『自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。


テーマ:
みなさん、こんにちは。
2016年最初のブログですね。何とか1月中にアップできました。
今年もよろしくお願いいたします。
それではさっそく始めたいと思います。

本日のテーマ
「同質異体」から「異質同体」へ

昨年から何回かに渡り、スピリチュアル界の新しい潮流である「ノンデュアリティ」について、少々批判的な記事を書きました。前回の記事でも明確にしたのですが、ヌーソロジスト(ヌーソロジーを基本OSとして思考する者)としての私は、ノンデュアリティに対して一方で高い評価を与えながら、もう一方では、そっちに行っちゃあいけない、あんたトンデモナイよ、と激烈な反対意見を持っているワケです。もうそれは正反対の意見を持っています。相反する二つの意見を同時に持っているというこの態度は、「4サイクルエンジン」装備の変換人に見られる標準システムですので、このブログを通して是非とも慣れて頂きたい。というか慣れてくると思います、読み進むうちに。

さて前回のブログでは・・・何が起ころうとも全てをなかった事にしてしまう、植木等も真っ青の究極の無責任(責任が無いという意味で)とでも言うべき「ノンデュアリティパンチ」(byナホチャンマン)を掲げ、これが果たして人類の救いとなり得るのだろうかと問題定義をしました。確かにコレは凄い破壊力を持ち、どんな問題でも一撃必殺で吹き飛ばしてしまいます。だけどもこれには深刻なある副作用があり、本気でノンデュアリティを追求するならば必ずや虚無に飲み込まれるであろうといくつかの事例(EO氏、バーナデットロバーツ女史など)を挙げてご紹介しました。最後に反論として、コレとは別次元の、もっと究極でパワフルな「真打ち」が待っていると・・・それが「純粋持続」である・・・として、次回からはこの「純粋持続」の世界をご紹介していくと予告いたしました。

この「純粋持続」(あるいは「持続」)という概念は、哲学者ベルクソンが提唱したもので、これは「時間」に対する概念です。ですが通常の時間概念(過去~現在~未来という直線的な時間)ではありません。通常の時間概念とは物理学で扱われる「時間軸」のことであり、その極みはアインシュタインの相対性理論で扱う四次元時空における「時間」です。これは簡単に言えば映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」とかドラえもんでお馴染みの時間のことですよ。「タイムマシン」で扱われる時間です。ですがベルクソンという人はこの時間概念に真っ向から異議を唱えたのです。アインシュタインに対して反対する論文まで提出したのです。
時空持続

アインシュタインをはじめ全ての物理学者が扱う時間軸という「概念の時間」に対して、ベルクソンが扱う時間とは「生命の時間」とでも言うべきものです。私たちが命の現場で日々、この一瞬一瞬いつも生きている時間のことです。過去・現在・未来と無機質に流れていく時間ではなく、ず~と続いてきて流れずにいまここにず~とあり続けるというような時間。神道で言われる「中今」という概念にも通じています。「いつでも今」の「今」です。ヌーソロジー用語を使って説明すれば、従来の時間概念が「幅の時間」、それに対してベルクソンの持続が「奥行きの時間」です。「幅と奥行き」は直交関係にあり、ヌーソロジーにおける最重要概念としての対化の関係です。

そして「持続」、つまりこの「奥行き時間」こそが生命の本質であり、「精神」の本質であるという結論になります。私たちは、特に近代以降にこの時間を著しく失っています。これが人間性喪失に繋がっています。科学技術が発達し、物質文明が反映すればするほどに、「幅の時間」が文字通りハバを効かせるようになり、私たちの生命の本質は阻害されていくのです。

「幅の時間」の恐怖政治は、物質世界にだけ限られたものではありません。宗教とかスピリチュアルといった「精神世界」にまで幅を効かせているのです。その結果、精神世界もまた、物質世界同様に弱肉強食・植民地政策・封建制度さながらのヒエラルキーが形成されているのです。全ては「幅の時間」がなせる業です。いくら「今に生きる」ということの大切さが分かっていても「幅の時間」しか知らないのであれば無理なのです。「今に生きる」とか「中今」というのは、「持続」(奥行き時間)の世界なのです。「持続」が分からなければ難しいのです。

ノンデュアリティという議論は、先ほどは「植木等」と茶化しましたが、この「幅の世界」に対して一撃を食らわすものです。「幅の時間」が支配する「幅の世界」など、実体のない幻想だ!なぁんにもないんだぁ~!って具合に。ですから至極真っ当な議論なワケです。ただそれらを粉砕してしまった後にはなにも残らなくなってしまう・・・「虚無」です。宇宙空間を埋め尽くす圧倒的な無の世界・・・でしょうか。そんなイメージに直面すれば正気を保つこと自体が難しいでしょう。発狂します。「死の恐怖」もこれに似ているように思います。「ゼログラヴィティ」という映画を見れば、この世界を垣間見ることができますよ。
ゼログラヴィティ

ところでノンデュアリティという議論は決して物好きの戯れ言ではなく、トンデモでもありません。現代物理学との整合性も取れてきています。量子力学自体が、物質の根源である素粒子は波動でもあると言っています。波動となるともう物質というより情報ですので、そこからホログラフィ宇宙とか情報宇宙のように、宇宙の本質は実体の無い「空」ではないかという知見が次々と登場しています。かつてこのブログでも指摘しましたが、「色即是空」までは現代知性は理解し始めているのです。

しかしながら「色即是空」はまだ「幅の世界」なのです。「幅の世界」を見抜いたというだけなのです。幅には実体がなかったよと。そこで止まると宇宙は空しい。ノンデュアリティや仏教概念を突き詰めると「空しい」ということになります。だってすべては「空」なのですから。

ここに「持続」の概念が登場しなければなりません。ベルクソンという人は天才的哲学者ですがやはり凄くて、当時難解であった相対性理論を一通り理解した上で、アインシュタインに反論したといいます。この反論は結局のところアインシュタインに理解されず、ベルクソンはその論文を引き下げるのですが、これは「持続」という概念がいったん負けたということです。この時は奥行きに対して幅が勝ちました。そして物質文明はさらなる発展を遂げ現代に至ります。一方でこの「持続」という思考線は同じフランスの哲学者ドゥルーズに受け継がれていきます。ドゥルーズ哲学はとてもエキサイティングなのですが非常に難解です。今までにない概念を表そうとする野心的な哲学ですから仕方がありません。この難解な思考の系譜を受け継ぎ、そこに新たなる生命を吹き込み「庶民の哲学」として蘇らせようとしているのがヌーソロジーだと言えるでしょう。「幅の支配」に対して、いま再び「奥行き」の復権を目指して立ち上がったのがヌーソロジーであり、このブログ「自分教」ということなのです。

「持続」はとても重要な概念であり、いろんな角度から慎重に迫っていきたいと思います。そのため今年1年を通して関西ヌーソロジー研究会でのテーマにするつもりです。このブログでも継続して「持続」概念を追いかけていきたいと思います。「持続」に関しては今回はこの程度にとどめておき、いよいよ本日の話題に移っていきたいと思います。


★本日の話題は「同質異体」から「異質同体」へ。

「同質異体」。自分教用語です。もちろんヌーソロジーからインスパイアされたものです。ヌーソロジーやドゥルーズ哲学で登場する「同一性に従属する差異」と同じ意味です。それに対する「異質同体」「差異に従属する同一性」「同質異体」は「幅の世界」の概念であり、「異質同体」は「奥行き世界」の概念です。「異なる体」がいくつもあるのが「幅」のイメージ、一つの「体」しかないのが「奥行き」のイメージです。「幅の世界」は人間の世界、「奥行き世界」は変換人、そしてその先にあるのがヒトの領域と捉えて下さい。変換人とは「幅の世界」と「奥行き世界」を行ったり来たりする、蝶番のような役割を果たす存在であると言えるでしょう。この自分教も変換人のゲシュタルト(物の見方・考え方)です。

「同質異体」・・・この宇宙は、全ての存在は、ある一つの「質」から出来上がっている・・・そういう捉え方です。唯物論は「物質」という「質」が全てであると捉えるワケですし、その反対概念である唯心論は「全ては意識である」という感じですね。「唯識」という仏教哲学がそうです。「一切が空」という哲学も「空一元論」として、全てが「空」であり、存在はその「空」が形を変えただけと捉えますから「同質異体」です。一切が「波動」という捉え方は最近のスピリチュアルに多い考え方ですよね。これもまた「同質異体」論です。全てを「波動」に還元して捉えていこうとするものです。

西洋的な一神教はどうでしょうか。唯一の神が創造者として君臨し、人間以下全ては被造物です。それらはみな神によって存在させられているものです。全てが神による創造ですから、神という質があらゆる階層に変化して現れてきたということで、これもまた「同質異体」です。全ては神と神の現れです。

こうして見ると、おおよそ全ての哲学・宗教、私たちの物の見方・考え方は大抵が「同質異体」です。面白いのは霊的なものを信じる宗教やスピリチュアル、精神世界も、そしてそういうものを一切信じない物質中心主義であろうとも、その思考は「同質異体」という枠組みで捉えることができます。どこかで一つの「質」が暗躍しています。

これを図にすると下の図のようになります。この図が表しているのは、「同質」が存在の最上位概念に位置して(これを「ONE」と表現します)、その下にあらゆる存在がきます。これが「異体」です。同じ「質」のものが、いくつもの異なる体をなしている。
A 同質異体

ノンデュアリティとかワンネスもこれと同じですよね。「何も無い」という無や空が「同質」として君臨し、後はその表現の違いである「体」として存在している。「すべては愛」という場合も同じです。「愛」という「質」が変化してさまざまな形態となって存在していると。「愛一元」なんて言うととても聞こえがいいですから、ここまで議論を進めてくると「同質異体」のどこが悪いの?ってことになりそうです。

「同質異体」に何か問題があるのでしょうか。私としては問題があると言いたいのですね。それでこの「同質異体」を「幅の世界」の概念であるとしたのです。これは「人間の世界」です。ここで人間の世界とは「受動的」な世界ということです。「受動的」な世界。私たち人間は「受動的」な世界に生きています。与えられた世界、投げ出された世界。おぎゃあと生まれてこのかた、世界は目の前にあり、その中にいきなり投げ込まれました。そこで外在世界の刺激を受けとり、それに対して反応を繰り返して生きてきた毎日です。この意味において人間が「主体性」と思っているものは、実は主体でも何でもありません。いつも「反応」しかしていないからです。初級レクチャー第6回でご紹介したベンジャミン・リベットの実験では、人間の知覚は常に0.5秒遅れているということが示唆されています。どれだけ頑張っても「今」を認識することはできません。認識しているのは常に0.5秒前の過去であり、またその気づきとか意識さえも、発生する0.2秒ぐらい前に「準備電位」を生じることが分かっています。つまり「考えている」のではなく「考えさせられている」のです。いつも「意識」より「無意識」が先行し、そのため私たちは決して「意識的になることはできない」という結論になります。こうなると私たちの「主体性」とか「意識」とは一体何だろうかという議論になってきます。

これに対してお釈迦様は「無我」と喝破したのです。「自我」というものは実は存在しないと。自ら自律する自我のようなものは存在せず、一切が縁起つまり関係性でしかなく、確固たる主体性というものは存在しないと。今でいうノンデュアリティの悟りもこれと同じです。この文脈で言えば、結局のところ悟る人も悟らない人もいないということになります。悟ったり悟らなかったりする自我自体が幻想だからです。

自分教ではこのような自我のことを「受動的主体性」と呼びます。主体性があるかのように見せかけているだけで、まったくもって受動的な存在、それが自我です。受動的ということは「創造には関与しないしできない」ということです。これではロボットと大して変わりありませんね。事実その通りなのです。自我はロボットなのです。これが「人間の世界」に対する極論です。

「同質異体」の「体」とは、このような真の意味で主体性のない「体」達が「同質」に束ねられているイメージです。与えられた世界でうごめいている存在。どれほどもがこうともこの峻厳たる現実から逃れようはない。それを受け入れるしか仕方が無い。そのような諦めこそが諦観と言われる「悟り」への一歩とされています。一神教であれば神への服従、信仰しかないということでしょう。所詮、人間は被造物なのですから。与えられた枠組みの中で、よりよく生きるしかないワケです。

これだったらノンデュアリティよろしく、または植木等の如く、「なぁ~んにもないよ」と開き直って楽しむしかないでしょう。自我がないということは罪も責任も存在しないのですから。無我を悟ったのなら、人間は責任から解放されて良いのです。全ては起こるべくして起こっているだけなのですから。


***************

それでは「同質異体」に対して「異質同体」とはどのような世界なのでしょうか。「同質異体」は「幅の世界」であり、「人間の世界」だと言いました。対する「異質同体」とは「奥行き世界」であり、「変換人型ゲシュタルトの世界」ということです。「同質異体」が「同一性に従属する差異」ならば、「異質同体」は「差異に従属する同一性」を言い換えたものです。「差異が先行する世界」ということです。果たしてどのようなイメージでしょうか。
B 異質同体

上図を見て下さい。先ほどとはピラミッドが逆になっています。「同質異体」では「ONE」概念が最上位に位置していたのですが、「異質同体」では「ONE」は最下位に位置しています。全ての根底に根ざしているという感じでしょうか。そして「同体」なワケですから「体」は同じなのです。この世界では「体」は一つなのです。ひとつの「体」を母体にして、そこから「異質」が花開いています。「異質」つまり「差異」の世界です。「違う」ということです。全て違う、全部違う。「違う」から存在するのです。「同じ」であれば帳消しになってしまいます。キャラがかぶったらあかんのです。

「ONE」が最下位にあるということは「空」という概念が最下位に位置してるということです。ここでは「空」よりも「差異」の方が概念として上なのです。何ということでしょうか。ここで「差異」とは「色」と言い換えることができます。これはまさしく「空即是色」のことです。「色即是空」と「空即是色」では空間がまったく反転しているのです。「空即是色」においては、実体とか本質は、空よりも色、つまり差異の方にあります。差異の方が本質なのです。これは既存の仏教哲学をひっくり返す内容ですね。正反対の立場に立っていると言えましょう。「空よりも差異が本質」と言えばそういうことになります。

「ONE」「空」が最下位の概念であると言うことは、つまり「神」もまた同じということです。この領域での「神」は、一切を束ねる天上の存在ではありません。そのような上位概念ではなく、むしろ最下位概念なのです。神であることが基本当たり前、神が土台でありスタートという感じです。「汎神論」という議論がこれに近いかも知れません。しかしながら「汎神論」であっても神概念を最上位においてしまえばもうそれは「人間世界の哲学」でしかありません。この領域は人間の領域ではないのです。変換人であり、ヒトの領域です。ここでは神であることはデフォルトなのです。”神が神を見る日”とはこのことですね。

変換人、そしてヒトへの領域・・・これが「奥行き世界」です。そしてそれは神の世界、つまり「能動者」の世界、創造が行われている世界です。創造が行われている世界とは何でしょうか。人間世界のように「与えられた世界ではない」ということです。その反対側である「創りだしている世界」です。何を?...現実(リアル)をです。この現実を本当に創りだしている世界ということです。

本当の現実です。トゥルーリアル。「真の客観」と言っても良いでしょう。私たちが普通、「客観世界」と認識しているのは全て「主観世界」です。その意味で以前ブログで「いわゆる客観はありません」と書きました。「同質異体」の世界はそういう世界です。「異体」とはそれぞれの主観がバラバラに蠢いている状況でもあります。ここにおける客観とは「共同幻想」です。しかしながら「異質同体」の世界においては、真実の客観世界が存在しています。それが「同体」の意味するところです。このことをカント哲学では「モノ自体」と言います。そしてカントは「モノ自体」は認識できないとしました。同様に精神分析家のラカンにおいてはこれを「現実界」とし、これを「不可能なもの」と呼びます。カントもラカンも言いたいことは、「真の客観世界」というものは人間が認識できるものではないということです。

「真の客観世界」「真の現実」。しかしそれは存在するのです。もしそれが存在しないのならナホチャンマンがでてきて「ノンデュアリティ・パンチ」の一撃で全部解決です。実はなぁ~んにもないよぉ~と。しかしその後にはもう何も残りません。一切が空であり虚無ということになります。そうではない。確実に存在する真のリアル。それは存在そのものであろうし、存在を創りだしている「場」でもあるでしょう。カントやラカンはそこに対して「人間には不可能」という結論を出しました。その通りでしょう。人間とは「受動的能動性」つまり「受動的存在」です。人間は一生を「受動的存在」のままで生きるしかないというのが、創造主を仰ぎ見る一神教の世界観です。これが「同質異体」の世界。人間の世界の様相です。

そんな「同質異体」から「異質同体」の世界へ。やがて人間は人間自身を超えてその世界へ参入するようになるとヌーソロジーの文脈では伝えているのです。それは「受動的能動性」が「能動的受動性」へ変容するということです。「受動的能動性」が人間であり、人間の自我。それに対して「能動的受動性」が変換人の意識です。「能動的受動性」とはずばり「観察」のことです。「観察意識」、これはスピ系では「純粋なる気づき」とも言われます。これを明確に認識することが「悟り」への第一歩とされます。大抵のスピではここがゴールになっています。まず最初に「純粋なる気づき」があったと。ですがここをゴールにしてしまうとそこで折り返して「同質異体」の世界に逆戻りです。ヌーソロジーではその先があります。その「気づき」には必ず反対側にもう一つの「気づき」があるというのです。それが自己と他者、あなたとわたしの源泉、「双子の神」です。この二つの気づき「自己と他者」が統合されることで、「能動的受動性」は「能動的能動性」へと変容します。これがヒトの領域です。ヒトとは全ての根源となる二元性としての「リアル・デュアリティ」です。この「リアル・デュアリティ」が協同して「トゥルーリアル」「真の客観世界」を創造しています。それが「モノ」ということです。(余談ですが、関西ヌース的にはここは「オオモノヌシ」という神様とも繋がりがあると睨んでいます。)
受動から能動へ

「異質同体」は「奥行き」の世界です。「奥行き」には「幅」がありませんから「体」が一つ、つまり「同体」の世界。「同質異体」から「異質同体」の世界へ。その方向性は「奥行き」を見出すことであり、そこは「持続」の世界です。「持続」の世界が分かることと「奥行き」を見出すことは同じ意味です。

これからは「異質同体」の世界にしか希望がないと思います。「同質異体」の世界は必ず恐怖政治に陥ります。バラバラの「異体」を束ねようとすること、「同質」の名の下に束ねようとすること・・・それ自体が暴力であり恐怖政治です。私は理想世界の実現を夢見て、その実践の為に10代の頃からいろいろなコミュニティを経験しました。ですが、どれほど高邁な理念と理想を掲げようとも最後は恐怖政治になります。互いが互いを監視し、はみ出しモノを公開処刑するような意識状態になっていきます。組織はやがて硬直化し腐敗します。どんなコミュニティでも100%その状態であると断言します。

このような状態に愛想が尽きた私は、結局は「人間自体の変容」しか道は無いという結論に達します。そこから自分自身の探求へと急速にシフトしていきました。社会を変えるよりもまずは自分。自分自身の内在の可能性へ、そこに可能性がなければどこにも無いだろうと。その探究の果てに辿り着いたのがヌーソロジーであり自分教であるということは以前にも書きました。

「異質同体」の世界。「差異」の世界であると同時に、「同体」の世界でもある。他人だけでなく、万物や世界の存在全てが自分の身体と思えるような世界。「同体」なのですから敢えて外から束ねようとする必要はありません。最低限以上の「政治」は必要ない世界です。これは「奥行き世界」です。「幅の世界」ではありません。「縄文世界」というのはこのような世界だったのでしょう。各自が奥行きを見出すことでのみ、このような社会は自然に到来すると信じています。

これから外の世界は急速に「同質異体」が暴走をしていくでしょう。その結果、徐々に一つの「質」や「ルール」で統合されていくでしょう。マイナンバーやTPPなどもそうですが、どんどん「同じ質」で統合されていくようになるでしょう。そして個性やローカル性はその輝きを失い、次々と無機質なデジタルデータに置き換えられていくことでしょう。一見発展していくように見えますが、これらは精神の立場からすれば墓場に向かっている状況です。人間性の消滅と言い換えても構いません。

そしてVR(バーチャルリアリティ)の世界がどんどん発展していくでしょう。VRの世界の方が現実の世界よりも情報量が多くなり、そこで現実以上の取引がなされるようになれば、人間の主たる生活の場がVRの方に移行していくかも知れません。マトリクスとかSFのような世界が現実になりつつあります。これは実際にいま進行していることです。

このVR世界の台頭は、その真反対に位置する「奥行き世界」の反映としてもたらされるものです。VRの世界は「受動的受動性」の世界です。幻想の中の幻想に埋没するような方向です。意識進化の真逆ですね。それに対して真性の「奥行き」に目覚め、その世界に遷移していくのが変換人です。これは「能動的受動性」から「能動的能動性」への道。変換人の方は各自が目の前の「知覚正面」を通して「持続」や「奥行き」を見出していくのに対し、VRの方は各自が自分のゴーグルに映る目の前の映像の世界に埋没していくのです。全く似て非なるものです。

いくら外の世界が暴走しようとも、「奥行き世界」を見出すものにとっては何の問題もありません。それら全ては「幅の世界」の出来事であり、「幅の世界」がいよいよその本性を露呈しだしたに過ぎないのです。そして「幅の世界」は幻想なのです。真の実在ではないのです。「幅の世界」において何やら反対運動をしたり陰謀論などをことさら問題にする必要はありません。各自が「奥行き」を見出すことは、一見すると「ひ弱」に見え、何の力もないように思えるでしょうがそれは違います。なぜならそここそが「真の現実」を創りだしてる場なのですから。そこを見出す人が増え始めることで「リアル・デュアリティ」の世界は顕在化してきます。その時には「幅の世界」側でも大きなシフトが生じるに違いありません。

★おかしな日本人

最後に「日本人の特殊性」について言及しておかなければなりません。ヌーソロジーのチャネリングソースであるオコツト情報の中には「日本人の特殊性」についての言及がたくさんあります。それらを端折って言えば、やはり意識進化の最先端を開拓していくのは日本人(もしくは日本語を使う人)であるということです。その中でも「日本人は付帯質を前にもっている」という言葉があります。日本人のキワだった特徴に対してオコツトが語った言葉です。

付帯質とは精神の反対であり、精神の影のようなものです。実体である「精神」に対する影であり、いわゆる物質世界を意味することもあります。それがシリウス言語の「付帯質」です(シリウス言語・・・オコツトの言葉のこと)。それを前にもっているとはどういうことでしょうか。ヌーソロジーでは精神は前、付帯質は後ろと定義されます。そして人間はこの前である精神が隠れて潜在化し、後ろ側の付帯質を現実として認識しています。前が精神であり実体ですから、その反映の付帯質である後ろ側には実体はありません。実体の無い世界を現実世界と認識しているのが人間の世界です。「本当は何も無い」というノンデュアリティの指摘はこの意味において正しいということです。

その付帯質が前側に来ているという日本人。これは日本人の特殊性、つまり長所を表現したものであると同時に短所をも意味しているのです。このことを分かりやすく説明できるのが「異質同体」の図です。

本日のブログでは、人間の世界は「同質異体」であり、ここから奥行きを見出し(これは反転認識を獲得するということでもあります)、人間から変換人型ゲシュタルトへ遷移することで「異質同体」の世界へ参入するということを書いてきました。しかし日本人の場合は少し特殊であるということが分かります。下の図を見て下さい。
日本人の特徴

日本人の意識状態は、「異質同体」が上下ひっくり返っているような状況です。「同体」が上に来ているのです。そして「異質」が下に来ています。あえて言えば「同体異質」・・・これが日本人の特徴を表しています。すなわち日本人は「同体」を前に持つが故に、自然に一体化しやすいのです。他人がしてることをする、他人が良いと思ったことを自分も良いと思うという付和雷同的な性格もそうですが、「国体」という体を国家として持つことができるのもこの性質が故です。つまり日本人は既に「一体化」しているのです。その方向性が転倒していることが問題なワケです。付帯質の方が前にあることで、せっかくの精神が抑圧されています。日本人は「精神」つまり心の世界は見いだしやすいが方向性を間違いやすいという感じでしょうか。これを見ると日本人の道は通常の意識進化のルートとは若干異なるように思われます。ですがこれもまた各自が「奥行き」という差異を見いだせていないが故に、「同体」が先手をとっている状態なのですから、いずれにせよ「持続」「奥行き世界」を明確に意識上に登らせることこそが意識進化の方向性であることに変わりはありません。

最初の方でも書きましたが、今年は1年を通して、関西ヌーソロジー研究会、そしてこの自分教ガイドにおいては「持続」「奥行き世界」をテーマとし、皆さんと共に研鑽を積んで参りたいと思います。一人でも多くの方と「持続」「奥行き」をシェアしていくことが、やがて大きく実質的な力となって現実の世界に光をもたらすことになると信じて止みません。本年も何とぞよろしくお願いたします。

とうしん
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