空気の意見 

過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。


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 ある者の非人道的行為を国家的義務とし、
また別人がそのような国家的義務がまさに存在してしかるべきだと考えるとき、
両者がお互いに行うであるだろう行為に人間の道徳なる価値は極小化してしまい、
お互いともにそれを裁くいかなる掟がありうるだろうか? と考えてしまう。

 戦争犯罪についての問答がこれにあたる。
ある彼が敵国の捕虜を義務として過酷に扱ってなにが悪いのか?
また私も虐待や拷問を受けても彼を責めることはできない。
ここは簡単に彼が私に拷問を行い、私が彼の拷問を受けたとする。

さらに、道徳が個人の規範を捨てて、国家という概念におさまった国家的道徳に変貌した、
と認めうるのならば、そして一般人と一般人の拷問が純然たる犯罪行為となるなら、
国家的道徳を背負ったという人間の拷問が、つまり官吏がそれ故に、
特別な拷問権限を持ちうるのならば、原理として、
我々は一般人同士の拷問犯罪というものが最初から存在しなかったのではないか?
と疑うことになる。

 実はここで本来の人間精神を主体とした道徳は、
書類と任命手続きによりも低い扱いを受けてしまっている。
なるほど、彼が国家と契約した、というならばまだ考えようもあるが、
しかし実際は彼は、自分が不当な自由の制限や拷問などを受けぬようになるために、
それと、つまり国家と契約したのだ。
手続きがある権限を拡大することはあっても、
元の権利を別の拡大した権利がそれそのものを変容させるなら、矛盾を含んでいるように思える。
個人の生存権が認められながら、
極限状態で死んだ仲間の死体から人肉を食して生き残ったときに、
いかに根本的な権利から拡大してきたような延長線上の監督権などといえども、
生存権を無視して極しまい、限状態を生き残るために人肉を食した人間を、
刑事罰に問うたのでは、
もちろんそこにはつまるところ個人の生存する意志や権利は認められないことになる。
そしてこれを判断するのは名称と権限を帯びようとも個人の道徳的観念である。

誰も不当に扱われないが、不当に扱える誰かが居る。
それでは困るというわけで、そこで一般人から犯罪者に、人間は名前換えをされる。
今回のケースでは、兵士と獄吏である。

 さて、もしも義務の正しさが人間の道徳的観念で決定されるのであれば、
命令の正しさは、義務の正しさとはまったく別の正しさを求めるだろう。
 獄吏の拷問遂行の義務が命令とは乖離して、
ただ単に自分はそれを実行するだけであるという任務の正しさだけであるなら、
どこまでもそれがなんであろうと義務の遂行を目的とするなら、
命令というものは遂行するべき正しさをそれ自身と義務として実行するものなかで消え去ってしまう。

命令と義務がある権限の範囲内で動くとしよう。
中央の軍人が捕虜を処刑せよと命令し、獄吏も命令を受け取り捕虜を処刑する。
それが拷問の命令であり、拷問を行う義務となるのでもよい。
そして立場が変わり、獄吏が捕まり、獄吏の処刑が命令され、それが義務として実行されるものとする。
もしもここで、獄吏が自分の行ったことは正しく、しかし、他国になぜ処刑されるのかまったくわからない。
と言ったとすると、彼は、獄吏はいままで自分が行ってきたこと、
その正しいことが懐疑にさらされはしないだろうか?

 捕虜は宣戦布告を通して交戦したのであるが、
捕虜となった戦場以外において、なにか自分に関係ない命令によって処刑されたり、
拷問の実行の義務に関係があるだろうか? 戦争のなかの一連の取り扱いとはいっても、
彼はそういった命令や義務に関係は一切ないはずである。
しかしそれなのに、なぜ命令は出され、獄吏は捕虜を拷問したり処刑するのだろうか?
それは一方通行の手続きである。捕虜自身とは関係ない正しさである。

すると彼が、獄吏が、犯罪者と一方的にされたとき、
なぜこんなことになるのか全くわからない、
という獄吏の言葉は、相手の行為の拠り所のなさを一面突いたとしても、
同時に獄吏自身が全面的に自身の義務とその命令の正しさを放棄したのである。

それとも彼は戦争犯罪者なるものがよく分からなかったのだろうか?
そうだとしても、それは、その急造の戦争犯罪者という運用の誤りを指摘できても、
自分がなぜこんな仕打ちを受けるのか? という疑問をひとつも助けはしなかった。

 彼は命令の正しさの如何を放棄して、義務の正しさのみに全面的によりかかったとき、
すでに別の陣営からの同様の仕打ちを退けることはもうできなかったのだ。
国家的道徳の正しさが個人的な道徳を無視するのならば、それらの整合性は手続きにしかない。
また国家命令の正しさを一個人が考えるに及ばぬのなら、
命令を実行しながら内実は命令のうちに発見できる自己の道徳的観念を無視してしまえば、
単に義務はただ義務自身にしか正しさを見出せない。
すでにいったようにそれはそのうえに一方通行となりうる。

しかしなにかを遂行するための、主体と客体の関わりにおいての義務が、
主体のみで完結できるならば、それは不毛に近い。
たとえば、あなたが主体で完結できるというのなら、こう考えればよい、
あなたの意識が主体として客体である肉体に関係できないのなら、
いくら意識が食事をしようと思っても、肉体を使えば主体のみではいられまい。
そして人間に主・客が同一であろうとスプーンや箸を持つこと、
あるいはスープを直接啜ることすら客体との関係である。
また現象としてそこにあるとしても主体が客体に関係できねば、それは夢・まぼろしではないか。

それがもしも本当の義務ならば命令を確かめるはずである。
なぜなら命令が正しくそこにあるか関係せねば分かろうはずがないからだ。
観念の判断が、それが国家的であろうと個人的であろうと、
観念が義務や命令を疑いもしないような状態は、義務は本当に命令を確かめていたのだろうか。
また命令は本当に義務のあることを知っていたのか。
そして国家的道徳の観念だとか個人的道徳の観念だとか、本当に正しく存していたといえるのか。

「そうしなければ彼が囚人になり拷問されていただろう」という声があれば、
僕はそういったことではないのだ、と言いたい。
それは戦略であって道徳の正しさではない。
それが戦略の問題なら人はいかに殺されようと構わないところがある。
しかし、自分が獄吏として正しく捕虜を拷問し痛めつけ、到来した瞬間に、立場は逆転してしまい、
囚人となった獄吏の「正しい自分がなぜ死ぬのか」という言葉へ、
「あなたは非道な戦略によって死ぬのです」といえば、彼を少しも納得させられないでしょう。

これは僕による彼への稚拙な追悼文なのです。誰かを責めるために書いているわけではないし、
そもそも本人が死者となってしまったのに責めることはもうできない。
結局、お互いの陣営ともに自分のルールを適用しあって殺しあった。
したがって、そこに完全な正しさが見出せないだけで十分だ、という気がする。

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AにAではないような契機があるという
後にくる否定の述語を主語に転じたようなしかけ
そういった主語に頼った観念論は
ヘーゲルが批判される最もなところではないでしょうか。

肯定の単純命題に優越性を与えて
否定の単純命題を操作したいという野心を感じる
それがつまり最終的に別のものとして、
自己や意識帰ってきたときに別のものとして肯定をしたいがために、
用意された哲学的野心だ。

Aである・Aではない
これの非Aの契機がAにあるのなら
肯定の契機はAそのものにあるか
対象を把握した者のなかにあるわけだ
しかしそれでは非Aの契機は
実は非Aのなかにあるか非Aを観察する者のなかに
あってはいけない理由があるだろうか?

しかしそういった指摘は的外れだという観念論の立場を取ってみる、
すると観念による認識の契機は
あくまでもある対象からある対象へと移り、
人間は生まれつきにAである・Aではない、といった論理的精神により判断を下せるのだから、
とするとその論理的判断はあくまでも意識のなかで対象に与える判定であり、
やはり、前述のヘーゲル的な対象の捉え方は、
実体を幾分か無視しなければ成立しないところがあるように感じる。

そこで、Aであること、肯定の単純命題を、Aではない、と否定する対の単純命題を、
観念と論理が重なる、述語を理由に、
肯定の単純命題に吸収したようなものは、
本当のところはある単純命題がなくともまたは論理結合子がなくとも
観念においていかようにも認められてしまうというところがないか?

それに論理そのものに契機があるという話になると
である・でないのような肯定否定に
そもそもあるものの(Aである)の契機があり
さらにあるものではないもの(Aではない)の契機があるわけだ
こうなってしまうとAであるのうちにAではないまでが、
つまり肯定のなかに否定があるのは当然おかしい。
そこで「Aではない」という否定の契機が「Aである」にある、となるわけだと思う。
とはいえ、先ほども一考してみたように、
そういった観念の契機が論理そのものにあるわけではない。

 ここまで考えてみるとおもしろいところまで来たようです。
観念にはそんな野放図なところがやはりある、
でも論理学としての土台はやはり無視されている気がする。
そこのところに、過去の形式論理学を乗り越えて考えた、
というところのおもしろさがあるのかもしれない。
精神現象学の所以というところでしょうか。

 でもまあ僕自身まったく未熟の身で、
こういった哲学と思想を考えるのはおもしろいけれども、
論理学をもっと勉強してからではないと、どうにもならない気がする。

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 派遣業の人間を自己責任があるとして批判する人達を、
ひとつ、彼らの横腹を突いてみようかと思います。
つまり私は、自己責任だ、などという、そもそも、
その語についても曖昧な語義しか与えられていないような、
そういった自己責任を用いた自己責任論の考えに、賛同できぬところがあるのです。

 自己責任というからにはその対となる言葉があるはずでしょう。
それは社会責任と、ここでは対応しやすい言葉で使います。

 ここで、まず事件を導入する、妊婦がたらい回しにされた事件を考える。
この妊婦の身にふりかかった災難をどう還元するか、自己責任または社会責任か?

自己責任派の論を別ケース当てはめて考えると、
妊娠・出産の機会と選択についてしっかり考えなかったからだ、
だから偶発的な出来事にすら対応できなかったのだ。
そこにおいて自己責任があるのだ、となる。

もちろん、社会責任はある。対応できる病院がないのが悪いのだ。
偶発的なことにも対応できる体制、医療に関わる人間としての誇りを持て、というくらいだろう。
違うだろうか?

しかし、これらはなんでも批判できる機械理想論的な考えだ。
機械理想論なんていう用語はないだろうけれども、
単に、理想を信奉して他者達が自動的に最善をつくさなかったから悪いのだ、
と独断するのが自己責任派の考えだろう。

だが上記の事件で一方的に、
妊婦や対応した病院のどちらが悪いとどうして明確に判断できるのか。
そこで、ちょっと、足を止めて、悲劇のことについて、
自己と社会の責任という二分法を中断しないといけない。

 たいていは、選択という言葉を持ち出して、
自分で選択したことだから自分で責任をとれ、となる。
しかし、この社会において本当に自由な職業選択なるもの求職者に許されているのか、疑問だ。
その選択と機会は本当にあるのか? 
予め予想されるだろう偶発的な事態についてまで責任を取る必要があるのか。
それがあるかどうか、こう自分に問えばいいでしょう。

自分はなぜ宇宙飛行士ではないのか?
自分はなぜ数学者ではないのか?
なぜ銀行マンじゃないのか?
なぜ・・・・・・。
求人活動をしてももちろん雇われるわけでもない。
で、こういう問いはナンセンスに思える。しかし、人はいうでしょう。
あなたに努力が足りなかったのだ、と。

つまり、自己責任論を振りかざす人間にとって、努力と選択というものが重要らしい。
ここで、我々は生まれつき平等ではない、という言葉を思い出しても損はないでしょう。

 主体・客体として自己と社会を考えて、客体である社会の総体に向けて、
予想されうる偶発的な事態についてまで対応せよ、と要求はできるでしょう。
実現のほどは難しくて知らなくとも。
それにしたがって、その客体としての社会に向けた機械理想論的な思考を、
誰かが別の人間に適用させだしたときに、難儀なことが起こりそうだ。

 私は、予想されうる偶発的な事態について事前に対応できたはずだし、
そういった状態になかったあなたが悪いのだ、という、そして努力すら足りぬのだ。

でも、予想されうる偶発的な事態への、選択と努力とはいったい何をどうするべきなのだろうか。
ここで自己責任論者にそれを問いただしても、出てくるのは精神論がほとんどであろう。
備えをしろ、回避しろ、などその典型例だ。

一回、一回の確率は同じである。累積していくと、
なるほど、起こることが確率としてまったく低い現象が浮き出てくる。
しかし、こういった確率、予想されうる偶発的な事態を回避するための、
ある個人への選択と努力の要求は、もはや、その要求自体でほとんど破綻している。
それはジャンボ旅客機が墜落したときに、
事故に遭遇した個人に事故へ遭ったことに自己責任があると、もしもいえば多くの人は驚くだろう。
しかし、これが派遣業の人々や派遣村がどうだとかニュースになると、
自己責任論で遠慮なく人々を叩き出すような自己責任論者は自分にこう問えばよい。

誰かへの一度の批判でその誰かが自殺したら、
あなたはその責任をなんらかの形で自己責任としてとるのか。これはなんという極論だろうか!
けれども自己責任論者のいっていることは、このような極論でしかない。

予想されうる偶発的な事態への自己責任、選択と努力、その要求、これらの中身の具体策のなさ。

その事態に向けてうまく選択すればよかった、たっぷり努力すればよかった。
ここまで書くと、派遣の仲間の負け組みの恨み言である、と散々に嘲笑が飛んでくるかもしれない。
しかし、もはや罵詈雑言しか返せない人間の論など、取るにも足らないのは明らかだ。

もしも、俺は苦労したから成功し裕福なんだ。
こういった心もとない本人の自覚は、客体となる社会を動かすようなものではない。
つまり、社会をどうにかできぬから、自己と他者をどうにかせよ、
という彼らの有難い究極的発想法なのだろう。
これは問題の解決ではないでしょう。なるほど彼らは自覚した人間をつくれるかもしれない。
だがつくりあげた自覚した人間が出会った地獄の場所で落ちていくのは、
最後に残った自分への破壊的酷使と過大要求でしかない。
地獄で永劫に自殺を試み続けるというわけだ。
そこでいつ地獄という客体の環境を主体的に改めていく主体となる自己・人間が現れるのか?

社会というのは最初から改めるべき客体の環境であるからには、
ある主体の改良という発想が意味を成さないのなら、客体を改めるしかない。
主体の指導により主体がいかようにでもその導きで改まるというのは、
ばかげた理想論の特徴として考えられる。
それは客体を改めるよりもさらに困難なことだ。
生半可な放言で実現できるようなことではないでしょう。

自己責任論というのは、朝四暮三のやり方なのだ。
努力をやらせて失敗したら、選択を変えさせて失敗したら、
頭が悪いのだろう勉強せよとして失敗すると、生まれつきどうしようもないのだから失敗するとする。

彼らがこういった変遷により誰かを突き放してバカにして終わるのならば、
どれ、己の批判によって、指導と教育をしてやろう、などという考えを起こさねばよかったのだ。

 東洋思想の聖人ですら立派な思想をもっていても、言うだけで理解させるは難しく、
行動による客体である社会環境の操作により、それを衆人に知らしめる、という。
この行動とは自分が裕福だとか成功したという個人的な修身だけではなくて、いまや、
古代よりはさらなる客体として成長した現代社会へ向けて行われなければならない、
修身だけでは応じることができぬ巨大化した社会を改める方法が求められている。
 これはまったく難しいが、少なくとも、自己責任論や機械理想論の出る幕はひとつもないでしょう。

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