一昨日(7月31日月曜日)の昼前、実家近所の郵便局に貯金おろすために立ち寄った。
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今年の春にザキミヤ(猪名川タイムズ6代目社長。40年のブランクはあるものの初期の活動の構成作家、マネージャー、プロデューサー)から
「マツキ(ザキミヤ同様、小学校1~2年時の親友)が、この春から近所の郵便局の局長として赴任してきて、少し話したで!」
と春先に伝え聞いてたので、
「会ってみたいなー。マツキはとにかく思い出がお前同様多い仲間やったからなー」
と会話してた。
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で、用事終わった時に女性局員さんに
「局長はマツキさんですよね?。私、彼の小学校1~2年生の時の友人で楠元(本名)と言います。お忙しいでしょうから、よろしくお伝えください」
と言って帰る支度してると、即効で
「とくちゃん!懐かしいな!」
と、マツキがわざわざ飛び出して出てきてくれて、抱擁し合い、約半世紀ぶりの再会を果たして、懐かしすぎて涙が出そうになった。
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彼の実家は大衆食堂をご両親が長年経営されてて、地元でも人気店で、よく町内の人々や、学校の先生たちが利用したり、宴会に使ったり仕出し弁当をお願いしたりして賑わった人気店だったと記憶している。
小学校1年の時からマツキとザキミヤと私と他数名の仲間たちでよくつるんでいたのが思い出され、よく、我々を含めて総勢10名前後の仲間が学校を終えてから、誰かの家でよく遊んだり、遠出(せいぜい京阪電車の最寄りの駅前まで。自転車もしくは徒歩移動。門真・守口・寝屋川各市内中心)ことも強く思い出す。
彼は小学校2年の途中で、隣の校区に店兼自宅が移転ので引っ越したが、年度途中で切り替わるのは可哀想という彼のご両親のご意向で小学校2年が終わってから転校して行った。
以後は私とは疎遠になったが、ザキミヤの店とは、その後、マツキの家の食堂が閉店するまでの長い付き合いがあったと、ザキミヤ父ちゃん(政宗と同世代で長年懇意)に、郵便局からの帰宅途中に店(ザキミヤスタジオ)に立ち寄りうかがい知る。
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マツキは仕事が仕事なので、ものすごく地元事情にも詳しくて、
「やはり、僕もこの辺の生まれ育ちやから、なんだかんだといろんなこととか、同級生の消息も何人かは知ってるわ。
そういえば、途中で隣の小学校に転校した『まじゃまず(あだ名 Nくん)』っておったやん。あいつとも偶然の再会からの繋がりがあるわ!」
と言われて、とても驚いた。
「おばちゃん(母千鶴子)はお元気にされてるん?。今も変わりなく家族でお住いなのかな~って思って、お家の前通ったりするんやけど!?」
と言われて胸が熱くなりながらも
「あ!、お母ちゃん、俺らが中学3年の時に亡くなってん(1939年11月29日~1982年5月7日)」
と言うと、しばし沈黙して瞑目して、
「うわー!ショックやわ!。すごく、よくしてくださって、思い出も尽きなかったし、外回りしてる時、お家の表札見て、変わってないから(実際は家が東1件隣)、お元気にされてるもんやとばっかり想ってた…えーそうなんかぁ…すごくお世話になったし…残念やわ…」
と、いってくれて、逝って41年経った母がマツキの中で83歳の現在も生きて元気にしている、と、想っていてくれたことが嬉しくも悲しい。
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実はしょっちゅうマツキの実家の前を通る度に全く同じ事を考えていた。
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彼もお父様は数年前に逝去されている(当時人気のキックボクサーの沢村忠に激似だった)。
お母様(美人)はご健在で妹さんの家族と実家(すげー近所の元店舗だったお家)に住んでらっしゃるとの由。
お互いの家で晩御飯を食べることも多かったので両母とも交流があった。
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それで彼も私も、懐かしい話しが積もるお互いの気持ちがあり、彼も仕事に戻らないとダメだろうから、それをお互いに察したので「じゃあ、今晩呑もう!」ということになり、彼の終業後に彼の行きつけの店で呑もうということになった。
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彼は通勤は徒歩圏内、先程書いた小学生の頃に自転車か徒歩で活動拠点(と言ってもバカ広い)内に家庭を持ち、奥さんと成人した子供さん2人とお住いで立派な家庭人の顔をしている。
本当はそういう成人後立派な家庭人の地元の友人は稀有であり、私的にはそうした地元のダチはマツキとムネーキ(門真市議、漫才2番目の相棒)と、イマーナキ(ポコチャ配信からの猪名川タイムズ用語。で逝去…今は亡き人を追悼する言葉。 C 何故ボイド)でお馴染みの故飯塚銀次(猪名川タイムズ創業者1967~2011)ぐらいしか見当たらない。これはザキミヤも同様で稀に登場する『オーウエ』(義務教育期間の遊び仲間。飯塚と私の紹介者)も『おたーま』(小3以降の幼なじみ)といった当時の遊び仲間たちも大抵チョンガー(独身)だ。
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近所に外出してる時に、仕事を終えたマツキから電話をもらい程なく郵便局に戻り、家に来てもらい、母の仏壇に手を合わせて貰う。
彼の思い出の中の母は自分の知らない母なのかも知れない。たくさんの思い出も彼の胸中に溢れてるのだろう。
父が入院し、不本意ながら実家に詰めることになった為にマツキと縁が約半世紀ぶりに復活した事は、迷信とか験担ぎ(げんかつぎ)や先祖代々してる信仰はマツキも私は持ってるだろうから、会長や義母が頑なに解釈していた歪んだ教義の邪教は信仰しないので、これぞまさしく、母がマツキと私を再会されてくれたのだと信じたい。
間違いなく。
『まあ、マツキくん立派になって!。おばちゃん、嬉しいわ!。
これからも徳ちゃんと仲良くしてあげてね!改めてよろしく!』
という霊言がマツキと私に届いた気が、この文章を書き、回想した際に聴こえた気がする。
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で、2人で、マツキの馴染みの居酒屋に徒歩(私は自転車引いてる)で向かう道中、子供の時、実は我が家はこうした家庭事情だった、ということは肌でお互いに感じていたが、2人が離れてからの話を深く語り合った。
すると、学歴や職種は異なるのだが、面白いほど、その成長過程が酷似していたことにお互いに驚いた。
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その彼の行きつけの店に到着。
ここでも驚いた!
というのも、1992(平成4年)年8月6日に、天才漫才師にして歌手、俳優、詩人、アマチュアボートレーサー、アマチュアパイロットなどなどの足跡を上方演芸界に遺した横山やすし(1944~96)が暴行を受けた直前まで呑んでいた後継店の建物だったという因果。
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店の大将も寝屋川出身の地元っ子で、マツキと私と同い年ということで居心地良く、話も盛り上がったので、今後訪れようと思った。
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その同時代性というのはありがたいもので、その一例としてアニメ『ドラえもん』の話が出た。
誰とはなく
「『ドラえもん』て、おっさん(富田耕生師匠。『江州音頭取り』になる遠因の俳優、声優、実業家 1936~2020)やんねー!?」
と話すとあとの2人が
「そそそそそ」
「野沢雅子(1936~ 二代目ドラえもん声優でもある少年声優の大御所)も話し方がおっさんでべちゃ~としてて、『あ!声変わった!』て想ったもんな~」
「白黒やったのに、カラーなったりとかね!」
という話題で盛り上がった。
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話しは尽きないながら、数時間…かなり長い時間、懐かしい、もう、歳若き友人に話しても通用しない特撮アニメの歌(今の若い友人たちには『マニアック!』と一蹴されそうな世界)をYouTubeのサブスクを肴に話も盛り上がった。
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彼の家まで徒歩で見送る。
帰り道は半世紀前に当時の遊び仲間達と自転車で走り回った守口街道を軸に、幣原坦博士(1870~1953 歴史学者。晩年は門真町一番に在住。二人の生家跡地に生誕記念碑。弟は外交官、第44代内閣総理大臣で終戦後『昭和天皇とマッカーサーの会見』を仲介したこと
や『昭和天皇人間宣言』『憲法九条創案者』でも知られる幣原喜重郎1872~1951)の眠る願得寺(古橋御坊。兄弟も学んだ古橋小学校跡地)や幣原兄弟も参拝したり、遊んだであろう隣接する『八坂神社』(南北朝時代以前創建推定。古戦場だったこの辺)の付近を通り、ほぼ半世紀ぶりの再会なのに、お互いの共通言語も変わりなく、まざまざとあの頃のお互いの共通体験が次から次へと走馬灯の如く蘇るのである不思議。
しかも、マツキに言われるまで気が付かなかったが、当時の口跡(話し方)のまんまらしく、言われてから、マツキの口跡もあんまり変わってない事に気が付いた。
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という訳で、47年振りの邂逅は無事、彼の帰宅を見送って終わった。
また、これから再び続くであろう出来事に期待を膨らませて、近い内の再会を楽しみにしつつ、お互い帰路に着いた。
※向かって左がマツキ。また、家に帰ったらマツキとザキミヤと小生の当時の写真追加します。
(了)