10月12日、第3回「江戸の『粋』『いなせ』の文化背景について学ぶ」講義録その1の続きです。


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 神楽というのは、各神社では太太神楽といい、神職が神楽を舞うという形が先ずあり、拝殿で演じる極めて神秘的な色彩の濃いものですが、里神楽というのは、神楽師といって神楽の舞専門、つまりプロの演者なのです。


 この演者は、神社の拝殿でするのではなく、お祭りのときに招かれて境内にあります神楽殿というようなところで、大勢の人々、参拝客を相手に見せる一種の余興の芸能なのです。余興芸能なのですが、参拝客からするとただで見られる大変貴重な娯楽なのです。歌舞伎を見に行くというとお金が要りますので、1年に何回しか歌舞伎を見ることができない。でもお祭りさえあれば、このお神楽はどこでもやっている。


 お神楽の内容は、日本神話に由来したところの仮面をつけて「天之磐戸」の舞を演じてみたり、「天孫降臨」の場面を演じてみたり、「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の場面を演じてみたり、そういうふうな形で演じるものを一般のお客様は、お祭りの囃子に乗って踊る一種の歌舞劇として大変楽しみにして観る。


 しかも台詞は一切ないのです。台詞は何故ないかというと、遠くからでも、通りすがりでも目で楽しめるということ、(囃子を)耳で楽しめること。だから、そういった人たちを相手にして演じる神楽師は、一歩でも参拝客の足を止めさせたい、そして彼らを自分の演じる神楽の中に引っ込みたい、というものですから非常に面白おかしく色んなものを演じる。


 特に里神楽の特長は、おかめ、ひょっとこが活躍するということ、これを「もどき」と呼びますが、これが江戸の里神楽の特色になっています。

<ビデオ鑑賞、主なナレーションを掲載>

 (講師解説:これは江戸里神楽の日暮里にある松本社中のビデオです)

 例年にない暑さに見舞われた平成6年の夏。8月28日、西日暮里の諏訪神社で祭礼が行なわれた。


 境内の神楽殿では、祭囃子『いんば』が演奏される。

 84代目家元松本源之助師匠とその社中の江戸囃子。笛、鉦、締太鼓、大太鼓が祭り気分を盛り上げる。


 諏訪神社氏子、町会が一堂に会しての神事。この日の出し物は『稲荷山』です。

 源之助師匠が弟子の世話をする。衣装や面、被り物など細々としたところにまで気を配り、励ます。


 狐の面を被る源之助師匠。何百回となく舞っている。出を間近にすると緊張が走る。

 『稲荷山』には、翁、ひょっとこ、狐が登場する。五穀豊穣、祝いの舞。

 松本源之助師匠は、生まれも育ちも日暮里、生粋の下町っ子である。冠新道がある西日暮里六丁目に住まいがある。


 国内や海外の公演で荒川を離れることが多い社中でが、日暮里に居る限り毎週木曜日の午後6時から9時にかけて稽古場が開かれる。

 「座って扇子を出した。両手を出して、お尻をちょっと上げて、左見て、右見て、大袈裟に“あぁ~ようこそいらっしゃいました”」お囃子とお神楽の演技指導に熱が入る師匠。


 「えぇ~と、いうようなわけで、お辞儀するんでもお面を被んなきゃ極まりが悪いというんじゃない。舌を出すだろう、衣装着て鬘被んなきゃできないとうんじゃないの。こうやって、こうきて、ふぁ~、ふぁ~、首じゃない、身体ごと・・・」

<ビデオ鑑賞終了>

 江戸の里神楽の解説を、そもそもから説明しております。それと埼玉県の鷲宮神社、そこで行なわれている太太神楽というものが、非常に里神楽というものを作り出すのに影響を与えて、そして、一般の大衆を相手にする神楽師が演じる、そうした娯楽的な神楽が生まれてきた。


 そういう神楽が明治時代になりまして、段々これから世の中が変わっていくということで、神楽の中でも三十何曲かを検査済み神楽といって、本物の神楽として制定した。それが今伝えられている神楽で、これはしかしながらあまりに上品にまとめ上げられ過ぎたために、現代ではちょっと我々から見ると眠たくなるなという曲も多分にあります。


 しかしながら、松本源之助さんというのは、もともと神楽は大衆相手の芸能だったのだから面白くしなければいけないというので、どんどん新しいもの作り出し、また、昔の神楽が持っていた滑稽快楽、滑稽の要素を表に出していく。現在、松本源之助社中の神楽は、大勢の人から愛されて伝承されているのです。

今度は歌舞伎の方に入っていきますが、何故、歌舞伎といいますと、現在の歌舞伎役者、そして歌舞伎から出ました日本舞踊、歌舞伎舞踊の花柳流とか、坂東流とか、藤間流とか、若柳流とか、こうした人たちが演じている演技というものは、かつて江戸時代に作り出していた江戸っ子のその風俗、その日々の動作といったようなものを様式化して現在芸能としてそれを伝承している。


 特にその中で、皆さんにお配りした資料に、「粋」というのがありますね。

 「粋」が一つの姿の形になっているのが、「粋」と「推」。「粋」というのは、江戸の言葉(生き・意気)なのです。一方、同じ文字を書いてスイ(推・帥)と読むのが上方、ようするに大阪、京ではこれを「スイ」といいます。


 江戸では「イキ」といい、上方では「スイ」というのが、極めて東西のそれぞれの持っている特色といいますか、そのようなことを示している。


 「粋」という文字をよく見ていただきますと、「米」へんになって、つくりの方が卒業の「卆」という字で、どういう意味かというと、お米を精米して仕終わった、これを卒業した、つまりお米を搗精(とうせい)して精米したお米は真っ白になった米という意味から、雑じり木がない・純粋・すぐれたということ意味が本来の「粋」という言葉の意味なのです。それを江戸では「イキ」といい、上方では「スイ」と読んだ。


 「イキ」の方は、心をまっすぐに、筋を通そうとする気概や、よしと信じたことを最後まで貫徹しようとする心意気、障害があっても負けずにやり遂げようとする意気地、こうしたものを「イキ」と称した。


 ところが上方の方は、「スイ」というのは文字で書くますと推量・推測する推、それから帥という字は、人々を従えてことを成すというように幅広い度量と行為のことを帥といいます。


 従って「スイ」の方は、世間の諸事・人情に通じ、人の心を推測し、人の心を推し量って、ことを巧みに相手の心を汲み取って善処する心組みや行為をいう。

 相手の心を思いやって、そしてその人がうまくことが成り立つようにしてあげるということが「スイ」なのです。


 だから「スイ」というのは、何となく穏やかな、温かい感じがいたしますが、「イキ」の方は、何か相手に対して自分の持っている心意気、正義感でもって行動するというそれぞれがそれぞれの哲学もって、それが動作に表れていくというようところに「イキ」と「スイ」の違いとなって、それが行動の上でも現れてくる。


 「スイ」の方は、例えば花柳界に行っても全体の空気を読んでいて、もてなす方の遊女の対しても、また客に対しても、あらゆる人々に対しても穏やかにことを運んで楽しく遊んでいくという感じが「スイ」にある。「イキ」の方は、きりっとして、ことが何か錯綜して行く。


 これらが踊りの中に表れていますので、それを見ることにします。

<ビデオ鑑賞、主なナレーションを掲載>

 関西と違って、すべてが元気よくって、うっかりと歩くと怒鳴られそうな、そういった何か気圧された思いをしますが、今日は、東京の下町育ち、私はこの方こそ江戸の「粋」を今日伝えて下さっている方だと思う舞踊家の猿若三千代さんにおいでになっていただいておりますので、江戸前の女性のことについて伺ってみたいと存じます。

 私が東京に参りまして、町の中でいろいろとものを聞くときに娘さんだったのですが、ポンポンと言葉が早すぎて、私がウロウロしていると、何か荷物でも持ってくれと言わんばかりにやってくれる。そういう如何にも行動派という感じを東京の娘さんに思ったのですが。


 「そうでございますね。東京の下町の女の人は、とても親切でございましてね。悪く言うと、お節介なのですけど、私どもも下町で育っていますので、喋り方も早口でポンポン言いますので関西の方から見ますとね、喧嘩腰にお話をしているように見受けられることもございますけれども」


 気性は、さっぱりしていますね。「さっぱりしておりますね。竹を割ったような気質を持っておりますね」

 <踊りの場面、ビデオ鑑賞終了>


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講義は続きます。 第3回「江戸の『粋』『いなせ』の文化背景について学ぶ」講義録その3へ

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10月12日、水都江戸文化遺産塾・とうきょう水辺たから探士隊「養成講座」が開催された。

第3回のテーマは、「江戸の『粋』『いなせ』の文化背景について学ぶ」というもので、

講師には、芸能学会会長 三隅治雄氏を迎えました。


講義は、VDV,ビデオなどが活用されたものでした。(映像はアップしていません)

講義の内容は、3~4回に分けて掲載します。


第3回「江戸の『粋』『いなせ』の文化背景について学ぶ」講義録その1


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 第1回目の講座を担当し、早いもので、この講座も3回目になりました。

 今日は「江戸の『粋』『いなせ』の文化背景について学ぶ」ということがテーマになっており、そこで江戸っ子、いわゆる江戸っ子の様々な生態を作り出しているところの隅田川筋から生まれた江戸っ子の風土、お祭りなどについてふれることにします。


 今日レジメに挙げていますように、隅田川筋の祭り、それから江戸の里神楽というのがあります。


 里神楽は、やはり浅草が中心となって、中央区湊の鉄砲洲の神社(稲荷神社)、川向こうにまいりまして深川の富岡八幡宮の辺りでも盛んに行なわれました。このように里神楽は下町を中心として江戸っ子にもてはやらされたという文化です。


 もちろん歌舞伎がそうなのですね。歌舞伎の発祥というのが江戸時代の初めに、江戸の下町の繁華街とされたのが中央区の京橋ー今の高速道路の下あたりでー中橋と呼ばれるところに「歌舞伎発祥の地」という碑が建っています。

 この辺りが歌舞伎発祥の地ですが、当時の絵図を見ますと海岸線がそこまであり、その海岸に向かって見世物小屋が沢山並んで、そこで見世物が演じられ、歌舞伎も演じられたという歴史を持っている。


 そういうようなところから結局、隅田川筋が作り出した高等文化というものが江戸っ子の特徴になるのではないかということから、最初にお祭りから話を始めることにします。


 隅田川筋のお祭りの代表的なものとして、浅草神社で行なわれる有名な三社祭があります。

 三社祭の発祥については、皆さんもご存知の通り、漁師の兄弟(檜前浜成、武成)が宮戸川(現在の隅田川に架かる駒形橋付近の川)で漁をしているときに、一寸八分の聖観音像を川から拾い上げ、主人の土師真中知に見せたところありがたい観音像であることが分かり、土師真中知はお堂を建てて観音像を祀った。


 檜前浜成、武成、土師真中知の三人が祀られているのが「浅草神社」で、「三社様」と呼ばれている。そこも行なわれるお祭りが「三社祭」であるという歴史があり、まさしく隅田川の川縁のお祭りだといってもよろしいかと思います。


 鳥越神社のお祭りがあります。現在では「千貫御輿」として大変有名なので、毎年6月の第二日曜日中心にして行なわれますが、どこもかしこも日曜日に近い、あるいは日曜日を含むというふうな現在ほとんどのお祭りが日曜日とか祭日を選んでいる。


 三社様は、観音様の縁日が18日でありことから、三社祭は、18日に近い第三日曜日を含む三日間となっている。


 鳥越という地名そのものが、もともと墨田川の川縁で、海岸があって、島があって、その島に鳥が飛んで行って止まったから「鳥越」だといわれている。そのような謂れのある蔵前に近いお社です。


 神田祭がありますが、神田川が流れていて隅田川に落ちるところにあるのが神田明神です。

 それから富岡八幡神社のお祭で深川八幡祭という名前で有名です。元々は8月15日中秋の名月は祭日でありましたが、8月15日に近い土・日曜日となっています。


 次に中央区佃島にある住吉神社の佃祭は、8月6日の近い日曜日を中心に三日間ですが、3年に1度開催される。ここのお祭は、隅田川筋のというより江戸の下町のお祭の代表的なスタイルが見られる。

<ビデオ鑑賞、主なナレーションを掲載>

 (講師解説:お獅子が出るのが江戸の夏祭りの特色でもあります)


 夏、隅田川が生き生きと耀く季節です。7月29日日曜日、東京は夏空が広がる暑い一日でした。


 中央区佃一丁目では、地元の住吉神社の祭礼のため、高さ25mもある6本の竿に幟を立てる作業が朝から行なわれました。


 住吉神社の大祭は、3年に一度の祭りです。しかも、今年(平成2年)は28年ぶりに船渡御の祭事が復活するということで小さな佃の町は、数ヶ月も前から祭の話で持ちきりでした。


 伝統を誇る佃一丁目での住吉神社の祭は、佃住吉講が取仕切っています。戦後、町内会費を神社の祭に寄付することに対して反対意見がでたので、昔ながらの伝統を残すために講を作ったのです。従って、この講に入っていなければ住吉神社の祭に参加することができません。


 佃住吉講はおよそ370人からなっています。世話人、大若衆、若衆、三つの役に分かれた厳格な組織です。

 普通世話役になるには、若衆20年、大若衆10年の経験が必要です。佃では、新しく若衆になった人を新弟子と呼びます。


 竿の先に榊と檜の皮を飾って幟を立てる作業は、クレーン車を使っても6本の竿を立てるのに半日は掛かります。


 幟の竿を支える木材を佃では抱木(だき)と呼んでいますが、普段は佃小橋の下の川底に埋められています。江戸の時代からの古い慣わしです。祭の1ヶ月前に川の中からに竿と抱木を掘り出して水で洗います。


 江戸や明治から続いた古い幟を、昭和62年に新調しました。

 久しぶりに祭のシンボル6本の幟が佃の町に翻りました。江戸の昔、そのままの風景です。


 「僕等、やっぱり仕来りがすごく魅力ですね。何ていうか伝統を守ろうとする仕来り。それに対応する確りとした組織。今のこの世の中にない魅力を感じるね。ちっちゃな町でもってあれだけ大きな祭をみんなでやるわけでしょ。お年寄りも、若い衆も、子どもも全部参加するわけでしょ。あの参加する意識は、他所では見られないよね。」


 元の佃島、現在の中央区佃一丁目は、隅田川が晴海運河と分かれる河口の三角洲からできた島でしたが、その後の埋め立てで月島などと陸続きになりました。


 激しく変貌を続ける東京の、それも銀座のすぐ近くにありながら佃は下町の面影を今でも色濃く残しています。かつて佃は、漁師の町でした。その名残が家々の表札に今も残っています。


 住吉神社は、漁の神様として長い間、土地の人たちの篤い信仰を集めてきました。

 隅田川は、江戸っ子の心の故郷ともいえます。荒川から分かれ東京の東を流れる全長23.5kmの川です。


 佃も激しく変わりつつあります。古くからの佃の住民は、去年(平成1年)ウォータフロント開発のシンボル、大川端リーバーシティー21の40階建ての超高層マンションを見上げることになりました。佃一丁目の人口は、新しい住民およそ500人を迎え1400人になりました。


 新しい住民の中には、同じ町内の者ですからと住吉講に祭の寄付を置いていく人も現れました。

 夜7時を回ると宵宮気分が増し、佃一丁目の以外の氏子たちも、佃二丁目、三丁目、月島、勝鬨、晴海、豊海から住吉神社に集まってきます。


 住吉神社のお祭りは、佃一丁目だけでなく、この時期同時に他の町内でも行なわれます。その氏子たちが一同に集まって祭の成功を祈るのです。


 賽銭の入った御捻りを獅子に向かって投げ付け、我先に飛びついて担ぎ上げるのです。獅子頭の鼻をつまみに行ってご利益と縁起がいいと信じられています。神社の境内を出た獅子頭は、その後町内を練歩いていきます。


 佃の人は、先祖から引き継いできた獅子頭を非常に大切にしています。一軒一軒回りながら、かつてこの獅子頭を担いだ人たちを、世話になった人たちを、今年も無事に祭を迎えられたことを報告して歩くのです。家族の人は、亡くなった人をこの祭で改めて偲ぶのです。


<ビデオ鑑賞終了>


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第3回「江戸の『粋』『いなせ』の文化背景について学ぶ」講義録その2へ。



                                                        

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9月30日の「江戸の水害と水辺文化について学ぶ」講義録その4の続きです。


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先ほど引き舟の浮世絵を見ていただきましたけれど、橋が一本も架かっておりません。橋が架かっていないのは引き舟に邪魔だったからです。先ほどの新川、小名木川でも橋がなく、戦前までは渡し舟が人や荷を運んでいた。


明治政府になってから一気に蒸気船―今まで舟人足が引っ張っていたのが引っ張らなくても良くなった―ができます。今までは底の浅い舟ですからスクリューを付けて回すと川底に当たって壊れてしまうので、蒸気船は外輪船です。


現在の江東区の高橋から内航通運という会社の「つるまる」という船が運航し、会社が一気に大きくなります。今の日本通運です。

いろいろな会社が設立されます。銚子丸もありますし、ポンポン船もその後出来てきます。主運路でありますが、東京から関宿に一気に上り、銚子に抜けるなど内線主運路はくまなく行きわたります。


蒸気エンジンは最初に蒸気船として導入されるのですが、その蒸気機関を陸で使う岡蒸気が入り、総武鉄道、東武鉄道などが華やかになると荷役の中心が鉄道輸送に切り替わります。そうするとようやく橋が架かります。橋が架けられるようになると誰が架けるのかという問題が生じます。


江戸期は両国橋(1661年創架)、新大橋(1693年創架)、永代橋(1698年創架)、吾妻橋(1774年創架)など町民が預かって管理をします。当然、幕府の管理よりひどい管理で、最後は滅茶苦茶になって、また幕府に管理してもらうことになる。


市中には60橋ぐらいあり、幕末のときには全部町会がやるといっていたものが持ちきれず幕府に戻され、莫大な経費がかかり、幕府財政が疲弊した原因の一つです。


新川のところに東京で初めて鉄の橋を民間の方たちが資金を出して、大正5年に創架されています。ところがこの橋は民間に払い下げられた橋です。


明治期に内国勧業博覧会が何回か開催されています。これは今でいう万博です。

1867年、薩摩藩は密航してパリ万国博覧会に参加するのですが、幕府も参加していてパリの万博会場で幕府と薩摩藩が鉢合わせをします。


そして、日本から来た二つの使節が刀を抜いて喧嘩を始め、パリの警察官が「やめろ!やめろ!」と仲裁に入るのですが収まらず、結局、パリ市長が両者を呼んで、「わざわざ遠くから来たのだから仲良くしなさい。持ってきたものを一緒に飾りなさい」ということで、万博会場に日本館を作ってくれたのです。


日本館で一緒に行うことになって幕府と薩摩藩は、これを機に仲良くやることになった。薩摩藩は、人が入れるような大きな壷を持っていたり、仏像を持っていたりして展示したことが日本ブームの火付けになりました。


そこで日本でも万国博覧会を見習おうということになったのです。

明治4年に東京遷都により沈滞化した京都で民間人により「京都博覧会」が行なわれ、

その後、1877年(明治10年)に第1回内国勧業博覧会(5回開催)が開催されています。


 大正3年(1914年)に前田藩の跡地と寛永寺を繋げた上野公園で万国博として東京大正博覧会が開催された。上野公園に日本初のロープウェー、徳川式複葉機など当時の万博は何でも最先端ときちっとしていた。エキゾチックなパビリオン、そして不忍池。

 先ほど話に出た橋は、会場に架かっていたものを民間へ払い下げられ1メートル足りなかったが付け足して活用された。


 ついでに日本国中の物産を集めて万博をした。例えば、水晶堂は山梨から水晶や宝石を運んできてパビリオンを作り、主催者は「何でも世界に売れる良いものを持ってらっしゃい」と良いものを集めた。秋田の手打ちうどんである稲庭うどんも許可を受け出展されていた。老舗の佐藤養助商店が三代ぐらい前から出展しているのです。


 貴金属など出展されたものは期間中に売れきれず余るのですが、開催期間が終わっても不忍池の周りに居座り販売され、主催者は困り果てます。

 当時の不忍池の周辺は、陸軍の騎馬隊の練兵場だったので、無理やりに退かされます。そして、退いていった先は御徒町です。だから未だに御徒町は貴金属店がずらっと並んでいる。その人たちの子孫ですね。


 さて、明治43年にハレー彗星が来るので、当時、地球にぶつかると新聞で大騒ぎになった。それならと財産を全部食っちゃおうと田地田畑を売り払って遊んでしまった人がいるのですね。残念なことに地球は滅亡しなかったので、後で悔しい思いをしたのです。


 その代わりハレー彗星が来ると天変地異が起こる。それが古文書にもあって、明治43年に東京は大洪水になり、日本堤、隅田堤を超えて下町一帯は水浸しになります。

 浅草、永代橋、本所の一帯は水浸しとなります。話は変わりますが本所は大正12年の関東大震災で大変な火事になり被服廠地区では4万を超える焼死者が出た。


 さて、本所を上がると千住大橋ですね。ご存知のように江戸幕府が隅田川に最初に架けた橋が千住大橋で、その後に両国橋が架けられるまで唯一の橋です。

 橋を架けないことでいろいろといわれますが、その一つに外様たちが攻めてくるので橋がない方が良いといわれていますが、その説には信憑性がないですね。何故か、江戸幕府が真っ先に架けたのは伊達がいる東北に向かっている千住大橋で、市中を発展させるには橋が必要だった。


 千住大橋ですが、一番長寿なのです。丁寧に、丁寧に造られて、木橋は20年で架け替えられるのですが、千住大橋は60年ぐらい持ち、その後も、また丁寧に造られ明治までずっと木橋のまま維持管理され続けるのです。


 誰が維持管理したかというと、橋守といわれた人たちで只働き―無給―誰からも給与が出ないが橋を守っていた。では如何して生活をしていたかというと、洪水になると上流の木が倒れて、倒木が流れてきます。


 何で橋を守っているかというと、倒木が橋にあたると橋が壊れるから、とにかく上流から流れてくる―家も壊れたものが流れてくる―ありとあらゆるものが流れてきて橋にあたる前に引き上げる。ここで江戸幕府から「引き上げたもの、流れてきたものはすべてお前のもの、すべて処理すること」という権利を許されて橋守をしているのです。


 橋を守るのか、流れてきたものを得るのか、どちらが目的かは分かりませんが、この橋守の人たちが丁寧に守り続けたのが千住大橋で、当然のことながら市中の人たちから感謝された。


 同じ様な状況が火消しで、火消しも無給でした。火消しの生活の糧は、お祭り、正月の松飾り、お盆のときなど、町の秩序を守る、町の礼儀作法の徹底、いつもやらなければならないお祭りなどを取仕切りことによって奉加帳などの寄進で生活を維持していた。


 話を戻しますが、明治43年の大洪水で下町一帯が水浸しになり、その年の国民所得のGNPは4.2%も落ちた。そこでこれを何と改修しようと掘られたのが荒川放水路です。北区岩淵から中川の河口に向かって市中を守るための迂回路が掘られた。


 最初に話したように城下町を守るため、東京を守るために掘られたので、都心側の堤防が太くて大きい、江東区や足立区の方が反対側の葛飾区や江戸川区よりも大きい堤防が造られている。


 この掘削には世界最新鋭の蒸気機関車を持ってきて、掘削機はエクスカベーダーというのですが、蒸気機関でバケツが動きます。斜面を通るときにバケツが土を削り落とし、その削った土をトロッコに載せて蒸気機関車が走っていく。人の方が安いので人海戦術も取られている。


 斜面を削っていくと、また、線路をずらしてまた一列掘っていく。川幅ができると水を流して川底をさらって、川を造ります。


 途中では小名木川と荒川の水位が違いますので閘門(水門)を造って、船が行き来できるようにします。荒川には小松川閘門、船堀閘門、小名木川閘門の三つの閘門が造られ、その中は船がひしめきあって行き来していた。


 上流の岩淵に岩淵水門という分水路を造って、荒川放水路と隅田川になったのです。


 江戸時代、そして明治の辺りまでの洪水と町の造り方を見てきましたが、結局、江戸は洪水によって造られたということです。その後も震災・戦災によって東京が作られました。江戸・東京は水害との戦いで造られてきたというをまとめの言葉としてこの講義を終わります。


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第2回の講義録は、以上です。


第3回は、10月12日に「江戸の『粋』『いなせ』の文化背景について学ぶ」の講義がありました。


第4回は、10月26日、午後7時から、「江戸に栄えた舞台芸能について学ぶ」です。

是非、ご参加下さい。



                               

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