『自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。


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みなさん、こんにちは。とうしんです。

4月になり春爛漫、桜のシーズン真っ盛りですね。新年度もスタートし、いよいよ2017年の動きが顕在化を始めたと思います。春分の日以降に内外の急激な変化を感じられた方は多いのではないでしょうか。

 

さてさて月刊「自分教ガイド」、今月も開き直って書いていこうと思います(笑)。ところで前回のブログ記事、書いてる私自身も戸惑うほどの長文記事でしたが、意外に反響が多く、お陰様で沢山のありがたい感想を頂いております。

 

先ほどある方より「統心さんのブログで改めて自分の中の可能性に気づく事ができました。ありがとうございます。」というメッセージを頂きました。これはとてもウレシイ言葉です。このブログの主旨がきちんと伝わっているんだなと改めて確認することができました。

 

「自分の中の可能性に気づく」・・・まさにこれ、このことをお伝えしたいんですよね・・・だから「自分教ガイド」。それはどれほどの可能性かと言えば「無限の可能性」。もし何かの神様を信仰して来た人なら、その神様に託した、委ねた、その全てを凌駕する可能性が、ナント自分の中にありますよ、という話です。

 

ということで、本日もまた、皆さんが「自分自身の可能性」に気づけるような内容をシェアしていきたいと思います。今回も前回以上の長文となっておりますので、分割するなりしてマイペースでお読み下さい。では、さっそく始めましょう。

 

本日のテーマ:

自我の正体①「思考する人」~クリシュナムルティの大発見~

 


●誰もトイレを代わりにいけない

 

私が本当の意味で自分自身の可能性に気づくことができたのは、インドの大賢者・クリシュナムルティとの出会いからでした。出会ったと言っても一冊の本だけですけどね(「自我の終焉」、名著です)。この一冊をボロボロになるまで読み込みました。

 

当時いくつかの宗教や精神世界を渡り歩きながら、自力・他力を問わず様々な精神修行に身を投じていたのですが、漠然とした不安と苦しみがいつもまとわりついていました。今にして思えばその理由は明かです。それは、どの道においても神・霊界・宇宙の法などといった、自分からは「超越した場所」に、自分ではどうすることもできない「権威」があらかじめ設定されていたからなのでした。

 

現実の世界における権威なら、選挙とかクーデーターとか、何かの形で改編されることもあるでしょうが、こと精神世界における権威はそういう訳にはいきません。それは絶対的で不動なのです。魂の世界ですから永遠の世界です。精神世界の権威は永遠なのです。

 

その絶対的な権威が自分からは超越した場所にある。そうなってしまうと、こちらとしてはその権威の顔色をうかがいながら生きるしかありません。それも永遠にです。これすなわち「自分の可能性の封印」です。そうではないでしょうか。

 

もちろん人にはタイプがあります。権威に従属していく生き方が性に合う人もいるのです。それが心地よいと思う人を非難することはできません。それより問題は、そのような生き方が全く合わない人です。そのような人は、漠然とした苦しみを抱き続けることになります。

 

誤解しないで下さいネ。私は何も反政府とか現実の権威を全て否定せよという立場ではありません。むしろ信条的には保守寄りでしょう。しかしながら、こと精神世界、内側の魂の領域においては、永遠なるレジスタンスです。「わたし」という感じ方より上位に何らかの権威が来るとは到底思えないのです。

 

「誰もトイレを代わりにいけない」「もし神様が目の前に存在しても、代わりにトイレには行けない」というのは「もののケのしおり」ちゃんの名言ですが(笑)、私も幼少の頃からトイレに行く度に同じような事を考えていました。

 

とくに腹痛に襲われてトイレに駆け込んだ時は、宇宙の真理に直面させられます(笑)。脂汗が出て気が遠くなるほどの激痛の中でトイレに座るとき、ある種の「絶対性」に出会うことになります。

 

「案外、私達がトイレに行きたい瞬間、わたしだけの感じている悲しみ、誰にも伝えられないことであり、誰とも共有できないこと。そんなところに死の感じ方があったりするのかもしれない。」

 

とトイレで「死の感じ方」を確かめるシオリちゃん(爆)。

 

きっと皆さんも心当たりがあるハズです。私の精神性の根拠もこんな所にあるのかも知れません。ついでにシオリちゃんのトイレ系名言をあと二つ。

 

「やばかったトイレが間に合った瞬間、「その他はどうでもよかったのだ」と感じる瞬間があったり。」

 

ほんま、その通り!

 

「神様がいると思い込んでも、まずは我慢できないトイレならば、それが優先される。」

 

まさにこれ。私は宗教世界・精神世界を渡り歩く中でこのことを痛感させられました。救世主を自称するお方でも、私の代わりにトイレには行って下さらないと(笑)。自分の責任は自分でしか取れないということは明かです。

 


●クリシュナムルティが教えてくれたもの

 

先ほどのクリシュナムルティですが、彼の説話に触れた人は必ずある種の誘惑を感じることになります。それは「もしかすると私は自分のことを独力で救うことができるんじゃないか」という誘惑です。それは魂の主導権を神や救世主から自分自身に取り戻せるという誘惑です。

 

この心地よい誘惑がインドのクリシュナムルティによって想起され、日本のヌーソロジーによって達成されてしまった・・・そんな経緯をお伝えするのが「自分教ガイド」の主旨であります。

 

識者をして、「クリシュナムルティが、心理の領域で為し遂げたことは、物理学においてアインシュタインが行った革命に匹敵する」と形容される彼の教えとはいかなるものでしょうか。

 

彼の教えのキモは、ずばり「思考する人」の発見です。私たちが普段何気にしている「思考」という精神活動の正体を暴いたのです。自分教ならではのテイストでこれを簡単に説明してみましょう。


●苦しみの原因は「思考」

 

「思考」・・・人間の生活全般に渡ってありとあらゆる便宜を図ってくれるところの「思考」。今日の文明に発展をもたらしてくれたこのありがたい「思考」が、同時に人間のありとあらゆる苦痛の源となっています。そうではないでしょうか。

 

苦しみの原因は「思考」ではないでしょうか。いや私の苦しみは健康問題だ、経済だ、人間関係なんだ・・・といろいろ苦痛の理由を提示されるかも知れませんが、結局のところはそれらが問題なのではなく、それらの問題に対する自分自身の「思考」が原因であるということは、少し冷静になれば容易に確かめられると思います。

 

では苦痛の原因が思考であることは分かったとして、一体どうすればいいのでしょうか。一切の思考を捨て去り、バカになって踊りまくればいいのでしょうか。いまから150年前の江戸末期に起こった民衆の騒動「ええじゃないか」の例を持ち出すまでもなく、そんなことは一時しのぎにしかならないことは明白です。

 

クリシュナムルティは発見しました。「思考」が苦痛の原因なのではなく、「思考」のプロセスにおける「分離」が苦痛の原因であるということを。その分離とは「思考する人」と「思考」の分離です。「思考する人」と「思考」の間に僅かな分離がある時、それがありとあらゆる苦痛の原因になるということを彼は見抜いたのです。

 

そしてこの分離が人間の時間感覚の元になっている。時間感覚もまた人間に苦痛をもたらす原因です。真実の世界に時間は存在しないのです。真実とは「いま・ここ」のことであり、人間の感じている時間というのは幻想だということですね。

 


●時間は存在しない

 

なぜ真実の世界に時間は存在しないと言い切れるのか。それは「真実とは永遠のことであり、永遠に変わらないことである」という直観から来ます。コロコロ移り変わるのは真実とは言い難い。たとえ「変わることが真実だ」とか「真実はない、ということが真実だ」と主張する人がいたとしても、真実=永遠不変の本質とすれば、『「変わること」という本質は変わらない」』という様に結局は同じことになります。

 

それで永遠とは時間のない世界のことです。時間の中で表現される永遠は無限に発散してしまいますが、これは永遠を量的(幅的)に表現しているのであって、永遠の「質」を表してはいません。そして「質を表していない」ということは、その表現には中身がないということですから、偽物です。「無限に長く続く時間としての永遠」というイメージは偽物だということ。

 

蛇足ですが、偽物だとしても流れる時間という感覚は存在するし、人間の世界はその感覚を前提として構築されていますから、こちらの方は仮の姿として「仮相」という言い方をします。対する永遠の世界の方は「実相」です。現象世界(仮相)と潜象世界(実相)ですね。

 

さて、人間の苦痛は「分離」が原因です。分離によって「永遠のいま・ここ」から引き離されてしまう。そして幻想としての時間の中に閉じ込められてしまう。幻想としての時間の中で人間は、「ああすれば良かった」という過去への後悔と、どんどん死へ向かっていく未来への漠然とした不安というダブルバインド(二重拘束)のなかで、可能性を失った存在として生きるのを余儀なくされるのです。

 

ところがその「分離」は見抜かれることで失活する、つまり見抜かれた分離は終焉し統合に至るのです。なぜならもともと分離は幻想だからですね。するとその時、それまで感じていた苦痛は自然消滅してしまいます。

 

・・・と言葉で書いても難しいと思いますので、ここは図示しながら見ていくことにしましょう。


●「思考する人」と「思考」

 

「思考する人」と「思考」・・・つまりそれは、「思考(think)」における主体と客体のことです。「思考する人(Thinker)」が主体で、「思考(thought)」が客体。客体としての思考(thought)とは、主体(thinker)が思考(think)する、その中身ということですね。そしてクリシュナムルティはこの「思考する人」が幻想であるということを見抜いたのです。どういうことでしょうか。

 


上図のように、「思考する人」と「思考」は同じ一つのボールの両側面、北半球と南半球のようなもので、実際は「思考(think)」という一つのボール(現象)があるだけだということです。

 

「思考する人」と「思考」及びその両者の間の「分離」はすべて幻想であるということ。そしてこの幻想である分離によって生じた「思考する人」こそが、すべての苦痛の源であるということです。この「思考する人」はそもそも幻想ですから、それを幻想と見抜くことでそれは失活(終焉)する。それがすなわち「自我の終焉」ということです。「思考する人」とは自我のことです。

 

これら「思考」のプロセスは、実際に各自がいまその現場で、自分自身の思考に対して直接観る必要があります。これを「凝視」といいます。凝視によって自分自身が直接自分の思考を観ることで、「思考する人」が失活し、苦痛が消滅する体験をする必要があります。


●「我思う、故に我あり」から「思う、故に我なし」へ

 

ところで「思考する人」と聞いて、デカルトの「我思う、故に我あり」を思い浮かべる方もおられるでしょう。デカルトもクリシュナムルティも、まず最初に「正しく考える基盤」を探し求めました。だってスタートからボタンの掛け違いをしていたら、後に続く全てが間違いになってしまいますからね。「正しい答え」を導く為には「正しい考え」をしなければならない。では「正しい考え」とは何か。どうしたら正しく考えることができるのだろうか。

 

デカルトの場合はそこで「全てを疑う」、これを「方法論的懐疑」といいます。とにかく疑えることを全て疑って疑って、そうすれば最後にどうしても疑えないものが残るだろうと。そうして全てを疑い尽くした後に、その「疑っている」という行為(我思う/I think)自体は疑いようがないという結論になります。それが「我思う、故に我あり」。

 


これと先のクリシュナムルティの図を比較すると分かりやすいですね。

 

デカルトの場合は「思う我」を迷うこと無く「主体」として確定しました。この確定された主体が、世界のあらゆる対象から独立した精神主体として、つまり世界から分離して、世界を観察し、操作し、改編できる特権をもった主体として確立された。これが西洋における近代的自我の出発とされています。つまりデカルトの場合は「自我の確立」。

 

この近代的自我が、その後急速に科学技術を発展させて今日の物質的豊かさをもたらしました。しかし同時に自然環境を破壊し、戦争や差別・飢餓など人間社会を仁義なき争いの場にしてしまったのはいうまでもありません。

 

ちなみに、この自我に祝福を与えたのは一神教の神、ユダヤ-キリスト教精神です。一神教の神、父なる神は人間の自我に祝福を与え、自然界から独立して、自然を支配する息子の権利を授けてくれたのです。聖書・創世記にある「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」ですね。

 

ここに創造の神を後ろ盾として、物質(道具・対象)としての自然と、その自然から分離独立した人間の精神(自我)という、西洋文明における三つの実体「神・精神(自我)・物質」が成立します。これがヌーソロジーで言うところの”人間型ゲシュタルトの三位一体”「神(一者)・自我・物質」です。

 

この「神・自我・物質」の枠組みが、人間に物質的繁栄をもたらし、同時に人間に苦痛をもたらしているのです。この枠組みからの脱出を意味する「人間型ゲシュタルトの解体」は、この三つの概念がすべて同時に解体されることを意味します。同時です。それがヌーソロジーにおける人間の意識進化です。

 


話を元に戻します。

「正しく考える基盤」を求めたデカルトとクリシュナムルティでしたが、二人は正反対の結論になってしまいました。デカルトの場合は「我思う、故に我あり」で「自我の確立」。クリシュナムルティのそれは、いわば「思う、故に我なし」で「自我の終焉」ということです。

 


デカルトを契機に確立していった近代的自我が、その300年後のクリシュナムルティによって終焉したのです。「まだボクの自我は終焉してないよ~」という声が聞こえてきそうですが、それは私たち現代人が幼少の頃からデカルト由来の科学的世界観にどっぷりと浸からされているからです。そちらの方が常識になってしまっているからです。

 

現在の私たちの常識は180度違っているのです!あれ、なんかさりげに過激なことを言いましたね(笑)しかし物質的な領域だけでなく、宗教界、精神世界、スピリチュアル界というところにもその常識は深く根ざしていますから、ヌーソロジーや自分教では、まずはそういうディープなところに潜むこの常識を何とかひっくり返そうとひたすら孤軍奮闘しているワケです。半田さんは最近それを常識に対する「逆識」とか言われてますね、少々開き直って。

 

まあそんなところに昨年彗星のごとく、「もののケのしおり」ちゃんという「ネイティブ逆識」が登場し、「これは勝負あったな」ということで始まった今年2017年。これから日を追うごとに逆識の逆襲(なんかややこしい)は顕著になってくることでしょう。


●人間の主体概念は「創造主」が由来

 

さてさて本日のテーマである「思考する人」の発見。まだざっと枠組み的なものを見てきただけで、分かったような分からないような状態かと思います。これを現場で使えるように落とし込まなければ「自分教ガイド」の名が廃ります。

 

「思考」のプロセスに潜む、「思考する人」と「思考」の分離。すべての苦痛の源であるこの分離を消滅させる方法として、クリシュナムルティが提唱した「凝視」を、自分教テイストで見ていくことにしましょう。

 

クリシュナムルティはThinkerとthoughtは幻想であり、実際にはthinkという現象があるだけ、ということを見抜きました。Thinkerとthoughtの間に僅かにある隙間を見逃さなかった。デカルトは最初から「我思う(I think)」となって、「I」という主体を疑うこと無く、さらにその後には「故に我あり(therefore I am)」となって、もう開き直って「I」を確定しちゃった。そこから精神と物質の分離が確定されました。

 

そもそも西洋には最初から「主体」という概念があるのです。それが創造主。この世界を創り給うた一者なる神。自然を創り出した意識の源であり、このお方は自然から特別な位置にあります。自然の中に埋もれてしまったら、このお方の権威は保てません。自然から分離・独立した位置を確保しているのが「創造主」というポジション。そしてこの創造主は旧約聖書・創世記にて自らを「あってあるものなり(I am that I am)」と名乗っています。

 

人間の主体概念は、創造主という概念が元になっています。これが西洋的価値観の根底にある。それに対して東洋的価値観は自然との共生が根底にあり、神という概念があったとしても、それは創造主ではなく、流出論や汎神論のように、神と自然が分かれておらず、万物のすべてを神として取り扱う畏敬の念へと通じるようになります。両者の違いが分かりにくければ、西洋の方は自然を道具と見なしがちなのに対して、東洋の方は自然との一体・共生を重んじるということでしょうか。狩猟文明と農耕文明の違いということでもあります。

 

前節で説明したことを繰り返してクドくなり、すみません。ですが私たち日本人にとってはこの辺りの整理がとても大事だと思うのです。そもそも日本人は、東洋の中の東洋とでも言うべき、最も東洋らしい価値観をしっかりと根底に持ちながら、明治維新以降の急速な近代化・西洋化で、正反対の価値観が入り乱れてぐちゃぐちゃになっている。しかも西洋の方がグローバルスタンダードなんだと権威者達によって上からずっと押さえつけられて来たのです。いまその拒絶反応を経て、ようやく本来の日本人らしさを取り戻しつつあると思います。


●「思う」から「我・思う」に至る、0.5秒のズレ

 

さて、それで西洋文明圏のデカルトは、思考をあくまでも道具として、「私が思考する」という主体の行動と捉えましたし、そもそも英語という言語自体がその枠組みですから当然です。対する東洋文明圏のクリシュナムルティは、思考においても主客一体の状況を自然に捉えたということです。クリシュナムルティの場合は、「思う、故に我なし」です。

 

「思う、故に我なし」。最初に「思う」という主客一致の状況が突然訪れ、その後に「我・思う」と人間は「解釈」します。この解釈をもって、「思考」という体験をしたと感じる。最初の純粋な経験に対して、後からくる解釈としての「体験」には時間のズレがあるのです。

 

この時間のズレは生理学者リベットらの実験によって約0.5秒ということが分かっています。このことは以前のブログでも何度か書きましたし、初級レクチャー第6巻の中で詳しく取り扱っています。この0.5秒の間に人間は体験の編集をしているのです。その際、時間を巻き戻しているということも分かっています。

 

もう少し、この0.5秒のズレと時間の巻き戻しについて見ていきましょう。昨年末のアトリウムでもお話したのですが、人間はそもそも時間は流れて、空間の方は不動だと思っています。ここに人間の意識の転倒ポイントがあると睨んでいます。これは錯覚(仮相)であり、実際に起こっていること(実相)は、その逆で「時間は流れず、流れているのは空間の方」であると。

 

人間は「永遠の今」という位置を見いだせないのがその理由だと思います。そのことについて、空間で考えるのは分かりにくいので「音を聴く」というケースで見ていくことにしましょう。「光」ではなく「音」を基準として考えてみるということです。


●「時間の流れ」と「意味の流れ」は逆

 

まずは下図を見て下さい。昔ながらのテープで音を再生している状態だとします。上がテープの流れ、下が聞こえる音の流れ、真ん中が再生ヘッドの位置ですね。当然ですが、テープの流れと音の流れは逆になります。これはよく考えれば当たり前ですが、とても重要なポイントです。

 

 

いまテープから「あいうえお」という音が聞こえてきたとしましょう。その聞こえる順序を考えて、先に聞こえる側は「過去」、後から聞こえてくる側は「未来」となります。それを考慮したのが下の図です。テープの流れと音の流れは逆ですから、過去と未来の配置も当然逆になります。

 

 

ここで興味深いのは、テープ上の再生するデータは、実際に聞こえる流れの逆なのですから、すべて反転したカタチになっている筈です。まあ実際の技術的な問題は別として、フィルム側(ネガ)と映像側(ポジ)の反転なら馴染み深いのではないでしょうか。

 

ここでもう一つ、気づくことがあります。上図をよく見ると、テープや音楽の流れは未来から過去へ向かっています。音楽で言えばイントロから順番に再生される時、実際のテープ上では曲の最後の部分がだんだん近づいてくるように流れます。これは未来から過去への方向です。こちらの方が自然な時間の流れといえるかも知れません。

 

ここでさらに興味深いことがあります。いま私が「あいうえお」と言いました。それであなたは「あいうえお」と認識しましたね。「おえういあ」とは認識してませんよね。ましてやなんて(爆)

 

でも上図でみたように、時間は「お→あ」と流れて行くのです。私が「あいうえお」と言い終わった時点で、「あ」は過去、「お」の方が過去より手前側です。過去は遠くへ、現在は近くへというのなら、素直に「おえういあ」です。「お」より「あ」の方が遠ざかっているのですから。

 

しかしこれでは意味が分かりません。実際の認識は「あ→お」です。分かりにくければこれを「意味の流れ」といいましょうか。つまり「時間の流れ」と「意味の流れ」は逆だということです。私たちは認識するときに、時間をさかのぼって、さらに逆流させて「あいうえお」と認識しているのです。

 

このことが、例の「0.5秒のズレ」の間に起こっている可能性があります。

 


●時間の最小単位

 

ところでヌーソロジーにおける「次元観察子」、人間の意識構造をカタチ作る概念ですが、その次元観察子はψ1からψ14まで、順番に「ψ1~2、3~4、5~6、7~8...13~14」と奇数偶数のペアで7段階の構造として並んでいます。しかしながら、人間の意識は転倒しているので、これがすべてひっくり返って偶数先手の構造になっているといいます。

 

「ψ2~1、4~3、6~5、8~7...14~13」・・・この時、「2~1」「4~3」「6~5」と各ペアの間にミゾができていることが分かります。奇数先手の時は「1~2」「3~4」「5~6」で各ペアは順番にスムーズに連結されます。しかし偶数先手の時は各ペアの間にミゾができる。このミゾと「0.5秒のズレ」にはどうやら密接な関係がありそうです。

 

恐らくですが、時間の最小単位(パケット)というものがあるはずです。というか、量子力学の世界では既に示唆されています。不確定性原理の式から要請されてしまう「プランク時間」(5.39×10^-44[秒])という極小の時間。この時間より短い時間は測定できないし、あっても意味がない、という程度の理解が常識的でしょうが、もしも時間に最小単位があるとしたら、当然空間の方にも最小単位が出てきて、目の前の現実はパラパラマンガみたいなコマ送りであるということになってしまいます。このイメージはとても非常識なので無視されがちですね。

 

しかし以上の考察を経てきた私たちにとっては、当然の結論となります。時間と空間には最小単位があるし、目の前に展開する世界は、実はパラパラマンガの様相であるということです。そう考えると、宇宙は実体のないホログラフィーのような映像であり、プランク時間という極小時間の間にもの凄いスピードで更新を繰り返しているということになります。更新を繰り返しているというのは、明滅を繰り返しているということです。消えては現れを繰り返しているんだと。

 

これらの知見は、仏教やノンデュアリティの世界観を裏付けていることになりますね。実際に苫米地さんなどは、時間と空間には最小単位があること及びその意味について言及されてます。仏教的世界観の科学的証明として。

 

まあでも仏教やノンデュアリティにおいては、この「音を聴く」というケースで言えば、再生される音の方だけに着目しているといえそうです。再生する元のフィルムはどうなったのか?ということです。

 

カタカムナ的に言えば、フィルムの方が潜象世界(カムナ)、再生される音の方が現象世界(アマナ)となります。それで、面白いのは上で指摘したように、フィルム側はすべて反転して記述されているという点。因果律から何から全部逆の世界であり、この元の世界なくして、目の前の現象世界は存在しないということ。これは粒子・反粒子とも関係があるかも知れません。反粒子とはディラックが方程式で予言し、後に「陽電子」が発見されてその予言は証明されました。エヴァンゲリオン好きなら「ディラックの海」でご存じでしょう。反粒子・反物質の世界は時間の流れも逆転しているとされています。

 

ちなみにシオリちゃんは、どうやら潜象世界と常時接続状態で、彼女の叡智の全ては潜象世界のカムナとのお喋りから聞いたことだというのです。これだけでもガクブルなのですが、彼女は今でも文字が全部鏡文字に見えていたり、カムナとのおしゃべりのルールにおいて、時制が全部逆転しているなど、「ネイティブ逆識」ならではの興味深いヒントをくれています。0.5秒のズレを必要とする私たち人間の認識システムとは180度違うということが推測できます。

 


●自我とストーリー

 

う~ん、またしても構造解説に流れてしまいました。クリシュナムルティの発見した「思考する人」という認識が、いかに私たちの生活の現場で使える真理であり、それを使いこなせるようになれば、日常の苦痛一切から解放されてしまうという、その応用編あたりをじっくりと書きたかったのですが・・・だんだんお腹いっぱい、というか皆さん頭いっぱいになって来られている感じがひしひしと伝わってきます・・・(汗)。

 

でもこのままでは終われませんので、最後に少しだけでも応用編をかじっておきたいと思います。

 

とりあえず、今までの話を整理しますと・・・

 

人間の思考には「思考する人」と「思考」の間にミゾがある。思考だけでなく、すべての行為・経験がそうなっている。「我思う」「私が喜ぶ」「私がご飯を食べる」などなど・・・「行為する人」と「行為」、「経験する人」と「経験」というようにミゾがある。そしてそのミゾによって、行為する主体としての「自我」が幻想として立ち現れる。ミゾのない、今・この瞬間に生じている純粋な経験としては、「思う」「喜ぶ」「食べる」があるだけ。しかしこれでは「体験」にならないので、0.5秒さかのぼって、順序を逆転させて認識する。これが「体験」。「体験」とはストーリーのこと。ストーリーには主人公が必要。つまりこのミゾによって、主人公としての自我とストーリーの編み物を毎瞬紡ぎ上げているのが私たちの人生である。

 

またこのミゾは「流れる時間」という感覚の元にもなっています。おそらくはフィルムとして既に存在している、全てが反転した潜象世界から意味を読み出すときの編集行為が時間の流れを作り出しているのでしょう。それが物質世界におけるプランク時間であったり、人間の認識における0.5秒のズレに繋がっているのでしょう。ですが究極的にはこれらはみな実体のない幻想なのです。

 


●二念を継がず

 

「悩み」であれば、「悩んでる人」と「悩み」。「痛み」であれば、「痛んでいる人」と「痛み」。「焦り」であれば、「焦っている人」と「焦り」。普通私たちはこの「分離」に気がつきません。そして苦痛を感じるのは、この「悩んでいる人」「痛んでいる人」「焦っている人」なのです。

 

「悩み」「痛み」「焦り」それ自身が苦痛の原因ではないのです。実際にこのミゾがなくなると、「悩みそのもの」、「痛みそのもの」、「焦りそのもの」となります。そしてそれら純粋な経験は、何ら苦痛を呼び起こさないことが分かるでしょう。

 

このことは禅の世界で「二念を継がず」という言葉で知られています。その意味は、座禅中に雑念が湧いても湧きっぱなしにしておけばいいということですが、座禅だけでなく、日常生活の全てにおいて徹底されるべき修行上の要となっています。最初に湧いてくる「初念」には問題がないということです。例えそれがどんなにヒドイ「初念」であったとしても。初念に続く「二念」において「思考する人」と「思考」に分離してしまうのです。それが問題です。

 


二念を継がないことで、身体的苦痛ですらやわらぎ、もしくは消滅してしまうことがあります。実際に外国の軍隊で、兵士が身体の不調やケガから最短で快復する方法として、その不調箇所を自分でモニタリング(監視)するという方法があるようです。治るイメージをするという要素もあるのでしょうが、それよりもしっかりとその故障箇所を認識することで自己治癒力がアップすることが知られています。

 

痛みから逃げるのではなく、痛みに立ち向かう・・・などと聞けば、根性論みたいでちょっと引くかも知れませんね。これでは自分教らしくない。自分教のモットーは、根性論とは真逆でして、いかに抜け道はないか、労少なくして最大効果を上げようとする、真性の怠け者の道なのです(爆)。


●全ては自作自演

 

「思考する人」の応用編、その次は「自作自演ツッコミ」です。

 

さて、先ほど見たように「自我」と「ストーリー」は共犯なワケですが、要するにこれって「自作自演」ってやつじゃないでしょうか?

 

「自作自演」・・・と聞いてどう思いますか?思わず「プフッ」と吹き出した人がいるなら、はい、その感覚が正解かと思います。「自作自演」って、はっきり言ってギャグなんです。自作自演はギャグの定番なワケですね。ツボにはまると腹がよじれるほど笑ってしまいます。お笑いで言えば「ボケ」です。相方が一番ツッコめるところです。

 


頭の上にメガネをかけたまま、メガネ・メガネと探しまくる・・・のび太君の王道ボケです。あるいは、頭髪の寂しいオジサンが一生懸命毛生え薬を売り込んできたり、とか。「まず、あなたですよねッ、それ必要な人ッ!」ってツッコミたくなる衝動を抑えられません。

 

昔、上岡龍太郎さんという天才的コメディアンがいました。人生の先輩から若者へのメッセージというVTRがありまして、そこには真剣な表情で次世代の若者達へと熱く語る上岡さんの姿。「...いいかい、君たち。とにかく君たち若者は、自分より年上の人の言うことは聞くな。以上、それが私からのアドバイスだ...」と最後を締めくくろうとしたのですが、「......ということは、このボクのメッセージも聞いてはいけないというこで...ええ、まぁその、エヘン......」というお約束のボケで見事にシメてくれました。私の中でいまだにジワってるボケの一つです。

 

「思考する人」は自作自演のボケをしています。以前のブログで書いたことがあるのですが、例えば朝起きれずに寝坊してしまったと。予定通りに起きれなかった自分を責める、日常よくある光景です。人は失敗すると自分自身を責めます。自分で自分を責めるようになるととても苦しい。そんな時はすかさず「思考する人」を応用します。「バカバカ」と自分を責めてくるその思いに向かってひと言「...あのう、寝坊したの、あなたですよね?」ってツッこんでやるのです。

 

そうなんです。責める人は、実はその人が犯人なんです。だから責められたらすかさず「それ、あなたですよね、プフッ」と笑ってツッこんであげるのです。これで「思考する人」はたちまち失活してしまいます。

 

日常の小さなことから、国家間の争いに至るまで、人間のやることはもう何もかも自作自演だと言えます。戦争ともなれば、それは笑い事ではありませんが、そこに至る人間のプロセスを滑稽に思う冷静さはいつでも持ち合わせておきたいですね。近年お笑いブームが何度も起こって来ているのは、世の中が退廃しているのではなく、むしろ人々の目覚めが近づいている兆しだと私は思っています。


●「凝視」は素振りのように繰り返し

 

クリシュナムルティの偉大なる発見「思考する人」・・・そしてそれを見抜く「凝視」。本日は構造的な話に偏ってしまって、肝心の応用・実践編的な部分はまたしても尻つぼみになってしまいました。この長文に最後までお付き合い下さった皆さんには申し訳ありませんが、でも構造を暴いて誰でも使いやすくするのが自分教ガイドということで何とぞご勘弁を。

 

それで、この「凝視」はある種のパターンとして、はじめは人マネでも構いません。私自身、クリシュナムルティの思考プロセスをたどりながら、自分の現場に当てはめて何度もそれを試していきました。それは野球の素振りと同じです。何度も繰り返して凝視の「カタ」を作ります。

 

この凝視が素振りのように何度も何度もくり返されることで、ある日突然、アイデンティティの消失という興味深い体験が起きます。アイデンティティの消失、つまりそれは「住所・氏名・年齢」といった自我の属性が丸ごと落ちるのです。バサッと。その時、「誰でもないわたし」という未知の感覚が生じます。この感覚が生じたまま周囲を見渡すと、それまでの景色が全く違って見えてきます。そして過去の重荷がすっかり抜け落ちて、とてつもない軽さ、解放感を覚えます。そして「すべてが終わった」・・・と思わずつぶやくことでしょう。

 

私がこのプロセスを体験したのは悩みに悩んでいた30才直前の1999年頃ですが、最近は同様の体験をする人が続出しているようです。ネット環境の発達も相まって、このような体験や感覚の共有が加速しているのでしょう。近年スピリチュアル界における悟りブームやノンデュアリティの体現者をみてみると、みな同様のプロセスを体験されていることが分かります。

 

「悟りブーム」における「見性体験」といえば高尚な体験と思われがちですが、何のことはない、実はこれって誰もが一度は体験したことのある「ゲシュタルト崩壊」の一種です(爆)

 

ゲシュタルト崩壊・・・小さい頃に自分の手をじっと見つめていたら、突然、「先っちょが枝分かれした変な固まり」に見えてきて「気持ち悪ッ!」ってなったことありませんか?自分の部屋やマンネリになった通学路をゲシュタルト崩壊させてまったく違った雰囲気にして楽しんだり。私の通った中学には、この密かな遊びを共有できる仲間が結構いましたけど(もしかして変態?)

 


まあ見性体験もゲシュタルト崩壊の一種で、きちんとした理論的裏付けがあれば、ある程度着地点を設定できるということです。悟り系スピのノンデュアリティもそういうことですね。

 

さあ最後に「ゲシュタルト」という言葉が出てきて、ヌーソロジーとの接続が見えてきました。これが次回へのバトンとなりそうです。

 

クリシュナムルティによって「思考する人」が発見され、人類は皆めでたく「自我の終焉」へと至る予定だったのですが、実際は彼の話は高尚過ぎてその真意は思うように伝わらなかったといいます。そして彼が失意の内にこの世を去った1986年から3年後、そのクリシュナムルティが思いもつかなかった方法で、人間の自我を終焉に向かわせる奇想天外なアイデアが、ハンダコウセンという日本人の青年に突然もたらされました。しかもチャネリングという非常識な手段によって。

 

冥王星のオコツトと名乗るその意識体は、「空間認識の変更」によって「自我の解体」に至るという、斬新な発想を伝えて来たのです。

 

次回のテーマは

『自我の正体②「見られている私」~ヌーソロジーの大発見~』

 

ということで今回も長文に最後までお付き合い下さりありがとうございました。

 

これにて、お・し・ま・い。


とうしん

 

 


●4月の関西ヌーソロジー教室のPR

 

毎月の教室は気楽な会にしたいので
毎回きちんとテーマがあるワケではないのですが・・・

 

今月は「ブロックチェーン」について
少し取り上げてみたいと思います。

 

今話題のブロックチェーン。
 

ビットコインの中核技術と言えば耳にしたことがあるかも知れません。

実はインターネットに次ぐ技術革命と言われているものです。

 

最近では有名ブロガーの玉蔵さんもブロックチェーンだけを取り上げてセミナーをされたようですが、私も以前からずっと注目していました。

 

というのも創造主なしに宇宙が創られて、維持管理されていくシステムのイメージが今までなかなか見えなかったのですが、このブロックチェーンの出現によってようやく鮮やかにそのイメージが見えてきたのです。

 

結論から言うと、宇宙は多数決によって創出・構成されているということです。

 

このブロックチェーンの発想は、ヌーソロジーの、なかでもライプニッツのモナドロジーに実際的なイメージを与えてくれるのです。本当に驚きです。

 

ということで、ゆる~くブロックチェーンについてお話したいと思います。


シロウトの話ですから、あまり期待しないで下さいね。

 

なお、何かのコインをオススメするようなことはありませんのでご安心を。


というか私自身、何のコインも持ってませんから(爆)


★4/18(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時


★4/22(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時

 
《詳細と申し込みページ》


お互いの「感じ方」を確かめ合う場として
今後も月に一度のヌーソロジー教室は続けていきたいと思います。

始めての方でも気軽にお越し下さい。

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