ちぃさんこと、横山主税常忠の欠片を発見しました🎵

歴史読本に、榛葉英治という作家がちぃさんについて随筆を寄せていました。
「なんてニッチな!!!」とワクテカで早速古書を注文し、本日来着。
この榛葉さんという方、何とちぃさんの縁戚でござった。
祖母がちぃさんの嫁の姉妹である簗瀬佐久さん。佐久さんは村岡素一郎と結婚。村山が函館に居た時代なので、函館支庁の誰かとの繋がりなはず。

歴史読本に寄稿時もまだ横山家とも親戚付き合いがあり、「会津の帰りに三郎(ちぃさんのお孫さん)が挨拶に来たよ」な話。

そこで、以前Sさんに伺っていた偶然駅の週刊誌を手に取ったら、北海道で自分が主税の孫と言っている人がいるよ!な記事を見つけた話が載っていました。
1人「ふおおおおお」となりながら、バイクのオイル交換待ちで読み耽りです。バイク屋さんは「なんだこいつ」と思っていたかもしれない。。

で、その随筆のなかに「一度は斗南に渡り」とあり。移住者名簿にちぃさん息子の幸衛君の名前があったので不思議ではないですが、伝え聞いていた話とはちょっと違うので「そうなの?」と。
まぁその真偽は(私の中で)さほど重要ではない。問題はその次だ。

「東京に出て曾祖母、祖母、母と暮らしていた常道は、小学校教諭として働き」の部分。

え!ちぃさん似の息子が小学校教師!?
そんなの顔ばっか見て勉強にならない!!!

萌心が爆破寸前です。何この破壊力。
そしてその後満州に渡って満州で没。満州に行った話は聞いていたのですが、そこでお亡くなりになっていたとは。。

他にも「健次郎とは格別に仲が良く」とか、山川の影も大分濃い。ぶっちゃけ常道君の嫁は操ちゃんスカウトだ。
ちぃさんママの利衛さん(日向家)は、捨松っちゃんが慕っていたようで、ちょくちょく遊びに来ていたらしい。会津弁仲間ですしね。。健坊とか「むじなばあさん」って呼んでましたしね。何でむじなよ。

そんなちょっとした欠片がメテオ状態でした。
長らく謎だった写真の載った週刊誌の名前と巻号も解ったので、これも調べるつもりです。
原誌の方が探して見当たらなかったので、図書館か、あるいはまとめ本が出ているらしいので、その辺を当たるつもりです。

戊辰150年を前に、明治期にオラ、わくわくすっぞ!状態です。
健坊手紙と日記で、浩息子についてもちょこちょこ判明してきているので、この欠片群もいつか寄せ集めたい。