2010年02月23日 16時37分24秒
パワーボム
テーマ:人の日記がおもしろい?
ものすごいパワースポットがあるということで連れて行ってもらった。ぎゃあぎゃあ騒がれている例の井戸、ではない。あの井戸も、場所が変われば(いや、それのみに意味があるんですけど笑)ただの井戸、“スポット”などと軽々しく呼ばれる前も、ずーっとただの井戸だったのだはずだ。つまり、「隠れたスポット」というのは、テレビで紹介されて霊媒師や陰陽師が騒いで行列が出来るまで、すべて「ただの○○」なのだ。少なくとも地元の人や管理者にとってはそうだったはず。で、そういう(脚光をもうじき浴び始めるであろう)場所に行ってきたので、今は当たり前だが閑散としていて、うん、ただそこに立っているだけで不審者チックなのだ(笑)。
そこは(そういう目で見れば)静謐な聖地。そこは(そういう耳で聞けば)いにしえの大地の声が響く魔地。「町」の語源は『魔地』だったというから、(そういうつもりの手で触れれば)自治体が税金で設置したベンチにすらなにやら霊力に満ちたパウワがみなぎっている。ピクニックとして散策として休憩として、大変清々しいものだった。イワシの頭も信心からというやつで、ぼくは実はそういうのぜんぜん嫌いじゃない。それどころかとても好きだ。「ああ、これよ!この感じよ!」と高揚する人たちを見るのは、嬉しくすら思う。
まぁ、でも、ね。
この高度文明のご時世に、「前世」や「オーラ」や「スピリチュアル」や「パワースポット」などの安易で軽ーいネーミングで呼ばれている事柄たちが、精神にどういう下地を作っているか(影響を与え続けているか)ということを、慎重に考えてみる必要がある。科学的根拠があるとか科学でわからないことだってあるでしょ、というレベルの話ではない。それらが、自分にとって、どういう意味を持っているのかを、整理してみる必要があるのだ。その意味(たとえば前向きになれるとか、先祖を大切にしなければ、とか)を深く考えるとき、それら(安易なスピリチュアル関連の言葉)が、本当に自分にとって必要な要素なのかを吟味しなければならない。そこには「宗教」と「信仰心」というファクターがずっぽりぬけ落ちている。誰かが優しげに語る「この世にある、この世以外のモノ」に関する言葉を、一直線に自分に結んではいけない。そういう言葉には(ワタシに良いように、言葉を選んでくれている、というのも含めて、)必ずバイアスがかかっている。つまり、なんらかの意図が隠れているのだ。金をとるとかとらないとかはまず、問題ではない。その証拠に、ぼくが一度、誰かをカウンセリングして、涙を流させて、未来の指針を示してあげようか。順序立てて考えると、ああゆう手合いの言うことは、筋道や技法を隠しながら意図する方向へ引っ張ってゆく、それは見事な手法だ。それを逆算すれば、まったくの初対面の赤の他人を納得させるにじゅうぶんな要素を、かならず満たすことができる。それは、少しならぼくにでも出来ることだ。考えてもみてほしい。まがいなりにも何万人もを診て来た占い師が、日本人の悩みや個人の過去パターンを、学習しないはずがないではないか。出会い頭にピタッと悩みを言い当てることだって、経験豊富でおしゃべりなババアになら可能だと、理性的に考えれば割り引いて思考することができるはずなのだ。
こういうことを言うと、「モテない」ので、ぼくは黙っている。いや(笑)楽しんでいるのだ。しかし80年代、空前のオカルトブームが下地になって、国民が、あのオウム心理教の存在を見逃してしまっていたという事実は、ぜったいに忘れてはいけないと思う。今の、デタラメなスピリチュアル関連の文言がまかり通っている現状は、当時を彷彿とさせると言えなくはないか。素直でまっすぐな無辜の人を恐怖と催眠術で操るハメルンの笛吹きどもには、いずれ地獄の拷問が待っているぞ。科学的な実証や検証可能性などと関係なく、まずあの手の人たちには、矛盾や誤謬なく「霊の定義」をハッキリと明言していただきたい。すべてのハナシはそれからだ。
たとえばパワースポットの写真ををケータイの待ち受けに設定するという行為。それは、「頻繁に意識する」「いつも忘れないようになる」という行為から、向上心を維持することができるといううまい効果が出て来て、それが良い(自分が思うような)結果に繋がって行く、ということなのだと思う。その点では、雑誌のうしろの広告にある、神秘のブレスレットや金がうなるほど貯まる魅惑の財布などと同じだ。それのなにが問題かというと、なにも問題ではない。そこに、古代・中世からの祈りの事実があったかなかった、という違いだけのハナシだ。そしてその祈りの種類は問わないのだし、そこにあった史実は霊現象を含む「コワ~イお話」の方向に発展して誰も寄り付かなくなる可能性だってあるのだから、やはりこーゆーのって、「大いなる無知」がベースになっているのだ。そこにつけ込む商売人がいる。すべて、そういう構図だ。
ほんと、「町」の語源が『魔地』だなんて、信じる方がどうかしているよ(笑)。
そこは(そういう目で見れば)静謐な聖地。そこは(そういう耳で聞けば)いにしえの大地の声が響く魔地。「町」の語源は『魔地』だったというから、(そういうつもりの手で触れれば)自治体が税金で設置したベンチにすらなにやら霊力に満ちたパウワがみなぎっている。ピクニックとして散策として休憩として、大変清々しいものだった。イワシの頭も信心からというやつで、ぼくは実はそういうのぜんぜん嫌いじゃない。それどころかとても好きだ。「ああ、これよ!この感じよ!」と高揚する人たちを見るのは、嬉しくすら思う。
まぁ、でも、ね。
この高度文明のご時世に、「前世」や「オーラ」や「スピリチュアル」や「パワースポット」などの安易で軽ーいネーミングで呼ばれている事柄たちが、精神にどういう下地を作っているか(影響を与え続けているか)ということを、慎重に考えてみる必要がある。科学的根拠があるとか科学でわからないことだってあるでしょ、というレベルの話ではない。それらが、自分にとって、どういう意味を持っているのかを、整理してみる必要があるのだ。その意味(たとえば前向きになれるとか、先祖を大切にしなければ、とか)を深く考えるとき、それら(安易なスピリチュアル関連の言葉)が、本当に自分にとって必要な要素なのかを吟味しなければならない。そこには「宗教」と「信仰心」というファクターがずっぽりぬけ落ちている。誰かが優しげに語る「この世にある、この世以外のモノ」に関する言葉を、一直線に自分に結んではいけない。そういう言葉には(ワタシに良いように、言葉を選んでくれている、というのも含めて、)必ずバイアスがかかっている。つまり、なんらかの意図が隠れているのだ。金をとるとかとらないとかはまず、問題ではない。その証拠に、ぼくが一度、誰かをカウンセリングして、涙を流させて、未来の指針を示してあげようか。順序立てて考えると、ああゆう手合いの言うことは、筋道や技法を隠しながら意図する方向へ引っ張ってゆく、それは見事な手法だ。それを逆算すれば、まったくの初対面の赤の他人を納得させるにじゅうぶんな要素を、かならず満たすことができる。それは、少しならぼくにでも出来ることだ。考えてもみてほしい。まがいなりにも何万人もを診て来た占い師が、日本人の悩みや個人の過去パターンを、学習しないはずがないではないか。出会い頭にピタッと悩みを言い当てることだって、経験豊富でおしゃべりなババアになら可能だと、理性的に考えれば割り引いて思考することができるはずなのだ。
こういうことを言うと、「モテない」ので、ぼくは黙っている。いや(笑)楽しんでいるのだ。しかし80年代、空前のオカルトブームが下地になって、国民が、あのオウム心理教の存在を見逃してしまっていたという事実は、ぜったいに忘れてはいけないと思う。今の、デタラメなスピリチュアル関連の文言がまかり通っている現状は、当時を彷彿とさせると言えなくはないか。素直でまっすぐな無辜の人を恐怖と催眠術で操るハメルンの笛吹きどもには、いずれ地獄の拷問が待っているぞ。科学的な実証や検証可能性などと関係なく、まずあの手の人たちには、矛盾や誤謬なく「霊の定義」をハッキリと明言していただきたい。すべてのハナシはそれからだ。
たとえばパワースポットの写真ををケータイの待ち受けに設定するという行為。それは、「頻繁に意識する」「いつも忘れないようになる」という行為から、向上心を維持することができるといううまい効果が出て来て、それが良い(自分が思うような)結果に繋がって行く、ということなのだと思う。その点では、雑誌のうしろの広告にある、神秘のブレスレットや金がうなるほど貯まる魅惑の財布などと同じだ。それのなにが問題かというと、なにも問題ではない。そこに、古代・中世からの祈りの事実があったかなかった、という違いだけのハナシだ。そしてその祈りの種類は問わないのだし、そこにあった史実は霊現象を含む「コワ~イお話」の方向に発展して誰も寄り付かなくなる可能性だってあるのだから、やはりこーゆーのって、「大いなる無知」がベースになっているのだ。そこにつけ込む商売人がいる。すべて、そういう構図だ。
ほんと、「町」の語源が『魔地』だなんて、信じる方がどうかしているよ(笑)。






