平成28年 托鉢修行総括編 日本精神身体論 | 元極道の僧侶+整体師 玄龍

元極道の僧侶+整体師 玄龍

三重県伊勢市 整体道場 愚狂庵
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気の力で導く痛みの少ない整体。

~健康で美しく元気な体を~
諦めかけていた症状の最後の砦
当院の整体はこんな方にオススメです。

こんばんわ。寒いですね~

 

私が今ブログを書いてるのは夜の19時・・

 

しかも今日はクリスマス・イブですが・・私や愚狂庵のメンバーは「クリスマス」?という単語が分からない民族のように各自、過ごしているようです笑

*クリスマス当時に書いてます

 

それはそうと、最近のブログはイベントの報告であったり新たな企画であったりと営業戦略のようなブログになりつつあります・・

 

それはそれで仕方のないことですが、たまには私のプライベート的な記事も書きたくなってきた感じです。

 

私が托鉢修行をしてから二年半という月日が流れました。考えると恐ろしいことでもあります。

 

というのは、本当に生活の生計は托鉢で頂いたお布施で暮らしているのですから.・・・

*個人セッション・イベントの報酬はボーナスみたいなものです。

本当に「生かして頂いてる」という実感を噛み締めてる今日この頃です。

 

これは本当に有難いことでもありますし、経過して振り返ると「人間、いざとなれば、どうしてでも生きて行ける」という強い信念が芽生えて安堵感もあるようなこの頃です。

 

私が最初に托鉢した頃は、様々な思いがありながら修行していました。

 

恥ずかしい・・

観光客に馬鹿にされた・・

若者に絡まれる・・

暑い・・寒い・・

一円お布施するってどういうこと?

 

こういう基本的な感情や今度は慣れてくると

修行といいながら「これは生活」のためではないか?

お布施をして頂けるのに値する「僧侶」なのか?

お布施されたお金で、贅沢してはいけないのではないか?

 

まあ贅沢できるようなお布施は頂けませんから、そのあたりは特に問題がなかったとはいえ

今でも考えさせられるとこは多々あります。

 

でも托鉢の心境を現在まとめれば、良寛の花と蝶の境涯ですね。

 

  花無心招蝶    花 無心にして蝶を招き
  蝶無心尋花    蝶 無心にして花を尋ぬ
  花開時蝶来    花 開く時、蝶来り
  蝶来時花開    蝶 来る時、花開く
  吾亦不知人    吾れも亦人を知らず
  人亦不知吾    人も亦吾れを知らず
  不知従帝則    知らずして帝の則に従う

 

 

 

当然、人間としての感謝は忘れてはいけませんが、それよりも托鉢修行というのは

仏道の基本です。

 

人間は義理や人情というものの優れた素質をもっています。

しかし、義理や人情に執着すれば、それが毒にもなります。

 

「やってもらったから、返さないといけない」

「やってもらったから、ありがたい」

「やってもらわなければ、ありがたくない」

「少しだけよりも、多い方がありがたい」

 

こういう心理過程は、対人関係を膠着させる感じがしませんか?

 

自然の花と蝶は「義理や人情」で活動をしているわけではありません。

しかし美しい。見事に調和してる。

 

この関係は托鉢修行を年月を重ねていくことで理解することになります。

 

私がどこの誰だか分からないのに施してくれる人々。

私もどこの誰だか分からないのに合掌して読経をする。

 

お互いが「今ここ」で「何らかに」即発されて感じる「場」

 

やってあげた感もなくなり、貰った義理もなくなる。

「ただ、その場限りの、一期一会であり新鮮な出会い」

 

お布施を施してくれる方々には、十人十色な思いがあるようです。

商売繁盛させてくれ。心身健全のために。可愛そうだから。子供の病気を治してほしい。

真言宗が好きだから。輝いてみえたから。ブログを読んだから。御縁がありますように。

世界平和のために。四国遍路の経験者(私が四国遍路の袈裟着用)の共感。

 

それは理由がどうであれ、これは本当に気持ちの良いものであります。

現代は直接、人間同士が触れる文化が衰退しつつあります。

給料も振り込み。食料もスーパーで購入。通販が普及してなんでもネットで買える。

それは、ある一面でいえば素晴らしいとは感じます。私もAmazonなどは重宝しています。

 

しかし、人間同士の顔が見えて交わるエネルギーというものは必ず存在するのです。

幼い子が施す、お布施は「私を理屈抜きで元気にしてくれる」

そういう人間同士の義理もない純粋な直接的な交わりという一面も托鉢修行の素晴らしいところです。

 

 

 

ところで、私は元極道ですから、現役当時は贅沢三昧の日々を送ってきたわけです。

しかし、一転「対極」ともいえる仏道を歩んで「今」があるわけです。

 

振り子の理論というものがあります。

 

振り子というのは、右に強く振られて動けば、今度は左に同じ強さで動く。

これは力学でもありますし、陰陽の変化ともいえるでしょう。

 

それを考えると「私自身」も出家してから約二年、堅気になり約三年。

 

「極道」と「仏道」という振り子の左右をゆらゆらと否「激しく反発」するようなエネルギーで

動き回っていた感じですかね。

 

しかし最近の托鉢修行は、私自身の瞑想修行の本格的な「気づき」道場になっています。

 

私も煩悩にまみれた、まきれすぎた人間ですから今でも喜怒哀楽はあります。

 

しかし、そういう感情や思考を流れるように観察してる「私」がいるわけです。

呼吸や身体のバランス、感情、思考すべての感覚に「気づいている」私がいるのです。

 

すべてというのは「大袈裟な表現」ですが、しかし「気づき」の頻度が増えているのは間違いない事実です。

 

これは最近、様々な方と話してて思うのですが「気づき」とは「気づいている私」ではないのです。考えて思考している状態ではありません。

 

「気づきのなかには過去も未来もありません」

純粋な気づきが輝いてるだけなのです。

 

「気づき」には呼吸の力を借りるのが一番です。

 

しかし、それでも吐く息、吸う息に意識を集中して托鉢してると、早いときは「5分」もしないうちに他のことに流されます笑

 

将来の不安や過去のこと、お金のこと、家族のこと、イベントのこと・・実に様々です。

 

また思考の映像としては見えてこなくても「言い知れぬ不安感」「漠然とした絶望感」みたいな

感情も湧いてきます。

 

しかし、そういうときは必ず「呼吸」への「気づき」から意識は離れています。

「呼吸」という「今」の現実に私が存在しているときは、「過去も未来もありません」

 

呼吸は私を常に見守っていて一緒にいてくれます。

一瞬も離れることがありません。

これは昔から今まで、そして今からも。そしてあなたの一番の理解者であり羅針盤のようなものです。

 

また「今の現実」から離れたときには必ず「身体は緊張しています」

 

肩や首の筋肉が緊張していたり、両足が突っ張って緊張したりと・・

また姿勢が極端に前かがみに、なっていたり後ろに体重がかかり過ぎていることにも気づきます。

 

そしてなにより呼吸が浅く「胸で呼吸をしています」

 

呼吸に集中して「今」の存在に溶け込んでいるときは「呼吸」は腹式で深い息をしています。

 

それは私が41年前に誕生した赤ちゃんのような静かな泰然自若な呼吸です。

 

私が素足で托鉢修行をするのも「足の裏のセンサー」を敏感に感じ取りたいというところにあります。足裏には様々なセンサーが存在します。足つぼで皆さんも御存知でしょう・・

 

さすがに真夏や真冬には素足托鉢はしませんけど・・笑

 

昔の日本人は、草鞋などを履いていたので現代人より身体の感覚が優れていたと思います。平坦な舗装された道を歩かないで、山道など不安定な道を歩くことで、脳や心身は常に様々な筋肉や身体の箇所を融合して使い分けてきたともいえるでしょうか。

簡単にいえば「ワンパターン」ではないということ。

たかが道を歩くのでさえも心身の「創造性」が発揮された。

 

美は乱調にある。

 

また丹田(臍の部分あたり)にも、心身の感覚を敏感に掴み取るセンサーが働いています。

これは私の持論からすれば、西洋文化の弊害で丹田の充実を感じ取ることが出来なくなった。

 

褌を締めるのは、丹田を意識させることだったと思うわけです。

それがベルトの位置が腰からお腹に変わり、だんだんと意識も胸や頭に近づいてくる。

文化とは深い心身の表れです。西洋人は頭で考えることがステータスだったわけです。

だからネクタイなども頭に近い、ファッションなのです。

 

しかしなんでも理屈で考える現代人が疲弊してるのは明らかです。

頭ではなくて肚(はら)が大事だと昔の人は分かっていました。

 

ハラが坐る。ハラを決める。

人の褌で相撲をとる。身体表現された語源には、その隠された深い意味があります。

 

最近の医学ではセロトニン(脳内の神経伝達物質)が腸で作られていることを明らかにしています。セロトニンという物質は現代の心の病に関わっているものです。

 

それはそうと、感覚や感情を素早く掴み取る、受信機のような仕組みがあることを私は托鉢修行をしながら痛感しています。

 

一日最低でも4時間は不動のまま、ときにはゆっくりとした歩行瞑想を織り交ぜながら、心身の内側をじっくりと探究できることが本当にありがたい。

 

これがサラリーマンならば一日4時間も呑気に立つだけは不可能でしょうから。。。

(でもあんまり簡単でもないですけど笑)

 

こういう心身の内側の探求をしていくと本当の理解が得られてきます。

 

それは、簡単にいえば

心身は繋がっているということです。

当たり前だと思わないでください笑

あなたが思う心身の繋がりは、知識として知っているというだけです。

体験が欠けています。そこには本当の理解がありません。

 

そして呼吸は心身を繋ぐ役割をしています。

当たり前だと思わないでください笑

あなたが思う心身の繋がりは、知識として知っているというだけです。

体験が欠けています。そこには本当の理解がありません。

 

 

ということは、嫌な気分のときには、どうしたらいいと思いますか?

 

理由がどうであれ、嫌な気分のときは「先ずは呼吸に意識を置くことです」

 

そうすれば、必ず「呼吸」が身体の緊張に「気づかせてくれます」

 

身体の緊張の箇所が分かれば、そこを脱力させればいいのです。

 

そうしたら、嫌な感情は消えています。それは同時に起こります。

 

こういう心身の感覚や感情を観察しながら、私は日々、托鉢修行をしています。

 

直立で立つという行為は、本当に難しいですけど面白いものです。

 

不動で立つということは、常に心身の微細な変化に「気づいている」ということです。

言い換えれば、流動体の心身のエネルギーを自覚する。

常に過ぎ去るから、諸行無常であり、美しく、なおかつエネルギーが滞らない。

大河の如くであります。

 

日々新たに・・日々新たです。毎日が誕生です。

 

日本の武術に多大なる影響を与えた、不動智神妙録にもしっかりと書かれています。

 

沢庵禅師が徳川将軍家兵法指南役・柳生宗矩に与えられ、『五輪書』、『兵法家伝書』等と並び、後の武道に多大な影響を与えた書物である。

 

心が一つの物事に捉われれば(意識し過ぎれば)、体が不自由となり、迷えば、わずかながらでも心身が止まる。これらの状態を禅の立場から良しとせず、達人の域に達した武人の精神状態・心法を、「無意識行動」かつ心が常に流動し、「迷わず、捉われず、止まらず」であることを説き、不動智を「答えより迷わず=結果より行動」に重きを置く禅問答で説明(当書の「石火之機」)したもので、実質的には心法を説いた兵法書であり、実技である新陰流と表裏一体で学ぶもの(当書「理の修行、事の修行」)としている。

 

*ウィキペディア参照

 

 

また武術でも托鉢でも、基本的な姿勢を決めるからこそ、様々な感覚や感情に気づけます。

 

基本姿勢が歪んでくると「嫌な感情があります」これは「同時に発生しています」

 

姿勢を正すという古語があるように、なんであれ基本姿勢というのは大切です。

姿勢という基準があり、それから「外れた」ことに「気づく」ことが大事なんです。

型があり、自由を体現できるのです。

 

 

その型というのは武術や座禅、華道、書道というような特別な道ではなくても、料理、歯磨き、運転、歩行・・本当は人生すべてに当てはまります。

 

生活すべてが型であり修行なのです。

 

だけども今まで覚えてきた「型」に余計な緊張や不必要な焦りが混じっているから「型」を見直す必要性があるわけです。

 

ただ単純に立つという姿勢だけでも多くのことが学べます。

 

人間が仮に進化してきたならば「二本足歩行」というのは人類の偉業だからです。

人類が歩くまでに相当な時間を費やしてきたでしょう。

また赤ちゃんから歩行できるまで、皆が一様に苦労してきたわけです。

何度も転んでは葛藤して、泣いたり笑ったりして歩行することに成功してきたのです。

 

心理学者でローエンという方が身体の筋肉には過去のトラウマや記憶が残っているという主張をしています。

 

これは昔に虐待などを受けた方は、自然的に防御本能で首や肩を縮める習慣があるので

成長した後も、その周辺に起こる慢性疾患が表れるというものです。

 

だからこそ身体を解放することで心は自由になることを主張しています。

 

私もローエンの主張は正しいと思います。

それならば、托鉢という不動で立つという姿勢は「昔に立てなかった潜在的な葛藤」が残っているわけです。

 

その三つ子の魂に刻まれた、過去の自分を自己否定する心身の始まりは「立つ」ということだと私は考えています。

 

赤ちゃんのときに、一日で楽勝に立てる人間はいません・・・

 

その潜在的意識の深い葛藤は人間の「立つ過程」に刻まれている・・・

 

これがユングが提唱する概念の個人的潜在意識ならば、集合的な潜在意識も存在する。

 

それは四足歩行から二本足歩行に進化した、人類の大事業の意識もあるわけです。

 

だからこそ「立つ」という姿勢を探究しながら、感覚を大事にするここで「気づき」が起こり

心身の変容を遂げていくのです。

 

読者の方も「立つ」「歩く」という行為に少しでも意識的に日々を過ごしてみてください。

なにか新しい発見があるはずです。

 

なによりも姿勢が正されて、余計な緊張が解放され疲れにくい身体になりますよ笑

心身が健やかにあるほうが実りある人生を歩めるのは間違いないでしょうから。

 

 

 

 

今後のイベント情報

 

2016年11月26日(土)

一泊二日 伊勢神宮ツアー

マインドフルネス・リトリートin愚狂庵

 

12月2日、3日,4日連休
元極道の僧侶 玄龍・正仙が織りなす本音&スピリチュアルトーク&セッション愛媛松山

 

2017年1月15日(日) 伊勢マインドフルネス瞑想ワークショップ

 

2017年3月25日(土)
スピリチュアル・サミット2 (サムシング・グレートに向けて)

 

 

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