空気の意見 

過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。


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 どうやら小池百合子氏がよさそうなのだけど、気になった政策項目が。

 衆参合併の一院制は危険だし、参院にはイギリスの貴族院みたいになってもらえばどうだろう。
しかし、議員数削減はともかく一院制なんて突飛な政治発想どこから?

 それに「ファンドマネージャー課税の撤廃等の税制」だと、
逆にアメリカでは高額報酬をもらっているファンドマネージャーに、
課税されていないことが問題だって話があったような。
まあ、それだけリスクも背負っているわけですけど、
いまやこういった富裕層と貧困層の所得差は凄まじいことになってますから
ファンドマネージャー課税撤廃についてはちょっと遅れた政策かな、と。

 どの政治家の政策にもいえることですけど、人間作りや地産地消とか効果のほどがわからない。
メリットはわかるけど地産地消の法案関係なんてブロック経済化推進してどうなるんだろ。
いまより個人の農作物の通信販売が盛んになるかも?
思惑はわかるけど消費者の行動によってはあんまりうまくいかなさそうだ。

 男性の育児休業制度の拡充で助かる人は多そうだ、これは家庭の事情でかなり困っている人たちがいる。
財源は微妙な雰囲気だけど、マクロ経済政策の言及と中身はよくわからないが金融政策中心らしいので、
他の候補者達よりはよさそうだと個人的な感想。
女性候補者なんだから、いまだに残る、給与の男女格差などビシビシ突っ込んでもよさそうなのに、残念だ。

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「自己修養型の理想像と利己主義者としての個人像」

 人々は分業化と専門化により、個人のライフスタイルや人生の姿を飾り付けることに忙しいようだ。
こういったなかでの政策という社会的約束はどういった人間像を要求しているのだろう。

 構造改革には朱子学の個人の能動的活動が潜んでいる。
それにジェファソン・デモクラシーの「普通の人」といった、
どんなことも自分でこなせる人間像は、
自己修養者が政治を下から変えていく考えに通じるものがあるし、
実験的に、キャン・ドウ・スピリットと選挙制がさらに儒家思想に加われば、あと一歩で、
ネオリベラリズムの合理的経済人の理想像に近づきそうだ。

続いて、地方分権によって中間団体・国家・個人的権利の三者体制を確立してしまい、
中央集権体制にある程度終止符を打ちたい、というのが構造改革の政治立場ではないか。

しかし、こういった、個々人の下からの活動を望むことは、
イギリスで起きたサッチャー後のブレア政権の社会再編成が必要だろうし、
経済もマネタリズムからリフレーションへの転換という流れを経験しなければならない。
そうでなければ、簡単にいえばアメリカ化するわけだ。

違うのは、最低限度の国皆の年金保障と健康保険と失業保険は、社会保障として与えてくれるということ、
厚生年金や共済年金の別階がない人間は、それまで。
教育、労働、失業。それらは主体的に自分でなんとかすればよい、ということであり、
職業訓練や学校教育や労働環境は、できあいのつまらない公共組織、
ゆるい運用と適用の法律で維持される。公共機関においても格差が拡がるというわけだ。

そして、ときおり、あの無責任な魔法の言葉、「がんばれ」と行政府は言うだけになる。
それで中央集権的官僚組織の改革が達成され、不正がなくなるかどうかは、実はまったく未知数でしかない。

 経済的合理性と自主的な中間団体に参加し、やる気満々の人間像は我々にとって現実味がない。
実際はライフスタイルの尊重のために、労働組合は減っているし、
社会的目的の実現を目指した多様な中間団体は少ないし、
人々が関心を示していそうなものは、フランスの隣人コミュニケーション、スローライフ、スローセックスだ。
これらはあくまでも日本の社会制度のなかの一個人の生活提案にとどまっている。

構造改革、陪審員制、などが必要としている組織された大衆の社会的中間団体は、いまや逆に激減し、
さいきんの日本が求めているであろうタイプの、経済の合理人間像、アメリカ的普通の人、
それよりもモンスター・ペアレンツに代表される、
組織のなかの自己目的達成型の利己主義者達ばかりのようにみえる。
学校の給食制の騒動を眺めてみても彼らの要求はあくまでも個人の事情であり、社会的行動ではない。
そういった行動がデモ行動に組織されるケースのほうが圧倒的に少ないのではないか。
ただ親がむくれて給食費を払わずに、子どもに弁当をもたせるならまだしも、
子どもを不当に使って給食制にただ乗りをさせたりしている。

 しかし、自主的な個人の社会参加は必然であり、少なくとも中間団体を用意して参加しなければ、
利己的な個人行動から―利己と利害の程度はともかく―社会に対して、
行政と企業とマス・メディアといった組織に相対し、議論と交渉をできる存在へと個人が進むのは難しい。


「民衆とのコンセンサスを失った中央政府と国会」

 個人の利害が関係した中間団体とマス・メディアと大学の専門性の三者の有機的関係が利己的人間を、
能動的な人間へと変化させる力をもっている、と考えられる。
社会を横断する個人達による個人のための中間団体、ある業界の企業を横断する労働組合。
三者の必要しあう関係は経済にも恩恵をもたらすでしょう。

 本来、行政府は、こういった個人的利害による社会組織が潜在的に害悪であると考えるよりも、
望ましいと考えてその育成のための教育方針を採用するべきだったでしょう。
そうしなかったからこそ、現在、結果的に自分達の税徴収を難しくしてしまい、
民衆が部分的に納税をボイコットする状態を広めてしまった。
世代の移り変わりごとに利害を何度も確認しあい、納税を議論し、
それに納得する民衆と中間組織を育て損なったのだ。

税を取り損ねない税源強化は、行政と納税者たる大衆の信頼関係を薄くするもので、
こういった、中央政行府と大衆とのコンセンサスの形成を無視する政治決断は、
かえって中央行政府と国会を崩壊させる方向に加担することに作用してしまう。
なぜなら、そうなれば、もはや大衆は納得させられるよりよい機会を消失してしまい、
当然代わりに、中央政府が機能すること自体を、利己的に拒否するでしょうから。

もしも日常のたいていの要素がおおむね安定してくれるならば、
中央政府と国会は必要とされない。
日本は地方自治も地方政府もそれなりに巨大であり、
警察と消防といった非常時の警察力や防災能力も地方にある程度揃っている。

 利己的な人間像は、このまま何もしないで崩壊する中央政府と国会を誕生させてしまう。
金融政策と世界経済が順調に浮沈を繰り返すなら中央政府は必要ない。
もともと、外交に平和維持といった政策に関心が薄いのだから、
中央政府はお飾り的な象徴性で充分だということだ。
彼らが気にかけることは、よけいな改革と不正と経済政策をしてくれるな、につきる。
そして、ここからインフレをともなう好景気より、デフレと不景気の安泰を願うという悪い状況が発生している、
金融政策はアンタッチャブルにしておけばいいのだ、悪いのは政府だ。

 つまり天皇制に続いて、中央政府と国会も象徴的に、個人の自由と利己を望む人間像にひれ伏すのだ。
いよいよ小泉後に、ポピュリズムが本格化したのだろうか?
けれどもいまの政治状況は、与党にしろ野党にしろ、大衆に嫌悪されるか無能と目されている。
政権は象徴でしかないし、支持率の乱高下は激しくなる。
小泉後に、政治に生き残っているのはいわば確かなポピュリズムの土壌を失ったポピュリスト達なのだ。

 大衆が支持したのは一党独裁を叩きかえると主張したあのときの小泉であって、
必然として機能不全となるか象徴となるか、あるいはその片方か両方か、を常に中央政府に要求している。
 それは、そういった彼らの主張にくっついていた自由主義による反中央集権主義の実現のためであり、
もはや民主党が虎視眈々と狙う一党独裁政権の道も、それを一時的に彼らが奪取したとしても、
すでに利己的な個人とその人間像は成熟しており、かつての単独長期政権は自民党でさえ、
反中央集権的主張と公明党の協力でやっと勝ち取ったものであり、全ての一党独裁政権は、
椅子に座るものが変わろうとあっという間に挿げ替えられてしまうでしょう。

 民衆の人間像の源泉である孔孟的思想とリベラリズムと社会保障が迎え入れたのは、
反中央主義であって、中央政府の唱えるネオリベラリズム的人間像でもなく、アメリカ的普通の人でもない。
そういった小泉改革の二つの人間像と改革は大衆にとって予想もつかなかった迷惑な副次的産物だったのだ。
それかそんな合理的能動的人間像はただの「自民党をぶっつぶす」タテマエだと思っていたのだ。
でなければ安倍と福田は、一定の法案成立と改革路線を提示しながらも早期辞任させられなかったでしょう。
ほとんどの人が求めているのは強力な政権を中和してしまう、反中央主義か反一党独裁なのだ。
 その証拠に郵政造反組を再編する一連の動きと、自民党の参院権力の野望の結果、
民衆に中央主義者として断罪されてしまい、
自民党はもっとも大事な選挙のひとつである参院選に敗北してしまったのだ。

 こういった衆愚的にみえる状況のなかでもっとも重要な悲劇は、政治家達が民衆の要求を、
強力な一党独裁政権の樹立にあると、小泉の成功の毒にやられていまもって勘違いしていることだ。
2大政党のどちらか一方が衆参を制覇して強権を振るう政治よりも、
望まれているのは多数によるコンセンサス型の民主主義なのだ。
政治家達が民衆の要求と自分達の責任を区別できていれば、
元は衆愚的といえども多数政党連立によるコンセンサス型民主政治が充分実現できるのだ。
もとより自民党は派閥の寄り合いで、民主党は多数政党の寄り合い所帯ではないか。
大連立。
しかしそういったことができない。
民衆が利己的に公共的に関心をもっているものと、真の公共利益を、同次元で扱っているからだ。
2大政党などと煽てられてその気になっている場合ではないのだ。
2大政党の決着は大統領的大権を与えられたリーダーと内閣が出現しなければならない。
その政治は政体からして無理だというのに、参院を抑えられて反抗されただけで、
すぐ転ぶ政権構造がそれを教えてくれている。

 民衆の意向を利用して妥協しない政治闘争は選挙による専制政治でしかない。
政治はもとから妥協が前提であり、それがより良いか悪いかでしかない。
ここにおいて、与党野党ともに、政治手法と民衆の意向に対して、
大きな勘違いを続けて醜態を演じてしまい、いまもって専制的中央政治の慣習を脱し切れていないというわけだ。

 こうして我々は国際政治や労働環境のかなりの範囲の政策の速やかな成立と実現を放棄するかわりに、
反中央集権のための、衆愚的な手段によって、中央政府と国会の手足をもいだのだ。
それでも我々個人は勤勉であり、道徳と福祉に興味があり、
そして社会に関係する中間団体に関係しなければならない日本社会のなかの自由主義者なのだ。

政治家達は、民衆の持つ人間像の把握、民衆自身が所属する社会の中間団体の育成の重要性、
同時に、反中央主義と反一党独裁姿勢をいまだ理解していない。

戦争の経済学/ポール・ポースト
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 安倍、福田、辞任続きとなりました。
これは一政党の選挙対策として立て続けに行われた、首相職及び政治への背信行為ではないでしょうか。
いくら麻生氏が総裁となっても、どうにもならずに、
自民党の硬直した政治のおかげで麻生氏人気があろうとも将来の衆院選の敗北は必死と思えます。

 繰り返しますけれども問題は政府内閣の首相職が、
一政党の選挙対策事情により壟断されていることです。

 福田辞任の結末は、結局、自民党政治と官僚政策の限界を象徴しているのではありませんか。
しかし、麻生氏といえどもよっぽどの辣腕と人気がない限り、どうにもならないでしょうし、
ほぼ敗北は決まっているとしても、いまや、それがどれくらいに抑えられるかが問題なのでしょう。

 はっきりいえば国民にはいま政治になにが起こっているのか掴みにくい。
なぜかといえば、政策は官僚がもとからつくっているからであり、
政治家は表面的に動いても文書作成の時点では概ね丸投げしている、
それでも政治家が優れていればよいのですが、
一部の、モラルの程度はわかりませんが、政治家と学者と官僚と企業によって、
裏のほうで政策はつくられているのではないか。
民主党の政策ですらどうしようもなく空想的なところがある。
さらに、この背信行為はあらゆるところに広がっているのではないでしょうか。

政策や法案の文書を実際に民衆が読みこなしてチェックしない限りは、
国会あるいはTVの政治ショーを視聴したところでほとんど無意味になっている。
すでに政治はパワーゲームの如何で、どうやって大勢を得て、それらしい政策を語るかでしかないのでは?

 日本の政治は民衆の力を背景にしているというよりも、
国会と政策には独自な政治力学があり、選挙を根拠にするが政策の舞台は、
官僚の関係した独裁的な運営を前提になりたっている。文民統治とは少し違う。
官僚は政治家と一定の距離を保つというよりも、むしろ、積極的にお互いに話し合って、
自己の権益を確保しあってきた。
その証拠のひとつは、首相不在あるいは倒閣に等しい事態でも政治にとっては構わない、
という馬鹿げた政府内閣と国会の無責任さにあります。

こういった政治の無責任さは、小沢氏の無投票三選にも等しく現れています。
国会や選挙よりも大勢、政府内閣よりも政党の利。というわけです。

 いわば我々の政治は、不倒の官僚政治のなかにあり、その傾向は、
日本の省庁と中央銀行に、はっきり見て取れませんか。
彼らは、その政治における官僚独立イデオロギーのなかで、
自分達の独立した、しかも、政策文書ときわめて曖昧なレトリックを駆使して政治闘争を行い、
日本の政治政策と金融政策を官僚主義のなかで運営しているわけです。

こういった状況がかたまってきたのも、政治家と民衆に責任がある。
民衆が育てない政治は、政治家か官僚に、奪われる政治でしかない、というわけです。

最大の問題は、優秀な官僚と優秀な政治家だけでは不足だということであり、
とりあえず、優秀ということは少なくとも受験勉強がどうだということではなく、
ある何かのための政策をつくれるかどうかだ、
そう考えると民衆自身にそういった政策力があるのか?

 そういった専門性は大学にしかない。

大衆と大学は、より密着して関連して、
前提として彼ら自身のために行われる
「一党独裁、派閥政治、官僚独立イデオロギー」をある程度解体する。

 つまり、学者による大衆のための政治政策を実現しなくてはならないのでは?
はっきりしていることは、政治思想などはすでにある程度煮詰まっているのであり、
日本のモラルと政治に適合するならどうでもいい。

けれども経済政策における財政と金融は、金融にいたっては日銀官僚の手の内だ。
ここで疑問を呈せば、それが真に学問的に正しいのなら、
それを誰が運営して実現しようがたいした問題ではないでしょう。

しかし、なにゆえ、例えば、その日銀政策とやらが、日銀の職員に独占されている必要があるのか?
彼らは学問を参照しているけれども彼らは学問の徒ではなく、官僚だ。
学問の一派ですらない。
学問であれば日銀金融政策イデオロギーとでも名づけて研究すればいい、
でもこの主義の致命的欠点は彼らの政策は政策であって学問とは言い難いことだ。
真に学問であれば、その内容が豊富か以前に、誰が利用し批判し、さらに使用しなくとも自由だ。
官僚政策は、そういった学問における競争と比較と分析と研究には耐えられない。
ある優秀さは他に誰かが存在してはじめて際立つ、
でも彼らは同域同格次元でそれを証明せず、どうでもよい悪質と自分を対置して優秀であると、
策術を使って、自己の優秀さを宣伝しているだけだ。

いかに官僚が優秀であってもそれは学問を参照できる優秀であって、
彼らの似非学問自体に「優秀さ」はない、
その証拠は、官僚が政策立案の機会をできるだけ自分の手元から離れないようにしていること自体が証拠だ。
もし彼らの行っていることが学問として極めて優秀なら、
ある理論とその提唱者と実行する者が完全に一致している必要はない。
それは民主的な政府と学者の関係でもあるでしょう。
まさしくここにおいて、官僚の手による運営の前提により官僚が優秀だと述べる人間は、
官僚運営の独善について反論不可能に陥るのではないでしょうか?

官僚の理論は決して純粋な学問ではない。また学問かどうかも怪しい。
なぜなら学問は自然科学も社会科学もいまだ解決していないことがたくさんあるからです。

学問ですら失敗をすることがあるのに学問からの理論ではない理論に身を委ねるのは、
まるで宇宙と上空を間違えるようなものではないでしょうか?
そして政治家と大衆はパラシュート無しで地上に降下しているように思えます。

 ところで本来なら大衆と学者のなかを取り持つはずのマス・メディアが視聴率主義に陥り、
両者の有意義なマス・コミュニケーションを消失させている。
彼らは、政治家と官僚とスポンサー企業にぶらさがっている。
彼らもまた一定の距離を設けず、積極的に各々に関係してジャーナリズムが地に落ちている。
彼ら自身がすでに、営利団体、営利主義、
それは健全である状態というよりも、
政治闘争に自己を不用意に近づけて、政治闘争の情報のお裾分けを待っている。
仕事の機動性を理由に、政治に、特権的な取材体制を彼らだけに約束させ提供させている。
警察機構ともこういった関係性があることは明白だ。

 こういった馬鹿げた各立場による政治闘争と関係性とその密着取材が大衆に重要な情報を伝えない。
私達が始終気にさせられているのは、
見掛け倒しの政策論争と誰が政争に勝つか、といったことであり、
それは本当の政策と議論にはまったく繋がらない政治ショーだ。
残念なことに大学も似たような政治茶番劇を隠し持っている。

重ねて残念なことに、麻生氏も小沢氏も、現時点ではこういった状況を是正できないようにしかみえないことだ。
なぜなら民主党が持っている究極的な目標は民主党のほぼ一党独裁型政治であり、
それなら自民党がやっていても構わないし政権が民主党となっても政治の本質は同じものになる。
小沢氏と民主党の採用している選挙戦術がそれを裏付けている。

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