Three Tales of Chemical Romance | In The Groove

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先日のブログでも取り上げた1958年生まれの英国人作家<アーヴィン・ウェルシュ>のデビュー作『トレインスポッティング』はつとに有名だが、その後に出版された『エクスタシー』も、私的にはとても興味深い内容の一冊だった。





同書のはじまりには、イギー・ポップの言葉が引用されている。




人間は死に殺されると世間は言う
でも俺たちを殺すのは死じゃない
俺たちを殺すのは退屈無関心
―『アイ・ニード・モア』イギー・ポップ





また、世紀末を疾走するレイヴ文学である同書のあとがきの解説には、次のように記されている。





なぜなんだろう。


80年代のイギリス政府による強引な復興政策と、労組の徹底対決による社会の効率化、過保護や甘えを嫌うサッチャー主義の犠牲となったスコットランドの若者たちの生き方を――限られた人生の選択肢に背を向け、ドラッグと酒と喧嘩とセックスに明け暮れる彼らの日常をきわめて知的に描いた『トレインスポッティング』に、この国の書評家や評論家はなぜ反応を示さないのか。





その答えは比較的容易に想像できる。現在の日本文学が相も変わらず、純文学とエンターテイメントに分断されているからだ。その垣根を無視、あるいは破壊しようと悪戦苦闘する作家は増えているが、批評家の方が完全な分業体制になってしまっている。ウィリアム・バロウズと作風を比較されたウェルシュは、「影響を受けたのは、むしろ文学的規則をまったく無視しているイギー・ポップやルー・リードの歌詞だ」と答えているが、従来の主流文学の文法に馴染まず、なおかつミステリでもホラーでもない『トレインスポッティング』は、分業体制の網から零れ落ちてしまったわけだ。




作品の衝撃力とイギリスの若者たちの受け入れ方は、わが国における村上龍のデビューを彷彿させる。発表当初、ドラッグとセックスばかりが喧伝され、マスコミからキワモノ扱いを受けたにもかかわらず、しかし芥川賞を受賞するや、『限りなく透明に近いブルー』(1976年)は速やかにニッポン文学のメインストリームに位置づけられた。あれから20年(*現時点では36年)も経つのに、日本の文芸ジャーナリズムは頑なとして変わらない。



エクスタシー』は、現代の不安と焦燥をテーマに中編三本で構成されており、『懲りない』といった章の中に、キーワードとなる台詞がある。





君があいつを“しごくまっとう”に変えてくれるといいんだけどな。




先日、ベルナルド・ベルトリッチ監督の新作の解説から、今の時代の空気を読み取ろうと考え、その瞬間頭に思い浮かんできたのが、映画『あの頃ペニー・レインと』と、アーヴィン・ウェルシュ著『エクスタシー』だったのだ。



また、デヴィッド・ボウイという最先端のアーティストが、21世紀以降も、映画、音楽、ファッションの世界に多大に影響を及ぼし続けていることが窺い知れ、同時に嬉しい驚きでもあったのだ。先日、来日していたトム・ブラウンへの影響も然り。



最後になるが、2012年夏季オリンピックが開催されるロンドンにおいて、開会式の音楽をディレクションするのが、アーヴィン・ウェルシュ著『トレインスポッティング』を映画化した同作に、曲を提供したアンダーワールドなのだ。





カンヌ国際映画祭の話に再び戻すが、レオス・カラックスが自身の映画数本に、好んでデヴィッド・ボウイの曲を使ってきたという事実からも、ベルトリッチ監督がデヴィッド・ボウイに影響を受けていることが窺い知れるはずだ。デヴィッド・リンチ監督然り。



前回のブログ冒頭写真は、ジョルジオ・アルマーニのフレグランス<ACQUIA DI GIO>がスポンサー協賛した『GQ』誌のMEN OF THE YEARのイヴェントにおいて、肩を組んで写真に収まるデヴィッド・ボウイジェイ・ケイジャミロクワイ)の2人。







本当に魅力的な人は、二種類しかいない。

すべてを知っている人たちと、

まったくの無知な人たちだ。

―オスカー・ワイルド





Have a nice weekend!