空気の意見 

過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。


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 著者は、
日本の古典文学に対して西洋の理論を適用して読むことは学問的に正当か?
という問いに対して、その遭遇により、創造的な議論が可能になるのなら、
こうした出会いは肯定されるべきだろう。と論じる。

 しかし、著者の立場があらかじめに、西洋の理論を適用していく前に、
そもそもの始まりからしてポスト構造主義の立場であるならば
(少なくとも私にはそう思える)、テクストを読んでいく前に、
つまりこういった問いと答えをわざとらしく著者に提出されるまでもなく、
ほぼ、遭遇による出会いの肯定、
については著者のやろうとすることを考えれば、
事前に答えが出ていたようなものだ。
それはわざわざ遭遇せずともポスト構造主義の立場を取れば可能だったのだ。
そこで、その可能から、テクストを探る、出会いの肯定はすっきり出てくる。

となると、文中に挟まれて残った、創造的な議論の可能? 
なるものの中身は曖昧で疑わしく、ただ顔を覗かせてみせただけに思える。

はっきりいえば、創造的な議論が可能か? などは、出てきて当たり前である。

ここには予想され得る多くの議論を背景に据えてある。その議論の背景に、
まあ創造的なものがあるだろうし、創造的なそれを個人が発見できるかできないかは、
ここでは問題ではなく、可能か、が問題としてあり、可能であり、そして、まずまずあるから、よいわけだ。

学問的に正当か? は実にこの、創造的な議論の可能、にかかっているわけだ。

議論の一般的性格として前提されている創造性とポスト構造主義の立場の二つにより、
上記の問いと答えが支えられていることが分かった。
しかし、いま見てきたように、前もって、創造的な議論は可能であったのであるとすれば、
西洋理論と日本古典文学の遭遇によって、
初めて、創造的な議論が可能になるのなら、という仮定を待たずして、
すでにそれは可能であったのであり、
西洋と日本古典文学の遭遇によって創造的な議論が可能になるのなら、
という条件と仮定はつながっていない。

 つまり条件の如何を無視してすでに仮定は可能であったわけだし、
条件にある出会いは著者の立場によりもともと肯定されていたわけだ。
もっといえば、「遭遇によって、創造的な議論が可能になるのなら、」
と述べられているが別にそういったことでもないのだ。
遭遇によらずに、それらは別々に可能なのだし、肯定もされているのだから。

遭遇という条件から仮定は可能として引きだされないうえに肯定も引きだされていない。
つまりは、遭遇などは、単に野球の見せ球程度の言及であって、その正当性は、
西洋の理論と日本の古典文学を遭遇させること自体にはなく、
あらかじめ、問いに離れた場所ですでに先取りされていた正当性の主張なのだ。

そうすると、
日本の古典文学に対して西洋の理論を適用して読むことは学問的に正当か? 
という著者の問いは、実はうまく答えられていなかったのではないか? 
あるいは問いとして、うまくいってないのではないか?という疑問が読者に生じる。
遭遇をさせて、正当か、などと問い答える必要はなかったのではないか。

 この本けっこうおもしろい。

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 ちょっとした関係のところの、
他社の男性が下着ドロボウをしたためにずいぶん前に居なくなった話を聞いた。

 こちらとしては仕事のひとつとして女性の使用済み生理ナプキンを捨てる、
という栄誉ある仕事をやっていた身なので、そんな物に執着するなんてまったく驚きでしかない。
正直、その仕事のおかげで吐きそうになるときだってあった。
それを克服する覚悟を必要とするわけだし、こういった仕事のおかげで、
世のなかの、清掃員の方々の仕事の苦労がよく想像できるようになった。

でもまあ男性としてその欲望わからないでもない、男なんてそんな類の性欲を持っているものだ。
としても、女性の下着を狙うなんて
凄まじい動物的性欲を持ち合わせているものだと、不謹慎でもちょっと感心するところがある。
たぶんそういった行為を実行する男はいわゆる動物精気みたいなものが過剰なのだろう。

 しかしそんなことだけで高潔偉大な日本男児が女性の下着を盗むことはない。
だいいち、女性に「頼むからさせてください」と男の面子をかけて土下座でもすれば、
我々の大和撫子達は、「そんならわかった、ただし、命をかけて挑んで来い!」と言ってくれて、
パチーン、と女性の全存在をかけて服を脱いで裸になってくれる。これが男女関係の妙というものだ。
うまくいかないときは、男と息子の関係になる。関係の詳細は言えない。
ひとつの、体の一部の擬人化といえばいいだろうか。
だから、男がわざわざパンツやブラを盗むには一筋縄ではいかない隠れた理由があるのだ。

 とにかく男はロマンチックな視点で女を見すぎる。
女性の流行ファッションが肌を露出するものであると、あれは男に見せるためだの、
女性の肌着をその女性のシンボルにしてしまって、せめて彼女の代わりに下着さえあればと考えて、
深夜二時に、まるで下着を巡る冒険にでも出るようなつもりで、
ぶらりと往来に旅立って下着を盗みに行くだの、
女性に自分の好みのファッションをさせて喜ぶだの、たいがい、男はロマンチックな気分が過ぎるようだ。

 つまり、性欲と浪漫のダンスだ。
出かければ目に映る異性はみんな自分のための性欲を刺激するロマンチックな存在になる。
隣に彼女や妻がいるのに、そういう、
鯉が滝ではなく尿道を昇っているような感じの男性も現実に居るものだ。
鯉が昇ってなになるかといえば精子だ。実に迷惑な話じゃないか。
我々、男性はこれ以上精子を増やしてどうするつもりなんだ。

そういったロマンチックな性欲が抜け切らない男には、
身近な異性に幼稚な攻撃をしたりするものだっている。
つまりもしかしたらこの女性は自分に体を許すかもしれない、と内心で非常に不安定を感じる男性も居る。
たまたま目の近くにある女性のなかにある性的魅力に脅えてしまうのだ。
その脅えを与えてくる対象は、社内の女性だったり、自分の娘だったり、女生徒だったり、
あるいは一見弱そうに見える女性を捉えて、自分が感じる女性の性的魅力をどうしたらよいかわからずに、
一方的に相手の女性を邪険にしたり、傷つけたりする。

 女性が急に自分に身を任す、というロマンチックな性欲的観念の像が男には隠れているようだ。
男女関係でそういった突発さはありえないではないけれども、
それとなく自然発生してしまう性欲と観念のなかでの女性像を結びつけて、
異性にはまったくその気はないのに、非常に精神的危機感を男は自分で感じる。

 こういった心当たりのある男性は、ロマンチックな性欲的観念を早々に自分でなんとかしないと、
女性と交渉して頼む道から、やり方のいろいろはあれども女性を襲う獣の道へ分け入ってしまう。
それは結局に女性を傷つけるだけだし、自分のなかの性欲も成熟しないで終わってしまう。

男があらゆる女性に性的魅力を感じるのは当然だけども、
女性が男に身を任せるような道理は女性次第でしかない。
そうではない強要の性生活、性的魅力への攻撃は、一種の性欲の破壊だろう。

いまや彼は自分に脅威を与える性的魅力を持つ類型に属するような女性を克服するべく、
風俗や売春や不倫や浮気や強姦に奔走するべく待機するかもしれない。

性的魅力をもって刺激してくるように思える女性像が自己の観念であり、
脅威の反面ですばらしい現実の性的魅力をもった女性が自分に身を任せる道理は、
彼女の許しを得ないかぎり、すべて不毛であり、
また許してくれるようなことの望みはほとんどないと了解しなければならないと思う。

そうでないと家庭や仕事や余暇のあるとき、
いつでも異性の性的魅力に落ち着かずにいて、ふとある時、魔に捕まってしまう。
つまり、性欲を感じたからといって、どうしても成就させたいような性欲などはほんの一握りであることに、
男は気づく、性欲は自ずと限定されていてこそ性欲として成立できるところがある。
それは道徳による性欲の限定とはまったく違う、性欲の正体を眺めようとするものであって欲しいと私は思う。
対象の破壊、道徳の破壊、そうではなくて、
性欲が破壊しようとするものは自分ののどの渇きのようなものであって、
じっくり眺めればそれは他のことでも十分満たせるし、
もし永遠の愛があったとして、ついでに永遠に繋がるセックスがあるとなると、これはやっぱり肉体が疲れる。
そんなの当たり前だといっても、なにかあれば、性欲を観念としてだけあつかって、
肉体のなかの十分満たせるはずの性欲を置いて駆けて行くのでは、
アキレスと亀のパラドックスのような観念だけの世界であって、
事実とは違ったふうに性欲を扱っていることになってしまう。

性欲は肉体のなかに人間の時期ごとに確かな限界をもっているはずだし、
観念としても思考のなかの純然な論理的構成物になりきれないからこそ、
強い意義を持っていると私には思える。
そう考えてこそ、無理に観念だけに押し込めて理想化したり、
女性の性的魅力の部分部分を、性欲の象徴として、
置き換えてしまう頭の活動をゆっくり消化することもできるはずなのだ。

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のまネコ問題  ←ひろゆき氏の新発言

のまネコ問題も佳境に迫っているのでしょうか?
「・キャラクター使用料が恵まれない人たちの幸せのために使われること」
エイベックスがキャラクター使用料を受け取らないことを表明したのを受けて
ひろゆき氏は、
『さて、エイベックス社がキャラクター使用料を放棄するということは、
 キャラクター使用料が宙に浮いてしまっているわけです。
 ちなみに、ネットの人たちの共同著作物である「電車男」の二次使用料に関しては、
 新潟県中越地震災害義捐金 として、今年の前半だけで784万3500円の寄付をしています。
 まさか、宙に浮いたままのキャラクター使用料をタイトーさんがネコババするなんてことはないですよね?』
と述べた。

 さぁて、メディアの印象操作攻撃を受けながらもホワイトバンドよりも直接的な寄付へと
つなげられれば抗議してきた意味もよりでてきますね。
黙認していたなら寄付の可能性はほぼなかったのですから騒いで抗議の声を挙げてよかった。
エイベックスはいまだにひろゆき氏の公開質問状には返答すらしてないようですしね。
タイトーはキャラクター使用料をどうするのでしょうか。もちろん寄付ですよね。
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