日本中に蔓延する「過労死寸前」の声 追い込まれた!逃げ出した!もうやめて!

 
 
by 熊澤志保,深澤友紀,野村昌二 (更新 )

 

心や体が悲鳴をあげるまで働く必要なんかない。仕事は人生の一部でしかないのだから(撮影/写真部・東川哲也)

 

労災申請の多い業種 トップ10/過労に伴う脳・心臓疾患(アエラ2016年11月21日号)

労災申請の多い業種 トップ10/過労に伴う脳・心臓疾患(2016年11月21日号)

 

労災申請の多い業種 トップ10/仕事のストレスに伴う精神障害(アエラ2016年11月21日号)

労災申請の多い業種 トップ10/仕事のストレスに伴う精神障害(2016年11月21日号)

 

 

朝日新聞出版
 

 

大学を卒業し、社会人として一歩を踏み出したばかりの24歳の女性が、過労のためにうつ病になって、命を落とした。「働くのつらすぎでは」「眠りたい以外の感情を失った」という言葉を残して。彼女だけではない。仕事に人生を乗っ取られてしまうかのような過酷な働き方に苦しむ人が、日本中にいる。日本の職場は変わらなければならない。

* * *
「自分がやらなければ審査が止まり、被災された方に迷惑をかけてしまう。休みたいと考える余裕すらありませんでした」

一井(いちい)さん(35)は、傷病休職期間切れで、11月5日に勤務先を解雇された。

2003年に入社。11年9月には原発事故賠償業務の法人部門に、13年2月には法人部門の賠償を統括するチームに異動になった。統括チームは、当初は6人。専門知識、緻密な分析力、論理的な思考力が求められ、ミスが許されないプレッシャーもあった。1人は心神喪失が激しくなり、4人が別の業務を兼務したことで、一井さんの負荷は急激に増えた。

13年3月の残業時間は89時間。休日の持ち帰り仕事とサービス残業を合わせると169時間。睡眠時間は、1日4時間を切った。6月になると吐き気と視野狭窄(きょうさく)に襲われ、布団から起き上がれなくなった。

7月に賠償業務を離れたが、めまいや記憶障害が続き、9月に「うつ状態」と診断されて休職。一井さんによれば会社は「私傷病」扱いとした。今年10月下旬、労働基準監督署に労災申請し、労働環境の悪化に歯止めをかけたいと実名での告発に踏み切った。会社は「個別の事案」だとして、取材に詳細を明かさなかった。一井さんは言う。

「心身がボロボロになるまで働きました。それでも仕事のせいではないと言うのでしょうか」

●8割超が身近に

今年10月7日、母親の幸美さん(53)の記者会見で、○○の新入社員だった高橋まつりさん(当時24)が昨年、過労の末に自ししていたことが明らかになった。1カ月後の11月7日には厚生労働省が労働基準法違反の疑いで○○を強制捜査。ネットには、「○○だけじゃない」の声があふれた。

が10月から11月にかけて行った過重労働に関する緊急インターネット調査には111人が回答。「仕事が理由で心身に不調を感じたことはあるか」の問いに83%が「ある」と答え、「○○社員の自殺についてどう思ったか」の問いに「自分には関係のない話だと思った」と答えた人は17.8%しかいなかった。82.2%の人たちには、「過労死」が身近にあった。

 

以上、アエラネットより抜粋しました。

 

自分にも20年近く前にも寸前で助かったことがあった。

 

しかし、去年も救急車に運ばれた。本当に危なかった。

 

でも、自営業だから誰もせめられないんだよ。

 

しかし、休みの日でも、夜でも朝でも呼び出しの電話は来る。

 

母親の葬儀の時も「看板の電気がつかないからすぐ来てくれ」と電話があった。

 

今も電話が鳴るのに怯えている。

 

しかし、定年はなく、年金も本当に基礎年金分だけが65歳から支給されるだけなので

その後も働かなくてはならない。

本当に動けなくなるまで働かなくてはならない。

 

家族もそれを承知していて、もう言葉も出ない。

 

「俺も過労死してしまう」

と叫びたいところだけれど、黙っている。

 

怒りをぶつける会社はない。

 

気が付いたら自営業になっていたから。

 

 

しかし、少しでいいから希望を持って生きたいと思う。

 

病気持ちになってしまったが、希望は捨てずに何とか楽しく生きたいと思っているんだ。

 

ささやかだけれども、仕事に行くときもカメラを持って、いい景色があったら写真を撮って楽しみたい。

旅行も行ってみたいが、大変難しいことになってしまった。

 

また、野鳥の写真を撮りに行きたい。

 

好きなカメラを持って、楽しみながら歳をとりたい。

 

 

今日の一枚

 

 

 

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11月の初雪

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胃カメラをやってきた。

 

胃、十二指腸内視鏡検査っていうのが正しい言い方かな。

 

胃カメラは苦手でな。

 

苦しくて自分で引っこ抜いてしまい、お医者さんに怒られたことが2度ある。

 

さらに、どうしても入んなくて中止となり、お医者さんが激怒してしまったこともある。

 

しかし、夢のような胃カメラが普及してきた。

 

「鼻から入れる胃カメラ」ってやつ。

 

もちろん苦しいけれど、口から入れるやつの喉を刺激して「オエッ」とくる苦しみは無い。

 

自分の住む町の総合病院も「鼻から胃カメラ」になったんだ。(^◇^)

 

良かった。

 

心電図もやった。結果はまた後日ということで。

 

 

 

 

 

 

先日足利フラワーパークに行ってきた。

 

 

 

ラベンダー。

 

ラベンダーは写真にするのが難しいな。

 

 

 

最近、チョウチョに興味をもってな。

図鑑も買ってしまった。

たくさん見つけて写真を撮りたいと思ったらもう冬なんだな。

残念。

でも、来年の春への楽しみが出来た。

先々への希望を持てるのはいいことだ。(大げさか?)

 

 

 

 

 

 

 

 

バラ。

 

 

 

 

 

これもバラ。

○○バラと書いてあったんだけど、忘れてしまった。

 

 

うって変わって今日は雪。

天気予報がドンピシャだ。

クルマはすでにスタッドレスに変えてあったんで、慌てず・騒がず でよかった。

今日は雪との予報が出ていたので、昨日仕事をやってきた。

今日は不測の事態に備えて待機ということで。

つまり、呼び出しがなければ休みということで。

明日は夜間作業が待っているからそれでいいだろう。

 

残った柿に雪が積もった。

 

イチジクにも雪が積もった。

 

雑誌で「ニュートン」とか「サイエンス」とかあるんだけど、内容は難しいことをわかりやすく

書いてある。

宇宙のことや、原子のことや、人体のことや、その他いろいろ。

なんかね、お金がどうしたとか、経済がどうとか、政治がどうだとか、みんなちっぽけなことに感じられてしまう。

もちろん大切なことなんだけど、大きな力というか、宇宙の摂理とか、万物の摂理だとか、そういう力で俺たちは生かされているんだから、もっと生物として、人として、生き方を考えなくちゃいけなかったんじゃないかと思うよ。

人間すべてがね。

怒りや憎しみやお金に支配されてしまった人には、もうそれはわからないんだよ。絶対に。

逆な人もたくさんいるよね。過去にも居たし、今も居る。年齢・性別は関係なく。

でも、怒りや憎しみやお金に支配された人々にさらに支配されてしまった人はものを申せない。命も脅かされる。奪われる。

 

人間の怒りや憎しみやお金への欲望をみんな消してしまうほどの雪が積もればいいなぁ。

 

なんて考えてしまった一日だったよ。

 

 

 

 

 

 

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 去年も同じ場所から同じような写真を撮ってたけどね。遊歩道から撮影するんで、同じような写真になるんだよね。

 

毎日余裕ぶっこいているように見えるかもしれませんが、休みも少なく、早朝から深夜まで働いています。

ですので、つかの間の休息といいますかね、仕事と仕事の合間にこんなところへちょっと寄り道をして、好きな写真を撮っているのです。

 

 

 

 

 

同じく遊歩道から。 

 

 

 

決してうまい写真ではありませんが、とにかく写真は好きなんですよ。

 

撮ったものを自分で眺めていても面白くない。

コンテストに出すほどじゃあない。

じゃあ、SNSにでも投稿するか。

そんな感じなんですよ。

 

パチリ、パチリとシャッター切るのが好きなんだよね。

 

画像の加工はあまりやりません。めんどくせえから。

せいぜいトリミング(切り抜き)と明るさ調整くらい。

 

最近はちょっと野鳥の写真はご無沙汰してんだよな。

 

撮影ポイントに行って(ポイントと言っても、広い湿地とか河原とか森とかだけど)、じっと

野鳥が出てくるのを待つのが最近しんどくなってな。

 

だから、野鳥に拘らず何でもいいや ということで。

 

息抜きなんだからそれでいいと。

 

そんな感じなんだよ。

 

やれることはどんどんやってしまおうと、そう考えている今日この頃なんだよ。

 

出来ないことは無理をしない。

 

難しいことにチャレンジするのはもういいや。

 

そんな感じなんだよ。

 

 

 

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ここ数日、朝は6~7℃昼間は13~15℃くらいの寒い日となった。
 
と同時に、ここら辺平野部でも一気に樹々が紅葉を始めた。
 
 
 

 
先日までは、韓国の大統領の問題がテレビを賑わせていたが、アメリカ大統領選の日から話題はそれ一色となったな。
アメリカがクシャミすると日本は風邪をひく  なんて言葉を昔きいたけれど、確かにあちらの政治情勢は日本に計り知れない影響を及ぼすよな。
どうなるかは全然わかんねえけど、日本が少しずつひとり立ち出来るチャンスかもしんない。
子供の頃は、テレビでアメリカのドラマや映画が本当にたくさん流れていて、「外国」=「アメリカ」だったよ。
軍事的な事はよくわからないけど、軍隊を作るとか自衛隊を軍にするとか、そういう極論へ走る事なく相互協力が必要なことは国どうしで大人としてのお付き合いが出来るようになって欲しいな。
経済や文化、学術全てにな。
無理な話だろうか?
無理か否かではない。そういう方向を目指していかないと我が国は大人になれない。
と思うんだよ。
もちろん、現状はアメリカの核の傘の下にいる ということは知っていての話だよ。
東西冷戦という言葉ももう古い言葉になってしまった。
ずっとそれは続くものだと思っていたら世界は変わった。
冷戦時代には現在のような国際関係が出来上がるなんて言う人はいなかった。
 
日本も「国際的に大きく役割が変わった」と言われる日が来ればいいと思う。
無理だろうか。
わかんねえや。
 
 もう冬景色だな

 
 
 
 
葉が色づいたイチョウの木。

 
 

 
 
 
 
 
 

レンガを焼く窯を見てきた

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今日は早朝からの仕事だった。

 

だから仕舞いは早く、お昼を食べて終了となった。

 

ちょっと遠い(昔は近く感じたけれど)場所で、しかし、早く帰れることはわかっていたんで

カメラを車に積んで行った。

 

帰りに寄りたいところがあったんだ。

 

以前はよくこっちのほうに野鳥の写真を撮りに通ったんだけど、ずっとご無沙汰していた。

先週もちょっと仕事でこちらのほうにきて、煙突が見えたんで次に来るときにカメラを持って

こようと考えていたんだ。

 

ここは、紆余曲折を経て、この煉瓦焼窯を地元の野木町が修復をしていた。何年もかけて。

そんで、今年から内部も一般公開を始めたんだよ。

 

ゆっくりと中に入って見学する時間はなかったんだけど、外観だけでも見て、写真に収めたいと考えていたんだ。

中の見学はまた次の楽しみに ということで。

 

「重要文化財」という説明が書いてあった。

 

帰ってから調べたら、ランチなどもやっているそうな。

今度、昼時に行ってみようかな。

 

 

駐車場の木々もちらほら紅葉が始まっていた。

 

 

 

 

ホフマン式煉瓦焼窯

 

写真にすると大きさがわからないけど、煙突の高さは15~20メートルくらいかなぁ・・・

 

かなり大きな建造物だ。

 

青空が気持ちいい日だった。

 

昨日全部書き終わる前に公開してしまったよ。

書き足して再公開します。

 

この煉瓦焼窯は、渡良瀬川と利根川が合流するところの近くにあるんだよ。しばし、足尾鉱毒事件や田中正造、移住を余儀無くされた人々、そして今も残る鉱毒のこと、渡良瀬川での魚釣り、そして原発事故やこれからの事、100年経っても消えない鉱毒とそれを渡良瀬川に流さないよう戦っている現在の古河関係者の努力が頭に浮かんだ。

東電は原発事故で、古河鉱業(旧名)の鉱毒を食い止める闘いと同じように、これから何万年も放射能と闘っていかないと全ての生き物に悪い影響を与えてしまうんだよ。

首相にも東電の幹部にも足尾鉱毒事件の歴史を詳しく勉強して欲しいと思った。毒を封じ込める難しさや、毒のおかげで流れた涙の事を。

毒を止めるのは、口先だけでは出来ない。多くの人力と長年月にわたる絶え間ない現場を守る人の努力が必要だ。もちろんお金も。

外国や金持ちにいい顔みせてる場合じゃあない。防衛費を増強している場合じゃあない。

鉱毒とは比べ物にならない長年月の封じ込めが必要なものを背負い込んでしまったんだから。

 

暇な人は読んで下さい。 

 

年表[編集]

江戸時代[編集]

 
銅山奉行・岡上景能

戦前[編集]

 
田中正造
  • 1877年 古河市兵衛が足尾銅山の経営に携わる。
  • 1884年 足尾銅山の銅生産量が日本一となる。
  • 1885年 朝野新聞、鉱毒被害を報道。
  • 1887年 松木村で大規模山火事。間藤付近まで飛び火する。
  • 1890年 渡良瀬川の大洪水で鉱毒の被害が拡大する。
  • 1891年 田中正造、第2回帝国議会で鉱業停止要求。
  • 1896年 通洞が貫通
  • 1896年 田中正造、第9議会において永久示談の不当性を追及。有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置。
  • 1897年以降 禿山となった銅山周辺の山で植林がはじまる(2005年現在継続中)。
  • 1897年 鉱毒被害民、大挙押出し。東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事命令。
  • 1897年 足尾銅山に関する第1回鉱毒調査会を組織(会長は農相の榎本武揚)。
  • 1898年 大蔵省、鉱毒被害民に対して地祖条例による普通荒地免租処分を通達。該当者は公民権喪失。
  • 1900年 川俣事件発生。
  • 1901年 田中正造、衆議院議員辞職。
  • 1901年 田中正造、議会開院式より帰途の明治天皇直訴状を提出しようとしてさえぎられる。麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放。
  • 1901年 田中正造、巣鴨監獄に服役。銅山、松木村全域を買収。
  • 1902年 足尾台風直撃。降水量315mm。被害甚大。
  • 1903年 古河市兵衛死去、養子の古河潤吉(実父陸奥宗光)が足尾銅山の経営を担うようになる。
  • 1904年 待矢場両堰普通水利組合との示談延長を停止。
  • 1905年 経営会社を古河鉱業と改称。古河潤吉死去、古河市兵衛の実子である古河虎之助が後継者となる。
  • 1906年 谷中村、廃村。日光精銅所操業開始。
  • 1907年 足尾暴動事件。銅山施設の大部分が焼失。
  • 1907年 足尾分署、足尾警察署として独立。
  • 1907年 谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起。
  • 1911年 谷中村民16戸137人、北海道サロマベツ原野に移住(第1次)。
  • 1912年 足尾鉄道桐生 - 間藤間)(現在のわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)開通。
  • 1913年 田中正造死去。
  • 1921年 古河商事破綻し、古河鉱業に合併される。
  • 1926年 馬車鉄道廃止。ガソリンカーに転換。
  • 1934年 沈殿池が溢れ渡良瀬川沿岸で鉱毒被害発生。待矢場両堰普通水利組合が派遣した監視員、銅山が故意に廃石などを河川に捨てるのを目撃、古河鉱業に厳重抗議。
  • 1934年 北海道移住した旧谷中村民、帰郷請願書を栃木県知事に提出。
  • 1944年 足尾銅山が軍需会社に指定(※1941年 - 1945年 第二次世界大戦)。

戦後[編集]

  • 1950年 三栗谷用水、鉱毒沈砂池を設置。総工費3,200万円のうち100万円を古河鉱業の寄付金でまかなう。
  • 1953年 待矢場両堰土地改良区と和解成立。土地改良資金800万円を寄付する。
  • 1954年 小滝坑、廃止。
  • 1956年 自溶製錬設備が完成し、亜硫酸ガスの排出が減少。
  • 1958年 源五郎沢堆積場決壊。待矢場両堰に鉱毒が流入。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立。
  • 1961年 亜鉛貿易自由化決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる。
  • 1966年 天狗沢堆積場が決壊。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会、古河鉱業に抗議。
  • 1968年 政府の水質審議会、渡良瀬川の銅濃度基準を0.06ppmで決定。
  • 1970年 桐生市水道局、渡良瀬川から基準値を超える砒素を検出。
  • 1971年 太田市毛里田地区の米からカドミウムが検出される。
  • 1972年 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)。
  • 1973年 足尾銅山閉山、製錬事業は継続される。

閉山後[編集]