2006-04-24

怒り心頭シリーズ 1

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国家予算の半分を国債(借金ですよね)に頼っているような国が、他国の軍の引越しのために7000億円も拠出するなんて、いくらなんでも馬鹿げているなんて、ことくらい、僕にだってわかります。

http://www.asahi.com/politics/update/0424/006.html


合意しちゃうのか。



アメリカとの関係を続けていくこと(悪くしないこと)が日本にとってどれほど重要か、よくわかっています。


でも、わかっていてもさすがに腹が立つ。


たぶん、馬鹿なアメリカと阿呆な日本政府と同じくらい、無力な自分に腹が立つ。

この立ってる腹はおれのものだ。

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2006-01-27

2006年の911

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911という数字の並びは、誰にも同じものを連想させるはずです。


2001年9月11日。

マンハッタンの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込みました。いわゆる同時多発テロ。


炎上し、崩れ落ちる世界最大級のビルの様子は、世界中で中継され、人々を震撼させました。



その跡地では現在、新しい貿易センタービルが建築中なのだそうです。

僕も2月にニューヨークに行くので、その現場を見てこようと思っています。



WTCを設計したのは、日系2世のミノル・ヤマサキという建築家です。

日系人の両親を持ち、アメリカに生まれ、アメリカに育ったヤマサキは、コンペで他のライバルを制し、マンハッタンの新たな象徴ともいうべきWTCの設計を勝ち得ました。


アメリカで最もアメリカらしい都市のシンボルとなるビルを、日本からの移民の子どもがつくりあげたわけです。

この事実は奇しくも、メルティング・ポット ― 人種のるつぼであるニューヨーク、そしてアメリカの性格をも表していました。


一方で、このWTCを、無理矢理なグローバライゼーションの中心であり、唯一の超大国であるアメリカの憎むべき象徴とみなす人々もいました ― 当然です ― そして、その後のWTCの悲劇を、いまや知らないひとはいません。




911の後、WTCの再建にあたって、様々な意見が挙がりました。


以前と同じ貿易センタービルを再建するという意見。

いや、以前よりもさらに高い2棟のビルを建てるんだという強硬案。

結局、WTCの象徴するものが、ある種の人々にとってどれほど憎むべきものであるのかを顧みることもないままに、強硬案に近い形で再建が進んでいます。


或いは、誰もが利用できる公園にしようとか、911で亡くなった人々の墓地にしようという意見もありました。

おそらく、支持を得られなかったであろうことが推測できます。




或るクリエイターは、光によるWTCの再現を提案しました。

WTCの跡地から2つの強力な光線を放つことで、光のWTCを夜空につくりあげる。これは911以前から企画されていたそうで、テロによってビルが崩壊してしまった後になって注目されたのだといいます。


光は、希望の象徴。「北風と太陽」でいうところの太陽のようなアイデアだと思います。

雑誌「Art in America」の表紙にも採用された光のWTC計画案は実に美しい。ぜひ、実現してほしいです。




一方、まったく違う観点から911からの復興を目指した建築家もいました。我らが安藤忠雄氏です。


彼はWTCの跡地に巨大な円形の墳墓を築くことを提唱しました。

地表から、小さな地球の一部が顔を覗かせているようなこんもりとした丘。土を盛って、芝を植えて、3万人!が座れるような場所。


もはや開発の必要のないマンハッタンに、これ以上ビルを造る意味はない。人類の共存を考え、静かに平和を祈れるような場所として、WTCの跡地を再生してはどうか。

僕は、ぜひ、この墳墓に座ってみたい、と思いました。テロに傷ついた人々の回復はもとより、テロの原因となった様々な問題を考え、平和を祈る場が、他でもないアメリカにできることには、とても大きな意味があると思うのです。


残念ながら、安藤氏の提案は提案のままで終わってしまいましたが...

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2006-01-15

ナマ卵の美術史

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3年前、僕が大学1年生のときの美術史の授業。

先生は大きな荷物と共に教室に入ってきました。


大きな黒いキャリーケースのような中から出てきたのは、卵でした。何ダースも。大量の。

アシスタントにその卵を配布させながら、先生はその日の授業内容を説明し始めました。



曰く、

コロンブスは茹でた卵を立てて周りのひとを驚かせたけれど、あれは素人のやることだ。

生卵は、そのままで自立する。

割らないように気をつけながら、机の上に卵を立てなさい。



卵は、その独特の、円形の軌道を描いて転がる卵型をしています。

立つはずないじゃん。

第一、美術史の授業なんですが先生。


僕たち生徒はよくわからないまま、自分の机の上に卵を立て始める。先生にやにやしながら見ている。

コロンブスよりも素人の僕たちは卵を立てられない。先生、相変わらずにやにやしながら見ている。


しばらくすると、立った、という小さな声が聞こえました。

生卵が自立したそうです。


またしばらくすると、突然、僕の卵も立ちました。本当に突然のことでした。

コロンブスを超えた瞬間でした。


結局、生徒全員、それぞれの卵を立てることができました。

先生はこんどはにこにこしながら僕たちの様子を見ていました。




漸く講義が始まりました。


先生曰く。


生卵は、流動的な卵の中身(黄身)の重心と傾きが、地球の引力の向きにぴったり重なったときにのみ、直立するつ。

不安定な卵形だから、そのバランスは極めてもろい。その唯一のバランスを保つことができたときにだけ、卵は立つ。


「唯一のバランスを保つ」ことが、美しいということだと私は考える。

美術作品は、唯一の美しいバランスを求めて作家が試行錯誤した形跡である。


なぜその色なのか。なぜその線なのか。塗りの厚みは。素材は。額は。

全てが唯一のバランスのために構成されている。作品を観るのは、そのバランスを見極めることである。


君たちは努力しなければならない。

観ることに努力しなければならない。卵が立つ唯一のバランスを思い出してほしい。そして観てほしい。




一通りばあっと喋ると、先生は割れていない卵を回収して、授業を終え、教室を出て行ってしまいました。


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2005-12-04

Buy Nothing Day

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この大切な地球環境、そして人間の環境への何よりの貢献は、ものを買わないことだと常々思っています。



ものを買わなければ(あるいは、もらうこともなければ)、ゴミは発生しません。


ものを買わなければ、生産は減ります。

ということは、それに伴う生産段階でのエネルギー使用、自然への負荷が減ります。

もちろん原材料の消費も抑えられます。


それは進歩を大前提とした資本主義へのアンチテーゼ。反旗。裏切り。「恩を仇で返す」。逆走。

でも、そもそも進歩を前提に置くのってどうなのよ。


ものを買わなければ、ものが減って、身の周りもまちもすっきりします。


ものを買わなければ、ものが売れなくなれば、ものを売るひとも徐々に減って、何かとビジネス!ビジネス!な風土も変わるでしょう。

しつこいほどの広告も減って、至るところ宣伝だらけのまち並も変わるでしょう。



ものを買うのは楽しい。

ものを買わないのはつまらない。


でも、ものを買わないという態度も、立派な意思表示になります。

資本主義だけが善じゃねえぞと。

消費だけが文化じゃねえぞと。



そんなことを考えていた僕よりも、はるかに先行して行動に移しているひとたちがいました。

カナダの非営利団体、Adbusters(http://adbusters.cool.ne.jp/ )。


キャンペーンはその名も「Buy Nothing Day 」。


年末年始、商店が一番が賑わう時期にこそ、ものを買うのは止そうぜ!というキャンペーン。

お馬鹿っぽい調子で繰り広げられていて、なんともいい感じ。



このキャンペーン、年末年始だけでもいいけれど、どうせなら年中やりましょう。

消費も地球の回転も、24時間365日、止まりません。


可能な限り、Buy Nothing Days。

買えないものを守るために、買いません。

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2005-11-22

絵を観る眼

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絵画や写真、版画や彫刻など、美術作品を観る眼に良い・悪いがあるとして、

良い眼というのは、美術館に飾られていないものを見て、美しいと思えるかどうかだと思う。



美術館に展示されているものは美しい、何か価値あるものだ


というのが、美術館に足を運ぶひとの意識に大前提としてあります。


それはある意味で正しいけれど、
他方では残念ながら正しくない。



美術館や博物館に置かれているものには、それを選んだひとがいます。

この作品には館の予算を使って購入する意味がある!という判断があって、初めて作品は収蔵されます。


つまり作品が美術館に置かれている根拠は、大雑把に言って、館や学芸員の価値判断でしかないということです。



ひとによってはそれを評価するでしょう。

ひとによってはそれをイマイチだと思うでしょう。


ただ、好むにしろ好まないにしろ、美術館・博物館に置かれているものは評価の対象になります。


その反動で、そうした文化施設に展示されていないもの・展示されそうにないものは、

あたかも価値のない・注意を向ける必要の無い・少なくとも美的価値のない、そういうものだと捉えられがちです。


捉えられがちもなにも、たいていのひとには見向きもされません。



普段使いのお茶碗や、商業デザインや、小さなこどもが描いた絵と言えないような絵や、

写真に興味のないひとが撮ったヘボ写真や、ケータイの写真や、

ゴミのようなものや、ゴミや、染みや、

路地や、まち並みや、自然は、


それぞれに用途や機能があっても、美しいかどうかで語られることは少ないように思います。



それは悪いことではありません。

そもそも、「美しい」なんて曖昧なことばも概念も、要らないかもしれない。


でも、それはもったいない。

よく観れば、いい!と思えるものは無数にある。どこにでもある。


美術館だけが美の宝庫ではない。

博物館だけが知の倉庫ではない。



美術館に飾られているものや一般に「美術」だと括られるばかりをああだこうだと評論して、それ以外のものに少しも美的関心を向けられないひとの眼は、

「にせもの」

だと、僕は思います。



會津 八一氏は「隻眼で見ろ」ということをしばしば仰っていたそうです。


両目を開いたままでは見えないものがある。

片目をつぶると、よくみえてくることがある。


そんな意味のお説教だったように思います。



人生、隻眼、24時間。

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2005-11-13

降りる人を待ってから乗りたくなる電車の入り口

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僕が何の気なしに口にした


降りる人を待ってから乗りたくなる電車の入り口


について、友人 が考察してくれました。



このブログで、電車での悲喜こもごも?を書いた記事 に対するコメントでのやりとりの中で、そんなありそうもない電車のアイデアが出てきたのでした。


あったらいいな、が、ない。

僕も考えてみます。




デザインは、現状の問題点を洗い出すことから始まります。

今回検討する電車の入り口の問題点は、


降りるひとを待たずに電車に乗り込むひとが多い

という不都合。



では、そもそもそれが問題になるのはなぜか。


客が降りる前に新しい客が乗車を始めるのが、明らかに非効率だからです。


車内の空間は有限です。だから、新しい客が乗ってからでは降りたい客は降りづらい。

いくらか降りるひとがあって、車内が空いてからの方が乗る人も乗りやすい。



ではなぜ、非効率的であるにも関わらず、乗る側の客は急ぐのか。

また、ストレスの構造的な原因はどこにあるのか。


1. 降りる客と乗る客がすれ違うときにぶつかるほど、乗降口が狭い

1'. 狭い中をすれ違って移動することで感じるストレス。

2. 「待つ」ことに対する本能的なストレス

2'. (特に都会の電車は)定刻通りに発着することが求められている。



1.と1'.について。


電車の乗降口のサイズには限界があります。

電車の壁全てを乗降口にすることは不可能。なぜなら、ひとは自分の目的の駅以外では(基本的には)乗り降りしないためです。乗り降りに関係しない客を保護する必要性から、壁を前面ドアにすることは無謀です。


乗降口を大きくする取り組みは既に東京メトロの一部の列車で試みられていますし、これはある程度効果を上げているように思いますが、

根本的な解決には至っていません。



2.および2'.について。


人間がストレスを感じ始める電車の待ち時間は9分何秒かだ、という実験結果を、先日テレビで見ました。

「待つ」こと、他人のために自分の行動を止めることに対して、人間は本能的にストレスを感じるといっていいでしょう。


いっぽう、電車の運行スケジュール

本来は鉄道会社側の都合であるのに、利用客側もそれによって恩恵を受けています。電車がいつ来るのかがわかるという利点です。

何時間も待った挙句電車を捕まえられない、ということは日本では起こりにくい現象です。


ただし、それは鉄道会社・利用客の双方を急かせるという弊害を生みます。


スケジュール通りの運行は便利だと認知される

 → スケジュール通りに運行されて当たり前

 → そのために急ぐのは当たり前

 → とにかく急ぐ


タイムスケジュールは狂わないに越したことはありません。

しかし、一方で、少しでも遅れることに対する無意識の怯えのようなものを多くのひとが抱えています。


人間の本能はもとより、すでに皆が多大な恩恵を受けている電車のスケジュールの存在を変更することは、不可能です。


新しいデザインは、これらのものを前提とした上で考える必要があります。




そこで。


1.から2'.までを包括して解決できる方策の一つは、


乗り口と降り口を分ける」ことです。要は、バスの方式です。



電車の乗り口と降り口を分けることで、乗るひとと降りるひとがぶつかることは解消されます。


また、電車では、乗り降りが同じドアでなされるために、乗車後、1駅ですぐに降りたいというひとが車内のドア付近に溜まり、車内の奥の方とドア付近で混雑の具合が大きく異なりがちです。

これも非効率的ですが、乗り口と降り口を分けることで、ドア付近に客が溜まって乗り降りしづらくなることも減ります。



もちろん問題点もあります。



一つは、バスと比べての規模の問題


バスは、いわば一両編成だからこそ乗り口と降り口を分けることが容易です。

一方、電車は、8両から15両編成が主流で、移送人数もバスよりずっと多い。

だから車両一つ一つに乗車専用のドア・降車専用のドアを設置することは困難だといわざるをえません。



次に、乗り降りを分ける必然性


バスは、乗車後に運賃を払います。だから、客に乗車時(もしくは降車時)に運賃を支払ってもらう必要があり、運賃箱の位置に応じて乗り口・降り口が分けられます。


いっぽう電車を利用する場合、バスと違って、乗車後ではなく、乗車前、駅の改札を入る前に切符を買うことで運賃を支払います。

だから、車体の乗降口を2つにわける必然性がバスに比べて弱いといえます。



また、乗り口と降り口を分けることで、駅の混雑を助長する可能性があります。


単純計算すれば、現在の列車に設けられたドアのうちの半分が乗り口専用になり、もう半分が降り口専用になります。

つまり、駅で乗客が並ぶべき位置が現状の半分に限定されます。

それによって、乗車位置がわかりにくくなる、いっそう混雑がする、といった弊害が考えられます。



もちろん、「慣れ」の問題もあり、改善点山積み、穴だらけのアイデア...です。




...前述のように、急ぐこと、待つのを嫌うことが人間の本能だとすると、

電車、駅、それらを包括したシステム全体を見直さない限り、僕たちの理想である「降りるひとを待ってから乗りたくなる入り口」の実現は不可能です。


乗り口・降り口を分けるという案は、節々に問題もありますが、構造的に駅と電車を改善するためのヒントにはなると思います。


どうだろう、カレンちゃん。

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2005-11-07

パリ、メルティング・ポット

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「カトリーナ」後のアメリカにしても、暴動がおさまる気配のないフランスにしても、構成要素は違えど、移民国家であるがゆえに生じる膿みをほったらかしにしていたのが一気に爆発したということなのでしょう。



「カトリーナ」の被害を受けた地域では、人種や肌の色によって受けられる支援が差別されたそうです。


現在進行形のフランス全土での暴動は、アフリカ系の少年たちに対する警察官の執拗な責め立てが少年たちの事故死を引き起こしたとして、アフリカ・アラブ系の人々が暴徒化したものだといいます。

(まだ充分にニュースを見ていないのですが)



僕は、ニューオーリンズにもパリにも直接行って状況を見たわけではないから、実際がどうなのかはわからないけれど、確実に言えるのは、

違う国のひととの接触は、そもそも不安を伴うものだということ。


程度の差こそあれ、誰しもコミュニケーションについて、文化の違いについて、共生について...何かしら不安を抱くはずです。


異国でマイノリティとして暮らす、となればなおさら。

そして、惨事が起こったときの恐怖ははかりしれないものになるはずです。



だから、ほんのちょっとのことが、大いに不安を煽ることになりかねない。


ほんの少しの政府のミスや対応の遅れが、マイノリティの人々の目には重大な過失と映る。

マイノリティの人々の不安が、批難や行動につながり、それが報道されると、その国のマジョリティの人々はマイノリティの国に対していいイメージを抱かなくなるかもしれない。


国際交流には、潜在的に悪循環の可能性があります。



根強い黒人差別を残すアメリカとフランスは、その悪循環の可能性と現状にあまりにも無自覚だったのではないでしょうか。


国名を主語にするのがあまりにも抽象的ならば、両国の政府、メディア、そして両国民としてもいいでしょう。

もちろん全く同じことが他の国についても当てはまり、日本もそうです。

もちろん、対岸の火事ではない。



関東大震災の直後に数え切れないほどの朝鮮の人々が、デマによって殺害された事件。

真相はまだ解明されないままです。


外国人居住者のためのサービスの不備。まちを歩けばいくらでも見つけられるはずです。


あるいは、逆に、根強い欧米コンプレックス。

いつかその反動がくるような気がしてなりません。

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2005-10-11

しんぶん

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毎日新聞社の、宣伝文句。



 主張を

 おしつける

 新聞は

 もういらない



あーわかるわかる。

と思う一方で、主張の無い新聞こそ要らないよなあ、とも思いました。


情報を得るだけならインターネットで充分な時代です。

主張の無い新聞が存在する意味は、インターネットに不慣れな世代のひとのためでしかない。と思ってしまう。


僕は、毎日新聞は、好きです。

このコピーがぴったりな、ポテト・チップスで言えば「うす塩」のような感じ。



一方で、朝日新聞も朝日なりにおもしろいなあと思う。



以前、広告批評に掲載された「ラジオCMコピー大会」の入選作。



「すみませ~ん、街頭アンケートなんですけど、お好きな新聞はなんですか?」


「新聞? 別にないけど」


「では、嫌いな新聞は?」


「う~ん、朝日新聞」...



というのがあって、うーんなるほどと思いました。


嫌われる・叩かれる・日本で2番目に売れている、新聞。


「圧倒的な存在感」だけは、間違いないでしょう。




日経新聞の新しいコピー、いいと思います。

(以前の、女がどう男がどうっていうのは、しょぼかった)



 私に 経済効果



この新聞ならではの文句で、かつ、紙面にも社会にも新しい空気を吹き込みたいんだぜという意気込みを感じます。


そう、経済って、けっきょく、自分の生活に跳ね返ってきます。短い言葉でよく表していると思います。


キャリア・ウーマンぽい若い女性のモデルを起用して、女性読者を増やしたい試みは相変わらず。



で、どの新聞がおもしろいのか?というと、それは日々読むしかない...


毎日違います。今日は、朝日。

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2005-10-04

夏の終わり  2

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枝から木を、森を変えていくのだ。



しょっちゅう無印良品で買い物をする僕。

買い物の度に、いつも、「あ、袋入れなくていいです」と言って、レジ袋をもらわないようにしていました。


ちょこちょこした買い物が多いから、鞄に入れれば済むのです。


最近、その甲斐あってでしょうか、それとも僕の他にもレジ袋を断るお客さんが多かったのでしょうか、

レジ台に


「袋が必要でない方はお申し付け下さい」


なるプレートが置かれるようになりました。



おかげで、前よりも袋を断りやすくなって、ちょっとだけ嬉しい。



自分がこう!と信じてとった行動は、どこかで実を結びます。


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2005-09-27

フォー・ザ・ライト

テーマ:

ちょっと気を付けてみる度に、世の中のほとんどの製品が


健康で、

右利きの、

男性


向けに作られていることを実感します。


僕自身は、健康で右利きの男性だから、不自由はしないけれど、それと引き換えに不自由を強いられているひとを目にすると、どうしようもなく申し訳なくなります。



たとえば、右利きばんざいの世の中。



電車の改札機のきっぷ投入口、右・左、どちら側にありますか。

パソコンのスクロール・バー、画面に向かってどちら側にありますか。

パソコンのマウス、左右のどちら側の方が取り付けやすいでしょうか。



そんなところ。

レフティが少ないとは、決して思いませんが。



ハードな設備のたいていは、右利きのひと用「のみ」のように思います。ここ日本では。


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