2007-08-16 00:46:18
ブラジルの日系人社会で起きた悲しいできごと
テーマ:ブログ
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サンパウロの東洋人街 リベルダージ
日本語の看板が目立ちます。奥には赤い鳥居が見えます。
まるで日本にいるみたい。まあ、ちょっと字体に違和感がありますが。
今回はブラジルの日系人社会の歴史における汚点と言われ、現地の日本人一世が今でも語ることをタブー視している悲しい事件について。戦後62年、終戦の日にからめた話題です。
1941年に開戦した日米間の戦争、太平洋戦争ではブラジルに移民した日本人たちにとっても深刻な問題を引き起こしました。ブラジルが連合国側についたため、現地にいた日本人は敵性外国人になってしまったのです。
ただ、不幸中の幸いは、米国やペルー在住の日本人たちのように強制収容所には収監されずに済んだことです。それでも、敵性外国語である日本語の使用は禁止され、日本語で書かれた新聞・雑誌の配布が禁止されました。
今のように電話などの通信手段が発達していない時代ですから、他に情報入手の手段がありませんでした。(ラジオはあるにはありましたが、まだ性能もそれほど良くなく、電波状態も強くはないわけで情報入手手段としては役に立たないシロモノだったのです。)
戦争は4年間も続きました。その間、一切の日本人による日本語の情報が入らなかったわけですから、1945年8月15日に日本が無条件降伏をして敗戦国となったこともすぐには知らされませんでした。いや、正確には「知ってはいたが信じてはいなかった」と言うべきでしょうか。
戦争の結果について、日系人社会が二分されてしまったのです。一つは「敵国からの情報を信じてどうする?日本が負けるわけはない」という「勝ち組」。他方は、冷静に事実を受け止めて日本の敗戦を認識していた(ポルトガル語がわかる人たちで日本が不利な状況であるという途中経過についても認識していた)という「負け組」でした。(低所得者層の「勝ち組」とインテリ高所得者層の「負け組」という階級間抗争だという分析も存在しますが)
「勝ち組」のなかでも特に過激だったのが「臣道聯盟」という国粋主義的団体で、ついには「負け組」のメンバーを「国賊」として処罰するという武力行使に及んだのでした。
この抗争は次第に激化し、翌年ブラジル軍事警察によって「臣道聯盟」が壊滅されるまで、23名もの死者を出してしまったのです。外国の地で、本来は助け合わなければならない日本人同士が「殺し合い」をするという大変悲しい事件が起きてしまいました。
これだけの騒動を起こしてしまったのですから、当然のこと「日本人移民の受け入れ」は禁止されましたが、1952年から再び解禁となり、その後も1970年頃まで移民が続けられました。
日本から移民した総数は25万人、今でも6万人を少し下回る数の一世(日本人)がブラジルに暮らしています。
また、ブラジルのいわゆる日系人と言われる人たちは、2世から5世まで含めて150万人という海外日系社会最大規模を誇っています。
最初の移民は1908年サントス港に到着しました。
来年2008年は移民100周年にあたります。
花づくりにはオランダ系移民に次いで日系移民が多く携わっています。
次回は、全人口比わずか0.8%足らずの日系人のブラジルでの活躍をご紹介致しましょう。(明るい話題に戻ります。)
サンパウロの東洋人街 リベルダージ
日本語の看板が目立ちます。奥には赤い鳥居が見えます。
まるで日本にいるみたい。まあ、ちょっと字体に違和感がありますが。
今回はブラジルの日系人社会の歴史における汚点と言われ、現地の日本人一世が今でも語ることをタブー視している悲しい事件について。戦後62年、終戦の日にからめた話題です。
1941年に開戦した日米間の戦争、太平洋戦争ではブラジルに移民した日本人たちにとっても深刻な問題を引き起こしました。ブラジルが連合国側についたため、現地にいた日本人は敵性外国人になってしまったのです。
ただ、不幸中の幸いは、米国やペルー在住の日本人たちのように強制収容所には収監されずに済んだことです。それでも、敵性外国語である日本語の使用は禁止され、日本語で書かれた新聞・雑誌の配布が禁止されました。
今のように電話などの通信手段が発達していない時代ですから、他に情報入手の手段がありませんでした。(ラジオはあるにはありましたが、まだ性能もそれほど良くなく、電波状態も強くはないわけで情報入手手段としては役に立たないシロモノだったのです。)
戦争は4年間も続きました。その間、一切の日本人による日本語の情報が入らなかったわけですから、1945年8月15日に日本が無条件降伏をして敗戦国となったこともすぐには知らされませんでした。いや、正確には「知ってはいたが信じてはいなかった」と言うべきでしょうか。
戦争の結果について、日系人社会が二分されてしまったのです。一つは「敵国からの情報を信じてどうする?日本が負けるわけはない」という「勝ち組」。他方は、冷静に事実を受け止めて日本の敗戦を認識していた(ポルトガル語がわかる人たちで日本が不利な状況であるという途中経過についても認識していた)という「負け組」でした。(低所得者層の「勝ち組」とインテリ高所得者層の「負け組」という階級間抗争だという分析も存在しますが)
「勝ち組」のなかでも特に過激だったのが「臣道聯盟」という国粋主義的団体で、ついには「負け組」のメンバーを「国賊」として処罰するという武力行使に及んだのでした。
この抗争は次第に激化し、翌年ブラジル軍事警察によって「臣道聯盟」が壊滅されるまで、23名もの死者を出してしまったのです。外国の地で、本来は助け合わなければならない日本人同士が「殺し合い」をするという大変悲しい事件が起きてしまいました。
これだけの騒動を起こしてしまったのですから、当然のこと「日本人移民の受け入れ」は禁止されましたが、1952年から再び解禁となり、その後も1970年頃まで移民が続けられました。
日本から移民した総数は25万人、今でも6万人を少し下回る数の一世(日本人)がブラジルに暮らしています。
また、ブラジルのいわゆる日系人と言われる人たちは、2世から5世まで含めて150万人という海外日系社会最大規模を誇っています。
最初の移民は1908年サントス港に到着しました。
来年2008年は移民100周年にあたります。
花づくりにはオランダ系移民に次いで日系移民が多く携わっています。
次回は、全人口比わずか0.8%足らずの日系人のブラジルでの活躍をご紹介致しましょう。(明るい話題に戻ります。)
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