二大政党制に文句あり

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二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書)/吉田徹

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長らくの自民党政権が倒れ、民主党が与党となった。相変わらず俺は民主党、というか鳩山首相が嫌いで、所信表明演説とか何を言っているのかさっぱり解らず、不透明な政治資金がどうのという質問への回答もさっぱり何を言っているのか解らず。とにかくあの人は何を言っているのかがさっぱり解らない。国民を代表してものを言っているはずなのに、ここまで何を言っているのか解らない人で大丈夫なのかと心配になる。
だいたい、選挙やる時のスローガンが「政権交代」ってのはおかしくないだろうか。これは入社試験で、「我が社でどんな仕事をしたいですか?」と聞かれて、「社長になりたいです」というようなものだ。

そんな訳で政治への関心が高まっている俺だ。
なんだか二大政党制なるものが理想であるというような妄想があって、その二大政党が交代で政権を担うのがよろしいと言われているが、本当にそうなのか、という疑問がある。今回の選挙でも、自民党に投票するのか、民主党に投票するのか、という二者択一的な雰囲気がぷんぷんした訳だが、実際どうしようかと考えてみるとどちらにも投票したくない。自民党も腐っているが民主党も頭が悪そう。どっちも嫌なのに二大政党政治の実現とか言われてどちらかを選択しなければならない、その2つしか選択肢がないとすればこんな不幸な事はないな、と思ったのが始まりだ。とりあえず「みんなの党」というのがいたので、それが良いかとも思ったが、「みんなの」なんていう日和った名前の政党では信用できない。社民、共産党は論外だし、国民新党って何それ、うまいの?的状況だ。こんなんでは二大政党制なんてダメだと気付いた。
単に世の中と反対の事を言いたかっただけかも知れないが。
とにかく、今の世の中、個性の時代だ、多様化の時代だと言われて久しいのに、何故に政治は二者択一こそ美しいなんて時代錯誤的な事がまかり通っているのだろう。時代に合わせて、多党政治こそが民意を反映できる体制だと思うのだが。むしろ政党なんていらん。直接民主主義をそろそろ考えても良いじゃないかと常々思っていた。
そんなところに先日の朝まで生テレビで、東浩紀なる人が、今の世を憂えてばかりいても仕方がない。それを解決できる様な未来を描こう。直接民主制なんていかが?という発言をしたので大興奮だ。
良いじゃん、是非それ考えようぜ、となったのだが、如何せん、俺は政治というものをさっぱり解っていない。考えたら大学でも政治学なんて講義があったかどうかすら不明だし、我が家の本棚にも政治学的な本なんて1冊もない。記憶にある限りでは、銀英伝の中で、腐った民主主義と名君の下での専制政治なら後者の方が幸せかもよとヤン・ウェンリーとか言ってたくらいが精々だ。これはまずいね。あなたの政治思想に影響を与えたのは誰ですか、と聞かれて、ヤン提督ですとか答えたらかなり失笑ものだ。

なので、本屋でこの本を見つけた時は、ちょっと嬉しくなった。ただ、正直言って政治学とかあまり興味ないし、買うかどうかは少し迷った。でも、どうせ新書だから大して難しい事も言わんだろうし、と気楽に考えて読んでみた。


中身は、日本の政治史の歴史がかなりの部分を占めている。説明としてあるべきなのは解るが、そんなに細かく書かんでもいいんじゃなかろうかと思う。正直興味ない。

面白いのは3章の「二大政党制の誤謬」、5章の「もうひとつのデモクラシーへ」の2章だ。

ごちゃごちゃと色々と書いてあるが、本書は二大政党制と小選挙区制について書いてある。日本の政治はこの2つが正義だという事になっているが、それが必ずしも良いとは限らんよ、という話。多党制でも良い、というか世界的にはそっちが多い。イギリスのイメージに引っ張られすぎだ。
小選挙区制についても、かならずしもそれが最前とは言えない。1つの選挙区で1人だけ当選するのが小選挙区制だが、それだと当選した人以外に投じた票は死ぬ。そうすると、立候補する方も小さな政党からは出ないし、投票する方も勝ち馬に乗りたいから大きな党に投票する。すると小さな党も死ぬ。大きな政党だけになると、世間受けする事だけ言ってりゃ勝てる事になり、極端な主張や少数派は黙殺されるという仕掛けだ。比例代表制の方がその辺の民意の反映とか小政党には優しいので、そっちも良いかもね。どっちが優れているという訳ではない、と。

それはそのとおりだと思う。
だいたい、小選挙区で選ばれたという事は、その人物が選ばれたという事で、それなのにも関わらず党議拘束が優先するというのはおかしい。党議拘束をかけられるのは比例代表制で選ばれた人だけに限られるはずだ。比例代表なら政党本位で選んでいるので、政党に反することは主張できないのは道理だから。政党の言う事を聞かなければならないという仕組みならば、小選挙区で個人を選ぶことには全く合理性がないことになる。小選挙区と政策本意の政治というのは不可分という認識があるような気がするが、多分それは正反対なのだ。政策本意と主張するなら小選挙区は意味がないので全区比例代表にするべきだ。小選挙区で選ばれた者は政党より偉いはずなのだ。世の中ではそこが曖昧にぼかされている。
なのに、小沢一郎という人は、選挙で選ばれた議員の議員立法を制限するとか言う意味不明な事まで口走っている。あれ?国会って立法府じゃなかった?立法府が立法を提案出来ないんなら誰が法律作るんだよ。官僚か。脱官僚依存だったんじゃなかったのか?錦の御旗は。

そんな風にいろいろ不愉快な民主党なのですが、民主党はとにかく場当たり的にうまいことばかり言っているという印象が強い。それぞれの局面で耳に心地よい言葉しか言わないので、全体で見ると矛盾だらけになる。何より「耳に心地よい」というのが眉唾ものだ。民主党の言う事はとても「正義」のにおいがする。正しい事を言おうとしすぎと言ってもいい。誰が聞いても正しいものを目指しているからうさんくさい。政党というものがある集団の利益を代表しているという根本を考えれば、誰にとっても正しいような事を言うのは、そもそも存在としておかしい。本当ならば労働者にとって都合の良いこと、資本家にとって都合の良いこと、車屋にとって都合の良いこと、家電メーカーに都合の良いこと、というようにある特定団体にとって都合の良いことを主張するのが本来だ。なのに絶対的に正しい事を目指すからおかしくなる。そんなものはありはしないのだ。もしそれが理論的にあるのだとすれば、今すぐ政治は不要となる。あるのならばそれを見つければ良いのであり、見つかったのならばそれに従って行動するだけでいい。コンピューターにでも出来る事だ。政治が存在するという事は、絶対的なものは存在しないという事だ。なので、それはこの人達だけに有利じゃないか、と言われたら、それがどうした、と言い返せるくらいでないと。

しかし、時代は労働争議が盛んでもなければ、右と左がいがみ合っている訳でもない。これだけ世の中に不満が満ちあふれていて、世代間格差だとか労労問題だとか対立の軸が沢山あるのにそれを代表する政党ってのがない。もう政党はダメだ。役にたたん。政党政治の時代じゃないんだよ、と考えると次の民主主義についての妄想が始まる。
この本の中では「闘技デモクラシー」というのが一例として上がっている。民主主義の本義は「合意」にあるのではなく、「抗争」と「対立」にある。だから、民主主義という共通の土俵の上で闘い続ける事が安定につながる、というような話だ。解る話ではあるが、インパクトに欠ける。そもそもそういう戦いは声の大きい人が勝つようになっていて、声の小さい人をどうするのかという事も問題で、しかしそれについての答えはよく解らない。
それよりはIT技術を駆使して直接民主制に移行しようという話の方が夢があってよい。

しかし、これ、具体的にどうするのかというのがよく解らない。少なくともブログとかホームページで個人が意見の主張ができるとか、ネット投票で簡単に全員の意見が集約できるとか言う程度の話ではない。オバマのツイッターとかいうのとは次元が3つくらい違いそう。そんな簡単な仕組みで、かつ、国民1人1人に対して重たい仕組みでは実現できない。出来る人と出来ない人の格差もでかい。
東氏のイメージによると、ネットで餃子について調べると、翌日食堂に餃子定食が並んでいるようなイメージなのだそうだ。

多分、特に政治について発言をしていなくても、ネット上で活動した結果が日本全体で集約され、解析され、どういう事が大事なのかを自動的に重み付けをしてくれるような世界だと思う。SFみたいにマザーコンピューターがあって、それが全部決定するというような話でもないし、ネットで全国民がダイレクトにつながるというような話でもない。考えたり行動したりした事が勝手に蓄積され、答えがでる。グーグルの検索システムのもっとかなり凄いものというようなイメージなのだろうか。正直、それは可能なのかどうかも解らなければ具体的なイメージもわかない。ルソーの一般意志がどうのとか言っているが、さっぱりだ。

それについては東氏の言及を待たなければならないだろう。ただ、もしそういう本なりWebなりが出たとしても、それを読んで解るかどうかについてはかなり疑わしい。しかし、その内容が今、一番面白いのだと思う。もしそういうものが提示され得るのなら、それを読み解くのにルソーだのを読まなきゃ解らんというのなら、それを読んででも知りたい、理解したい内容ではある。もしそれが片鱗でも提示されるのなら、インターネットが経済に与えたインパクトなんて目じゃないくらいの凄い事になるだろう。IT技術の経済への影響なんてのは、所詮、ものすごい精度が高いという程度の話で、ベクトルは産業革命から変わっていない。しかし、政治の世界でそれが実現したのならば、これはもうまさに革命だろう。ベクトルがぐにっと曲がる。

それを知る事ができるのならば、今という時代に生まれてきた甲斐があるというものだ。
それは勉強してでも知りたい世の中なのである。
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日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)/内山 節

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昔話の定番としてキツネにだまされる話というのがあるが、現代の日本人はキツネにだまされるという事はない。1965年を境に日本人はキツネにだまされなくなったというのが本書の本題。

こういうタイトルを聞くと、民俗学とか文化人類学とかそういうものが主な内容なのだろうなと思ってしまうが、実はそうでもない。社会学的な話で、しかもキツネにだまされる日本人とだまされない日本人の違いについての考察はあまりない。本書を読んでも、何故現代日本人がキツネにだまされなくなったのかという「これだ」という解答は見つけづらいものと思う。
この本の内容はもう少し抽象的なレイヤーである。

現代の歴史とは何かという事や、旧来の日本人の世界観、自然観とその変質ということが主題。

なかなか面白い本だった。
特に日本人の持つ自然観と祖先崇拝の関係がよく解って良い。当然のことながら日本の宗教はキリスト教やイスラム教のような一神教ではなく多神教だ。八百万の神がどこにでもいるという世界観を持っている。氏神や祖先と同時に地の神様というか、例えば山の巨岩であるとか山そのものを神として敬うような宗教観がある。昔の人の考える事だからよく解らないと、それ自体をあまり不思議だと思っていなかった。
しかし、冷静に考えると少し不思議だ。祖先崇拝はわかる。自分達のルーツである祖先が大事なのは当然だ。巨岩信仰のように自然を崇拝するのもわかる。農耕文化とはいえ自然によって成り立つのが伝統的な社会なのだから、自然を敬うことはとても自然な感覚だ。解らないのは何故その2つが同時に成り立つのか、という事だ。もっと言えば仏教だって入り込んでいるし色々なことがごった混ぜになっている。それを日本人の曖昧さとか受容性の高さとか言って終わらせてしまえばそれまでであるが、どうもその背後に何かありそうだ。

日本人の自然観は西洋人のそれと違い、共生的であり支配する対象として捉えていないという事がよく言われる。確かに庭を見ればそれはそうなのだが、しかし、だからといって日本の自然が全く人間の手が入っていないのかと言うと、それは勿論違う。よく言う里山というのが日本人にとっての自然な風景なのだが、これは自然そのものではない。里山に住む人達が長い年月をかけて完成させた人工的な山や川であり、木や草であることはよく知られている。今風な自然環境原理主義者とも言うべき人達からすると里山も自然ではないのだろう。訳知り顔で、田んぼと里山の風景は自然じゃないんだぜ、と言いたくなったりもする。厳密に言って、確かにそういうのは手つかずの自然とは違う。しかし、これをこそ日本の自然、伝統的な日本人の考えている自然だと言う事が祖先信仰と自然信仰の融合する素地となる。
日本人にとっての自然というのは、人の手を加え生きやすく改変されたものである。ありのままの自然の中で多くの人口を養うことはできないので、長い時間をかけて人が生活しやすいように手を加えてきた。元の自然とそこに手を加えて住みよい土地を作る努力をしてきたご先祖さま。その二者が今の自分達の生活を作ってくれていると考えた時、この2つの存在が神となる。決してばらばらに崇めていたものがたまたま同時に存在した訳ではない。今の生活の基礎となるもの二者に対して感謝をするという視点から考えれば、祖先も自然も同時に崇拝する対象となるのだ。
自然と違い人間には「私」という感情があり、そこから執着や欲得というものが生まれてくる。自然の生き物としての人間と社会的な存在としての人間の境目は極めて曖昧であり、明確なラインは引けない。欲に傾けば自然から乖離することになるし、自然に傾き過ぎれば生活を継続できるかどうかが解らない。その2つの極の間を揺らめいているのが人間という存在だ。農耕が中心の社会では出来るだけ社会的な存在を最低限に抑え、自然として生きていこうと考えられていた。「私」的な欲を捨てることが自然に近づくということでありそれを果たしたのが神となったご先祖さまということになる。であれば、今生きている自分もそういう穢れなき存在になりたいと思って欲を捨て自然に還りたいと思う人達が出てくるのも当然であり、それが修験道のような山岳信仰と結びつく。

こうした自然こそが自分達の回帰するべき場所であるという考え方は現代では容れられない。経済・社会の合理性を追求する社会では合理的な因果関係のないことは認められない。自然とそれを改変したご先祖さまという枠では、改変して生活を改善したという事のみが取り出され、合理的な進歩として歴史に残る。自然が存在するという事に対して合理的な評価を下すことが出来るのは、現代のように自然そのものの存在が危機に陥らなくては解らないような事だったからだ。自然を改造し、発展していくという歴史観を提供しているのは人間のもつ知性というもので、それはまさに合理的因果関係によって導き出される。しかし、物事というのは合理的な知性によってのみはかれるものばかりではなく、感覚的なものや感情的なものもある。そうしたものは知性から描かれる歴史からは除外されてしまう。しかし、伝統的な社会においては、そうしたものたちも伝えていかなければならないものであった。そこでそういう知性ではかり得ない感覚や出来事といったものが自然やご先祖さまといった神様に託されて蓄積していったのである。合理的な歴史以外の部分を一身に背負って蓄積してきたものが日本的な宗教の考え方だったのである。


こういう日本人観というのはこれまでにもあったのだろうが、俺は知らなかった。何故なら1965年を境にそういう世界観を保存してきた農村社会も消滅してしまったのだから。俺の生まれるよりも10年も前にその考え方自体が消え去っていた。今、地域のつながりが消失して云々という話があるが、そうしたローカルなコミュニティについても合理的な因果関係で発展を証明することが出来なかったのだから解体されたのだ。一度解体されたものがすぐに元に戻りはしない。言葉で地域のつながりを大事にしましょうと言ってもそれはむなしい。みんながばらばらになって寂しいからもう一度つながりましょうという因果関係の論理でないものの集積で出来ているものだからだ。それらの言葉がむなしく響く理由はそれが論理であるからなのだ。論理から排除されたものを論理で再構築しようというのは皮肉な話だ。

失われたこうした感覚を取り戻すには、再び何世代もかけて同じ土地に住み続け、地域と溶け合うという論理的でない過程を経なければならないのではないだろうか。少なくとも、俺にとって、氏神様は立派なご先祖でもないし、知っているご先祖が俺の生活を良くしてくれたという感じはちっとも感じない。勿論、ご先祖がいるから俺がいる、という因果関係的な理屈は解る。ただ、それが自然と一体化して、現在のコミュニティとも一体化して、目指すべき存在として「感じる」ことはできていないのだ。「感じる」ことなくして「理屈ではない」歴史を作ることはできないのだろう。多分我々が生きている間にはそういう感覚は復活しないだろう。失われたものはもう存在しないのだ。また、同じものを再び作ろうとする必要もない。一度なくなったのならば新しいものを作ればいい。懐古主義的に過去の村社会ではこうだった、と言っても詮ない話だ。鳩山首相が地域コミュニティを復活させるというようなことを言っているが、そんなことは目指すべきではない。復活では意味がない。時代が新しくなったのだから、新しい共同体をつくり上げなければならないのだ。それは情報革命によってもたらされるものかも知れないし、都市化によってもたらされるものかも知れない。
とにかく農村共同体は1965年に死んだのだ。その時に神もご先祖も自然も死んだ。

新しい神が必要だ。

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ブログを始めるに当たって

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読書の記録用にブログを作ろうかなと思っていたところ、Amebaにアカウントがある事を思い出した。アカウントをとった事は覚えていても、IDもパスワードも忘れていたが、何とかなるだろうと思いAmebaのページにアクセス。ログイン画面でよく使うIDとパスを入れたらあっけなくログインされた。

そういう訳で、ここにこれから読書の日記をつけていく事にする。書評という程のものを書く能力はなく、読書感想文というほどしっかり内容に即したものを書くかどうかもわからないので、読書記録とか読書日記というカテゴリが一番適当なのかと思う。
ブログを書くトリガーとしてはあくまで「本を読む」ということになるが、書く内容は必ずしも本の内容についてとは限らない。本を読んで思いついた全く別のことを書くかも知れないし、正直に内容についてとか感想について書くかも知れない。後者の方が多いとは思うが。
なので、あくまで読書をキーとして書く日記、という位置づけにしようと思っている。
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