訳ですからね。演劇の公演そのものですよね。普通の事務だと公演に関る金銭の出納とかはしない訳ですから、分からなかったのも当然ですね。

山) その当時は学生部の事務、教務事務などで「火気の取り扱い」「学籍簿の管理」「成績処理」「試演会公演での制作精算」といった仕事だったよ。入学してから卒業するまでの、一連の事務処理が全てでした。

福) 西川さんは何か苦労話とか失敗談とかはありましたか。

西) 私はね石母田さんとダブってるから、山崎さんがされてた学生部的な仕事は、全部石母田さんがやってらした。私は一緒に俳優座にくっ付いて行ったり、総見で国立劇場に行ったりとか・・・、チケットなんかも全部石母田さん。私は成績とかいわゆる教務事務かな。石母田さんが係長的役目に入ってからは中心になってやってたけどね。その頃の助手は確か1期の西川明さんとか2期の志賀廣太郎さん、杉浦悦子さんとか、卒業生に頼んでいたからね。・・・そうだなー、当時嫌で記憶に残っているのは、夏の講堂で試演会をやってた頃の「モク拾い」。なんでこんな事やらなきゃいけないんだろうって思ったね。石母田さんとそれこそモクモクと講堂の前でモク拾い・・・。1つでも残ってたら後で学校側からひどく叱られるから。後は1期、2期が怖かった!歳が皆同じ位だったでしょう。今の演劇科の学生はいわゆる「学生」じゃないですか。でも1期、2期の人達というのは俳優座の養成所が無くなって直ぐ入って来たから、良いにつけ、悪いにつけ、物凄くプライドが高かったの。とにかく人によっては周りを小馬鹿にした様なところがあったから・・・。それに又当時の皆の服装が独特だったから。例えばコーヒー豆を入れる麻袋を洋服にした様な物を着て来てたから・・・皆じゃ無いけどね。当時20歳前半の私には衝撃的だったね。女の人も平気でタバコ吸ってたし、それだけで恐れおののいていた感じ。でも当時の学生達は、例えば日舞が休講になっても自分達で自主練してたし、そういうところが偉かったと思うな。

福) 児玉さんはどうでした。一番の思い出とか。

児) 私は研究室にずーっと居たんですけど、難しい事ばっかりで・・・。だって当時まだ15歳だったの(笑)当時研究室は音楽科の一番奥の部屋にあったんだけど、そこにずーっと座ってて千田是也先生が来られた時にはお茶を入れたりしてただけ。そんな事位しか、恥ずかしい話覚えてなくて・・・。ただ一つ1期の山本亘さんが入って来て、勝手にコーヒー入れて飲もうとしたから、「ダメッ!」って怒った事があった(笑)怒り方も分からなかったんですけど・・・。なんか研究室に学生が誰でも勝手に入って来て、教員と一緒みたいにお茶を勝手に入れて飲んだり・・・教員と学生の距離が無い様なべったりした感じが嫌だったのね。でもとにかく何をしていいんだか分からなかったから、千田先生が本の片付けをされてた時も「お手伝いします」という一言が言えなくて、じっと先生の後姿を見てるだけでした。当時学生さん達は私を仲間的な存在として見てくれてたようで嬉しかったです。
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    事務職 山崎 武信さん 西川 萬亀子(旧・丸山)さん 児玉 ミヨコ(旧・大森)さん」



福) そうね、あの当時は皆、大御三家先生は別として、他の先生方は年も近いし、失礼ですけど仲間というよりむしろ兄弟的な親近感はありましたよね。ところで、桐朋大御三家先生のお一人、千田是也先生についてはどうでしたか。

山) それは凄い先生でしたね。今は「新劇」という言葉は死語に近いものになってしまったけど、当時の新劇界には無くてはならない人でしたね。ブレヒトの反戦劇を随分熱心にやられていた印象がありますね。安部先生も安部スタジオの旗揚げに西武パルコで『友達』を上演された時、見に行きましたね。仲代達也さんや田中邦衛さん等が出演されてて、これも風刺がきいてて面白かったですね。田中千禾夫先生の『マリアの首』や『8段』は凄かったね。あの『8段』を今の学生達にやらせても恐らく出来ないでしょうね。当時は「能」「狂言」「日舞」「声楽」「洋舞」等が必修授業でみっちりありましたからね。

西) 『8段』は演劇の基礎がしっかりと出来てないと、絶対出来ない作品ですからね。

福) 西川さんは先生方の思い出っていうと、何が思い浮かびますか。

西) 私は成績関係の仕事でしたから、千田・田中・安部の三先生方に関してはとにかく成績が出てこない。ぎりぎりになるまで出てこない。成績表をつけるのが間に合わないと千田先生のお宅に直接電話して、電話口で生徒の成績を聞いたり、そういう事が結構ありましたね。

福) 今だから話せる成績優秀者はいましたか。

西) 1期の山口果林さんかな・・・。座学が良ければ実技が駄目って結構いたんだけどね・・・。私の記憶の中での全てにおいて良かったのは、山口さんだったかな。

福) 私達の世代はどうでしたか。

西) 1期、2期あたりは独特の雰囲気を持って、学業にも個性があったように思うけど、3・4・5期あたりになると、全てにおいて少し平均化されてきてましたね。それ以降は本当の意味での学生さんて感じだったかな・・・。突出していた人も中にはいたけどね。

福) 先生の話に戻させて頂きますが、他の先生方の印象はどうでしたか。

西) とにかく各界でそれぞれ名実共に有名な先生方が演劇科にいらしたから、それはそれは凄かったですよね。私なんか関西から出て来たから、「流石東京!」って感じだったな・・・、少しオーバーだけど。千田先生や田中先生、安部先生や名前を挙げるときりがないですが、今思うと先生方の付けた成績表やサインを残しておけばよかったなー・・・って、本当に残念。それに昔は<土曜講座>があって、結構有名人が沢山来てたよね。

山) 私の頃は<金曜講座>だったかな。今でも演劇人が来てるけどね。

西) でもあの頃はパット出の有名タレントじゃなく、それこそ学者から作家・画家に至るまで、いわゆる世界的にも通用する各界の著名人が沢山講演に来てくれましたからね。そういえばあの頃大橋也寸先生と石母田さんはよく口論というか、激しい意見のバトルを繰り返していらしたよね。

福) 以前、石母田さんや大橋先生からそれぞれの話を伺ったことがありましたが、お互いどこか認め合っていたところがあったみたいですよ。反体制的な強い大橋先生が石母田さんは好きだったみたいだし、大橋先生は「当時給料が少なかった私を、よく石母田さんは食事や飲みに連れて行ってくださった」とか。随分今でも感謝されていましたよ。

西) 突然話が変わってごめんね。私は4期と『森は生きている』で、とにかくいろんな所へ行ったのが印象深いね。横浜とか大田区とか・・・。

福) 吉川君を含めた5期の何人かが、動物のきぐるみを着て盆(舞台の真ん中に作られた、大きな丸い回り舞台)を回してくれたよね。舞台美術家で有名な、朝倉摂さんの美術(装置)でね。演出は永曽信夫先生で、凄かったですよね。児玉さんは何か試演会とかで印象に残っていることってありますか。

児) 私は夜学に通っていたので、あまり試演会に関しては記憶がないんですが、卒業式の後の地下食堂でのパーティーをよく覚えてますよ(笑)後、大橋先生の思い出といえば、私がぽつんと一人研究室に居ると気さくに話しかけてくださいました。子供心に「この先生、いい先生だなぁー」なんて思ってました。

福) 又大橋先生の話題に戻ったみたいですが、聞いた話だと、先生は鰻丼を出前で頼んでも鰻は嫌いで食べなかったとか。

西) そうそう先生は鰻食べないでタレとご飯だけ食べてらしたね。鰻を蓋の上に置いて、タレのかかったご飯だけを「美味しい、美味しい」って言いながら食べてらした。鰻は人にあげてね・・・。

福) 永曽先生はどうでしたか。食事の話じゃなくていいですから。

山) 事務教務的なものをよく教わったね、制作のイロハとかね。

西) 私にとって永曽先生は雲上人でしたね。桐朋に入って40年近くになりますけど、未だに大尊敬してます、生江先生共々。

福) 浜田山のお宅に伺っても、いつも綺麗に整頓されていて、何に対してもきちっとされてましたね。従って、ものの考え方もそうなんですが。

西) そう、私は永曽先生のそういうものの考え方が好きだったの。そういえば先生は毎日朝早くから夜遅くまで、研究室というか、学校にいらっしゃいましたね。管財科の仕事もされてたというのもあったんだけど、成績から何から何まで管理されてたから。オールマイティーだった。石沢先生や山内先生もわりに学校にいらしたから、研究室がいつもにぎやかだったなぁ・・・。

山) 千田・田中・安部の三先生はとにかく別格。「演劇とは何ぞや」という位、事務的な事は一切しないで、いつも演劇探求のみに時間を費やされていた印象が強いですね。演劇探求もそうなんだけど、日常的な業務や事務的な事にも時間を費やされたのは、永曽・石沢・山内先生ですね。

西) そういえば、声楽の畑中更予先生をあの頃学生の皆は「チャババー」って呼んでたよね。何でチャババーって呼ぶのって聞いたら、いつも来ている洋服が、上から下まで「茶色」だったから、茶色の老婆を略して「チャババー」って。今思えば失礼な話よね。後、若くして亡くなった花柳錦之輔先生は格好よかったね。

山) そう、よく先生から銀座で飲んだ話を聞かされたな。

福) 私達男から見ても惚れ惚れする様な、粋でいなせでね。
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山) 狂言のお家元でお亡くなりになった、大蔵彌右衛門(当時・彌太郎)先生もやはりその世界のきっちりした、格式、品格を身に付けていらしたから、存在そのものが凄く感じられましたね。

福) 歩いていらっしゃる後ろ姿でも、何か美そのものの様な。

山) そうそう、武士道じゃないけど、いつも隙のない姿というかね。

西) そこいくと花柳先生は少し違うのよね。いつも袂に手を入れて、ヒョコヒョコおどけて見せたりしてね。

山) そう、一見遊び人風よね。でも、華はあったね。

福) 色んな話が出ましたが、昔と今の違いを何でも結構ですから、思いつくままお話し頂けますか。当然時代とともに移り変わってきているものですが。

児) 昔は変な話、授業料の未納は日常茶飯事というか、沢山いたけど今は全くいない。これはどうなんだろう、昔は夢だけ大きく持って入学して来たから、金は二の次だったのか・・・、今はそれぞれの家庭が裕福になってきているのか・・・。時代が違うといえばそれまでなんだけど。昔は学食でご飯だけ買って、塩かけて食べてたり、パンのミミを貰って食べてたりしてたけど、今は殆ど皆ちゃんと食べてるみたい。中には苦学生みたいな生徒も居るけど、昔は皆苦学生というか、貧乏学生が殆どだったですね。

福) 西川さんはどうですか。

西) 私も児玉さんと同じ様な意見だけど、今の学生は、何か「ガッツ」みたいなものが感じられないね。昔の学生達は、ここに演劇をしにきてるって感じが、ひしひしと私達にも伝わってきたけど、今は少し物足りないところがあるね。「これで将来食べて行けなくてもいいや」みたいな、いわゆる執着心みたいなものが感じられない・・・寂しいね・・・。

福) 同窓会にというか、卒業生に何かメッセージはありますか。

西) 演劇を志して桐朋に入って、又それぞれの道へ出て行った訳だけど、桐朋の演劇科を卒業したということは、私にすれば凄いことだと思うのね、色んな意味で。だからいつまでも誇りを持っていて欲しいのと、演劇科に対しても何等かのバックアップを出来ればして欲しいなって思います。

福) 山崎さんはどうですか。

山) 「学生時代にもっと勉強しとけば良かったな」なんてことをよく卒業生に会うを聞かされるんだけど・・・。現役生に関していえば、卒業生の実感を肝に銘じて、一生懸命演劇を学び、それなりに後悔を残さず卒業していって欲しいな。又、卒業生には、さっき西川さんも言ったけど、人間としての情操教育の最高峰ともいえる演劇を桐朋で学んだという、大きな誇りをいつまでも忘れずに持ち続けて欲しいなって思います。だって、歌や踊り、芝居、日本の古典芸能に一般教養と、俳優にとっての教養を身に付ける為に勉強しているんだもの・・・。こんな凄い学生は他にいないよ。

西) 私の人生の中で桐朋に関わったことで、素敵な先生、個性的で素晴らしい学生達にめぐり合えた・・・。これは一つの私の財産だし、とても楽しかった。貴重な人生体験をさせて頂いたと感謝してます。学生達には随分いじめられたけどね・・・(笑)

福) 児玉さんは如何ですか。

児) 母親の一人として言わせて頂くと、今の子は「表現力」が無いと思うんですね。下手というか。でも演劇を勉強することで、人間的にも幅ができるし、又自分を表現するのも上手くなれると思うんですね。それほど演劇ってオールマイティーで凄いものだと思うんです。だから大きくいえば日本中の学校教育にもどんどん演劇が取り込まれれば良いと思います。

西) 最後に一ついいですか。以前短大の研修会で神戸に行った時、色んな話が出たんだけど、その中で興味深かったのは、卒業生と現役生が交流できるような、そんな授業を取り入れて実際に短大に生かしている学校があったんだけど、素晴らしいな、羨ましいなって思いました。これからは演劇科も卒業生と現役生が交流出来る様な、縦の関係で何かが出来る様な、そんな学校になっていって欲しいなって思います。だって桐朋を卒業して各界にちらばったOBが沢山いるんだもの。交流を持てる場が出来れば現役生にもプラスになるし、卒業生にも刺激になると思うんだけどね・・・。夢かな・・・。

福) なかなか簡単な様で難しい問題を投げかけてくださったところで、残念ながら時間が来てしまいました。同窓会としても現役生との交流に関しては考えてきたんですが・・・。縦の繋がりが出来るというのは望ましくそうなっていってくれれば、本当に素晴らしいことだと思います。卒業生と現役生の芝居でのコラボレイトも近い将来実現できるといいですね。本日は貴重なお時間を割いて頂き、本当にありがとうございました。

<編集後記>
先生方とは別の目線、違う視点で私達や学校を見続けてこられた事務職員の方々・・・。ただ単に昔を懐かしんでおられるだけじゃなく、先生方や卒業生、在校生や、はたまた桐朋の演劇科、如いては演劇そのものを、こよなく愛し尊敬し続けてくださっているんだなー・・・っと。いろいろお話を伺い、何か胸の熱くなる思いで一杯でした、本当にありがとうございました。これからも桐朋での残された時間、今まで同様ありったけの情熱を、学生達にぶつけてやってください。私達も演劇に対する情熱と誇りを忘れず、歩み続けたいと思います。   5期生  吉川 淨
 
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 ■ 「桐朋演劇科を築いた人達。第9弾!
     石母田さんに聞く」



まず石母田節さんをご紹介します。石母田さんは大正4年(1915年)10月31日宮城県石巻生まれの89歳、来年は90歳になられます。今の電気通信大学の前身の無線電信講習所を卒業後、大阪商船に入社。国際一級無線技士として、主に外国航路で客船や貨客船に乗船、戦時中は海軍の御用船に。戦後も貨物船に乗船していらっしゃいましたが、28年間の船乗り生活に別れを告げられた後、昭和43年(1968年)1月1日(当時53歳)から演劇科の担当として、桐朋に入られました。以来、一期生から六期生ぐらいまでが主にお世話になりました。そして昭和54年(1979年)3月31日、63歳で桐朋を退職されました。とにかく演劇科の授業や公演のスタッフとして、切符のもぎりから稽古場の掃除に至るまで、それはそれは懸命に演劇科を支えて下さいました。桐朋の草創期を語る上でなくてはならない方として、又大変お世話になった我々は、今お住まいの石巻に足を向けては寝られません。そんな大切な方なのです。 それでは本文に進みたいと思います

これは平成16年10月26日、宮城県石巻市の石母田節さんのご自宅にてインタビューしたものです。文頭の石は石母田節さん。福は聞き手の福永典明の略です。

石) わざわざ遠いところまで来てもらって恐縮しております。

福) とんでもございません。石母田さんのお話を聞かないと、この回想録は成り立ちませんので、是非当時の話をたっぷりとお話下さい。もう時効ですから。(笑) さて、始めにどうして桐朋に入られたのか。その辺のところからお話ください。

石) たまたまうちの姪っ子が桐朋女子にお世話になっていましてね。私はそのころ新宿の紀伊国屋ビルの中にある、ある会社をお手伝いしておりまして、桐朋教育は素晴らしいという話を聞いていたんです。あれは八月の夏休みの時だったかなー。どなたもいらっしゃらないところを外からそーっとのぞかせてもらおうと仙川まで足を運んだんですよ。そしたら偶然にも千葉先生が短パン姿で出てらっしゃって。実は千葉先生と私は石巻で幼なじみでね。私のほうが年上なんだけれど、それでお部屋に案内されて。その時に何を話したのかはもう覚えてませんけど、20分くらい話をしたのかなー。それから二ヵ月後の10月頃でしたかね。私の兄で法政大学の教授をやってた石母田正が、生江先生と千葉先生、それに会計係の高橋金雄さんの三人に呼ばれましてね。「演劇科が出来たんだけれど、そこで節ちゃんに手伝ってもらえないだろうか。」という話が出たそうなんですよ。私は船に乗っていて無線通信士を戦争中も合わせて28年間やってたもんだから。それが全くの畑違いの演劇でしょう、ましてや学校の中で、しかも新しく短大の中に演劇科が出来て、その仕事のお手伝いをしろというお話だった。

福) そうすると石母田さんは、最初は学校とか演劇とかそういうものとは全く縁がなかったわけですか。

石) そう。全然違う、知らない世界でしたよね。だって私は船に乗って無線の通信士、最初に入ったのが大阪商船、OSKって言ってね。そこで客船に通信士として乗船したのが最初で、それから貨客船、戦時中は海軍の御用船で主に南方へ行ってたの。

福) 要するに元々は通信士で船乗り。

石) そうそう船乗りだったんですよ。

福) それが女子学校の仕事をするなんてことは。

石) いやいやそれは夢想だにしなかったね。ですからね、兄貴から話があったときにはね、学校、しかも女子学校に、しかも演劇科。通信士の仕事は人には負けなかったつもりだけれど、とにかくまるっきりね。だけどね、何か自分で決心したらやれない事はないとも思ったわけ。でも、いまだに自分でもよくいったと思いますよ。(笑)

福) 目の前わかんなくても桐朋に入っちゃったわけですよね。

石) 一番最初から失敗談なんだけれども、何にも知らないわけですよ。当時は細かい事も永曽先生が一人でやってらした。そこで永曽先生からね「日舞の平台を用意して下さい。」と言われたんですよ。その平台というのがわかんないわけですよ。知らない。人に聞いて歩くわけにもいかないでしょ。今さら永曽先生に「平台ってなんですか。」って聞くわけにもいかないし、それでなくても永曽先生としては「若い男の子をよこすんならともかく、自分より年上の50過ぎたおっさんをよこすとはね。」という思いが強かったと思いますよ。当たり前ですよ、それがね。そこへ来て持って「すいません、平台ってなんでしょう。」って聞けますか。

福) そりゃーそうですよね。(笑)

石) それで考えたわけ。平台はタイラという字に台、踊りをやる時に使うってんだから、じゃこの台だろうと、倉庫に入ってたのかな、ヒノキ作りの。これじゃないかと賭けたわけですよ。違うといわれるかもしれないけど、それを用意したの。そしたら何も言われなかった。これが最初。これが一番印象深い、平台。「やった!!」ってね。(笑)

福) ハアーそうですか。木造校舎の、確か北館って言ってましたよね一階の一番奥のところにね。講堂に近いところの教室に平台を引いて日舞や狂言をやりましたよ。

石) これが桐朋の演劇科に入って一番最初の仕事だったの。

福) でもあの頃は演劇科が出来ても女子校の方は「入ってきて欲しくない」という気持ちがあったようですね。

石) 「欲しくない」どころじゃないの。もっとひどいの。

福) どんな感じだったんですか。

石) そうね、いろんな問題があったわけですよ。その中には経済的な問題もあるわけですよ。演劇ってのは儲からない。文科なら100人も200人も学生さん採れるけど、演劇科は50人しか採れない。何かにつけて演劇科はお金がかかるわけですよ。女子部の方のお金も回してもらわなきゃやっていけない。それから施設も何もない。いろんな施設を貸してもらってやりくりしていくわけですけど、それはいいの。他にもタバコ事件やら、

福) ゴミ事件

石) そうそう、それから一期生の山本亘だの、あの連中がね。またカッコウが。みんなおよそ学生などとは縁のないカッコウしているわけですよ。みんな。

福) だらしないとか。

石) だらしないのかどうか。ぞろぞろと来るわけですよ。そうすると「乞食が来た。」って女の子が「あらあら乞食よ。乞食が来たよ。」って女の子が言ってるのよ。私は演劇科担当だから「何を言うか!!」って思うけれど、言われてみればだなーと。(笑)    それからある時、女子校の実験室を演劇科が借りたんだなー。そしたらやかましい独身の女の先生がいてね。呼びつけられたの私。何だと思ったら「後始末もしないで帰った。どうしてくれるんですか!!!」って言うの。私も今までそんなにあやまり役をやったことないのにね。船じゃ一方の責任者でキチンと仕事さえしていれば、そんなにあやまって歩く事はなかったんだけど、何たる事かと思いましたよ

福) 50を越してあやまる役をやらなくっちゃならないとは。(笑)

石) 呼びつけられてね。(笑) 

福) 確かに演劇科の学生は当時、永曽先生や石母田さんが一生懸命やっていただかなければ、それこそほったらかし、やりっぱなし、ゴミ出しっぱなし、タバコ吸いっぱなしってのが多かったですからね。稽古場の整頓は出来るんですが、なんせ日常生活がだらしないというか、非常にルーズでね

石) まあ野武士みたいなね。高校出てすぐって人もいたけど、大学出てから来た人や社会人経験者もいたりして、大志を持って入ってきてたからね。立派だと思うんですよ。そういう人達だからね。私なんかが小言を言うなんてのは、言いにくいわけですよ。次元が違いすぎてね。

福) 要するに、ガキではなかったわけですよね。

石) 先生方にしたって、みなさん異色中の異色でしょう。そんなかたまりが入ってきたわけですからね。

福) 石母田さんは船の中での規律正しい生活を。女子校もきちんとした校則の中、そこに、もうとにかくわけのわからない連中がドーンと来たわけですからね。

石) 世界が違うんですよ。(笑)

福) ショックを受けませんでしたか。こういう連中がいるのかと。

石) ショックを受けるどころかね。頭下げて歩くのが日常になってしまって、いや本当、最初はそうですよ。でも演劇科というものに対する何かいいものを感じてたんですよ。言葉では表しにくいんだけど、演劇科のみんなには文句を言わないんですよ。「気をつけてよ。」ぐらいは言っても。むしろ外の方にね。

福) あやまりに歩いて。(笑) はあー確かに石母田さんは、外に対してはあやまり歩いていらしたのは薄々分かっていましたけど、我々に対しては怒ったりとかそういうことは微塵もありませんでしたものね。

石) そういう気持ちにもなれなかった。やはり一種のね、いちずな演劇科生に対しての尊敬みたいなものがあったんですよ。だから言葉として出てこないし、その(怒る)つもりもなかったのね。何とかして後始末、というのが私の役目だと。

福) なるほどね。いつも我々のやった事を尻拭いしていただいてたんですよ本当に。さて、石母田さんから見た演劇科の先生方を語っていただきましょうか。まずは千田先生からですけど

石) 千田先生はね。実は私が18歳(1933年)の時に築地小劇場創立10周年記念公演にね。長兄に連れられて、その舞台を観に行った事があるの。土方与志さんなんかの新劇の基礎を築いた人達の公演でゴーゴリー作『検察官』だったと思うんだけれど、観てたら突然ピッピーって笛が鳴って「中止!!中止!!」って。本物の警察官が芝居の最中に出てきたのを覚えてるんだけど。その舞台に千田先生が出演されてた事が後で分かってね。とても親しみを覚えましたよ。 その千田先生と桐朋でご一緒出来た。その千田先生、やっぱりあのくらいの大先生でもね、私の印象ではね、そう豊かな経済力を持っておられたわけではないと。と言う事は、日本の新劇界のね、事情と言うか。なぜかと言ったら千田先生は桐朋学園の理事という役職も持ってらっしゃったんですよ。理事には理事手当が支給されるんですよ。ところが千田先生は理事会にもあまり出席されなかったのか、理事手当を取りに来られないわけですよ。困った係りの人が「石母田さん、これ届けて。」って頼まれてね。私が研究室に伺ってお渡ししたんですよ。確か四期分ぐらいまとめてお渡ししたのかな。そしたら本当に嬉しそうな顔して、ニコニコしながら「石母田君な、これオレの大事な小遣いだよ。」って言われるんですよ。(笑)「そうですか、今度から私がお持ちしますから。」って言ったら「頼むよな。」っておっしゃって(笑)。というのは千田先生、理事会に一遍も出た事ないから気が引けてらっしゃったんだよね。


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 ■ 「桐朋演劇科を築いた人達。第9弾!
     石母田さんに聞く」



福) 永曽先生もおっしゃってましたけど、千田先生はお財布とかを持たない方で、お金持ってないのにお寿司屋さんへ連れてってもらって。払う時になって「あっ、オレ金持ってないや。」って(笑)。お金に関してはとってもおうような方と言うか、おおらかな人でしたからね。

石) それから私が退職する一年前の昭和53年(1978年)3月に千田先生の朝日賞受賞パーティーが地下食堂であったんですよ。その時私も呼ばれましてね。何か一言挨拶をって「おめでとうございます。」って言うだけで良かったのに言わん事か「千田先生と言われればこわいものなし、大御所ですが、ただ一つだけ頭の上がらない人がおられるそうです。その名は横に座ってらっしゃる岸輝子と申すそうです。」って言ったらね。「イャー」ってみんな大笑い。言わんでもいいのにぺロっと言っちゃって、私の悪いクセだと思いました。千田先生は立場を超えて声をかけて下さって、非常に親しみのある方だったですね。その後も新しい俳優座劇場にお邪魔した時も遠くから見つけて下さって「石母田君。」って。それからもう一つ桐朋で最初にお会いした時のエンジのセーターがとってもお似合いで背が高くて色白で、オーラが出てるようで、さすが違うなーと思ったのが今でも思い出されますよ。退職の時には千田先生著の『もう一つの新劇史』にわざわざ「石母田節様 長い間いろいろお世話をいただきありがとうございました。千田是也」って書いていただいたりしてね。本当によくしてもらいましたよ。

福) 田中千禾夫先生はいかがでしたか。

石) 千禾夫先生はね。必ず授業の前に私のところに寄ってみえて、プリントを持っていかれるのね。「私がお持ちしますから。」って言っても「いいよ。いいよ。」って。恐縮してね。言葉は穏やかだし、表情も和やかなんだけれども、意味するところは中々大きいという印象が強いですね。

福) 確かにそうなんですよ。言葉がいっぱいあるわけじゃない。むしろ言葉が少ないんですけれども、その言葉に凄く大きな意味があるんですね。    安部公房先生はいかがでしたか。

石) 「石母田君、僕、君の兄さん知ってるんだよ。」って来られましてね。どっちも東大なもんで、それで私にも声をかけてもらったみたいでね。そしたらしばらくして、「石母田君、昔の支那そば見つけたぞ。」って。「そんなのありますか。」「意外と近くにあったんだ。今そういうのを知ってるのはそういないから。君なら昔の支那そばの味知ってるだろう。」って。

福) おもしろいですね。

石) なんて言いますかね。新進気鋭の、何かそんな感じが強いね。また千禾夫先生とは反対のね。談論風発と言うか、そういう感じを受けました。

福) 言葉に力があるといいましょうかね。    長谷川四郎先生はいかがでしたか。

石) 長谷川先生はドイツ語の先生でね。磊落な方で、また飄々としてらしたな。

福) 私もドイツ語習ってましたけど(カッコだけですが)。と言ってもドイツ語取ってるのは5人ぐらいで、和気藹々と言うか、結局ドイツ語のスペルもかけないで終わっちゃいましたけど、すごくあったかな方で楽しかった事を覚えています。    さて、生江義男先生ですが。

石) 生江先生は小学校は違うんだけど、中学校が同じで、私が二年先輩だったんですけど、秀才で非常に目立つ後輩でね。それで私の学年の連中に目を付けられて、焼きを入れられると言うか、吊るし上げを食らってた。そしたら私が間に入って生江先生を助けた事があるって。私は全然そんな覚えはないんだけれども、桐朋にご厄介になってから生江先生に聞かされてね。それから生江先生のお姉さんのご主人、生江先生の義兄にあたるわけだけど、その方からね「石母田さん。生江はね、オレが見てても、早く言えばいくらか独断専行の気があるんだ。だからね、君は先輩だから、表向きはあれだけれど、影で注意してやってな。」こんなこと言われたって平台もわからず永曽先生の下で這いつくばってる最中ににね、そんな事やれるわけないって全く。(笑)

福) 桐朋を、桐朋の演劇科を語るときに生江先生はきっても切れないと言うか、 生江先生がいらしたからこそ、桐朋演劇があるって言うか。 )

石) そうです。そうです。そりゃ確かです。そういう点ではね、非常に目先のね、利くというか、東京教育大学の出身者っていうのはややもすると学識肌と言うか。でも生江先生はそれだけじゃなくて、それをはみ出したと言うか。 俗に言う、政治的な手腕もあったからね

福) 親分肌のところがある。

石) それと千葉先生とのコンビ。千葉先生は名参謀なんですよ。あの学校の先生方をちゃんと内部を固めたのは千葉先生の功績ですよ。

福) 生江先生は皆さんから祭り上げられて、ある意味殿様で、大将なんだけれど、 千葉先生は大番頭というか。そういう意味では、千葉先生の役割は大きかったでしょうね。

石) 私はそう見ますよ。その功績は大きいと思います。

福) さて、もう一方の二人三脚と言ってはなんですけど、石母田さんと永曽信夫先生ですけど、いいコンビだったですね。

石) 永曽先生はね、いろんな意味でね、非常に能力のある方だと思います。ましてや演劇と言う特殊な中でね。しかも千田先生達大御所もいらっしゃる中で、 しかも初めて学校などという、またこれは養成所とは違うと思うんですよね。それに桐朋の中でね。大変なご苦労だったしね。たとえば講師の方を頼むとか、講演をお願いするとか。そういう人事的なことから、卒業公演の予算の問題でしょ。それから場所の問題、ありとあらゆる事をスムーズにやっていけるとなるとね。相当な頭の回転が良くないと出来ない。

福) コーディネーターですよね。

石) そう。だから今度そういった学科(ステージクリエイト科を指します)ができた事は非常に良かったと思いますよ。そういう事を専門にやってる人はいないんで、だいたい経験でやった人達がやってるだけでしょう。大変な仕事なんですよ、実は。舞台で色々やる事は、それはもちろんなんだけど、それをちゃんと何から何まで、お金の事から場所から、出来る人のいろんな事情やらあるわけでしょう。そういう事を全部まとめていくということ事態が、何よりも大切であり、大変な事なんですね。そういう事を永曽先生は全部やられた。しかもまだ形が出来ていない時に創っていかれた。だから私は後から考えると、それにはいくらでもお手伝いしなけりゃいけないのに、平台の名前も知らないやつが入ってきたんだから、こりゃ永曽先生としてもね、「まあ生江先生がおっしゃるからしようがないんだ。」と言う事だったんだろうなーと思います。それだけに私も引け目を感じますよね。そういう事もあったけど私としては演劇科の学生のいろんな問題を学生に文句を言うどころか、むしろそれを片付けていく事が私の出来るお手伝いになればと思ったわけで。ですから私の下でいっしょに働いていた西川君(旧姓丸山さん)やら大森君(旧姓児玉さん)が「石母田さん、また!!」っていつも冗談混じりにやられてましたけどね。(笑)

福) 石澤秀二先生は。

石) 石澤先生は学生の一人一人についてね。いろいろ助言と言うか指導と言うかをやってらしたのが印象としてありますね。青年座の演出家としても活躍してらしたし。何よりも学生を信頼してらっしゃった。

福) 山内泰雄先生は。

石) 少し後から入ってこられたのを記憶してるんだけれど、まっすぐな方というのが私の印象。とても熱心に教えてらしたのを覚えてますよ。

福) 木刀を持ってね。(笑)    大橋也寸先生は。

石) 大橋先生からは学ばせてもらいましたよ。直接の関係はないんだけれど、権威とかを認めない、本当にひたむきさというんですかね。当時は大橋先生と渡辺浩子先生が注目されてましてね。私は大橋也寸さんのひたむきなところが好きだったんだな。もっとも学生には一番怖がられていたけどね。(笑)

福) 大橋先生は本当に怖い先生でね。(笑)

石) ある時、夜残業してたらね。大橋先生が来られてね。それで私が残業の時には飲みに行ってる『水仙』っていう居酒屋へお連れしたんですよ。安くて美味い焼き鳥屋。そこでね、私は生意気にも大橋先生に説教したことがあるのよ。

福) へエー、あの当時大橋先生に説教された方がいらっしゃったなんて、よっぽど勇気のある方、いや驚きました。(笑)

石) 酔いに任せてか「大橋先生ね、貴女も演出されるんだったら、ここはみんな労働者が来てましてね、。ヒクッ、金のない連中がね。こういう世界もご存知ないと、やっぱり演出は出来ないんじゃないんですか。」とね。

福) 石母田さん、偉い!!よく言っていただきました。(笑)

石) お連れしただけで良かったのに、余計な事を行っちゃってね 。まあ言いやすい雰囲気だったんでしょうね。でも私は大橋先生が好きだったもんで。だって率直だしね、ひたむきだし、また権威を認めないのがまたいい。

福) らおもてがないですものね。もうそのまんまですからね。先だって大橋先生が、当時石母田さんに焼き鳥屋さんに連れてってもらった事を大変感謝してらっしゃいましたよ。

石) 覚えていただいてたのかしら。

福) ええ、大橋先生はあの時、生まれて始めて焼き鳥を石母田さんにご馳走になって、「給料の安かった私を誘ってくださったんだ。」って。とっても感謝してらっしゃいましたよ。いいエピソードですね。

石) 恐縮ですね。いやいや申し訳ない。

福) 他にも大勢の先生方が桐朋の草創期にいらっしゃいましたよね

石) 善竹十郎先生なんか学生みたいだったしね。

福) ええ、正真正銘の。一期生を教えてらっしゃった時はまだ早稲田の。

石) ああそうでしたか、道理でね。でもよく通ってらっしゃいましたよね。

福) 今でも現役で桐朋で教えていらっしゃいます。
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 ■ 「桐朋演劇科を築いた人達。第9弾!
     石母田さんに聞く」



石) それはすごいね。狂言でいうと大蔵彌太郎先生はいつも和服で、背筋がビシーとしてらして、お声をかけるこっちまでかしこまっちゃうというか。でもね今考えると、桐朋の演劇科っていうのは素晴らしい方々が集まってこられてたんですね。その道の一流の方々が集まってこられてた。

福) そういう事ですよね。今あれだけの方々を集めるとなると大変な事ですものね。さて、一番お世話になったのは我々学生なんですけど、石母田さんは一期生から六期生ぐらいまでを主にお世話されましたよね。 まず一期生はどういう連中でしたか。石母田さんから見た。

石) 世間ではね、初めて大学という制度において、舞台俳優を創る、金の卵だと。これはね、一期生全員が意識していたと思いますよ。業界でもそのように見ていたしね。ですからそれだけにみんな気負いみたいなものを持ってましたね。もちろんそれに対するひたむきさとか、まあそのために少しは逸脱するところもあったでしょうけれども。学校内のいろんな規則とか、世間の常識とかということから多少はみ出る事もあったでしょうけれど、とにかく素晴らしい連中のね、集まりだったと思いますよ。これは一期生だけに限らずね、私は最近の期の事はわかんないけれども、私の知っている範囲の期は癖はみなありましたよ。だけども何べんも言うようだけれど、ひたむきさというものをね、みんな持ってましたよね。こういうひたむきさを持つ若者が増えれば、日本は安泰だと思いますよ。

福) 一期生の卒業公演は田中千禾夫作演出の『8段』だったですけど、そのパンフレットの表紙に、学生一人一人の写真に混じって石母田さんの写真もありますけど『8段』の卒公のことは覚えてらっしゃいますか。

石) 覚えてます。演劇についての見識があるわけじゃないけど、ただ感じとしてはね。本当に素晴らしくここまでなったもんだと思いましたよ。最初は全くの素人だったみんながここまで演じられるようになったのを観た時には涙が出ました。そして誇らしげな気分になりましたよ。なつかしいねえ。なつかしさのついでに言うとね。学生同士の男女関係が良く聞こえて来るんだよ。(笑) 相談も受けたしね。IK子君なんかも相談に来たなー。いろいろ余計な事をつい言っちゃってたかも知れないね。(笑)

福) この続きはオフレコとしておきましょう。(実際のところ、一期生の相関図?が次々と出てきました。コワイ、コワイ)    二期生の想い出は。

石) 印象に残ってるのは桑山正道君かな。彼は最初から舞台監督志望と言うか。 裏方志望で入ってきてね。黒足袋に雪駄といういでたちで。それと腰にはガチ袋にナグリでしょ。いや様になってたよ。それと彼は舞台監督だったから私のところに金を取りに来るわけですよ。舞台の大道具とか小道具を作るといってはお金を取りに来る。そんな関係でね。偉いと思うよ、徹してやってたからね。中々できる事ではないと思いました。女子では杉浦悦子君が優秀だったね。 あと志賀廣太郎君、彼も成績優秀だったね。

福) 志賀さんは、講師として今も桐朋で教えてらっしゃるし、青年団の役者としても大ブレークしてますからね。われらの鏡ですよ。    三期生に行きましょうか。

石) 森田由紀子君かな。彼女はよく私のところへ話にきててね。当時は学生と職員という垣根があまりなかったからね。みんな気軽に話しに来てた。可愛かったなー。ひょうきんなところがあってね、話が面白いんだよ。よく笑わされた想い出がありますよ。卒業した後も『女ねずみ小僧』に出てたときなんか、孫みたいに思えてね。ハラハラドキドキして観てましたよ。男子の伊東辰夫君はね、堂々として願書を持ってきたのを覚えてますよ。そう言えば偉そうな感じの学生がいっぱいいたね。(笑)

福) 辰夫さんは歳も上でしたからね。そりゃー存在感ありますよ。(笑)

石) 四期生あたりからかなー。現役が多くなってきたのは。

福) そうです。私も現役で入りました。四期生の卒業公演で飯沢匡作田中千禾夫演出『五人のモヨノ』では石母田さんの名前が制作として始めて載ってますね。

石) そうだったかね。やっぱり嬉しいですよ。四期は真面目な連中が多かったね。福永君もそうだったよな。

福) いえいえそんな事ありませんよ。お世辞でもそう言っていただけるのはありがたいですけど。(笑)

石) よくロビーのところやらで師匠の今村民治君に日舞を教わってたよねみんな。今村君は前進座で藤川矢之輔で活躍してるけど、年賀状をもらったりしてましたよ。本当に真面目だね。

福) 今度会った時によく言っておきますよ。 五期生は、これまたいろんなやつがいましたよね。

石) あの当時は学生運動、盛んだったからね。

福) そうです。私もやってましたけど、五期がスト権確立とか、校内デモから仙川駅までのデモ行進、それから国際反戦デモに参加したりしてね。杉村治司、千田孝之、坪井重道とか堀内正美。闘士がゴロゴロいましたよ。

石) 中でも堀内正美君とはね。彼は郵便番号制度粉砕闘争を中心になってやってたんですよ。その時私は名簿を作成しててね、でストップしちゃったわけですよ。何べんも話にきましたよ。どんな風になったのか忘れましたけど、よく話をした覚えがあります。みんな血気盛んな若者だったからね。まばゆく輝いて見えたね。

福) 六期生はどうでしたか。

石) 一つエピソードを話すと、真野苑子(真野響子)君かな。若い男の人がね「真野苑子さんの学生証を拾ったので本人に直接渡したい。」これはイカンなと思って。ちょうど真野君が真野響子として民芸から売れ出した頃でね。今で言うストーカーみたいな事になると困ると思って、本人に電話したら「落としたんです。」って言うから「卒業したら学生証は返却することになってるんだよ。どうして持ってたの。」って聞いたら「記念として持ってました。」ってしょうがないなーと。それで拾った男の人には学校へも持ってきてもらって、それを私が真野君に送ったのかな。よく覚えてないなー、今となっては。(笑)

福) えっ、学生証を学校に返却しないで、真野君にまた送ってしまったんですか。

石) だって記念にとっておきたいって言うんだもの。

福) やはり石母田さんは女性には甘い。しかも綺麗な女優さんには。

石) その通り。やっぱり美人はいいですよね。癒されますよ。(ここで隣におられた奥様がやれやれというお顔をされておりました。幾つになっても男というのは・・・・という風に)

福) (実は驚くほど、ほとんどの学生の名前を覚えてらっしゃいまして話が弾みましたが、紙面の関係上、代表的なエピソードを載せることにしました。あしからず) さて、一番気を使っておられたのは、やはり卒業公演だったと思うんですが。

石) 私の役目は受付でしょ。芝居自体をゆっくりとは観られないわけ。無事にお客様には入っていただいて、無事に終わればということだけで精一杯。

福) お客様が観終わられて出てこられますよね。そのときの様子から。

石) そう、みなさん何か上気したような顔で満足して出てこられた顔を見るのが私にとっては最高の幸せでしたね。途中で帰られる方はいらっしゃいませんでした。みんな熱演でしたからね。

福) 先生方としても、むしろプロよりも学生達に演出した時の方が学ぶべきものが多かったっておっしゃってましたしね。

石) ただうまいとか、芸だけじゃなくてね。やはり訴えるものがないとね。 いや先生方もそう思ってらしたと聞いて、いい話だなと思いました。

福) さて、桐朋を終えられて26年になりますけど、石母田さんにとっての桐朋、 桐朋演劇科ってのは。

石) 桐朋での11年間は私の一生の中で一番の素晴らしい期間でしたし、いろんな経験もさせていただきました。そして何よりも老後を過ごす楽しみを与えてもらったと思っています。これはお世辞じゃなくてね。

福) 最後に来年は90歳になられる石母田さんですが、長生きの秘訣を。月並みな質問ですけど。

石) やっぱり規則正しい生活じゃないですかね。(この後は奥様の発言です) 朝6時に起きて7時に朝ご飯、12時になれば昼ご飯、夕方は6時に夕ご飯と、時間どおりに。床に入るのは9時前です。毎日この繰り返しです。

福) なるほど、規則正しい。

石) それとね、人に頼まれて新聞の切抜きをやってます。これも励みになるかな。一番思う事は、桐朋時代に若い演劇科の学生の一人一人の勢いやひたむきさに感銘した事が、リタイアした私の長生きの秘訣と言えば、それが本当の秘訣ですかね。ただ最近は老化が激しくて、もし事実と違う事を言ったとしたらお許しくださいね。

福) ありがとうございました。今後とも益々お元気で90歳を超えて100歳目指して、どうぞ元気でお過ごしください。今日は長時間のインタビュー本当にお疲れ様でした。

<インタビュー後記>
10月26日、小雨の降る仙石線、陸前山下駅に降り立ちました。そこに石母田さんがわざわざ迎えに来て下さっていました。私にとっては32年ぶりの再会です。忘れもしません。私が結婚をする時、妻(森田由紀子3期)の住んでいた若葉町二丁目のアパートから上祖師谷六丁目のアパートに引越しをする時のことです。石母田さんにお願いして学校のリヤカーを借りた事を。引越し代をうかすために二人でリヤカーで引越しをしました。卒業後も暖かく応援していただきました。インタビューはご自宅で、お昼ご飯まで用意していただき、夕方6時近くまでお話をうかがいました。89歳の石母田さんですが昔とちっとも変わりませんでした。ちょっぴりの東北弁がとてもなつかしく、あの頃一杯一杯面倒をかけた事が昨日の事のように思い浮かびました。悪童の名前がポンポン出たりして、また青春の淡い恋物語を石母田さん流に見守っていただいていた事、話はつきませんでした。長生きの秘訣として、桐朋でのみんなとの出会いが活力になっているとおっしゃって下さったのにはとてもありがたく受け止めております。学校では演劇を学びましたが、その授業以上に石母田さんの生き方そのものが今の私の肥やしになっています。教わると言う事は、その人の生き様の有り体を体感する事なのでしょう。いつも桐朋演劇科を支えて下さっていた石母田さんに改めて感謝、感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。
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 ■「桐朋演劇科を築いた人達。第7弾!
    柳 昭子先生に聞く」



聞き手 福永典明(四期)
* 文頭の柳は柳昭子先生、福は福永の略です。
* インタビューは平成16年9月22日桐朋学園芸術短期大学会議室にて収録しました。

福) 宜しくお願いいたします。まず柳先生と桐朋演劇科との出会いからお聞かせください。

柳) 私が桐朋でジャズダンスの指導を始めたのは、1972年だったと思いますが、その頃はまだ現役のダンサーでした。フジテレビの「ミュージックフェア」という番組に出演していた時に、NHKの「ステージ101」という番組が始まるので、それに出ることになったのです。それでフジテレビの番組を離れるなかで、当時のフジテレビのプロデューサーからお話をいただいたのが最初のきっかけなんですよ。

福) フジテレビからNHKに移られる時にですか。

柳) そうなんです。不義理をしたにもかかわらず・・・。でもそのプロデューサーから「桐朋でジャズダンスを教えてみたら」っていう親切でありがたいお話でした。それがどうして私のところに回ってきたのか、いまだに分からないんですが、千田先生が「赤毛ものの芝居に似合う身のこなしが出来るようにジャズダンスを」と考えてらしたのが、人から人へ伝わって、私のところへ来たのかしら。(笑)

福) へエー。

柳) 面白いお話があるんですよ。大きい声じゃいえないんですが、なんていうんですか。ギャラとはいわないですよね。

福) 講師料ですかね。

柳) そうそう、その講師料を最初にいただいた時、一回分だと思ったら、実はひと月分なんですよ。紹介してくださったプロデューサーも、勘違いなさってたと思うのですけど。(笑)

福) ハアハア、あの0が一つ違うとか(笑)

柳) 違うんですよ。研究室でしたかね。「あの、これギャラはいりません」って。(笑)イヤミじゃなくていった覚えがあるのです。(笑)

福) そうなんですよ。どなたに聞いても、桐朋はとにかく安かったと。

柳) いえ、いえ。他の学校も安いですよ。でも芸能界から来ましたでしょ、突然ね。(笑) それで、現役のダンサーだった私が最初に教えることを始めたのが、ここ桐朋だったんですよ。(柳先生は現在、桐朋のほかにも日本女子体育大学舞踊学専攻講師、作陽短期大学音楽科特任教授、また日本ジャズダンス芸術協会最高幹事、日本振付家協会理事、そして柳昭子ジャズダンスシティ代表としてご活躍なさっています)

福) 最初の授業って覚えていらっしゃいますか。

柳) 覚えてますよ。幼稚園みたいな木造のところに大勢生徒がいましたね。自分が若かっただけじゃないと思うんですが、あの頃の生徒さんの方が、今より大人っぽくてしっかりしていた感じがしますよね。

福) 33年前、木造の、それこそプレハブ校舎から今の地下の立派なレッスン室まで、ずーと教えてこられたわけですけれど、ここまで続けてこられて、いかがでしたか。

柳) 私の周りは全部プロだったわけじゃないですか。ですから最初の頃の点数は厳しかったと思います。最近はとても甘くなってますけどね。(笑)

福) 「自分の目線の基準が、周りがみんなプロダンサーでダンサー志向の人ばっかりだったから。

柳) そうそうそう。

福) 桐朋で教えるのは演劇志望の連中ですものね。

柳) でもね、昔教えた人達はしっかりやってましたね。みんなシャッキとしてて。

福) 長く続けてこられた要因として、生徒が真剣に聞いてくれてたという。

柳) そうだと思います。余談ですけど(と言ってニコニコされながら)実はね、私、桐朋で教える前にね。桐朋の二期生だったか三期生だったか、電車の中でナンパされたことがあったんですよ。

福) ホー!!!!

柳) 電車の中で声かけられて、ちょうど私が降りる駅だったので、とりあえずそこで降りて、お茶を飲んだんですけどね。顔忘れちゃった。(笑)

福) 本物のオファーが来る前に、桐朋とは赤い糸で結ばれていた!!!!(笑)

柳) 時々想いだしてね。あれは誰だったんだろうと・・・。卒業して俳優座に入るんだとかいってましたよ。

福) 該当する人は、ITさんか、OTさんか、NSさんか。面 白いですね。ドキドキします。(笑)ところで入られてからの、先生方との出会いと言うのは。

柳) 体操の石橋泰先生とは、今も親友ですね。大橋也寸さんとはとても良く行き来していたんですよ。

福) そういう交流っていうのは、ジャズダンスの世界とは、又違いますからね。

柳) そう、全然違います。ジャズダンス界のほうがお友達が少ないくらい

福) 別 のジャンルの方が、話がしやすいとか、ありますからね。

柳) 女の先生ばっかりでしたけどね。(笑)

福) 千田先生はいかがでしたか。

柳) 千田先生は面 白い、いい先生でね。やさしい先生でね。お酒まで誘ってくださって。

福) 仙川のお店ですか。

柳) いいえ、六本木です。

福) 女性には特に優しいですからね。千田先生は。

柳) 本当にピンク色の肌で素敵な方でしたよね。桐朋でダンスを教えるようになってからは、千田先生の飯倉のスタジオをお借りできたりして、そこで教えたり、それから千田先生のお芝居の振り付けもさせていただいたり、色々な経験をさせていただきました。

福) では、学生との出会いと言うか、先生のジャズダンスに共感すると言うか。


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 ■「桐朋演劇科を築いた人達。第7弾!
    柳 昭子先生に聞く」



柳) はい、六期生の新野加代子さんが、卒業してからも習いたいといって「私が生徒を集めて場所も見つけますから教えてくれませんか」と言ってくれて、それでその新野さんと、二期生の安倍玉絵(岩浅玉繪)さんがいっしょになって、いろいろな処で教えるようになったんですよ。それが私のスタジオを持つことになった原点かも知れません。

福 )きっかけって言うか。

柳) 自分から何かをする気はなかったものですから、あの人たちのおかげですね。

福) 出会いがあって、そして背中を押されて。

柳) そう、特に新野さんなんか、それでうちのスタジオのインストラクターもして貰いましたからね。ダンスに夢中だったのでしょう。

福) そういう人が自分の教え子の中から出てくるというのは。

柳) そりゃもう嬉しいです。

福) 指導者冥利に尽きると言うか。特にジャズダンス専門の学校で教えたのと違って、演劇学校の中で教えた子が、付いて来てくれると言うのは違いますよね。

柳) そうそう。私のスタジオの公演の出演者の中に桐朋の出身者がいるんですが、そういうときはダンスだけしゃなくて、ある種の表現がやっぱり上手ですよね。

福) それはジャズダンスの中に演劇的なものがあった方がいいと。

柳) そう。リズムに乗って踊るだけの場合もありますが、情感の表現もありますからね。あった方がいいのです。

福) 逆にいうと、演劇教育の中におけるジャズダンスは。

柳) 兎に角ジャズダンスは、まずリズム感を養う。それは科白をいったりするとか、間をとったりすることに影響すると思うんですが、そのジャズのリズム感が、やっぱり日本人、いわゆる「あと打ちのリズム」が中々会得できないんですよ。例えば、黒人の子がニューヨークの通 りを歩いているだけで、ジャズのビートがあるんですよ。

福) 私も、ジャマイカに行った時に感じました。さりげない日常の動きからして違うんですよね。日本人にはないリズムが。

柳) そういうのをジャズダンスを通 して身につけることで、色々なことに役立つんじゃないと思いますけどね。

福) それが千田先生がおっしゃった「赤毛ものをやる時に必要だ」と言うのにつながる。

柳) そうそう。

福) さて、昔と今の若い人の違いと言いますか。

柳) 昔はそんなに姿勢の悪い人はいなかったんですけど、今は本当に姿勢が悪いですからね。

福) 体格はずいぶん良くなったんですけど、歩き方とか。やたら猫背になってたりして。

柳) ちゃんと伸ばしていれば、曲げるのは誰でも出来るのだからっていうのですけどね。この頃ヒップホップが流行っているでしょう。あれはその反対で、姿勢良くしていると似合わないダンスなんですよ。

福) だらしなくやるのがカッコイイ。

柳) そうそう。それがみんな好きなんですね。でもあれだけじゃ、どうにもならない。ちゃんとやっておけば何でもできるんだからっていうんですけどね。崩してるばっかりじゃね。それが色々なことに影響するんですよ。髪形とか、着こなしとか、歩き方とか、もしかしたら生き方まで。要するに「シャッキとせい!!!!!」といわなきゃなりません。

福) 狂言の善竹先生もおっしゃってましたね。キチンと座って話を聞くのが出来ない。

柳) それってまず、おうちの躾けでしょうね。

福) 教える前の段階から、実は教えなくっちゃいけない。

柳) 本当に困ったものですよね。

福) ただ、今は昔と比べて、いろんなものがあふれていると言うか、演劇教育の中でも、その基礎としての科目が、凄く増えている。あまりにもやる事がたくさんあり過ぎて、かえってどれもうまくいかないって言うか、そういう弊害っていうのも。

柳) その通 りです。まあ何にも知らないよりは少しでも知っていた方がいいかも知れません。難しいところですね。でも優れた先生が大勢いらっしゃるし、素晴らしい出会いや、優れたものに接する機会が沢山あるから一概にいえない。.判断とか、観察力がつくのではないでしょうか。

福) 教える側として、いろんなジレンマが。

柳) あります。あります。これは私一人が怒っているのかなとか、伝わっていないのかなとか。でも反対に、諦めたり怒らなくなったりする自分を、これでいいんだろうかと思ったり、怒っている自分がバカみたいに思ったり。この間も発表会のリハーサルの時に、「もういいか」って、私がちょっと諦めた言葉を発したら、みんなが「エーッ!!!!」っていうのです。「ああそうか。やっぱりうるさくても、いってもらいたいのか」と思いました。

福) そういうのは教える側としては、励まされる。

柳) そうです。嬉しいですよね。教えることは本当にお勉強になりますよね。誰でも同じことをおっしゃると思うんですけど。

福) そういう意味でも、33年間永く続けてこられたんだと。

柳) そうなんです。

福) 最後に、教えてこられた学生達へのエールをいただければ。

柳) 桐朋は、皆さんが考えているよりも、ずっとずっと素晴らしい学校なのです。だから、自信を持って、誇りを持って行動してください。

福) 今日はどうもありがとうございました。

<インタビュー後記>  
9月22日の夜、翌日の演劇専攻実技ジャズダンス発表会のゲネプロの前に時間をとっていただいて、お話をうかがうことが出来ました。少し風邪気味のところをおして、恵比寿のご自宅から仙川まで駆けつけていただき、本当に恐縮しております。後日私の同期(四期)の新井令子に桐朋に来られたばかりの頃の柳先生の事を聞いたところ、その当時、ミュージカルがやっと日本でも始まったばかり、そんな時に待望のジャズダンスの授業が加わって、小躍りして喜んだことや、ジャズダンス=柳先生と。桐朋で出会えたのは大きな宝物だった事を語ってくれました。あのチャーミングな微笑と、そしてダンスで培われたプロポーション、今でも塀を乗り越えるおてんばサンぶりは、全く変わっていらっしゃいません。どうぞこれからも、桐朋演劇のためにお力を頂ければと、卒業生の一人として、強く感じました。長時間にわたるインタビューにお付き合いいただき、本当にありがとうございました。 ここには掲載しませんでしたが、オフレコの話もいっぱいしていただいて、とっても面 白かったです。これだけはインタビュアーの役得です。
 追記、六期の新野加代子さんからの手紙です。
「当時、柳先生の授業は3年(専攻科1年)からの選択科目で、まだ2年の私は受けられなく、早く受けたくて窓からよく覗いていました。卒業してからも先生に教えて欲しく、公民館など、場所も転々としながらでしたが、先生は文句も言わず教えてくれました。先生自身はもちろん、ダンススタイルといい、ライフスタイルといい、全てがカッコよく、憧れの人でした。桐朋から現在まで、どんな時も結局支えになるのは、柳先生のもとでダンスに励んでいた時のことです。公私共に本当にお世話になりました。いろいろなことが思わず思い返されます。あらためて柳先生との出会いは私にとって特別 なことだったと感じています。あまりに色々な想いがあり、言葉になりません。先生ありがとうございました。」以上です。


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■ 「桐朋演劇科回想録 桐朋演劇科を築いた人達 第六弾
    善 竹 十 郎 先 生 に 聞 く 」



聞き手・4期 福永 典明  聞き書と写真・5期 吉川 浄

* 文頭の善は善竹十郎先生、福は聞き手の福永の略です
* このインタビューは平成16年6月29日(火)、駒場にある善竹先生の稽古場にて収録したものです。

福) お忙しいところお時間を割いて頂きまして申し訳ありません。幾つかお話を 頂きたいと思います。先生は現在もずっと桐朋で狂言のご指導をなさってい らっしゃいますが・・・。

善) そうですね、昭和41年に桐朋学園に演劇科が出来まして、伯父の家元(故 ・大蔵彌右衛門)が狂言を担当する様になって・・・私はその時まだ早稲田 の4年生だったんですが、42年の2期生から正式に依頼され、受け持つ様 になりました。1期生が1年生の時の発表会や試験の時とかね・・あの時は 早稲田の詰襟を着て桐朋に行って、木造北校舎の生江先生の学長室で着物に 着替えた記憶がありますね。そもそも私が桐朋に関わったのは、22歳の時 ですからその頃の1期生・2期生は、他の大学を卒業されて桐朋に入って来 られたという方達が沢山いらっしゃいましたね・・・。私より年上だった方 達が何人もいらっしゃいました。 

福) 39年前、先生が始めて桐朋でご指導された訳ですが、その頃の第一印象は    どうでしたか。

善) 私自身は恥ずかしながらお芝居の世界は限りなくゼロに近い程知らない人間 でございましたね・・・。能楽の世界でも百知らなくては一人前じゃないところを、二十位 でしょうかねぇ。まだまだ若僧でしたね。

福) 先生の方が年が若いと、正直教え難かったという事はおありでしたか。

善) 年齢を考えた場合には教え難い感じがあるでしょうが、そういう事より短い時間内で狂言というものを修得して頂くには、どうしたらいいだろうか・・という事を考えるだけで頭が一杯でしたね。当時奇数期をお家元が担当し偶数期を私が担当するという事になりました。そこで張り切って私が一年間 のカリキュラムを作り、お家元に見て頂いたら「こんなに簡単にできる事じゃないよ!」って一喝されました。「そうですか・・『盃』一ヶ月じゃ教えられませんか・・なんてね(笑)・・。知らない事ずくめの私でしたから。 そんな教える内容の乏しい状態で私がご指導申し上げた訳ですから、今思うと皆様方に申し訳なかったなぁ・・と。今ならもっとあの時にいい事を色々お話しできたのにと思っておりまして。福永さんやら吉川さんに改めてお詫びを申し上げる次第ですが・・・(笑)。でも今思うと色々な方がいらっしゃ って「口を大きく開けろ」なんていうと「私はそういう事はしたくない」な んて逆らうような事をいう方がいらしたりねぇ・・。

福) 実際ご指導されている時に、頭で考えておられた部分と現実とのギャップなんかはありましたか。

善) いつの時代も同じでしてね・・、我々の『響(ひびき)』というものと皆さん方が習っている響と、まぁ特に洋楽の教育が多い訳ですから、和の発声とい うものの体系づけというか、洋楽の方が体系づけ、論理づけが昔から世界中 で発達してる訳なんですね。和のものは非常に遅れてるんですよ。分かり易 くいえば民謡なんかでも音符なんかが、皆に分かるようにできないとね。 我々の能狂言の方でも、音符もどきの教材というのが近年増えてきましたけ ど。

福) 能狂言の発声は、桐朋に入って初めて習う人が殆どでしたし、小さい頃からの発声は洋楽というか音楽の中での発声でしかなかった訳ですから、そこに和の響というか、下っ腹に力を入れて発声するというのは、ある意味新鮮だった覚えがあるんですが。
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■ 「桐朋演劇科回想録 桐朋演劇科を築いた人達 第六弾
    善 竹 十 郎 先 生 に 聞 く 」



善) 面 白い話がありまして、昭和三十年代に小学校を卒業した人達が桐朋に入りますと、体罰を受けた・・例えば何か悪い事をして校庭を何周か走るとかバケツを持って廊下に立ってるとか、そんな体験を持った人達でしたから『正座』が体罰に近いものみたいに感じられたんでしょうね。私の授業は必ず最初は40分位 正座して頂かなくてはならないものですから、イメージとして「えー!正座させられるのー、だったら狂言は選択しないわー」みたいな事もありましたねぇ・・。今は10分か15分単位 で足を崩させますが。 「あー、いててててー」とかね。「いててててじゃない!ちゃんと三つ指付いて「失礼します」といってから足を崩しなさいと言ってるんです。足を伸 ばしている間に、私達の能楽の世界の話とか、体験した話とかを話したりし てね。高度成長期にお生まれになった方々は、日系4世に教えているのと同 じ感じで、殆ど正座を知らない、正座の経験がない、私の授業が初めてだっ たとかね。日常生活自体が椅子・テーブルの生活ですから、正座して物を食 べたり字を書くという事は有り得ない。その上寝る時はベッド、トイレは洋 式・・。外人さんも教えた事がありますが、殆ど同じですね。そんなこんな で長時間正座をさせるのは酷であると、こちらが判断致しまして少ない時間 だけ正座をして頂くように致しました。

福) 興味深いお話しでしたが、狂言を教わる中で正座が一つの文化のバロメーターみたいですね。

善) 興味深いといえば、こんな話しがありましてね。以前体育の先生方にお話しを伺ったんですが、・・そうですねぇ1・2・3・4・5期・・兎に角その頃 の人達は転んだ時に手を付かないでそのまま頭からドーンと転ぶ人が多いという話しで、これは這い這いしないで歩行機を・・あの頃は多分輸入品だと思うんですが、這い這いをあまりしないで歩行機で歩いていたり、座卓が家庭から無くなっていきなりテーブルになったものですから・・、座卓だと立つ時座卓に手を付いて立ち上がりますが、テーブルだと手を付かずに立てますからね。手を付く動作が、生まれてからあまり無いという事から、転んでも頭から落ちるんだと・・・。

福) そうだったんですか・・。あまり意識せず今日まできましたが。話しが前後して恐縮ですが、私達の時は正座して捻挫したり骨折したりしてましたね。

善) そうそう覚えてますよ。お家元にひどくお叱りを受けました。それもあって正座の指導を考え直しましたよ。・・・昭和41年に早稲田大学150日闘争が出来まして、それが全国に広がって安田講堂の東大の方まで飛び火して行って、その後終焉を迎えた訳ですが、全共闘盛んなりし頃、3期生あたりだったと思いますが、時間割(試演会・実技発表等)の間隔が狭くとてもそれじゃ出来ないという事で、実技発表会のボイコットをされた事がありまし たね。それ以後10何期生以降に、又元のスケジュールに戻ったんだと思い ます。学生運動の盛んな時に桐朋でも同じような事が起きた訳ですが、私が狂言指導で参加させて頂いた田中千禾夫先生の『八段』で、「安保反対」を 「安保ふんぷん」というふうに変えられたり、その後、「核廃絶」問題が起きた時は「安保・・」を「核廃絶・・」に変えられたり、非常に的確でしたね 田中先生は・・。又その頃は世の中の時代背景が、芝居の中にも反映され時代と共に芝居も同時進行していったという感じでしたね。・・私は何も自慢出来るものがないんですが、あえて云わせて頂けるならば、非常勤講師として一番長く桐朋に関わらせて頂いておりますが、兎に角桐朋の芝居を最初から今日まで沢山観させて頂き、参加させて頂いている人間だと思っております。

福) 実技発表会をずっとご指導されてこられた中で、何か変化みたいなものはお感じになられてますか。

善) 学校の体制が変わって来てますね。まず、俳優座に入る為には桐朋に入らなければならないという大前提が無くなりましたよね。もう俳優座色を前に出さないでいるというか、どんな方向にも行ける役者を育てているというか、目標が以前の俳優座から変わって来ているというか・・。変化の一つだと思いますね。それから今までの必修を選択にしたという、システムの変化ですね。色んな実技がありますが、大体において短時間でそれなりの知識や技術を身につけるということは、至難の業なんですよね。だからといって実技の時間を多くしても、今度は様々な他の分野の授業に支障をきたしますから、非常に難しい問題だとは思います。ほんの入り口を覗くだけという状態は否めない事実ですが、その短い時間の中でどれだけ分かり易く且つ充実した授業が出来るかが私自身に対する挑戦でもありますね。ただ悲しい事も多々ありましてね・・、色んな劇団の幹部の方達は私が桐朋で授業を持っているのをご存知ですから、時々飲み屋さんなんかでお会いすると「善竹先生、もっとちゃんと生徒を教えてくださいよ!着物一つ、帯一つ、袴一つまともに着ることが出来ないで卒業して劇団に入って来るから困りますよ!」ってお叱りを受けるんですが、弁解するつもりもありませんが、やはり入り口だけ覗いて卒業していくという事が、世の中に出た時、様々なしわ寄せになっ て撥ね返って来るんですよね。そしてその指導者たる私がいつもお叱りを受けるんです(笑)

福) 本当に最近の男性含め女性の方達は、着物の着方、着こなしが出来ないですよね。お祭りなんかに行っても、だらしなくユカタを着てる若者達をよく見かけます。でもせめて演劇科の現役含め、卒業生だけはちゃんと着こなして頂かないと、卒業して時代劇もやるんでしょうし、スタッフや共演者達に笑われますよね、悲しいかな・・。

善) 話は違いますが、今年始めに亡くなったお家元が「芝居は狂言の様な大きな声を出したらダメになるそうだ・・」って仰るんで、どういう意味ですかと伺ったら、「新劇の人達は我々のようなこんな声は通 用しないと仰るんだよ」って・・。日常会話のお芝居と、我われの様に室町時代から野外でマイク無しで音響効果 の悪い所でやっていたお芝居とはおのずと違う訳で、大きくお腹一杯息を吸ってゆっくり大きな声で間を取りながら喋らないとお客様に伝わらない。ところが、特に最近の日常会話はテンポが速いし、音楽でも漫才でも速いテンポが好まれる。求められる時代背景にもよりますが・・。

福) だんだん基本的な発声にしろ、立ち居振る舞いなんかがないがしろにされてうわべだけの芝居が増えて来ているという感じもしてるんですが、やはり根本的な基礎が出来た上でのアレンジですよね。

善) 仰る通りだと思います。まぁ、能の故・観世寿夫先生や故・銕之丞先生方が 青年座の人達やなんかと始められた「冥の会」なんかで、ギリシャ悲劇の 『オイディプス王』等をやられましたが、あれも一つの新劇界への挑戦みた いなものだったのかも知れません。能を飛び越えて能の可能性みたいなものをお芝居の中に求められていたんじゃないのかなーと思いますね。
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