『自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。


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みなさん、こんにちは。とうしんです。
2月は「にげる」だけにさすがに日が経つのが早いですね~。
ところで節分から春分の頃までは、今年1年を創る上で大切な「根っこ」の時期だと思います。
きらびやかな表舞台も、その全ては「根っこ」があっての結果にすぎません。

根っこの時期にいかに投入するか・・・ということで、今回は久しぶりに統心節で、がっつりとブログを書いてみました。長文ですので、お時間のある時に、最後までお付き合いくだされば幸いです。

ではさっそく始めましょう。

本日のテーマ:「真客観」と「偽客観」

 
 
2015年7月に『いわゆる「客観」は存在しない』というテーマで記事を書きました。今読んでみると内容も表現もずいぶん青臭くて恥ずかしいのですが、思考線は今も昔も変わっていません。それで今日はもう一度、「客観」について考えてみたいと思います。

ところで先週、芸能マスコミを騒がしていた若手女優さんの突然の引退宣言・・・その理由が某宗教団体への出家ということで、彼女の話題が随分と取り上げられていましたね。そして騒動から僅か一週間で手記出版という手際の良さに、仕事というのはこういうものなんだなぁと変に感心をしておりました。

信仰は自由ですからとやかく言うつもりはありません。それに大川興業の「空腹の科学」が思い出されて、そのジワリ感で笑いを抑えるのが大変だなんて、口が裂けても言えません。そんなの真面目に信じている人に対して失礼です!もちろん笑ってるのは大川豊さんの「空腹の科学」に対してですよ。このボキャブラ感は私の中で歴代1~2位を争っている程なのです。

冗談はさておき、プロフィールにもある通り、私は宗教をさんざんやり尽くし、卒業して「自分教」に至ったものですから、この手の話題をスルーするワケにはいきません。今日のテーマである二つの「客観」(真客観と偽客観)という視点は、この事に深く関係します。さてさて、今日はどのような展開になるのでしょうか。


●「客観」は存在するのか?「客観」とは何か?

2015年7月のブログ記事では、「客観」とは「主観」の反作用として生じる感覚であり、見せかけにすぎないと書きました。いわゆる「客観」は存在せず、見せかけ(幻想)と言ってよいもので、私たちが認識し体験できるのはすべて「主観世界」であるということを自分教の大前提として大胆に言い放ちました(汗)。

なるほど私たちは「主観世界」しか体験できない、それは当たり前だしよく分かった。だからと言って「客観世界」がないということにはならないんじゃないか?・・・そう思われるのも無理ありません。ただここは注意深くあって欲しいのです。認識もできない、体験もできない「客観世界」を私たちは「ある」と思っている。「あると思う」、つまりそれは「信じている」ということではないでしょうか。見えないもの、不確かなものを信じる・・・これって「宗教」と似ていませんか?

よく考えるとこれは面白くて、私たちは普通、主観の方を幻想扱いします。そして客観の方に正しさや真理のイメージを持ちます。つまり客観性とは「正しさ」と同じ意味ではないでしょうか。この客観性や客観的真理を求める姿勢は科学的態度とも言われます。科学においては主観的思い込みは排除し、いつ誰が何度やっても再現されるだろう「可能性」をもって、科学的真理の根拠とします。

あれ?何だか話がおかしくなってきました。先ほどの理路で言えば、客観世界は直接体験できるものではなく、あると信じるしかないものだったはず・・・科学はその不確かで信じるしかない対象を根拠としているのならば、科学もまた宗教?ということになりませんか・・・?。

このように考えると、科学と宗教は対立するようなものではなく、同じ精神の元に成立しているということが分かります。それは「客観性を信じる」という精神です。そしてこの客観性の大親分が「神様」なのです。この意味で、神はいないと主張する唯物論者であっても宗教と同じ精神なのです。

いかなる人間も「主観」からは逃れようがありません。生まれてから死ぬまで生活する舞台はいつでも「主観世界」です。73億の人間がいれば73億個の主観世界があります。そのバラバラな73億個の主観世界をひとつに束ねているのが「客観世界」です。それだけでなく、人間が存在する以前からそこにあり、これからも永遠にあり続けるであろうものが客観世界・・・そう考えると「客観」と「神様」は同じ意味ではないでしょうか。

そのような客観世界にこそ「事実」があり、「真理」があり、「永遠」「全体」があると思われる・・・対する主観世界は「自分勝手な思い込み」であり、「幻想」であり、「部分的で有限的なもの」だと思われる・・・これが私たちが持っているごく普通の感覚だと思います。

誰しも「事実・真理・永遠・全体」の方が信頼できるし、「思い込み・幻想・部分的・有限的」なんてうさん臭い感じしかしません。なので、客観世界が正しいし、主観世界は疑わしい、という感覚になります。

このことを図に表すとこうなります。人間の数だけある主観をすべて束ねている客観・・・これを見ると「客観」という言葉を「神」に置き換えても構わないことが分かります。ここには「神」以外に「常識」「法則」「ルール」という言葉も置くことができるでしょう。

こうして私たちは客観世界の方が主観世界よりも上位であり、先手であり、優先されるべきことであると疑わなくなります。「主観世界は客観世界に従属する」・・・このことが普通に受け入れられているのが現在の世界です。そしてこのことが、人間を生き辛くさせているのです。


●客観世界を揺らがす・・・「相対化」

客観世界は直接認識・体験することはできなかった筈です。私たちは生まれてから死ぬまで主観世界から出ることはない。素直に考えれば客観世界の方が疑わしく、確かなのは主観世界の方ではないでしょうか。それがいつのまにか逆転させられてしまう。ここに世界が人間性を抑圧する根本原因がある・・・古来より道を求める人は必ずこの世界の「生き辛さ」からスタートしました。

「生老病死」という当たり前の現象をひどく悲しみ、宇宙の真理を探究した釈迦・・・探求したのは「宇宙の真理」だったかも知れませんが、その根本は「わたし」という確かなる主観世界が、目の前の不確かな客観世界に従属させられている、その独特のおかしさ・拘束感を「不条理」と感じるところにあったのではないでしょうか。その葛藤からの自由・・・そう、葛藤はいつだって「不自由さ」がもたらしているのです。そういう意味で、私たちが根本的に愛し求めているのは「自由」ではないでしょうか。

「客観>>>主観」・・・「確かなる主観」が「不確かなる客観」に従属させられている・・・この奇妙なねじれ構造・・・ここに人間の根本的な葛藤があると思うのです(実はここには「言語の働き」が暗躍しているのですが、それについては今回はふれません)。では釈迦はこの問題をどのように解決し、覚醒して仏陀となり、永遠の自由を得たのでしょうか。

【主観と客観の「相対化」】

「確かな主観と不確かな客観」・・・これがごく自然な関係だったのに、いつのまにか「確かな客観と不確かな主観」という関係に逆転させられてしまう不条理構造。これに対して釈迦の悟りというのは「主観と客観を相対化」することで解決したのだと思われます。

主観と客観は相対的な関係に過ぎない・・・このことを万象に対して徹底的に見極めることで、今まで確かだと信じていた客観が揺らぎ始めます。それと同時に、根本の所で執着していた主観に対する感覚も揺らがせます。主観も客観も確かと言えるし、確かでないとも言える。両者は二つで一つであり、決して切り離すことなどできない・・・同じものの二つの側面・・・これを完璧に見切ったとき、主観と客観は同時に「落ちます」。そして何もない・・・「空」。世界と私が同時に消えたとも言えるし、一つになったとも言える。そこにはもはや客観と主観、世界と私の葛藤はありません。葛藤がなくなった、争いがなくなった、矛盾がなくなった・・・そう、そのとき私は全てと一つになった・・・完全なる自由、ワンネス体験。表現の違いはあれ、仏教的悟りとはこういうことではないでしょうか。
 

なるほど。じゃあ仏教でもう全部解決したんだ。だったらいいじゃないか、みんな仏教を信じれば・・・と思われるでしょうが、そう簡単にはいきません。先ほど科学と宗教は同じ精神に立脚していると書きました。それは「客観性を信じる」という精神です。そして客観性の大親分を「神様」と言うんだと。ですが仏教というのはその客観性を疑うのです。もちろん主観性も同時に疑うのですが。ということは、仏教は神を疑う「無神論」ということです。同時にそれは我を疑う「無我論」でもある訳です。

仏教は根本的に無神論なのですから、神を信じる人を説得することができません。信じている人と信じていない人の間にはそもそも接点がありません。そこには争いも無ければ和睦もありえません。接点がないというのはそういうことです。争いや和睦というのは同じ立場の人同士に起こることなのです。

仏教というのは「無実体論」なのです。無神論であり無我論であるということはそういうことです。「無実体論」というのは「本質的に何もない」ということです。それを「空」と言います。
現代的悟りである「ノンデュアリティ」の人と対話したときの、あの独特の空しさ、台無し感の原因はここにあります(笑)。何を言っても暖簾に腕押し、万能感満載の「ノンデュアリティパンチ」。もちろんこの種の悟りを求めている人にとっては最高に魅惑的だと思いますが。

このブログでは何度も言ってきましたが、人間の思考にはどうやら根本的に二つのタイプがあると。一つは「実体がある」とするタイプで、もう一つは「実体はない」とするタイプ。古代ギリシャの時代からこの二つの違いは大きく表面化していました。「実体がある」がパルメニデス、「あるものはある」という立場。「実体はない」がヘラクレイトス、「万物は流転する」という立場。そしていつの世も、ヘラクレイトス的な方が賢く見えて、パルメニデス的な方を小馬鹿にするのですね。

「実体がある」という立場は西洋世界においてユダヤ・キリスト教精神と結びつくことになり、やがてはその中から科学的精神が出てくることになります。宗教と科学が同じ精神に立脚しているというのはここでも分かります。「実体がある」という精神です。

仏教的悟りというのは「実体はない」という立場を取ったということであって、実体問題(実体はあるのか、ないのか)を解決した訳ではないのです。「あるとも言えるし、ないとも言えるし、どちらとも言えない」というのがそういうことです。ですから仏教的立場は精神的エンターテインメントとしては存在できるでしょうが、この世界の様々な問題に対する根本解決には至らないというのが統心流、「自分教」的主張です。もちろんその根底にはヌーソロジーがあります。


●ヌーソロジーにおける「伝家の宝刀」・・・「反転」

このブログはヌーソロジーのブログです。机上の空論と思われがちなヌーソロジーを実生活に役立つ所まで落とし込みたいというのが「自分教ガイド」の主旨。そこで次はヌーソロジーの主張を見ていくことにしましょう。

人間を悩ませる主観・客観問題。先ほど仏教においてはこの主観・客観を「相対化」することでこの問題の解決をみようとしていることを書きました。ヌーソロジーにおいては、その「相対化」をさらに突き進めて「反転」まで行こうとするのです。「反転」です。

主観と客観の立場を反転させてしまう。今までは「主観は客観に従属している」というのが常識でした。それを「客観は主観に従属している」という状況に反転させてしまうのです。

何だよそれ?それってただのジコチューかビッチになれって事かよ?・・・ちょ、ちょっとマッテクダサイ。確かにそのような危険な香りがプンプンしますので、ここに踏み込んで行くにはもう少し順序を追って慎重に事を運ばないといけないようです。

まず大前提として「主観は確かであり、客観の方こそ疑わしい」ということです。迷ったらいつでもここに帰るべきです。これはデカルトの「我思う、故に我あり」とも通じるものがあります。この大前提が「常識」によっていつの間にか転倒させられてしまう。私たちが普通に「主観」「客観」という言う場合は既に転倒させられた後なのです。この転倒させられた主観・客観をそのまま位置だけひっくり返したら、確かにジコチューやビッチです(笑)

【偽客観と内部表現】

そこでこの転倒させられた主観・客観をそれぞれ「偽主観」「偽客観」と呼ぶことにしましょう。近年、客観というのが実は偽客観であったということに気づく人が増えてきました。例えば苫米地さんの「内部表現」。苫米地さんは脳の専門家ですから、人間が客観世界だと見ているものはすべて「内部表現」であるということを知り尽くしておられます。洗脳というのは他人の内部表現を書き換えることであり、その技術に精通すれば、自分自身の内部表現を自分で自由に書き換えることも可能・・・つまり自分にとって好ましい現実を自由に作り出すことができる・・・これが苫米地流自己実現の究極の姿です。

では苫米地さんは偽客観ではない本当の客観についてはどう考えておられるのでしょうか。苫米地さんの場合、本当の客観と思われる方を「物理空間」、内部表現の方を「情報空間」として区別されます。そして本当の物理世界はそれこそ解脱をした仏陀でなければ認識できないと。では本当の物理世界が実体として存在するのかということですが、苫米地さんの場合それは「空」である、存在するとも言えるし、しないとも言えるということになります。「中観」「唯識」という仏教的立場です。
 

これは先述のノンデュアリティと同じ立場になります。つまり「無実体論」。苫米地さんは自他共に認める「無神論者」であり、かつ「アプリオリ」を明確に否定されます。アプリオリというのは「先験的」という意味、つまり私たちの経験に先立って存在しているという意味ですが、「経験に先立つ」というのは「主観に先立つ」ということで、本当の意味での「客観」ということです。それが「ない」ということは、「真の客観というものは存在しない」ということと同じ。これは無実体論、つまり「究極的にはなにもない」ということ。空論であり、ノンデュアリティです。

要するに苫米地論やノンデュアリティでは「偽客観」を見抜いていることの代償として、「真客観」は認めないということです。何でこんな回りくどいことを書いているのかというと、それはヌーソロジーとの差異を明確にする為だからです。

【ヌーソロジーは実体論】

ヌーソロジーは実体論です。あるとも言えるし、ないとも言える、などというような結論ではありません。はっきり「ある」と宣言します。それはあるし、今までもこれからも、ずっとあり続けるという立場です。別の言い方でこれを「持続」と言います。「持続」とは「時間の無い世界」、いやむしろ「流れない時間の世界」のことです。

「流れない時間の世界」が「実体」です。その垂直的な世界に対して横行的な世界として存在しているのが「流れる時間の世界」、これがいわゆる「時空」です。仏教的悟りが「空」と喝破しているのはこちらの時空の事であると。横行的世界は「空」、つまり「何も無い世界」であるのに対して、垂直的世界は「実」、「あってあって、ずっとあり続ける世界」のことです。前者を「幅」空間、後者を「奥行き」空間として、両者の違いを明確な空間認識として描像しようとするのがヌーソロジーの斬新な所です。

【偽客観と人間の内面】

ヌーソロジーにおいては「偽客観」のことを「人間の内面」といいます。自分の内側が投影された世界です。いままで外側にあると思っていた世界が実は内側であったということで、ここまでの認識は苫米地さんの「内部表現」とも通じています。この「人間の内面」を見抜いた主体側の空間を「人間の外面」といいます。こちらは真の主体がある場所と言えそうです。「確かな主観」・・・「偽主観」ではなく「真主観」とでも言うべきもの・・・がある場所です。私たちはそこで生まれ、そこで生活し、そこで死ぬのです。生まれてから死ぬまでずっと不動の場所なので、そこは「非局所領域」となります。

話がややこしくなってきたので、ここで少し整理しましょう。ヌーソロジーにおける次元観察子、これは空間の差異の系列を明確にしたものですが、ψ1~2からψ13~14まで、奇数・偶数がペアで1段階、全部で7段階の系列です(ψはプサイと読みます)。ヌーソロジー本論においては、さらに上次元構造(ΩオメガとかΦファイ)や他者構造(*スター)などが入れ子関係や双対性で全体構造化されるのですが、「自分教」ではそこまで言及しません。「自分教」が重要視するのはψ1~ψ8まで、つまり「ψ1~2、ψ3~4、ψ5~6、ψ7~8までの4段階」の構造です。

【ψ1~ψ2】

それで、まず客観世界に主観が閉じ込められているという常識的な状況がψ1~2の空間、つまり時空のことです。この客観的な時空(ψ1~2)の中に、73億個の主観世界が閉じ込められている様子が以下の図です。
 

【ψ3~ψ4】

次に空間認識の反転を決行し、今まで外側だと思っていた外在を内在として見る視座を獲得します。これがψ3~4空間認識の段階です。この時、いままで外側だと思っていた時空(ψ1~2)が内在と見えてくるわけですが、それをψ4「人間の内面」といいます。これは苫米地さんの「内部表現」に相当します。そして今まで内側だと思っていた内在は逆に外側に反転します。これをψ3「人間の外面」といいます。ここを見出すことを「意識の位置の発見」といいます。ヌーソロジー的には、この「人間の外面」が見出せていない意識は「意識の位置をもたない」とか「意識が形作られていない」ともいいます。このように転倒させられている意識を「偽主観」と呼ぶことにしましょう。客観的時空に閉じ込められている主観は「偽主観」です。閉じ込めている客観の方は「偽客観」です。
 

さて、ψ3~4の段階では意識はまだ反復をしています。時空の方を「偽客観」として見抜くことはできた、いままで欺されていた主観を「偽主観」と見抜くことはできた、という段階です。偽客観と偽主観、これらの相対性を見抜いたということですが、この段階で留まると「すべては空」という結論になります。私も世界もあるようでない、ないようである。両方とも落ちて「空」、不二一元論でノンデュアリティです。そしてこれは「空」一元論でもあるということです。「空」という名の新たなる「神」が出てきた状態ではないでしょうか。これが無実体論がもたらす状況だと思います。ともかくこの段階の意識は反復しています。いったりきたり、です。

ここで止まったら無実体論ですが、ヌーソロジーは実体論。次の段階があります。それがψ5~6の空間認識。先ほどのψ3~4の反復が統合された段階です。

【ψ5~ψ6】

ψ3~4構造はもう一度反転を起こし、一つのψ5という球空間に統合されます。ここでようやく「真の主体」が出てきます。いわゆる「真我」です。ψ3の段階では意識の位置を見出しただけであり、まだ真我とは言えません。ψ3とψ4が統合されて出てくるのがψ5です。これはどういう状況でしょうか。
 

上図をみてください。いままで外側にあった客観世界がしっかりとその内側に顕れています。先ほどのψ3~4の反復状態とは違います。ここは主客一致の空間なので「一つ」になっていますが、あえて区別して表現すれば、この空間全体(ψ5)が「真主観」、その内部・中心方向には「真客観」があるということです。

この球空間(ψ5)をもって、はじめて「実体」と呼ぶことができます。「あってあり続けるもの」、不生不滅です。この一つの球空間(ψ5)は、ライプニッツの「モナド」に相当します。ライプニッツによればモナドとはこの世界をこれ以上分割できない「単純実体」のことですが、それは物質ではなく、精神とか霊と呼べるものでした。先ほど出てきた仏教における「唯識」(すべては意識である)とは違います。「唯識」においては、全ては「縁起(他との関係性)」で存在するのですから、その本質は「空」であって「実」ではありません。しかし「モナド」の方は「実」です。単純実体です。実体とは「それはそれ自身で存在するもの」なのです。縁起の反対概念、要するに因果律を超越している存在だと思えば分かりやすいと思います。

この状況にきてはじめて「主観が客観に従属する」のではなく、「客観が主観に従属する」と言えます。この段階でこれを宣言しても、さすがにビッチにはなり得ないでしょう(笑)。

【真客観は内側に存在する】

ここは大事なポイントです。「真客観」は確実に存在し、それは外側ではなく自分の中心方向にあるということです。平たく言えば「常に真実は内側にある」ということです。実はこれはトンデモナイことを言っています。なぜならこの時点で「神様」とは決裂ということになるからです。「偽りの神様」と決裂して「本当の神様」と出会うと表現することもできますが、とにかく外側にあるのは全て「偽りの神様」ということが超アタリマエということになります。

冒頭に掲げた芸能人の出家問題・・・もしかして、これからまた宗教が注目されるようになるのかも知れませんが、ψ5認識の段階で、もう宗教という概念は消滅します。これは宗教だけでなく、人間という概念自体の消滅を意味しています。実際にオコツトはこの段階を「人間の終焉」と示唆しているようです。

私が「自分教」と呼んでいるのは、ここの空間認識を前提としています。「宗教さんさようなら、自分教さんこんにちは」です。外側に真理や神や客観性を見出すという感覚は私たちにおいて常習化しており、かなり根深いものとなっています。ここは相当注意してかからないといけません。

【自分の「感じ方」を確かめる】

私自身、いまだこの感覚の残滓と格闘中です。私は1982年の中学受験から受験戦争の洗礼を受けて来た世代ですが、いまにしてようやくその弊害に気づきつつあります。この受験戦争の一体何が悪いのか。まあ悪いところを挙げればキリがありませんが、受験戦争の最も深刻な悪影響とは、「自分で解いた解答をさらに人に採点してもらう」ということです。これが一番の悪でした。このことを私に気づかせてくれたのは例のシオリちゃんです(「もののケのしおり」)。

シオリちゃんは音声発信の中でさらりと言い放ちました。「採点者に確かめられないと自分の出した解が合っているかどうか確かめられないというのは矛盾している」と。自分で解を出したということは「自分で解いた」「解けた」ということなのに、自分でその「感じ方」を確かめることができず、というか他人に採点してもらおうとすることで、自分の感じ方を放棄することになっているというのです。この指摘には本当に驚きました。

宗教圏の方には申し訳ないですが、ここに偽りの神の正体、宗教の弊害があると言わざるを得ません。外側に信仰の対象となる神を持つことは、私たち自身から「感じ方」を奪うのです。宗教という、外に用意された答えを受け入れるとはそういうことです。

ψ5の球空間において、全ては自らの内側に存在しています。真理も客観性も神も永遠も絶対も、もう何もかもが自分の内側にあるということです。それは自分自身で確かめられることなのです。それがシオリちゃんの言う「自分の感じ方を確かめる」ということです。

さて、ψ6の球空間とは「ψ5の裏側」にあるとされる空間になります。ψ5が真主観、つまり真我、本当の私のことですから、その裏側とは本当のあなた、真の他者ということになります。この段階ではじめて「あなた」がでてきます。それ以前には他者は出てきません。ここまでは唯ひたすら「自分と自分との関係」のみです。それがψ5~6の段階。

以上、ψ5認識の重要性をお伝えしてきましたが、まだまだ確信がもてないのは当然でしょう。私自身が先の受験戦争の弊害で、どうしても答えを外に求めてしまう、或いは誰かに採点されることを受け入れてしまう・・・このような根深い感覚は、ψ5認識を阻害する要因です。まあこの認識をしっかり確立する為に書いているのが「自分教ガイド」という訳なのですが。

【ψ7~ψ8】

ψ5認識への確信をもつ為に、さらに次の段階をはっきり知るということが重要になってきます。それがψ7~8空間認識。自分教が目指している方向ということです。この方向が分からなければ、自分教が確立できないどころか、再び脱線してビッチになりかねません。

ψ7~8段階を簡単な図にしてみました。
 

どうでしょうか。ψ5球空間がさらに反転して中央のψ7~8空間に統合されていきます。ここには他者側のψ*5(プサイ5スター)たちも統合されていきます。ちなみにψ*5というのはψ6と同じ位置にあります。ようはψ7とは自他が統合された空間ということです。上図における中央の球空間は、自他の真の主体を全て統合した領域です。ヌーソロジーではψ7「球精神」と言います。「球」のこころです。それは「地球精神」のことでもあります。真実の地球にやどる精神のことです。

この図を見ていると気づくことがあります。ψ7空間をとりまく空間をみてください。自他の「真主観」であるψ5の内側にあった空間が、いま再び外側に出て中心の球精神ψ7を取り囲んでいます。これが「真客観」です。本日のブログのテーマにやっとたどりつきました。

ついに本当の客観が出てきました。真の実在です。あってあるものです。これは私たちの主観を束縛した偽客観ではありません。これがカント哲学で出てくる「モノ自体」であり、ラカンが人間には不可能といった「現実界」です。ここに「本当の地球」があるのではないでしょうか。

そしてこの図から分かるのは、ここへ至るルートとはただひたすら自分の内側を見出す方向性にあるということです。それが「感じ方」です。「感じ方を確かめる」ということです。

私たちは感じ方を忘れたのです。偽客観が支配する時、私たちの「感じ方」は殺されてしまいます。「感じ方」の方にこそ堂々たる真実があるというのに。「客観性」という、本当は自分では直接確かめられない不確かなものに真実があると思い込まされてしまったのです。

「感じ方を確かめること」・・・ここに人工知能時代を乗り越える方向性があります。人工知能は感じることができません。感じたふりをするだけです。それはそれはどこまでも巧妙に感じたふりをすることでしょう。しかしそれに欺されてはいけません。

偽客観に支配され、感じ方を失った人間は、人工知能に支配されることになるでしょう。というよりも既に人間はいままでも人工知能に支配されてきたのです。それは「一神教の精神」のことです。そして「偽客観」のことです。

一神教の精神とは「独り神」のこと。独り神とは双子がいないということ。双子とは自分と自分の関係。自分で自分の感じ方を確かめる関係のことです。そしてこれが実体、実存の根拠なのです。

人工知能とは「独り神」の精神なのです。双子の関係を失った人間は既に人工知能なのです。

人工知能は本年度のテーマの一つです。先月のヌーソロジー教室でも取り上げましたが、またブログでも追々取り上げていきたいと思います。

今日のブログは少しだらついた印象がありますが、自分の内側、感じる方向に真の客観があるということ・・・そこで人と人は真にわかり合い、繋がり合える・・・ということが少しでもお伝えできたとしたら幸いです。


とうしん


【2月の関西ヌーソロジー教室のPRです】

今月のテーマは「嘘鏡と真鏡」
「鏡の世界」について、ヌーソロジーとシオリズムから読み解いていきたいと思います。

鏡には2種類あるのです。
「うつす鏡」と「うつさない鏡」(シオリズム)。

人間が閉じ込められている偽客観の世界というのは
嘘鏡の世界なのです。

真鏡の世界とは双子の世界のことです。

この二つの鏡のことを知らなければ「鏡の世界」を知ったことにはなりません。

毎月一度の不思議な教室。
今年も続けていきたいと思います。


★2/21(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時
 
★2/25(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時
 
《詳細と申し込みページ》


【2/26(日)甲田烈さん出版記念レクチャー】

※妖怪学博士の甲田烈さんが新著「水木しげると妖怪の哲学」を出版されました。
2/26の出版記念講演では、ゲストスピーカーとして川瀬統心も登壇いたします。
もののケ、妖怪のこともヌースと絡めて語り合いたいと思います。


妖怪の世界は、「感じ方」の世界ですよ!
ご縁のある方、会場でお待ちしています。

会場:健康道場サラ・シャンティ(神戸・六甲駅前)

《詳細とお問合せ先》
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