空気の意見 

過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。


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 法律と道徳とマナーとルールがあり、そのうち法律で裁かれちゃうものはたいてい従うけど、
片方の個人間でひらきがあったり、あんまりやらなくともいいものを、
結構な数の老若男女が「自分の好きにできるから好きにしたもの勝ち」だと考えているようです。
それか「どうでもいいでしょ」か「あなたには関わりのない個人的なこと」だと。

 まあ、でも一度ちょっと指摘すると彼らの怒ること怒ること。
世間体の判断でも、本人がどうやろうとどうでもいい所だし、
それどころか、「プライベートに侵入してくるな!」という感じらしい。
そうだよねプライベートのことに介入されたら誰だって怒ったり、逆ギレしちゃうよね。
うん、そりゃ仕方がないよなあ・・・? ねえ、うん?

 しかし、彼らでも容易に、素っ裸でストリーキングをして道端を走ることはできない。
できるとしたら、道端に座り込むことぐらい。
そして排泄行為を他人の面前ですることも難しい。
だってプライベートな空間と場所がないとそりゃそんなことできませんよネ。
だいいち、お上に捕まっちゃいますし。

 アハハ、「自分がその場に居るだけでもうプライベートだ!」なんてそんなアホな! (一同大爆笑)
(ちょっと僕のまわりに多数の人がいると仮定させていただいて、ここで大爆笑させて頂きました)

 いまはあんまり見かけないけど、「居候さん」や「御隠居」が世の中には減っていると言われてます。
そうそう、ドラえもんなんて居候の典型例ですヨ。
居候の癖にその家庭のダメな子どもをしっかりさせようなんてねえ、
舅姑が自分の家庭に口だそうものなら、実の親であれ義理の親であれ、
網走の監獄にでも送りかねないほど恨む息子と娘が増えた世の中にしては、殊勝すぎる(笑)。
 思えば、家庭教師のドラちゃんだってママやパパに叱られちゃうわけですから、
プライベートな空間にもやっぱり公然とした道徳はあるようでアリマス。

 家庭が欧米型になってきて、プライベートを確保しようとすると、両親達と別れちゃう。
個人的空間の拡大。
それはいいけど、次にどこかに家族でお出かけしてそこで家族の誰かが粗相をし、
結果そうして他所で他人につつかれたら、
自分のプライベートや事情を持ち出して逆に憤激するとは、
困ったことだし最初っから自分の家からでなけりゃいいのに。
でもそうもいかないのが人情と道理ってわけで。

 私情をはさむのも遂にここまでキタか!

 と怒ってるのもしょうがないことです。
公私の分別と原理原則がないからこうなっちゃう。
別に普通の生活の場なら、ああヤッチャッタな、という事態になっても、
よっぽどのおかしな人間に捕まらなければ、謝罪して事足りますけれども。
どう見ても周りの人間が普通の市井の人々なのに、
プライベートなるものを欲張って他人に逆ギレしたり無視しようとするのは、
たぶん普段からして強情強欲なのデス。

 本当のプライベートの生活の場面にあって、要求と望みが多すぎて慣れてしまい、
本人達は神経が磨耗して疲れ切っている、
普段に格別に謝罪をすることもないから謝罪を屈辱だと思ってる、
「いや謝れば裁判に不利になったりする、いや不利になるんだ」、まるで欧米人みたいだ。
だからといって、彼らが欧米人みたいに『道徳、議論、倫理、論理、宗教、原理原則、マナー、規則・・・』などに
拘っているかと思えばそうでもない。

 自分のプライベートであることの証明の提出物が、
自分の存在や家族および知人友人の存在なんだから、そんなことはどうしようもないけれども、
というよりはこれはインチキ証明でしかないわけだけど、

『親戚のAは会社の重役である、だから会社と私はつながりがある、
 そこでAに私をあの会社にねじ込んで貰えるように頼もう、
 それにお礼の手間賃もAには渡さないと・・・・・・』となる。

 小規模な繋がりが見えないと、自分には「関係ない」と判断して、
さらにうまい得になる話がないと損したような騙されているような気になる。
小規模というのはつまりプライベートに繋がる関係性もないのに私に指図してくれるなということにツキマス。

 大規模な社会の繋がりを自分への奉仕機関だとしか考えない。
ドラえもんみたいに便利ならともかく、
これが現実の学校教育なるものを教える先生だと奉仕して当然なのデスネ。

だっていちいちこちらに指図して、体罰もしたり、制限を設けたりするのだから、
その分こちらのプライベートを侵入しているわけだから、
そちらのプライベートな時間を割いて私達(だけ)の子どもをナントカするべきだろう!

 教師は辞めるか自殺する、医療関係者も同じく、介護関係者も同じく。
とくに誰かのプライベートと公の場で接することが多い人達がこのせいでよけいに疲弊しちゃう。
凶悪犯をやむなく狙撃して死なせざるを得なかった警察官も、
ジャンボ旅客機の運転においてトラブルにあったパイロットもこんな不遇に陥ってしょうがない。

 プライベートをあらぬところに「どうでもいい」と拡大していくからこうなってしまった。
どうせプライベートなんだから「どうでもいい」と言ったって、人権とか義務とか口にしだして、
「ああしろ!」だの「こうしろ!」だの、
後からまるで道理はこちらにあるのだというような顔をするのは分かりきっている。
それで通らねば、「人情がない」だの「冷たい」とか「この地域じゃそうじゃなかった」だの、
どうしようもない私情を持ち出して寝技をかけようとする。

『情けは人のためあらず』
 自分の行った善行がまわりまわって自分にかえってくる?

 これだけだと利己主義にも思えてしまう。
でもこれの前提は自分の場所に道徳があることが前提となっている、
そうでないとそこに幹から繋がった枝である「義理人情」など生まれようがない、あるはずがない。
人と関わっている大きな全宇宙の存在への関わり、宇宙的なアニミズム的な考えが含まれている。
つまり道徳でアリマシテだから「人のためではない」と謳っているわけデス。

 そういった道徳のある場所が善行を行う人を見捨てる場所であろうはずがないじゃないか。
情があればきっとその人たちの環境に道がある。

 でも利益だけを狙う人々の場所にそういったものは薄く、自分の得になるかどうかを始終考えている。
そういった人の存在はあっても道のない場所から人は去っていく。
時が過ぎ、情けを行って善行を積もうにもそのための人すら周囲には居ない。
「それで」といって、仏教の仏像やお寺に宗教に安心を求めて寄進しても、
僧侶に「御布施だけで仏教はわかるものでもないし、御利益もない、安心立命も得られるわけでもない」
と告げられてガッカリして道を失っていたことに気づく、
「道はひとのためにあるのではない」ということは当たり前の前提になっていマス。

 自分の行った善行が本当にまわりまわって自分にかえってくると思いますか?
もちろんそういっためぐり合わせの人も居るでしょう。でもそういった考えには甘えがあります。
道は人が知ることができてついで意識できても人を中心にしない。
自然、生きていれば苦難と苦悩が襲ってくる。
苦難と苦悩にある人は、他人のそれを黙って見過ごせますか。
無力であろうと助力できようと、それぞれのできることをするでしょう。
ある人が不遇の末に死んでもそこに弔いがある、小さくとも骨壷や墓ができる。

そのひとを生きているうちに救えなくとも、
残ったひとには故人が亡くなってからもその人のためにできることはある。

それでは不足だと考えるひとは人情はあってもそれが行過ぎれば、
やはり欲が深いのです、道を失っているのです、人がなれるのは自分という自己の中心だけです。
道の中心にもなれると考えて私情をはさむのはかえって、自分と道を失うしかアリマセン。
するとあるべき未来とつたない過去に過剰に酔いながら、現在の状態に納得できなくなる。
自分のために全てはこうあればいい、あるいはそのためのプライベートは許されていると思い出す。

 結局、自分の好きにできるのは自分だけデスヨ。
親や嫁や子どもや世間は自分の「スキ」にするものではアリマセン。
ええ、そのスキにはとんでもない隙があるんでして、どうもお後がよろしいようで・・・、チャンチャン。

文章読本さん江/斎藤 美奈子
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 故に諺に之れ有り、曰く、人其の子の悪を知る莫く、其の苗の碩なるを知る莫し――。

 いろいろ読書しているうちに安岡正篤先生の本に手がのびたところです。

どんな人でも自分の欠点を他人から「お前はここがダメだ!」と面罵されれば、これは当然、怒る。
もちろん良いところだってあるに違いないと思うものでありまして、
逆に、口うるさく僻するだけで、その苗たる子の大きさもわからずに接し方を間違えてしまう。

もしも万事がこうだと「ゲーム脳」なる科学的実証も曖昧な論、
脳の一部が活動を停めてしまう、こういったことを信じてしまう親もでてきてしまう。

 あなたの精神は狂っていないのですか? あなたの脳は普段ちょっとしか活発ではないでしょう?

あなたは、毎日、脳の活発さを機械で計測しているのですか、
この現代において他人を狂わせておいて、自分はそうではないとどうやって厚かましくもいいはれるのか。

「 ――仁人というのは単に人を愛するばかりではない。人を悪む場合もある。
 仁人にしてはじめて人を愛し、又悪むことが出来る。普通の人間は私情であるが、
 真に善しとし悪しとすることは仁人にして出来る。――」(引用文)

 自分でもよくわからないような字面だけの西洋的キリスト的博愛精神を持ち出したり、
これはお前のためだから厳しく言うのだとか、禅で警策を用いるからといってこれを悪戯に真似て、
あるいは民法で体罰がある程度認められているからといって、口や拳で暴力を振るう。

 多くの体罰信仰者達がなぜ暴力を振るうかといえば、
それが結果として精神注入になるからという理屈ですが、
これのもうひとつの難は、それに耐えられない者は「ダメ」なヤツだとまとめて葬り去るところです。
もちろんどこかでこういったことも成功するんでしょう。しかし成功しなければ闇に葬って相手にしない。
「この軟弱者が!」という傾向がある。
しかし、暴力を受ければ暴力が芽生える。
行き過ぎて、子が親を殺すと精神異常を安直に疑う。で、実際、学問とやらのほうでも「然り」と叫ぶ。

 子に、情も薄く不条理な要求をしていれば、
これにその子への暴力や本人の苦悩や神経衰弱などが重なれば、子も親を刺す。

 他人の欠点をあげつらうだけではちっとも仁人にはならない。博愛にも精神注入にもならない。
親は子に対して欲深い。
ある学閥を目指させてどうしてもそこに押し込みたい、これこそ欲深いことでしょう。

 誰かに忠告をする資格があるのか、と言い出すと誰にもそんな資格はなくなってしまう。
だから口をだしてしまう、親子ならなおさらだ。

けれども、ここに、非常に立派なデキル子が居たとして、
親のあなたにこう言ったとしたらどうでしょうか、

「あなた達両親が死んでくれるかすれば、自分はあなた達より立派な叔父夫婦に面倒を見てもらえます。
 私のために、ここはひとつ、彼らより劣る親であるあなた達は居なくなってくれるべきではないでしょうか?」

 子のために自分を登録番号みたいに抹消できますか。
逆に、自分にとってこの親では不足だと言われたらどうしますか? 怒りますか。

 情もなく口うるさくやったところでこういう帰結になってしまう。
「ダメな子」が悪いのか「ダメな親」が悪いのか、はっきりさせようというわけです。
でもなかなかこうならないのは子が必死に耐えているからでしょう。
やはり身に降りかかる暴力や要求に耐えているわけです。

 別に、親もいろいろ勧めて、子も応えて、志望校に落第してしまう。
親もどうしてよいのかうろたえてしまい、子も神経衰弱のように元気をみるみるうちになくす。
両者とも目指す場所は設定していてもそれだけで、
肝心な生涯の身の落ちどころを見失っていれば、急に心細くなるか安心を失ってしまう。

 そこで勉強がうまくいっても、
子に「俺の人生を台無しにしたんだから、これからは俺のいうことをきいてもらう!」
などと親が要求されてしまい困り果てる。
 俺の人生を台無しにしたのだから、親に感謝もない全部俺の努力の結果じゃないか、
親を養うのも馬鹿らしい、自分で勝手にしたらどうだ、
親がこれぐらいのことを俺のためにしてもまったく当然だ、
だって俺はあんたたちの希望を叶えてやったんだから。
将来を心配しなくてよくなっただろう、ひとつ俺のためにでも処女を見繕って来い、
なにしろ恋愛すらできなかったんだ・・・・・・、勉強には邪魔だと思ってすべて断ったんだ、
この償いは親にしてもらうぞ・・・・・・。

 情とコミュニケーションも足りないうちに鞭を打てばよからぬことが起きます。
馬体のよい競走馬でも脚が折れれば生涯にかかわる怪我となりそれきり死の道を辿ることになる。
 子に親は自分のことを考えずに損得勘定だけでやれといっている、
と疑われているのに気づかずに、それをどうすることもしないで、子に逆襲されても子を恨めますか。
子をつくったのは親ですよ。

「親がもうちょっと学問なりを勧めてくれればよかったなあ」というのと
「親に人生の青春の時期をまるまる奪われたな」というのでは、恨みの度合いがまったく違います。
なんだかんだいってある程度の大学を出て、院なり、社会なりに出て己が充実していれば、
子は自由にさせていれば適当に遊びも学びもするものですし、割と帳尻あわせがとれたものだ、
と大抵は納得するし、自分でそこそこの馬鹿をやっていればそこまで親を恨みません。

 子に対して責任を取りたいなら親と子というパートナーとして相談してはどうですか。
家族会議もまあ悪くないでしょうけれども、大事なことは、
勉強と進路と遊びは子に考えさせるようにして最終的に子に自分で決断させることです。

なにより、勉強させる前に、前提として親が、本の読み方なり速読なり、料理やアウトドアやサバイバル、
音楽や絵心や散歩、瞑想して肉体や周囲に神経を集中させて体を神経衰弱から回復させる方法など、
親が子と交わりながら教えなければいけないことはたくさんあります。
これらは心を安心させる方法のひとつひとつというわけです。
これらでもダメならひとは勝手に求めてどこかに進むわけですし、求める=勉強、です。

ただただ、「勉強=学歴」のひとは、何が起ころうとも仕方ありません、例えば子に刺されるとか。
そういった親子はそんなに珍しくなくなってきているようです。

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 あれだけ多数派支配とか自民党政治とか官僚を責めながら、
自分たちは「小沢氏の無投票三選がいいなあ」なんて臆面もなく言うとは、
とんでもない考えが民主党にもあるものだ。
これこそ強権政治そのものだろう。
それに代表選で別の候補者の顔と政策を売らないのなら、
衆院選自体も危ういだろうし、それ以後の、つまり小沢後をどうするのか無責任すぎる。

 僕の個人的考えだと衆院選は自民党は議席を当然減らすだろうけれども、
民主党もたいして増やさないだろうというもので、
結局は、衆院は自民党なりとの連立タイプになり、
参院はまあ民主党が多勢という二極政治が続くんじゃないか? という考えです。
参院で民主党がここまで自民党を攻撃できるなら、
民主党支持者以外はまあこれで充分だろうと考えるんじゃないのか、

民主党は今回の代表選の揉め事の示している通りに、
肝心な政策運営について信頼性がなかなか新聞者の調査でも上昇しない。
団結といっても相手を攻撃していた口実を自分たちは無視するかたちで団結する。
こういった態度では多くの浮動票を掴めずに終わってしまう可能性が高い。

 いらぬ消費税増税とたいがい自民党と官僚の政策には呆れているので、
つまり国債についてはそこまでの心配はいらなくなった経済状況なのに、
それを無視して増税とは馬鹿げている。
経済が混乱しているのは無責任なガソリン税の税カットとそれによる需要増と国際的要因であり、
そして日銀の椅子を巡って官僚がダメならダメで、
大学や民間からいれずに安直に日銀マンを昇進させてお茶を濁したからだ。

 政争のために政策を潰しまくり、そのくせ選挙対策だけはやり、
自分たちは小沢無投票三選がいいなど正直いって有権者を馬鹿にしすぎだ。
鳩山幹事長が小沢支持を明確にしながら代表選を口にするのもまったくの道理。
民主党の小沢支持派は節操がなさすぎる。

 そろそろ前原氏のような人材達を腐らせておくのは止めて、
代表選をやって知名度でもあげるべきだ。
小沢天下だっていつまでも続くわけでもない、小沢氏の後もないような党に、
衆院選はともかく、それ以上続くわけがない。

「一回(博打で)僕達に政権を任せてください」 こんな政党ではダメだ。
民主党代表選に向けて候補者がどんどん出るべきでしょう。
党内政策の信条の一本化を求めすぎる、代表選は無投票で済ませたがる、
いったいどこの独裁主義政治ですか。

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