空気の意見 

過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。


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「ついカッとなってやった」は哲学ではありません。

 こんなことをいうと「当たり前じゃないか」と石礫を投げられそうですが、
体罰教師の事件を耳にして僕が思い出すのは小学生時代に出会った、
「絶対に生徒に体罰を振るわない。振るったら教師を辞める」といっていたとある先生です。
 小学六年の頃でしたか、僕達のクラスの担任の先生が出産でいなくなり、
代わりにやってきたその新しい先生を「ヤメル先生」と僕らは密かに呼んでました。
そのヤメル先生は詳細は忘れましたが、広島か長崎での原爆投下に遭遇しておられまして、
夏休み前に僕達生徒にその被災体験を語ってくれたことがあります。
むかしの書生がしていたような短めのセンター分けの髪型に白髪が目立つ、
しゅっと痩せた体格の色黒のヤメル先生を、
大勢の生徒達や教師みんなで視聴覚室にはいり、ぐるりと輪になって囲んで被災体験を聞きました。
校内の数少ないクーラーがしんみり動き、室内には不思議な厳粛さが熱気を帯びて漂っていたものです。

 ヤメル先生は何かの事情で生徒の家を訪問して生徒の親から訪問するたびにぶん殴られたことがあり、
何度も何度も訪問してついにやっと父兄が生徒へ振るう暴力だかなにかを止めることを説得できた、
と自分が体罰をしないことともに語られていました。
ヤメル先生にとって子どもに体罰を振るわないことは誇りであり哲学だったようです。

 といっても体罰がない分、口のほうが滅法鋭く、何かの件で何人かと一緒に叱られたときに、
僕なんかは「お前は○○の子分か!」と叱責され、非常に驚きました。
僕らちっちゃなイタズラグループにはそんな親分子分の強制もつもりもまったくなかったのですが、
僕は、なるほどはたから見たらそういった風にも見えるのだな、と思い、
幼稚なイタズラをすっかり止めてしまいました。
それでまた僕がイタズラを止めたことで一悶着あるのですが、とにかく時節ごとに振り返って、
ヤメル先生は哲学があったなあと僕はよく思います。
きっと軍隊式の鉄拳制裁の時代を過ごし、原爆投下に遭遇し、心中で得るものがあったのでしょう。

 たぶん鉄拳先生にもすばらしい先生はいるのでしょうが、そんな先生を僕は知りませんし、
教わりたくもありませんし、それに暴力と愛情は同居が極めて難しいものです。
なにより子どもへの暴行は許されてはいけません。

 人と違う行動を取る子どもにはまず「どうしたの?」と質問をしてあげて下さい。
黙っているなり、「こんなの嫌だ!」と言うなり、いろんな子どもがいるでしょうが、
教育というものには生徒達の幼稚な自我を導いて、
自我をワンステップ進めるあるいは一段上に引き上げることが求められています。

 ぶん殴って誰かがいうことをきいたというのは暴力の手段であって教育の手段ではありません。
「こんなことをしたらぶん殴られて当然」というのは教育の結果よりも暴力の結果を優先している
とんでもない暴論にしか過ぎません。
 教育者とは他者の自我に知性を導入する者です。
「暴力で何かがわかりました! わかる!」なんていうのは知性でもなんでもありません。
 知性は例え暴力の認定をしてもその暴力の発揮の条件を定め制御するものです。

 子どもへ暴力を振るうことを知性を教え込むために肯定するのだ、という作業は
社会的弱者を捕まえて行われるその弱者に知性を付与することを利用した、
暴力行為が善になるという暴力からの認定であって、
知性がさまざまなものを比較して演繹的であれ帰納的であれ背理法などであれ
知性が自己の正誤を判定できることに比べて、
暴力は自己認定をまったくもってできないし、暴力を振るう当事者本人にも認定手法は定かではない。
その証拠に暴力は自分の行為とはまったく無関係な作業を経て到達した
「わかるようになった! できるようになった」という他者の到達点を根拠に自己の正当性を依存している。

 知性が正誤の根拠を依存するのは知性自身あるいは知性が作り出したものだけであるのに比べて、
暴力のひきだす知性というものの正当性というものがいかに無根拠であるか。
暴力は他者に依存しているので他者がダメなときは「そいつがダメ」で済ます他ない。
暴力は自分がいったいどんなときにダメかなんてわからないのだ。
一見暴力的行為のおかげで知性が存在しているように見えても、
知性が暴力だけで存在できなければ、
なんのことはない、暴力なんて関係なく他者のひらめきや機転や知性がよかっただけなのです。

 知性は自分がダメな可能性を考慮しているので失敗に戸惑わないが、
暴力は自分がダメだったときに立ち往生してしまう。
だから暴力はダメだ。
体罰教師だって「ついカッとなってやった」といっている。
これは感情的だったというだけでしかなく、失敗したから自己点検も放棄して逃げたのだ。
体罰擁護容認者は権威、権力主義者で非常に卑屈で粗野なのだ、指導者失格だ、
とレッテルを張って僕も今回は逃げてお仕舞いにしておきます。

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 遂に海上自衛隊の補給艦が撤収することになりました。
これで対テロ戦のなかの海洋戦略に穴が開くことになり、
非常事態宣言をしたパキスタンの混乱も伴い、対テロ戦はその効果を低下させることになります。

 新聞には日米同盟の強化を謳う論調も見受けられますが、
「日本相手では戦略レベルの話をまともにすることができない」
という意識をアメリカが持ち続けている限り、アメリカの望む支援を日本が整えても、
日本はアメリカの真のパートナーにはなれないでしょう。
 わかりやすい例でいうと元久間防衛大臣の愚痴や軽口を思い出してください。
「原爆はしかたがない」や「イラク戦争を支持していない」や「沖縄基地の調整」など云々は
戦略の話でもなんでもありません。
あえてそういった発言だけだしたように勘繰られるかもしれませんが、
こういった発言ばかり目立つような仕事しかしなかったわけです。
「いや立派なところもあった」と言われても、任期が短いのでは評価すらできません。
 防衛大臣なのですからいま日本が関わっている対テロ戦の重要性と
自衛隊が参加している海洋戦略の有効性を説くべきでした。

 そういえばゲーツ国防長官が、今まで享受していた「おもいやり予算」という権益を、
仲間内から無能だと思われたくないために維持しようとするのはわりと簡単に理解できることです。

「アメリカ人がムダ使いしている」という話はどんなに弄ったところで、
もったいないお化け的な単純な意味合いしかもたないのは明らかでありまして、
そういった「おもいやり予算」がいかにアメリカ兵の呼び込みに効果を発揮し、
また同盟国アメリカを助け、在日米軍の駐留がアジア周辺地域の平和に寄与しているかを
考えることを我々ができたときに、そこに日本が国際平和を支えていくための
有効な戦略と手立てを発見できると僕は考えています。
もちろんそのために損害と利益を受ける人たちもそれぞれいますが。
ですが日本みたいな僻地に飛ばされるのを嫌がっているアメリカ兵もいるのです。
たいていのアメリカ兵はどうせなら欧州方面にして欲しいと思ってますよ。

 自国のことを優先させているのに国際戦略を考えなければならないとはずいぶん矛盾しています。
海洋艦と航空機はそれ自体がハイテクのかたまりですし、数と性能は先進国でないと確保できません。
インド洋あたりまで派遣できて活動率も高く維持できる錬度と習熟が必要になりますし、
そもそもそんな活動ができる補給艦自体を持っていない国も多かったりします。
それに中東までのシーレーンには海賊やテロリストや某国の貨物船だって結構出没しています。
「アメリカの間違った大義に手を貸すべからず」
「海外で自衛隊を活動させるな!」
 「大義」というのは各々が勝手に叫んでいるものであって、
一国家の国際戦略を決定するようなものではありません。
たぶんすべての人の大義を尊重した場合、どの国もまったく何もできない状態に陥ってしまうでしょう。
何もしないなら鎖国でもしていればいいのです。

 中東でテロが起こり、戦争もあって、事後統治もうまくいかない。
となるとリスク要因で日本の経済にも悪影響がでる。
よその台所を見渡せば世界的な原油と小麦価格の上昇が発生している。
アメリカ人だって米兵撤収を望んでいてそれでも撤収を始めないのは、
それだけ国際平和維持の責任があるからです。
下手をやって民主国家以外の勢力の影響力を中東に広げられては困るのです。

 平和の創出とはある勢力を法律を根拠に任意に摘み出すことで成立するのであって、
「戦争がないから平和だ、だから平和だった」とは、
常に行われているある勢力、社会との敵対勢力に入った者達、法律で定めた範囲を越えた人間に適用し、
常日頃から我々は誰かを摘み出しているのにも関わらず、
それが戦争という範囲まで拡大すると急にそれまで支持していた立場を放り出してしまう。
これに似た論争の「死刑制度の維持、反対」はともかく
社会が任意の摘み出しを常に行っている以上、
国際社会もそれを必要としており、テロへの対策を講じることは国連でも正当化されています。
元共産圏でも対テロ対策は認められています。

 戦争で死者がでるのはほとんど不可避の必然であって、
これをためらいあるいは回避しようとするのも当然の反応でしょうけれども、
国連の治安維持部隊もアフガンなどで戦闘を行い、死傷者を出している以上、
戦争とそれに伴う戦闘行為は国際社会の場で認められており、
直接戦闘に関係しない支援活動、
補給活動を支える貢献による平和へのプロセスを否定するのならば、
間接的に国際社会の平和維持活動全てを否定したも同然になってしまう。
それでありながらグローバル社会の波に乗って世界的に活動して、
利益を享受している日本はいったい何者になってしまうのでしょう。
もちろん主権を持つ国家間のことですし、そして現代ではかつてのような強硬な敵対行為は
なかなか行われませんが、腹を立てない人達がいないわけではありません。
 しかし一番厄介なことは日本自身の経済と世界経済のリスク要因からくる不安を和らげる効果を
インド洋での海洋戦略が含んでいるのにも関わらずそれを放棄したことによる、
日本の政治家の無能と無責任さが世界に知れ渡って行くことです。
とりわけ国際社会における平和維持活動を否定したのに、
「国連の平和維持活動に参加したい」なんていう恐るべき辞意撤回政治家もいます。

 そもそも九条が自衛隊を否定しているのなら国連の決議があったとしても、
自衛隊以外のどんな「部隊」であろうと活動自体が根本的にできないんじゃないでしょうかね。

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