安寺持方

 

昨日は天気が悪くて行きそびれた武生林道の途中に、安寺と持方集落がある。

 

 

大昔高校生の時に、国体山岳競技茨城県予選高校生部門で、安寺と持方集落を通った事がある。

要は国体山岳競技予選が行われる様な山中の集落です、竜神川の源流域に散在する家々と斜面に段々畑が続き、「凄い所に人が住んで居る」と驚いた。

その日は湯草分教場が幕営指定地で、採点二位の成績で到着した。

 

湯草分教場は現在の常陸太田市上高倉町でR461沿いにある、当時は旧水府村で県道33号線(狭い砂利道、通称天下野街道)に面した、途轍もないド田舎。

近所に商店が無く、分教場で1・2年生を過ごした児童は、3年生になり高倉の小学校に通っても、お金の使い方に不慣れで、買い物に難儀する児童もいたとか。

その湯草分教場より遙かに山奥の集落が、安寺・持方だった。

 

何気に安寺・持方で検索していたら、茨城の民話3「安寺持方おもしろばなし」が発刊されていたので取り寄せた。

いわゆる滑稽話で、視察にお見えになった殿様に、役人の事前注意を履き違え、失礼してしまったと言う失敗談です。山また山奥の田舎者で、役人の注意事項が理解出来なかった笑い話としてまとめられている。

 

民話は囲炉裏端で語り継がれて来たもので、子孫に村の歴史や先祖の苦労を伝承する目的も含まれる、この観点から茨城の民話3「安寺持方おもしろばなし」を検証したい。

 

http://kawai0925.cocolog-nifty.com/yasu47/2009/05/post-f279.html

水府の安寺村・持方村は「生瀬の乱」が起きた小生瀬に近い、二重取り年貢の抗議を聞き入れられずに起こした百姓一揆を弾圧され、婦女子を含めた村人全員が地獄沢に追い込まれ虐殺された事件です。

 

娯楽時代劇の水戸黄門と違い、当時の水戸藩は農民に厳しく反抗には過酷な刑をもって臨んだ。それでも頻繁に一揆起きていたのは、信じ難い程の凄い年貢が取り立ていたのだろう。

https://blog.goo.ne.jp/htshumei/e/86ff2e45b3b164c5f272e4d250a4d901

 

「安寺持方おもしろばなし」に登場する、御殿様の視察があったのかは不明?徳川御三家の殿様が、山また山奥の安寺村や持方村まで自身で視察するかな。視察とすれば現在の税務調査で年貢見積もりと特産品徴収が目的になるだろう、だとすれば視察は担当役人だろうが、囲炉裏端で語り継ぎには「殿様」って事にした方が聞き手は解りやすかったのかも知れない。

水戸の殿様は怖い、村人が不穏な行動を起こせば、生瀬の乱の様に全村民虐殺される恐れがある。でも先祖はトンチ話みたいな方法で一矢報いたと誇っていたのだろう、私はそう理解している。

 

 

今日の日曜日の予報は良くなかった。前日の茂木から帰宅予定は2223時頃になりそうで、5時スタートは少し厳しい気もした。茂木バイパスPCBRM617参加者を拝見していたら、程なく暗くなる時間だが淡々とリスタートして行く。彼ら(女性参加者もおられるけど)に比べれば家で何時間かは寝られるのに弱気になれないと感じた。

 

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帰宅後予報を確認すれば、充分走れそうなので、予定通り「烏帽子掛け峠ライド」を決行することにした。

 

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大子まではホームコースで、何一つドラマも無く到着の予定でした。矢祭駅でトイレに立ち寄ったら「鮎信」で鮎を焼いている、廃業したと聞いていたので、親父に聞いてみた、土日とお盆は営業しますと言うので一安心。では!早速団子を注文した、やはり隣の店よりはるかに美味しい。

 

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R461から烏帽子掛け峠は、里山の田舎道でお気に入り街道とも言える。道の駅北斗星のレストランは格安なので、唐揚げ定食を注文した。味もボリュームも充分だが650円。

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旧美和村の上檜沢から氷之沢に抜ける道路は走った事がない、それの氷之沢って変わった地名だと思う。上檜沢から右折し橋を渡れば、杉林の中を屈曲しながら急登している。「ここを自転車で越した者は数少ないだろう」と思えば楽しくなる。

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峠を越えた氷之沢側は、典型的な山村風景で素晴らしい景観に感動する。

 

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グラベルと言う用語は最近知った、砂利道の事らしい、調べてみるとグラベル用自転車もある。

 

1950年代生まれの田舎育ちなので、子供の頃は未舗装路が大半で、中学校に通う片道4kmも未舗装路。私は中学時代から毎日グラベル走行をしていた事になる、自転車は勿論グラベルロードではありません。実用自転車通学でママチャリとは違います、所謂ホリゾンスタイルでスローピングのママチャリと一線を画します。

 

中学通学3年間でタイヤ交換した記憶が無いので、一体どの様な構造のタイヤだったのかと思う。遊びだろうが所用(自転車に乗れない母から言いつけられる)でもグラベル走行です。

 

20年前にスキーのオフトレに使っていたのはMTBです、現在の様なロードブーム以前でラフに乗るには好都合だった。クロスバイク出現以前でATBとも呼ばれ、広範囲のフィールドをカバー出来る自転車でした。そのオールラウンド性をクロスバイクバイクが引き継ぎ、MTBはオフロード専用マシンと特化して行った。

 

初期の8速リジットMTBで林道走行をしていたが、競技スキーもかじっていたので、「林道走行競技をやろう」って事になった。負けず嫌いの多いKteamU

ですので、熱くなり練習に励む頻度が高まった、結果的にスキーオフトレとしては成功した。

 

多少の自転車歴のある者は有利でしたが、奴に勝たせるのは面白くない。競技コースを何度も走り、それぞれのパートのラップを計測する。やはり一番差が出るのは登りパート、ダウンヒル部分で遅いのはトロイ者だけで大差はない。終盤の舗装林道は心肺能力勝負になる。

 

スタート直後は大き目の石がゴロゴロするヒルクライム、ここを力任せに踏んでもタイヤを弾かれる、何度も走ればトラクション勝負と理解した。トラクションを得るにはポジションと、状況に即したギヤ比で路面を掴む。

 

当初は余り差が出なかったダウンヒル部も、それぞれの走行スキルが向上すると差は広がって来た。サスフォークを導入した者も増えて、ダウンヒル戦国時代に突入した。Yフレームフルサスを購入し、下り敵無しと豪語している奴に、リジットMTBでいかに勝つかと考えた。

 

フルサスだろうがリジットだろうが、コーナー旋回の横Gがタイヤのグリップを越えれば飛ばされる。ダウンヒル用タイヤを使えばグリップは向上して、コーナー限界速度は上がる、しかし終盤の舗装林道では遅くて使えない。

 


コーナーを曲がるから横Gが発生する、直線的に突っ込み一瞬で方向を変えれば、横Gを受けている間は無いだろう。そんな事が可能なのか言う事になるのだが出来ますよ。かなりの速度で突っ込む必要があります、タイミングとポジションが正確でないと吹っ飛びます。菓子折りでも持って訪れれば教えますけど。

 

Team内で切磋琢磨をしていたら、日立や水戸のレーシングチームと互角に戦える様になった。ただEクラスのランキング所持者は別格でした、それが悔しい!タイム差で10数%って屈辱も甚だしい。練習をしましたよ、ヒルクライム、ダウンヒル、舗装林道、どのパートも。でも僅かに及びませんでした。

 

先日AJ千葉の茨城グラベルブルベ50kmがあり、実走させて頂きました、一番の興味は「グラベルってどんな走りをするのだろう」って事でした。常陸太田のせせらぎの里に集結した、参加者各位の空気で理解出来ました。

 

そう、田舎の山道を楽しみたいって事なのですね。

 

 

 

 

 

 

私の20代は貧乏だった、今思い起こしてもほろ苦い感覚が蘇る。独身で会社勤務をしていましたが、収入と支出のバランスがギリギリでした。

 

当時は登山活動にのめり込み、支出に占める割合は常軌を逸していた。衣食住のうち住は会社の寮だったので格安、食も社員食堂で1食3540円で激安だけど美味しくない。3交代勤務のある会社なので、朝昼晩と社員食堂が利用出来て便利でしたが、3食社員食堂利用者は少ない。

 

衣に関してもお金は使えない、一年中半袖ワイシャツで過ごしていたので、着るものは余り所持していなかった。寝具も敷布団と毛布1枚で何年も過ごし、支出は少なかった。人付き合いはお金が掛かるが、一年中半袖ワイシャツ男と付き合う者は稀でしかない。

 

登山ってそれ程お金が掛かるのかって事になるが、当時でも極寒用寝袋が3万数千円、一ヶ月分の給料とほぼ同額。ザイル、ピッケル、登攀用具、その他は外国製で、円が安かった時代では、思い切りが無いと買えませんでした。その中で50万円を目標に貯金もしていた、そのお金を用意していなければ、遠征隊員に選ばれても個人負担額を払えない。

 

その様な生活を続けていると、一般的な若者が身に付ける常識は殆ど知らない、いわゆる奇人変人の類に属してしまう。

 

そこまでして登山活動をするのは何故か!「有名になりたい」、その一心で貧乏でも、奇人変人にもなれた。有名になればスポンサーが付く、同じ山岳会にはスポンサーが付いているメンバーも何人かおり羨ましかった。彼らは高価な装備を所持して、女性にもモテモテで輝いて見える。

 

それには先ず登攀技術を練習しなければならない、仕事が終われば35円飯を食べ、大森から羽田の寮まで自転車で帰宅。当時はジテツーと言う用語は無かったが、電車代を節約しトレーニングにもなった。

 

寮の屋上には物干し場が設置されていた、だが羽田空港に通じる産業道路に面し、荏原界隈の工業地帯にも近く、屋上に洗濯ものを干したら煤だらけになる。誰も使わない物干し場の竿受けが並んでいる、そこにアブミと言う登攀具(3段の小さな縄梯子状)を架け替え、ぶら下がったまま物干し場を端から端まで移動する。

 

横須賀の近く、京浜急行の追浜駅から歩けば石切り場跡があった、追浜にも週に12度通った。社員食堂で夕食の他に、御飯だけ2食買って、塩昆布を振り掛け丼の蓋をセロテープ固定する。それをリュックに詰め込み京浜急行で追浜に直行する、暗くなるまで石切り場跡で登攀練習に励む、暗くなると岩の窪みと言う窪みにゲジゲジが集まり練習したくない。就業時間が午後3時までだったので日の長い時期は練習出来た。

 

週末は夏も冬も谷川岳東面か北ア方面が多かったが電車代が辛い、今となっては時効だろうが、刻み煙草用具を利用させて頂いた。岩場に取り付いても、大切な装備を紛失出来ない、紛失すればその後の登攀に支障をきたすが、カシンのハーケン1本で350円、社員食堂で飯が10食食べられる。

 

装備の管理と徹底した自己管理は不可欠です。登山も素人のうちは紛失物が多い、慣れてくればそれは無くなるが、玄人は拾得物が多くなる。

 

岸壁登攀は重力に逆らう行為でもあり、荷物は軽ければ軽快に登れる。しかし登攀用具を減らせば登れない、軽量化するのは衣類と食料になるので、シュラーフ(寝袋)は持たない場合が多い、ここで一年中半袖ワイシャツと毛布一枚寝具で過ごした体は耐えられる。

 

新人で入会直後冬の谷川岳山行があり、「明るくなるまで時間待ちするので休憩」を告げられた。雪の上に新聞紙を敷いて寝てしまったが、ふと目を覚ませば皆で湯を沸かして飲んでいる。「エー!湯なんか飲んでるの」と抗議したら、「体に雪が積もっているのに、寝てる新人は初めて見たよ」と申される。

 

登山慣れしていない新人は、食料も不要なものまで色々詰め込んで来るので、先輩連中は新人を連れて行けば余禄を楽しみしているとか。私のリュックにはアンパンが何個かあるだけ、「お前ねェ!それでは先輩連中に誘われないぞ」と脅かされた。

 

食料と燃料軽量化に適するメニューって何だろう、登山用品店で売っている食料は高価なので論外。粉末マッシュポテトの素は安価で軽量、湯を注ぐだけで完成の優れ物です。でもそのまま食べると美味しくない、食器に山盛り食べる事が出来る方は偉い。調味料で味付けすれば結構いけるだろうが、重量が嵩むので却下、塩を少々掛ければ炭水化物と塩基類は摂取出来る。

 

食料は食事するのに携行しているのではない、登攀行為を継続するための補給に過ぎない。つまり目的を達成するための手段の一つであって、楽しむための食事とは別次元なのです。社員食堂の3540円飯が、楽しむための食事なのかと言えば、少しウームとなるけど。

 

現在は腰椎を痛めてリュックを背負う事は出来ない、半月板も損傷してスキー活動も出来ない。この体で出来るスポーツは自転車活動位かな、サドルバックに詰め込んである補給食はアンパンが何個かです。でも自転車活動に一番役に立っているのは、貧乏生活に必要不可欠だった自己管理かな。

 

 

自転車ペダリング運動は、人のDNAプログラムには存在しないと思う。だが歩行や走る事は、哺乳類進化の過程で完成され、そのプログラムは継承されて行く。

 

ペダリングは自転車の構造に合わせ、無駄な力を排し合理的に推進させる運動だろう。習得すれば高い運動効率を発揮して、ランやウォークよりも移動速度は飛躍的に向上する。ただ幾ら習塾しても、それが次世代に遺伝継承される事はない。これは自動車運転やスキー滑走など、道具や装置類などを使いこなす運動に共通している。

 

私は10年近く前に。一寸した事故で3ヶ月程自転車に乗れない時期があった。その間に脚力劣化を防ぐ目的で、ウォークと階段登降を繰り返していた。工業団地から小公園に上る標高差13mのコンクリート階段だが、初日は5往復位で筋肉痛でした、一週間も続けたら50往復位出来る様になった。

 

 

 

雨が降らなければ毎日登降を繰り返し、1ヵ月もすれば100往復位は走って出来た。それは人として受け継いだ歩行プログラムの、段差歩行と言うバリエーションなのだろう。

 

その後自転車走行出来る程度に回復したので、相方と近所の坂道を走って見た。獲得標高で1000m程度なのだが、相方に千切られてしまう。階段登降と使う筋肉群が違うから仕方ないと思っていた、しかし自転車に乗って1週間から10日もすれば、事故以前のラップタイムを次々と書き換えてしまう。


 

 

これは先天的な歩行プログラムモードから、後天的に習い覚えたペダリングモードに切り替える時間が必要だったに違いない。そしてこの時、脳はこの事例を記憶してしまった。

 

最近栃木の某医大付属病院に通ったのだが、待ち時間をぼんやり過ごすのは勿体ない。近くの橋上駅まで歩き、東口から西口往復すれば獲得標高14m。待ち時間の有効利用には最適と、某医大付属病院に行く度に階段登降をしていた。でも問題がある、これをやると5日間位はペダリングで出力も心拍も上がらない。

 

それは待ち時間に余裕があって50往復した場合と、短時間で5往復位であっても、その現象には変わりない。つまり脳は階段登降を始めると、3ヵ月位続ける場合があるので、体の各組織にその準備を促すのだろう。

 

先日のブルベでスタートしたら、どうもペダリングが変調気味、ケイデンスもトルクも上がらない。明らかに出力不足で困ってしまった、道の駅土湯までの標高差700m程度の登りで速度が出ない。でも低心拍でトルクも出ていないので、身体的には負担が小さく楽でした。

 

走りながら何が起きているか考えてみる、この症状は「階段登降モード」であり、自転車ペダリングモードとは違う。その後、郡山、須賀川、石川、植田、と階段登降モードに苦しみながら走る。そう言えば20日に某アパートの階段を何回か登り降りした、それで脳は「階段登降モード」のスイッチオンしたのか。

 

中之作漁港近くまで走って、これではアカン!気持ちが切れ掛けている、急遽ファミマに立ち寄り休憩。そう言えば昔、中之作漁港に夜釣りに来た事がある。最初は何とも釣れず苦戦した、普段の大津港や平潟港とは勝手が違う、同じ様なポイントに何時もの仕掛けを投げても反応が無い。


餌と仕掛けを外し、錘だけを投げて巻き取りながら、その手応えで海底の様子をイメージする。砂の部分、隠れ根の部分、海藻の付き具合、潮の流れ、その中で魚がどんなタイミングで、何を捕食しているのか考える。早速そのイメージに沿った仕掛けに修正し、奴はここで餌を狙っているはずのポイントに投餌を繰り返した。それからは釣れましたよ。

 

そうか!今必要なのは、階段登降モードから、自転車ペダリングモードに修正なのか。でも脳幹部の歩行本能から、大脳皮質で得た情報で構築した自転車ペダリングに、どの様に修正するかは見当も付かない。

 

となれば今自分に出来る事は何だろうかと考える。毎月実走の2倍半位の時間を費やしているローラー回しか。ファミマのフライドチキンを食べながら、その程度の結論しか導けなかった。

 

以後3本ローラーを回すイメージだけで走行する、負荷もローラー時と同じになる様、シフトチェンジを繰り返す。ローラーイメージに集中して走れば、あっけなく四ツ倉セブンに到着した。

 

ここから風裏に入り気持ち良く飛ばせる。途中でWinnerジャージのロックアイスさんが、小気味良く追い越して行った。早速追って並走し挨拶を交わす、練習走行で飛ばす彼を追ったり、並走して話をしたり楽しいひと時だった。

 

気が付いた時には自転車ペダリングモードになり切っていた。夏井川沿いに吹き降ろす向かい風も何のその。SPP2に到着し小町美人二人の応対で、更に気持ちが昂揚し(まゆまゆさんが居れば、もっと昂揚しただろうに、エッお二人に不満はございません)、気持ちが途切れる事なくゴール出来た。