愛情料理研究家 土岐山協子の 『食べることは生きること』を発信するブログ

愛情料理研究家の土岐山協子と申します。私は元々教職に就ておりました。その時に教育における母親の役割の重要性に気付き、日本の国力を上げかつ愛情に溢れた幸せな日本国を作るためには女性が愛情に溢れ、賢く美しくある必要があるのだという考えに至りました。


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読者登録をしてくださっております方々で、私のブログ記事がアップされると更新のお知らせがくるように設定されていらっしゃる方、何度もお知らせがメールが入っているようで、ご迷惑をおかけいたしております

日曜日より、本文をアップしようとしておりましたがなかなかうまくいかないでおりました

タイトルは表記されるのですが、本文が反映されません
何回か試行錯誤いたしました際にご迷惑をおかけしたようでございます

原因がわからないでおりましたので、次回も同じようなことが起きるかもしれません

沢山の方から、何か不都合がありましたか、とご心配のメッセージをいただきました

私のようなもののブログ記事でも、心待ちにしてくださっております方がおられますこと、大変有難く思います
ありがとうございます

メッセージの返信をいただいた方からお返しさせていただいております

今までにいただいたメッセージも、返信させていただいておりますが、いただいた内容自体がメッセージとして反映されない場合もあるようです

その際には返信がかないませんのでご了承くださいませ

ご縁を頂戴いたしております皆様
ありがとうございます


土岐山協子拝


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皆様こんにちは

土岐山です( ´ ▽ ` )

なんだか一昨日から記事の投稿がうまくいかず( ´ ▽ ` )

諦めました( ´ ▽ ` )

お伝えしたかったのは、佐々木十美さんのカレー教室の様子でしたので

ハンター育子の記事がものすごくわかりやすいですからこちらをご紹介させていただきます( ´ ▽ ` )
『鬼カレー』

育子が鬼って言っていたことは( ´ ▽ ` )

十美さんにバラしたろ((ΦωΦ))

置戸町管理栄養士の佐々木十美さんのカレー教室
ご興味のあります方は是非ご一読くださいませm(_ _)m


土岐山拝
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もう読まれた方も多いことと存じます

【黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告のロジカルでドラマチックな『最終意見陳述』があまりにも切ない



私はこういう事件があるたびに思うのですが、あり得ないことをするとか可哀想とかこうすれば良かったのにとかの対岸の火事的な感想を抱く人が多くいるという事実は、また同じような事件が起きる可能性を高めているようなものである、と

虐待という言葉から「暴力」や「物理的な放置」だけを連想する人はまだ多い
私は虐待を受けた子ども達の施設に幾ばくか関わっているが、世間に気づかれて通報されて保護されて優しい先生や大人と関われているあの子達はラッキーなのだと思っている

「自分だって昔はいじめられたけど今はこうして強く生きている」
「自分も虐待されたけれどもだからといって犯罪を犯したりしていない」
と、応援とも非難ともつかない発言をする人がいるが、それはあまりにも「生きる」
ということの根源的な意味を軽んじていることに他ならないと思う
それはこの私自身も例外ではない
それだけ人間は隙あらば自分を正当化したい、弱さを持つ生き物なのだと思う
しかしその弱さを知ること無しには「強くあたたかい存在」にはなることが出来ない

こうした事件の度に犯罪者や被告、事件の槍玉にあがる人を責めている人は「弱い人間」であると思う
そしてなおかつ、渡邊被告と同じ立ち位置であることを自己認識していないところに本当の怖さがあると思っている
「自分は犯罪を犯していないから安全地帯にいる」と思うことは甚だ浅はかな思考である
人間として地球上に生きている以上、誰もがこうした犯罪を犯す可能性があるのであり、そして全てが他人事ではないのである

こうした事件から学ばなくてはならない最も重要なことは、世の中には「人に嫌な思いをさせること以外に社会と関わる術を知らない」人が一定数存在するということ
そうした人達をイコール犯罪者という安易なくくりで片付けてはならない
そうなるには、理由があるからだ
その理由は、私は渡邊被告と同じように
「幼少期に安心が得られていないから」
ということだと思っている

例えばSNSで個人攻撃をする人、2chなどで匿名で人への嫉妬を歪んだ形で放出する人など
ばれていないと思っているかもしれないが、匿名の嫌がらせの書き込みをしている人でもFacebookのプロフィールや投稿を見ると世のため人のための活動をしているとピーアールしている人達も私のFacebook上の友人として今だ存在する(面識はないのだが)
こうした人たちもまた確固たる「糸」を持っていない意味ではその行為を続ける以上は、渡邊被告と同じ立ち位置である
今のところ逮捕されていない、というだけ
匿名で悪質な書き込みをしている人を特定する方法はあるので、そうした行為をしている人も訴えられたら同じように被告になる
現に訴えられて裁判になっている人もいる


そしてそうした人達が放棄している(かのように見える)「糸」を「社会的存在」を当たり前に生きている人が何らかの形で結びつけていくこと
その「何らかの形」を少なくともこの文章を読んだ人が具体的な活動に落としこみ、そうした人の足を引っ張ろうとしてしまう人が、「なぜ自分は卑劣な行動をしてしまうのか」という命題に向き合う勇気を持つきっかけ作りをしていくことが大事のように思う
なぜなら、渡邊被告も匿名で悪質な書き込みをする人達も「人や社会と関わる糸が欲しい」からこそ、何らかの形で人と関わろうとしているだけだからだ
好意的か悪質かはなどは問題ではない
人は皆人と関わりたいという本能を無視してはいけないと思う

余談だがこうした「犯罪者」を糾弾することが「世直し」と思っている大勘違い人間がたまにいるが、迷惑千万どころか、返って嫌な空気を大々的に撒き散らすという点では法にふれた犯罪者よりタチが悪い
本気で世のため人のためになりたいのならば、まずは起こっている様々な事件(舛添都知事やベッキーさんなどの件も)をよりよき明日の社会のためにまずは自分ごととして捉えることだと私は思うし、私自身はどんな事件もまるっきり他人事として切り離して考えることはしたくない
起こった事件を他人事のようにして個人を糾弾することは「いじめ」の構造と同じであると思うからだ
いじめに加担することをよしとする空気を作ることが世の中の為か
否、である

私も昨年、とあるお母さんに個人的に送った文章をある理由から少し手直ししてブログに書いたものが相当拡散した
誰かを糾弾する(そのつもりで書いたのではないが)ような記事は燃え広がりやすいということがわかったと同時に、何の解決にもならないことも勉強させてもらった
反省しきりであるが、記事そのものは今のところ消すつもりは無い


そもそも報道とは「痛ましい事件を繰り返さないため」に事実を受け止め、より良き世の中をつくることの足がかりにするためのものであって、決して犯罪者を糾弾することで個人の優劣コンプレックスを解消する材料にすることではない

私は常々、世の大人全てに
「子どもをよくみて欲しい」
と思っている
もちろん、大人とは私自身も含まれる


今はテレビやインターネットで様々な情報が得られる
そうして「目の前の当たり前のこと」よりも「刺激的で楽しそうな(に演出されている)こと」を選択する人が多くなってきている
実際、その「楽しそうに演出されていること」は、なんのために「楽しそうに演出する必要があるか」

全ては企業の利益のためであることは、ちょっと頭を働かせたらすぐにわかる

一番ターゲットにしやすいのは時間とお金を使いやすい主婦層である
家電で家事の時間を短縮させ、レトルトや化学調味料で料理の時間を短くさせ「子育てよりも魅力的な世界」「毎日家族のためにご飯を作るより楽しい世界」のような「幻想」を作り上げ外に目を向けさせることで、経済を活性化させていくことが目的なのだということが判断できるか否か
糸の切れた凧のようになっていいように操られてはいないか

映像は影響を受けやすい
例えば安い醤油、安い味噌、顆粒状の化学調味料出汁

宣伝で美味しそうにや、安い、時間短縮、などのメリットがなければ誰もわざわざ「偽物」に手を出す道理がない
売れているのは、CMの力以外には無い
世の中の大部分のものは「儲けたい人の欲望」によって「選択させられて」いる

手にした安い味噌、安い醤油の成分表示を見たら「実は偽物なんですよ」とはっきり書いてあるのにそんな近くに肉眼で見えるものをおざなりにして、誰が流したかわからないテレビやインターネットの情報に飛びついてしまう

子育てや教育現場も同じ

教育のための番組や育児雑誌や教育書が教育論者が溢れていますが、その人達、直接会ったことあります?信用できる人ですか?

そしてそもそも子どもを近くにおいておくことと愛情の深さはイコールではない
子どもを抱きながらSNSを長い時間している間、心は子どもに向いていない
教育は物理的な問題ではないと考えている
数値で人間の心は計れない
大切なのは心の距離であると私は思う

例えば「子どもを置いて外に出ること」
という行為は同じでも
子どもを食べさせていくために止むを得ず働きに行く
という行為と
自分が遊びに行きたいから子どもを預けて頻繁に遊びに行く
という行為

「食事を子どもに与える」
という行為も
朝から晩まで働いて、作る時間とお金がなかったために職場でもらった菓子パンを子どもと一緒に食べる
という行為と
自分が遊びに行ったり、自分がやりたいセミナーやイベントを開催したりを優先するあまりご飯を作ることが出来ないから料亭の高級食材で作られたお弁当を買って与える
という行為は

それぞれ後者の方が子どもは悲しい思いをするであろう
なぜなら心が子どもに向いていないからだ

そしてここで一番言いたいことは
後者だった場合、やはりそれは渡邊被告の言う「心理的ネグレクト」であり、そういったことの積み重ねが
「自分は普通の家庭で育って両親もいて何不自由なく育ったのになんでこんなに人と比べたり嫉妬心で狂いそうになるんだろう」
という原因不明の生きづらさを抱える要因となるように、今まで沢山の人の相談を受け接してきた経験から思う

「叩かれて虐待された」
「罵詈雑言を浴びせられた」
「いじめにあった」

などのわかりやすいファクターは、また救われる可能性も大きいことを意味する

わかりやすさとは、すぐ結果が出ること

叩かれたら痣になる
罵詈雑言を浴びせられたら悲しくなる
いじめにあったら嫌な思いになる

具体的な結果に対して人は対処する

しかし、一見普通に見える家庭や、あまつさえ裕福に見える家庭での「心理的ネグレクト」は結果が出ることに時間がかかる

化学調味料や食品添加物ではすぐに死なないように


それらを踏まえてあらためて「虐待」の定義は被告が言う通り
「両親が自身の欲望の充足のために子供を乱用すこと」
であると私は思う
よく、「子どもが応援してくれているから」などと、未就学児の子どもがさも自分のやりたいことを応援しているかのような言い方をするお母さんに出会うが、子どもはお母さんに捨てられないために必死なのだ

何もこのことは「両親」に限ったことではない「子どもと関わる人」は全て関係することだと思う

私は自分の子どもがいないが、例えば教え子が必死に「先生、話を聞いてください」と言ってきているのに自分は行きたいセミナーや飲み会や観たいテレビがあるからまた後でねなんて言ったら生徒は「大人は信用できない生き物だ」と思うだろう

実は真に問題なのは一見問題がなさそうに見える家庭での「糸が繋がっていない状態」だ
「見える虐待」の方がまだ救いの手は早く来る

そうした見えない部分での「落としこぼし」を防ぐ意味では私は義務教育の早い段階で「糸」を紡ぐ手助けを大人がすること
それが国民全員が受ける義務教育の意義であると私は思う
そしてその「糸」を強靭にそして沢山作っていくことを「食」、とりわけ「学校給食」を通じて行うことが最善の策であるのではと日々痛感している

「食」は人と繋がるためにあるものだからだ
「人をよくするための事」を「食事」という
学校給食は学校で時間を割いている以上、れっきとした「教育」の一環であり、決して栄養補給のための餌ではない

愛情を込めてつくられた食材で愛情を込めて作ってくれた給食センターの方や沢山の人に感謝をしながらいただくことが、まだ社会に出ていない子どもたちに人との繋がりを意識させる営みである
もしそうしたことをとばして学校給食へのよりよき取り組みをめんどくさがる教育関係者がいるとすれば、それは教育放棄、職務放棄であると私は思う

昨日の夜元教え子からメールがあった
渡邊被告の文章を読んだらしい
「僕はこの文章をこれからの世の中に役立てていくべきだと思いますが、先生はどう思われますか」という内容だった
私ももちろんそう思う
その子自身も相当母親に放置された子ども時代を送っているが今は幸せな家庭を築いている
彼は渡邊被告を責めたりもしないし憐れみもしない
自分が大人としてこれからの子どもたちに何をなすべきかだけを考えている

人は、変われる
人は、愛ある人との出会いや絆で、よりよく変わることができる

渡邊被告のこの一連の文章はこれからの世の中に役立てていくべきものと思う

間違っても子どもを持つお母さんが、子どもの前で犯罪者や事件の槍玉にあがっている人達を意地悪な顔で糾弾して欲しくはない

我が子には優しくあって欲しい、とだけ思って欲しい
優しさを教えられるのは一番近くにいるお母さんだと思うのです

渡邊被告の文章を一部抜粋してご紹介いたします
ご興味のある方は引き続き全文を読まれてくださいませ
↓↓↓↓↓↓↓

『虐待についても申し上げます。「虐待」という言葉は英語のabuseの訳語。abuseの本来的な意味は「濫用・乱用」です。drug abuseは「薬物乱用」です。ですからchild abuseの正確な翻訳は「子供乱用」です。虐待の本質とは「両親が自身の欲望の充足のために子供を乱用する」ということです。自分は「虐待の本来の意味は乱用」という理解が社会に共有されることを切に望みます。この理解が社会に共有されないと、日本人が子供が死に至るまでの身体的虐待かネグレクトしか虐待として認識できない状態がいつまでも続きます。


あと「心理的ネグレクト」という虐待カテゴリーの存在を広く社会に認識して頂きたいと思います。通常のネグレクトとの違いを説明します。子供が病気になっても両親がそれに気がつかず病院に連れて行かないのがネグレクトなら、病院に連れては行くが全く心配をせず「大丈夫かい?」の一声もかけないのが心理的ネグレクトです。充分な食事を与えないのがネグレクトなら、食事を与えても餌を与えるかのように出し「美味しいかい?」の一声もかけないのが心理的ネグレクトです。

刑事裁判において虐待やいじめの話が出ると必ず「で、それが何?自分も虐待されたしいじめられたけど犯罪なぞしていない!そういう物言いこそ虐待経験者やいじめ被害者に対する最大の侮辱だ!」などと主張する虐待経験者や元いじめられっ子がぼっとん便所に涌いた蛆虫の如くヤフーコメントやミクシーに大量発生します。自分はこのような「自称」虐待経験者や「自称」元いじめられっ子に向けて申し上げているのではありません。大変な生きづらさを抱えているのにその原因を把握できずに苦しんでいる方々に申し上げているのです。自分も生きづらさの原因が全く分からなかったために、このような事態に至ってしまいました。自分はつい最近まで小学校時代の6年間が地獄だったとはあまり認識していませんでしたし、母親が子供にその容姿について罵倒することは、どんな親子でも普通にされる会話だと思っていました。子供時代の体験をずっと引きずったまま行動していた自覚もありませんでした。生きづらさからの回復はまず原因の把握からスタートするのです。

「生きる力」とは何か?自分はここまで堕ちた人間ですから、それが何かがはっきりと分かります。それは根源的な「安心」です。「安心」があれば人間は意志を持てます。自分の意志があれば人間は前向きになれます。「安心」が欠如し、強い対人恐怖と対社会恐怖を抱き、肯定的な自己物語を持てない人間が「生きる力」がない人間です。』


私自身、渡邊被告のこの一連の文章、大変勉強になりました

お礼を申し上げます

渡邊博史さん、ありがとうございます


「安心」があれば人間は意志を持てます。自分の意志があれば人間は前向きになれます。

どうかこの渡邊被告の言葉の意味を 

大人の義務として真剣に一緒に考えてみませんか


土岐山拝

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