しかし善悪を分別することが巨大な悪であり平和からの分裂なのだ。
それでも二元性に生きる世界では善悪の概念は免れない。
瞑想していくと奇妙な事実に驚かされる。
善悪を眺めることで、ある空間に気付き出す。
それは善悪の故郷だ。
善悪は兄弟であり家族であったのだ。
善悪はコインの表裏であり、陰陽の芸術だ。
悪だけを避けて善を生きる?
それは不可能だ。
悪を眺めてごらん。
それはもう悟りの肥料だ。
善を眺めてごらん。
それも悟りの肥料だ。
あなたには様々なことが人生の道で起こるべくして起きている。
それが例えどんなことであれ肥料だ。
そして、あなたの偏狭なエゴや先入観を解放してくれる。
こんな筈ではなかった。
この時大いなる啓示が言語になる前には訪れている。
言語にすると本当の命からは滑り落ちてる。
本当の命が大きすぎて、あなた方には見えない。
本当の命を分割した部分しか見れないのだ。
それに名前をつけているだけの話だ。
ただそれだけだ。
母親から見れば全てが子供だ。
それが大統領であろうが乞食であろうが。
それが慈悲という意味なのだよ。
エゴを喜ばすものは慈悲ではない。
だから人類が使う愛と慈悲を混乱しないように。
人類が愛を説きながら数えきれない戦争を繰り返して来た。
これが愛の終焉だ。
慈悲は大きすぎて見えない。
人類には物足りない。
見えないのだから。
でも覚えておけば良いと思う。
こんな筈ではなかった。
この言語の前には慈悲と共にあなたは存在してた。
何一つ別れてなかった。
母親のお腹で寝ていたように一緒だった。
でも、あなたは気づかない。
その安らぎが大きすぎて不安になる。
そして言葉遊びを始める。
愛だ。運命だ。非二元だ。悟りだ。癒しだ。神秘的だ。神だ。
そしてそれは永遠に続く。
そして慈悲と母親から離れていくのだ。
最高の笑いだ。一生スベらない話だ。