猪名川タイムズ メモ日記 (創立1983年 改 2014.05)

猪名川タイムズ メモ日記 (創立1983年 改 2014.05)

かつて演芸とナツメロのマニアックサイト『猪名川タイムズ』をやっていた間賀凜です。更新停止から5年経過して、紆余曲折があり、その間に歌を別名で歌うようになったりしましたが、日々の活動などの日記を綴って行きます。


本社なう(2023/09/12 19:29:55)大阪王将の餃子を2枚焼いた🥟🥟🥟。会長(実父)のコンビネーションサラダ🥗🥗🥗待ち。また、本社禁煙に戻る🚭過ごしやすくなったが、蚊に足🦵🏿🦵🏿を噛まれてクソ痒い😣

出来た!美味なり😋😋
今日は会長が無事退院して1週間。⁡
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⁡『日本カルト芸人ふたたび』の原稿書くのと、会長の世話します。⁡
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⁡入院時ほど実家の用事に忙殺されてまへん✌️。

恒例の原爆慰霊式典をTVで見てる。


首相は口だけだ。


首相の前の児童代表が今後毎年『首相!未来を私たちに渡すためにあれこれやめてください!』と言えばいいのに、と毎年思いながら最近は見ている⁡。


岸田首相は原爆遺族なのに、原爆について深く言及しない、代わり映えの無いスピーチだかん。菅首相(元民主党)とか野田首相(元民主党)は戦後生まれなのに心がこもっていた良いスピーチだったけどけど、なんか、それ以後は戦前生まれでもユルユルスピーチの首相が多かった🤔。


子供スピーチも来年から強く平和を求めたらなら、世の中が大きく変わるよ😡。





長崎も見るで。



昨夜は3時間ほど寝た。


今日も何かと忙しいんで朝からガッツリ食べてた頃が懐かしい。




先日のマツキとの再会を本人無意識のところで仲介してたザキミヤ6代目猪名川タイムズ社長。⁡
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⁡で、高殿支社に戻ったので、とりあえず、当時の写真あげとこ!📸🖼🏫。⁡3人ともいます✌️。
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⁡1974年4月3日 火曜日⁡
⁡於 門真市立南小学校(1967~2005)。


一昨日(7月31日月曜日)の昼前、実家近所の郵便局に貯金おろすために立ち寄った。

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今年の春にザキミヤ(猪名川タイムズ6代目社長。40年のブランクはあるものの初期の活動の構成作家、マネージャー、プロデューサー)から

「マツキ(ザキミヤ同様、小学校1~2年時の親友)が、この春から近所の郵便局の局長として赴任してきて、少し話したで!」

と春先に伝え聞いてたので、

「会ってみたいなー。マツキはとにかく思い出がお前同様多い仲間やったからなー」

と会話してた。

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で、用事終わった時に女性局員さんに

「局長はマツキさんですよね?。私、彼の小学校1~2年生の時の友人で楠元(本名)と言います。お忙しいでしょうから、よろしくお伝えください」

と言って帰る支度してると、即効で

「とくちゃん!懐かしいな!」

と、マツキがわざわざ飛び出して出てきてくれて、抱擁し合い、約半世紀ぶりの再会を果たして、懐かしすぎて涙が出そうになった。

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彼の実家は大衆食堂をご両親が長年経営されてて、地元でも人気店で、よく町内の人々や、学校の先生たちが利用したり、宴会に使ったり仕出し弁当をお願いしたりして賑わった人気店だったと記憶している。

小学校1年の時からマツキとザキミヤと私と他数名の仲間たちでよくつるんでいたのが思い出され、よく、我々を含めて総勢10名前後の仲間が学校を終えてから、誰かの家でよく遊んだり、遠出(せいぜい京阪電車の最寄りの駅前まで。自転車もしくは徒歩移動。門真・守口・寝屋川各市内中心)ことも強く思い出す。

彼は小学校2年の途中で、隣の校区に店兼自宅が移転ので引っ越したが、年度途中で切り替わるのは可哀想という彼のご両親のご意向で小学校2年が終わってから転校して行った。

以後は私とは疎遠になったが、ザキミヤの店とは、その後、マツキの家の食堂が閉店するまでの長い付き合いがあったと、ザキミヤ父ちゃん(政宗と同世代で長年懇意)に、郵便局からの帰宅途中に店(ザキミヤスタジオ)に立ち寄りうかがい知る。

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マツキは仕事が仕事なので、ものすごく地元事情にも詳しくて、

「やはり、僕もこの辺の生まれ育ちやから、なんだかんだといろんなこととか、同級生の消息も何人かは知ってるわ。

そういえば、途中で隣の小学校に転校した『まじゃまず(あだ名 Nくん)』っておったやん。あいつとも偶然の再会からの繋がりがあるわ!」

と言われて、とても驚いた。

「おばちゃん(母千鶴子)はお元気にされてるん?。今も変わりなく家族でお住いなのかな~って思って、お家の前通ったりするんやけど!?」

と言われて胸が熱くなりながらも

「あ!、お母ちゃん、俺らが中学3年の時に亡くなってん(1939年11月29日~1982年5月7日)」

と言うと、しばし沈黙して瞑目して、

「うわー!ショックやわ!。すごく、よくしてくださって、思い出も尽きなかったし、外回りしてる時、お家の表札見て、変わってないから(実際は家が東1件隣)、お元気にされてるもんやとばっかり想ってた…えーそうなんかぁ…すごくお世話になったし…残念やわ…」

と、いってくれて、逝って41年経った母がマツキの中で83歳の現在も生きて元気にしている、と、想っていてくれたことが嬉しくも悲しい。

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実はしょっちゅうマツキの実家の前を通る度に全く同じ事を考えていた。

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彼もお父様は数年前に逝去されている(当時人気のキックボクサーの沢村忠に激似だった)。

お母様(美人)はご健在で妹さんの家族と実家(すげー近所の元店舗だったお家)に住んでらっしゃるとの由。

お互いの家で晩御飯を食べることも多かったので両母とも交流があった。

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それで彼も私も、懐かしい話しが積もるお互いの気持ちがあり、彼も仕事に戻らないとダメだろうから、それをお互いに察したので「じゃあ、今晩呑もう!」ということになり、彼の終業後に彼の行きつけの店で呑もうということになった。

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彼は通勤は徒歩圏内、先程書いた小学生の頃に自転車か徒歩で活動拠点(と言ってもバカ広い)内に家庭を持ち、奥さんと成人した子供さん2人とお住いで立派な家庭人の顔をしている。

本当はそういう成人後立派な家庭人の地元の友人は稀有であり、私的にはそうした地元のダチはマツキとムネーキ(門真市議、漫才2番目の相棒)と、イマーナキ(ポコチャ配信からの猪名川タイムズ用語。で逝去…今は亡き人を追悼する言葉。 C 何故ボイド)でお馴染みの故飯塚銀次(猪名川タイムズ創業者1967~2011)ぐらいしか見当たらない。これはザキミヤも同様で稀に登場する『オーウエ』(義務教育期間の遊び仲間。飯塚と私の紹介者)も『おたーま』(小3以降の幼なじみ)といった当時の遊び仲間たちも大抵チョンガー(独身)だ。

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近所に外出してる時に、仕事を終えたマツキから電話をもらい程なく郵便局に戻り、家に来てもらい、母の仏壇に手を合わせて貰う。

彼の思い出の中の母は自分の知らない母なのかも知れない。たくさんの思い出も彼の胸中に溢れてるのだろう。

父が入院し、不本意ながら実家に詰めることになった為にマツキと縁が約半世紀ぶりに復活した事は、迷信とか験担ぎ(げんかつぎ)や先祖代々してる信仰はマツキも私は持ってるだろうから、会長や義母が頑なに解釈していた歪んだ教義の邪教は信仰しないので、これぞまさしく、母がマツキと私を再会されてくれたのだと信じたい。

間違いなく。

『まあ、マツキくん立派になって!。おばちゃん、嬉しいわ!。

これからも徳ちゃんと仲良くしてあげてね!改めてよろしく!』

という霊言がマツキと私に届いた気が、この文章を書き、回想した際に聴こえた気がする。

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で、2人で、マツキの馴染みの居酒屋に徒歩(私は自転車引いてる)で向かう道中、子供の時、実は我が家はこうした家庭事情だった、ということは肌でお互いに感じていたが、2人が離れてからの話を深く語り合った。

すると、学歴や職種は異なるのだが、面白いほど、その成長過程が酷似していたことにお互いに驚いた。

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その彼の行きつけの店に到着。

ここでも驚いた!

というのも、1992(平成4年)年8月6日に、天才漫才師にして歌手、俳優、詩人、アマチュアボートレーサー、アマチュアパイロットなどなどの足跡を上方演芸界に遺した横山やすし(1944~96)が暴行を受けた直前まで呑んでいた後継店の建物だったという因果。

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店の大将も寝屋川出身の地元っ子で、マツキと私と同い年ということで居心地良く、話も盛り上がったので、今後訪れようと思った。

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その同時代性というのはありがたいもので、その一例としてアニメ『ドラえもん』の話が出た。

誰とはなく

「『ドラえもん』て、おっさん(富田耕生師匠。『江州音頭取り』になる遠因の俳優、声優、実業家 1936~2020)やんねー!?」

と話すとあとの2人が

「そそそそそ」

「野沢雅子(1936~ 二代目ドラえもん声優でもある少年声優の大御所)も話し方がおっさんでべちゃ~としてて、『あ!声変わった!』て想ったもんな~」

「白黒やったのに、カラーなったりとかね!」

という話題で盛り上がった。

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話しは尽きないながら、数時間…かなり長い時間、懐かしい、もう、歳若き友人に話しても通用しない特撮アニメの歌(今の若い友人たちには『マニアック!』と一蹴されそうな世界)をYouTubeのサブスクを肴に話も盛り上がった。

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彼の家まで徒歩で見送る。

帰り道は半世紀前に当時の遊び仲間達と自転車で走り回った守口街道を軸に、幣原坦博士(1870~1953 歴史学者。晩年は門真町一番に在住。二人の生家跡地に生誕記念碑。弟は外交官、第44代内閣総理大臣で終戦後『昭和天皇とマッカーサーの会見』を仲介したこと
や『昭和天皇人間宣言』『憲法九条創案者』でも知られる幣原喜重郎1872~1951)の眠る願得寺(古橋御坊。兄弟も学んだ古橋小学校跡地)や幣原兄弟も参拝したり、遊んだであろう隣接する『八坂神社』(南北朝時代以前創建推定。古戦場だったこの辺)の付近を通り、ほぼ半世紀ぶりの再会なのに、お互いの共通言語も変わりなく、まざまざとあの頃のお互いの共通体験が次から次へと走馬灯の如く蘇るのである不思議。

しかも、マツキに言われるまで気が付かなかったが、当時の口跡(話し方)のまんまらしく、言われてから、マツキの口跡もあんまり変わってない事に気が付いた。

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という訳で、47年振りの邂逅は無事、彼の帰宅を見送って終わった。

また、これから再び続くであろう出来事に期待を膨らませて、近い内の再会を楽しみにしつつ、お互い帰路に着いた。


※向かって左がマツキ。また、家に帰ったらマツキとザキミヤと小生の当時の写真追加します。

(了)

⁡大師匠の初代桜川唯丸と叔父弟子辺高正(旧名 桜川唯正)の教え子グループ『モノガタリ音頭の会=宇宙軒』のメンバーのあがささんが、民族音楽評論家の田中美登里さんの『トランス・ワールド・ミュージック・ウェイズ』(FM東京)にゲストで出られた7月21日金曜日深夜の放送(1回目。次回は7月28日深夜)を聴いてる。⁡
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⁡自分の音頭は悔しいけど稽古サボってるし、熱意失いかけてるので、下手すぎて『宇宙軒一門』さん方とはお話すら出来ないレベルのヘタクソさに陥る。

自分の中では入門以来四半世紀、数え切れないぐらい何度もあったので『またか!クソが!』って感じ。⁡

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⁡彼女の音楽遍歴を興味深く聴いている。⁡
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⁡河内の音頭取りが1番恐れていたことは、彼ら(その中に唯英や私みたいな経験者も入っていたから離れた)みたいな、全然違う音楽遍歴を辿ってきた人間を実は嫌う部分…つまり、排他的に扱うことが多々あり、故に志願者が激減している要因のひとつとも言える。⁡⁡
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⁡もしも、唯丸会が宇宙軒さん方みたいな純粋な趣味サークル(100有余年前の江州音頭桜川房丸会も玉子屋一門も吾妻家一門も河内音頭初音家も最初はそうだったはず。近年だと三音家も)だったら、私や多くの兄姉弟子たちが離れることはなかったのだろう。⁡

実際、私の入門時(1997~2004年)は唯正兄、唯清師匠、唯玉兄、唯和兄(当時の筆頭兄弟子)が中心となって、稽古の後だったり、楽しく研究とかをやってた。
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⁡前期の私は他で芸人修行経験があったので、重宝されてたし、師匠と意見が合わなくて、抗議の意味で楽器(ベース・ギター・キーボード)を2年(1999年と2001年)、一切、弾かなかったこともある。媚びたことも無い。

今でも、その当時の私は間違ってないし師匠に未だに当時の事を謝罪していない。今後再び起これば、太鼓以外の楽器は弾かないと思う。お金を掛けて習得したので。
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⁡まだ良いのは、御大も高正兄も唯清師匠もデモテープ作って聴かせたら自分の作品を面白がってくれるし、以外と飛躍した感想を賜わることも多々ある。
⁡それで改変したりすることも、ままあるので、そこはそうしているし、そのままの方が良いと思えば変えないのは当たり前のことだ。⁡
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江州・河内音頭の世界は、善し悪しはあるが、徒弟制度も厳しく、明治期より演芸場を主戦場にして多くのプロを育成、デビューさせていたので、落語・講談・浪曲、その他の伝統芸能並に厳しい一面もあるが、私が入った当時に比べると、段違いに、2023年現在は楽になった反面、会員(弟子)が激減してしまい、いかんせん、当時と比べると中にいて物足りなさを感じるのは否めない。⁡⁡

だって、明治中頃に今の東大阪市池島在住の初代玉子屋圓辰の教え子が集まり、独立して、漫才師の鼻祖となり、明治中頃から平成初期(1890~1990年代)まで存在してて、戦後半世紀頃まで砂川捨丸と中村春代、河内家、荒川キヨシ小唄志津子、桜川末子と松鶴家千代鶴などなど、江州音頭派生の音曲漫才師が、私が物心着く頃まで、劇場とかテレビに出てたんやもん( ̄▽ ̄;)。

夢路いとし・喜味こいしも元々荒川一門出身だし、横山エンタツ・花菱アチャコも修行時代は三河萬歳で玉子家をなのってたんやもん( ̄▽ ̄;)。


⬆横山エンタツ&花菱アチャコか1934(昭和9年)年に背広を着て漫才を口演した玉造吉本三光館跡付近
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⁡江州音頭の修行は⁡、師匠の身の回りの事は当然だが、それが出来るのは二代目唯丸門下では在会メンバーだと私とセクスィーシスターズ(唯幸&唯岐美←唯清入門順)が最後やろな~🤔。⁡⁡
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⁡これは江州音頭会ではなく、嘉門タツオ師匠兄さん、奥村ひでまろ兄(元ユニオン・シャッフル社長、憂歌団マネージャー)の部下だった佐藤和博兄(元ユニオン・シャッフルマネージャー、広島県福山市のイベント会社社長)に、高校生の時に教えられたことだから江州音頭会とは全く関係ない!。⁡
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⁡別に唯丸会で習ったことでは無いので、勘違いしている人(たまにいる)とは私は一切付き合わないし、現在もこちらから寄って行かないのは変わらない。⁡⁡ややこしい誤解を産み、トラブルにたびたび巻き込まれたりするからだ。⁡
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⁡踊り子さん方とお付き合いしてるのは⁡、デビュー以降(1998年以降)現在(2023年)に至るまで、
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⁡「唯徳さん、調子良かったな!おどりやすかったで!」⁡⁡
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⁡とか、
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⁡「大丈夫か?声出てなかったかもやけど、調子悪い?大丈夫?」⁡
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⁡と言われて、良いことも悪しきことも批評賜ったり、音頭場で、たまにお酒一緒に飲んだりご飯食べたりといった交流も続いているからだ。⁡

誤解しないで欲しい😡
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⁡でも、今は立場上、メインマネージャー役(二代目唯丸門下で男は私1人なので指名)とはいえ、姉弟弟子5人が仲良しで、当時年少だった姉弟子たちも歳を取り、ようやく深い部分も話せるようになったのは気楽になった。⁡⁡⁡
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⬆左から小生、ダンシング義隆先生、秋田良正兄、濱田マスター兄(於 大阪松虫バー『異議なし』)

⁡こないだ7月21日金曜日夜、長年の文通&趣味友達の濱田兄の店『異議なし』(阪堺電車松虫駅そば)にダンシング義隆先生と秋田良正兄がライブをされたので行った。⁡
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3人とのお付き合いと思い入れはみんな深い過ぎるので割愛。

⁡その時、聴いていて義隆先生の『誰がカバやねんロックンロールショー』が江州音頭をする際の原点のひとつに無意識の内になったのは書いた。
⁡それだけじゃないんだよ…。⁡
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⁡自分の近しい音頭関係者でも、御大、辺兄、唯清師匠は知ってて理解されてるけど、他の音頭関係者には、なるべく話さないようにしている。イヤミに聞こえるからだ。⁡⁡
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⁡が、しかし!⁡
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⁡この宇宙軒あずささんと相方の佐藤みゆきさんの『ポエトリー江州音頭 淀の川瀬』の完成直後、辺兄ルートで初めて聴いた時、脳天を打たれた。⁡⁡⁡
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⁡その後、誰カバ同様にリスペクトして43年のヒカシューの巻上兄さん(とメンバー全員を先達として呼ばせていただいている。口演したこともあるはず)のプロデュースイベントに出演された時に『やられたー!』とため息を付いて泣いたのを覚えている。

私はヒカシューの曲をギター1本で再現することに心を砕いてる(桜川の名前では出来ません( ̄▽ ̄;)。わやくちゃ言われるから)

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例え話だが⁡、⁡
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⁡①ウチの会(郷土芸術江州音頭 桜川唯丸会。桜川唯丸一座なんか名乗ったことは無いのでお間違え無き様)で⁡、会員が違うアプローチの江州音頭をしたとする。⁡⁡
⁡⁡
⁡②兄弟弟子や近しい踊り子さん方などに非公式で聴かせて大好評を得る。⁡

③が、しかし!、師匠に一言「これはアカン!」と言われればお蔵入り。外部で口演も出来ない※。

※よそで余興に呼ばれたら試す。これは姉弟子の唯由里も唯岐美もよそで試してるからええと思う。
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そら、ねえ…。何度もこういう経験をしてても毎回凹みます。

だから、私は唯丸会最初に辞めた五年後(2009年頃)に偶然あうんさん・すうじぃと、若い頃から生きる支えだったファンクバンド『暗黒大陸じゃがたら』のイベントで知り合い、初ストリートのゲストに偶然来てくれてから、自主イベントのレギュラー。その後、程なく、すうじぃのバンド(ASG)メンバー(江州音頭指導と音頭取りと囃子手、エレキギター・エレキベース。もちろん音頭以外の同バンドの曲も、リードギタリストのカズボーン・コックスの指導で弾ける)になったし、元同バンドのリードベースのミスターターキー…中学の2年先輩。ただし、当時面識は無かったが、私が仲間たちと学内で流行らせたサブカルブームは知ってた。彼は10月頃復活予定なので江州音頭を捨てずに済んだ事は一言付け加えておかなければならない。

すうじぃが、自分の中の最大ロックンロールスターの誰カバの中心メンバーの義隆先生をに紹介してくれたのも必然だろう。

まだ数回だが、時間が合えば、音頭取り兼お囃子兼伴奏者で来てくれる。

辞めてる時もすうじぃグループだけでなく、知人の様々なライブに出たり、回数は少ないが自主企画ライブしたりしていた。

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が、知名度が音頭の場合は桁違いに低い。

悲しいかなナツメロ評論、エッセイ、昭和歌謡ショーの『間賀凜(まが・すすむ)』と『淀川徳丸』のが悪いけど知名度はある。

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音頭界であぐらかいてたらアカンねん!。

音頭一本に絞ったら、元々なにかやってたアーティストは音頭一本になったらアカン、と私は勝手に思ってるし、冷ややかに音頭内部にいて、入門時から見つめている。

音頭は音頭、自己活動は自己活動って棲み分けたらええんや。

自分は、唯丸会の内部でも、門真出身言うだけで入門時からいらん期待とかもかけられてたから、結構、前期と現在に至るまで、唯丸会を冷静に見ている視点が入門時から変わらない事は、一言いっておきたい。

PS:今日はここまでで( ̄▽ ̄;)

(つづくのか?)

おはよう朝の野菜ワカメわかめラーメン🍜🙋
朝も焼きそば。夜も!。⁡
⁡⁡
⁡これがいちばん美味いと思う、名城の焼きそば!。