BARにいる夜もあるのです | とらやは今夜も呑むのです

BARにいる夜もあるのです

とらやは一杯引っ掛けて、気分良く自由が丘の街を歩いておりました。
もうちょっと呑みたい気分でして、気になっていたBARへ向かったのです。
このお店の前も何度も通っているのです。お初でお邪魔するのであります。
何と言っても、とらやの中でBARへの想いが再燃しております。
自由が丘『Lismore(リズモア)』さんであります。
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店名はスコットランドの沖の小島の名前から命名されたとのことです。
カウンターだけの正統派じゃありませんか。落ち着いて呑めそうですなあ。
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ウィスキィの好みをお話して、オススメの一杯をいただくのです。
クライヌリッシュ14年 (Clynelish 14Years)です。お初のモルトです。
香り高くて美味しいじゃありませんか。スイッと呑めそうなのです。
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お腹は膨れておりますので、こういうアテが嬉しいのです。
酒呑みのツボをおさえたツマミが嬉しいじゃありませんか。
このお店でも「出会ってしまった」感覚がスルのです。何故でしょう?
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このお店のハウス・ウィスキィ「リズモア」のソーダ割りであります。
看板を作った後にお店と同じ名前のスコッチを発見されて、ハウス・ウィスキィにされたそうです。美味しいのです。スッキリの後にガツンと酔うのです。
普通のソーダ割りはシングルで作るのですが、これは「テンロク」なのです。
シングルの1.6倍のウィスキィが入っているのであります。
最初は「テンゴ」だったのですが、このお店を訪れた某酒場評論家のアドバイスで「テンロク」に進化して、完成したのだそうです。
マスターの会話も楽しく、ゆっくり呑んで、しっかり酔うのであります。

美味しかったでありますよ! ごちそう様であります!

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この病気療養中に読み直した東直己氏の「ススキノ探偵シリーズ」を思い起こすのです。映画『探偵はBARにいる』の原作であります。
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主人公は「とんでもない呑兵衛」なのです。とらやなど足元にも及びません。
事件解決よりも呑んでいる場面のほうが多い気がしてしまいます。
とらやのような呑兵衛にはこれが楽しく感じてしまうのであります。
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当然、主人公も二日酔いになるのです。その時に引用されるのが萩原朔太郎先生の文章「宿酔の朝に」であります。
主人公曰く「俺が生まれるずっと前に、俺のために書き遺してくれた文章」なのですが、拙のような呑兵衛たち全員のために書いて下さったと思うのです。


翌朝、とらやは二日酔いの苦しみにのた打ちまわりながら、萩原朔太郎先生の文章を思い出しておりました。とらやも引用させていただくのであります。

宿酔の朝に
泥酔の翌朝に於けるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のやうで、魂の最も痛々しいところに噛みついてくる。
夜に於いての恥ずかしいこと、醜態を極めたこと、みさげはてたること、野卑と愚劣との外の何物でもないやうな記憶の再現は、砒毒のやうな激烈さで骨の髄まで紫色に変色する。
げに宿酔の朝に於ては、どんな酒にも嘔吐を催すばかりである。ふたたびもはや、我等は酒場を訪はないであらう。
我等の生涯に於て、あれらの忌々しい悔恨を繰返さないやうに、断じて私自身を警戒するであらう。と彼らは腹立たしく決心する。
けれどもその日の夕刻が来て、薄暮のわびしい光線がちらばふ頃には、ある故しらぬ孤独の寂しさが、彼らを場末の巷に徘徊させ、また新しい別の酒場の中に、酔った幸福を眺めさせる。
思へそこでの電燈がどんなに明るく、そこでの世界がどんなに輝やいて見えることぞ。そこでこそ彼は真に生甲斐のある、ただそればかりが真理であるところの、唯一の新しい生活を知ったと感ずるであらう。
しかもまたその翌朝に於ての悔恨が、いかに苦々しく腹立たしいものであるかを忘れて。げにかくの如きは、あの幸福な飲んだくれの生活ではない。それこそは我等「詩人」の不幸な生活である。ああ泥酔と悔恨と、悔恨と泥酔と。いかに悩ましき人生の雨景を蹌踉することよ。

散文詩(「宿命」より) 講談社「日本現代文学全集」26 萩原朔太郎集

それでも懲りずに、とらやは今夜も呑みにイクのです!