February 01, 2008 18:07:28

East Asian Foods Matters

テーマ:perspective
When I was living in Coventry, a Chinese glossary store in Leamington Spa was my sanctuary. They had Japanese rice (although coming from Italy), miso for miso soup, soup stocks and かっぱえびせん both 'pure Japanese version' and 'faked' from somewhere near by Japan. Which made me mad. Sinceかっぱえびせん is a part of my good childhood memory, faking it seemed offensive to my identity. Everyweek, I proclaimed that I am very angry about the way they mock Japanese treasure, in front of a bunch of faked かっぱえびせん on the rack. But I bought a bunch of 辛らーめん from the same country for lunches of the week. I loved them. Living in the country which main dish is potato (it is a joke to warn too serious people), I thanked Chinese ancestors for their guts to coming to so far away from their original land, not to invade but just to simply live, enabling rare eastern asian foods, both pure and mocked, gather together in a small shop in a small town.
So it is disappointing that foods coming from China is causing so much trouble in Japan, right now.

But watching the TV news, I was puzzled.
Isn't the exact date of production of the toxined product clear on the package? If so, why the news does not stress the point that consumers should not eat the product made on that exact date? Why should they make consumers unnecessarily anxious by making the atomosphere that all of Chinese foods are bad? If it is not clear, why not? Should not the provider be responsible for informing the consumers about the date of production? I felt that news were missing the point of protecting consumers' safety.

It is true that there has been a rumour that frozen foods from China are using too much chemicals, and I was fearing about it. I avoid buying foods from China. But I also avoid buying foods from any other countries. I sort of trust foods from NZ, without a reason. They seem nice, that's all. Oh, I also buy cheeses from France. How can I avoid them? I am not reasonable in this sense at all.

But I think what consumers really would like to know in the case of toxic 餃子 is the clear indication of the product that we need to avoid. It should not be "ALL OF CHINESE FOODS". It is a wrong message.

Sending a wrong message is I think ALWAYS a wrongdoing for media.

And I think, mocking かっぱえびせん is a wrongdoing too.
Calbee should do something about it, really.
June 02, 2006 17:57:44

あなたの大切な人のために

テーマ:perspective
この冬、『ダーウィンの悪夢』(監督Hubert Sauper )という映画が上映されるらしい。
駆け出しの写真家 の友人が自分の日記で紹介していた。
ぜひ読んで欲しい。

食べ物やお金、自由と引き替えに私たちは「想像力」を奪われた。無知は罪だ。「だれも教えてくれなかったから知らなかった」なんて子どものような言い訳をするな。考えよう、想像しよう、自分が置かれてる場所を正しくつかもう。

あなたの大切な人のために。」(by サムソン)
 


February 25, 2006 00:36:54

着床前診断に関する覚書

テーマ:perspective

○日本産婦人科学会議事録 http://www.jsog.or.jp/report/rinri/rinri_minutes.html

○優生思想を問うネットワーク意見書 http://cat.zero.ad.jp/yunet/syuseisiryo9.html
○カトリック中央協議会意見書 http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/060123.htm
○子宝ネットhttp://www.kodakara.jp/bbs2/miscarriage/joyful.cgi?mode=thr&no=64
(妊婦の声)

○東京大学大学院医学系研究科 生命・医療倫理人材養成ユニット: 出生前診断/着床前診断に関する○基礎資料 http://square.umin.ac.jp/CBEL/bioethics_data/pnd_pgd.html
(新聞等のニュース記事のまとめ)
○粂 和彦のメモログ http://sleep.cocolog-nifty.com/blog/2005/08/post_dafe.html
(個人のブログだが詳細な考察とMLを通した議論が掲載されていて示唆に富む)
http://webnews.asahi.co.jp/you/special/2004/t20040302.html
http://www2.snowman.ne.jp/~tsuchida/maesin/jusei.html

http://www.oyako-net.com/medicine_info/2004526_0405265826/

February 08, 2006 23:05:41

Photography and Sociology

テーマ:perspective

Becker, H.S. 1974. Photography and Sociology. Studies in the Anthropology of Visual Communication 1, 3-16.


写真が、メタ的には社会学と似た方法と目的を持った表現であることを論じる試作的な論文。

写真の持つ力には注目しているので、興味深く読んだ。




September 04, 2005 07:38:22

Philosophy Now

テーマ:perspective

大学のスーパーで、「Philosophy Now」という薄っぺらい雑誌を発見。

思わず購入。
これが結構面白い哲学入門雑誌だった。

高校生にも読めるくらい簡単というのが味噌。

哲学は難しくなきゃいけないわけじゃない、という「哲学」を感じる。

今号の特集は「エンパシー=共感」。
一体人は他人に共感することができるのだろうか。この問題にはじめて取り組んだのは、デービッド・ヒューム(David Hume)だそうだ。

ヒューム曰く、人は他人の痛みを見ると自分も痛みを感じるので、他人の痛みも取り除いてやりたいと思う、それが「共感」するということ。

そして彼は「共感」こそが倫理の基礎と論じた。

これに対し、「人間の条件」の中でハンナ・アレントは「人間が絶対に理解しあえないのは、その痛みである」と述べていたなあと思い出した。

開いてみると、次のようなくだりがある。


"Indeed, the most intense feeling we know of, intense to the point of blotting out all other experiences, namely, the experiences of great bodily pain, is at the same time the most private and least communicable of all" (Arendt, 1998:50-51).


興味深い。


「女性の倫理学」を提唱しているPurdyは「かわいそうだから産まない方がいい」という「未来の人間に対する愛」に基づく議論を展開している。

ちなみに私はPurdyの議論が本当に好きじゃない。

実は功利主義的思想から「障碍のある命は堕ろせ」と言っているのに、その思想を「未来の人間に対する愛」とか「女性の倫理学」とかいうことばで隠そうとする(としか思えない)、その偽善的な態度が嫌だ。

これで騙されると思うなんて、女性なのに女性をばかにしている。

でもこういう議論をする人は結構いて、ハリスなんかもその一人だ。

まあそれはとにかく、これは未来の人間の痛みへの「共感」に基づく倫理と言えるんじゃないかと思ったのだ。

とすると「共感」は、生殖における人間の質の選択と関る重要な概念と言えるかもしれない。


「共感」というと、一般的には聞こえが良いし、「あなたに私の気持ちなんてわからないわ」なんていうと、ニヒルなエゴイストだと思われる。

だけど、実は共感を前提に行動することは結構危険なんじゃないだろうか。

アレントは次のようにも言っている。


"Because of its inherent worldlessness, love can only become false and perverted when it is used for political purposes such as the change or salvation of the world" (Arendt, 1998:52).


もっとよく読みたいと思う。
公共の場において他者の存在を認めるということは、「共感」することではないとアレントは言っている。
ここに重要な何かがあるはずだ。


あ、「Philosophy Now」の宣伝のはずだったのに、思い切り脱線してしまいました。
本題はまた今度。


July 21, 2005 23:34:15

西行法師

テーマ:perspective

なにごとの おわしますかは しらねども                              
かたじけなさに なみだこぼるる


最近いきなりはじめる浄土真宗 で紹介されていた西行法師のこのうたを、音読してくれた人がいて、私はそれを聞いてポンと膝を打った。
「そうそう、それだったんだよ。」


私は、大学に入りたての頃、何があったと言うわけでもないのに、なぜだかこんなにも幸せでいいのかと思うほど幸せな気持ちで、そのことをなにかに無償に感謝したくなった。

涙がこぼれそうなほど。
あの感じを、西行法師のうたはずばり表していると思った。


今振り返れば、感謝するべき対象は両親なんじゃないか?と思うのだけど、どちらかと言うと親元から離れてこその幸せという勘違いをしていた、あの頃の私には、そんな考えが浮かばなかった。

それでも、何かに感謝したいと思った。


もしそこに仏像がたっていれば、間違いなく仏像に祈り、花の一つも供えていただろう程の、それは強い感覚だった。何もなければ、もしかすると、東京にはめずらしく広い空だとか、新緑を芽吹き始めていた桜の木にでも、祈っていたかもしれない。


でもたまたま私の目の前には教会があった。


毎朝毎夕、自転車でその前を行ったり来たり。自然、祈りの場はそこに定まった。
あれから、もう6年。

人が期待するような人格の大変革は、私には、残念ながら訪れていない。

相変わらず我ままだし、悩みもなくならない。「もう、十分ですから」ってほど自分に疲れたりする。そして、これからもずっとそうだろうと思う。これでいいと思っているわけではないにせよ。


そもそもそういう目的は持っていなかったのに、ただ祈りたかっただけなのに、なぜか宗教という枠組みの中で、かわれない自分に、むやみに自信喪失している時もあった。でも、西行法師のうたを聞いて、原点はここにあるのだということを思い出し、ちょっぴり嬉しくなった。


なにごとの おわしますかは しらねども
かたじけなさに なみだこぼるる


ちなみに、これは日本人の一般的信仰心を最もよくあらわしたうたと言われているそうな。
こんなにも自然に、私も日本人なのだなあ。仏教徒にはもうなれないと思うけれど。

July 18, 2005 08:25:49

障碍児が生まれることは不幸なのか

テーマ:perspective

学会でちょっとした議論になったことが、

「だって、そういう子が生まれることは実際不幸でしょ。」と

いう意見だった。

私は、これにすぐに反論することができなかった。私の中にも迷いがあるからだ。議論の方法としては、それは失敗だったと思う。けれども、少し言いよどんで、やっぱりここは戦うところだと思ったので、

「だけど、最初はそうだと思っていた家族が、次第に幸せだと思うようになることが多くあるよ」

と答えた。そうしたら、もう一人が

「でもそれは結果論であって、選択できるとしたら、話は違うんじゃない?」

、と言った。私はそれは違うと思った。

まず、そんなこと確かめられないじゃないかと思った。家族が今幸せだと思っていることは確かめられるけど、選択できたらどうかなんて、確かめられないじゃないか。あなたは聞けるのか。

「選択できたら、その子をおろしていましたか?」

なんて。

-だけど、やっぱり選択できたら違うんだろうか、

とも私は思った。そんな考えが頭をぐるぐると駆け巡ってしまった。


言いよどむ私のことを、二人は多分「ナイーブな感情論者」だと思ったと思う。

だけど、そうじゃない。感情論者は私じゃない。彼の言うことは、論理としておかしいもの。

「障碍のある子が生まれることは不幸だ」という論理と、「障碍のある子であっても幸せだ」という論理があって、なぜ前者を「真」だと思い、後者を単なる感情と捉えるのか。

障碍は事実で不幸は価値判断だ。その判断は感情に基づいている。私には、そちらの方がナイーブな意見だと思った。ナイーブに障碍を不幸だと信じている。


私は、そういう考えを持つことを恐れる。なぜなら、私にだっていつの日か障碍者の親になる可能性がある。私が障碍者になる可能性がある。私の愛する人々が障碍者になる可能性がある。その時にそれを不幸だと思いたくない。「不幸」というのは感情論であって、事実ではない。目の前にあるのは、「人と比べるとできないことがある」それだけだ。それでも、生きることに価値があると思いたい。そうでなくて、どうやって生きていくのだろうか。「感情」に流されたくない。事実だけを受け入れて生きたい。これもまた感情論と言われるかもしれない。でも、少なくとも、他人の価値を判断する感情ではなくて、ただ自分と自分の愛する人を判断しないための防御線だ。


これを、わがままだと言う人の論理も、わからないことはない。
だけど、宇宙に一発何億円もかけてロケットを飛ばしておきながら、人間の命を守るための資金がないなどという言葉を、たわごとと言わずしてなんと言うのだろうか。
「今の私たちを、病院で最初にこの子がダウン症だと知らされた時に、窓からのぞくことができたなら、きっとあんなに悲しまなかったでしょうね。」と、ある母親は言った。
「悲劇」も「喜劇」も人間が作り上げるもの。どちらを選ぶか。それが人間に与えられている根源的な選択肢だと思う。
そのことが通じないもどかしさに、心が痛い。


↓じゃあどうして、私たちはこれを見て涙するのだろうか?↓

『マラソン』http://www.marathon-movie.com/


July 13, 2005 07:08:53

テロについて

テーマ:perspective

絶妙のタイミングだったな、というのが、ロンドンでおこったテロについての、私の結局の感想だ。
前日は2012年のオリンピック開催地にロンドンが選ばれ、翌日は勝戦記念の日だった。
喜びと、それを打ち砕く打撃の後、過去の栄光によって高揚するナショナリズム。
特にそれがあって、というわけではなかったのだけれど、日曜日教会に行かなかったのは、今週に限っては正解だったなと思った。きっと、教会でも過去の戦士の「働き」を讃え、「悪」に屈しないことについて語られたのだろうから。そんな話を生で聞くのは耐えられない。もちろん、「敵を愛し、敵のために祈る」という教えもある。だけど、この場合の「敵」とは、誰なのだろうか。私には、それがわからない。
テロはいけない。単純に悪だ。殺された人々、日常を奪われた人々の悲しみは、もう何も埋めることができない。でも、テロをおこしたと言われている「イスラム教過激派」なるものを恨んだところで、テロに打ち勝つことはできないじゃないか。アフガニスタンを攻めても、イラクを攻めても、テロの恐怖はますます増幅するばかりじゃないか。そのことの矛盾。さらに、テロに打ち勝つために国内の監視機能を高めると言う、およそ「民主主義」による勝利には導かれないような方向に向かっていることの矛盾。
私には、わからないことばかりで、もう私には関係のないこととして、田舎で安穏として暮らしていることにしようかと思ったりする。悲しみは、人を麻痺させる。


私は今年はじめて、イギリスが戦争を真に「栄光の歴史」としていることを知って、心底驚き、ショックをうけた。戦争とは人と人が殺しあうことだという事について、この国は無頓着であり続けたのだなと思った。「彼らの働きに感謝しよう」と、国は言う。それはつまり「いっぱい殺してくれてありがとう」ということか。けれど、考えてみれば、それが旧連合国の普通の態度なのだ。その異常さに、背筋が凍えた。
「大切な人をこんなにも奪われるのはもう嫌だから、戦争は二度としないようにしよう」という、単純な人間の思い。それは、戦争を戦った人の死を無意味にしてしまうだろうか?私はそうは思わない。人は、一度も国のために死ぬことなんてない。ありえない。みんな、愛する人の名を呼びながら、死んで言ったに違いない。その無念さは、あがめても祭っても、取り返すことなんてできない。取り返しのつかないことなのだ。私は、私の国が、その取り返しのつかなさを忘れて「普通の国」になってしまうことを恐れる。


テロの話。「今までどおり」の生活を送ることがテロに打ち勝つことだと、ブレアは主張するけれども、現にロンドンっ子はもうバスにも地下鉄にも乗りたくはないので、自転車を使い始めたらしい。人は何かに「負ける」ことなんてない。あるとすれば、それは自分で「負けた」と思った時だ。でも、何かにすがりたがる負けた人たちは、国への忠誠心を高めるので、国としては、負けた人たちがたくさんいた方がいいのかもしれない。それで、必死で「勝つ、勝つ!」と叫んでいる。勝たなくてはいけないのは、一度負けているからじゃないのか。
ああ、これは新しい「恐怖政治」だな、とどこかで聞いたことのあることを、実感として思う。
Not In My Name.
だけど、これだって無責任で愛のない態度じゃないか。
どうすればいいか、わからない。それで私はやっぱり人知れず田舎で、無名の生活を送っている。

ただ、私みたいな人が世界にはたくさんいるということを信じている。

July 07, 2005 15:21:38

選択肢について

テーマ:perspective

何事につけ、選択肢は結局自分の認識の範囲内にしかなく、その意味で人は「無知を承知の選択」を迫られているのだと思う。けれど、そのことを仕方がないとはいいがたい問題もあるのではないかと思う今日のこの頃。例えば命についての「選択肢」。ダウン症という障害(があるのかかどうかも私には最近疑わしいのだけど)について、知らない(見たことがある、とか染色体の配置を知っているくらいじゃ知ってることにはならない)人が、ダウン症児を産むか産まないか選択するという状況は、どんなにそれ自体が一般的になっても、やっぱりおかしいんじゃないかと思う。「ダウン症の子を育てる自身がない」、「愛せないと思う」という気持ちにも私はシンパシーを感じる。でも、その気持ちの大部分は未知(と思っているもの)に対する恐れが占めているんじゃないだろうか?そんな恐れを、払拭してくれそうな催しがロンドンで開催されている。子どもはどんな子どもでも子ども。土曜日にでも行ってみようかと思う。

"Shifting Perspective"

http://www.oxotower.co.uk/Perspectives.html

June 30, 2005 07:35:48

生存の争い

テーマ:perspective

今朝は貧血気味で、コンピューターの画面を眺めるだけで終わってしまいそうだったので、立岩真也+小泉義之対談 「生存の争い」現代思想平成16年11月号版をあらためて開いた。

健忘症気味で、(って日本語でいうと冗談だけど、こっちでamnesticというと深刻に障碍の一種と受け止められる。この場合冗談ですから笑ってください。鼻で。)読んだ物を覚えていないので、常に新鮮な気分で読める。


立岩の「『障碍はないほうが良いに決まっている』とは決まっていない(38)」にうなずく。小泉がそれに対し、色々な病気の受け入れ方を、哲学の思想とからめて列挙していている。

ストア派:運命プラトン/死の練習アリストテレス:観想的生活/パウロ:法に従う生活/スピノザ:神への愛以下省略。どうして省略するかというと、ちょっと無理があるように思ったから。フーコー的に病を受け入れるって、可能なのかな?

小泉は、「こう言えるんじゃないかと思ってるんだ。でもまだ着手してない。」と何度も言っていて、読む人によっては信憑性に欠けると思うかもしれないけど、私は好ましいと思った。これぞ、フラーの言う知識人のあり方とさえ思った。そして、考え方自体も私の問題関心と重なる部分が多くて、とても触発された。

医療制度における交換の正義と分配の正義のバランス(といっていいのかな?)が、大きな問題としてあるようだった。

最後の立岩のことばは、とても大事だ。

「おおざっぱにはフーコー以来病気や体について書くことが流行って定着したと言えるんだけど、病や障碍自体についてはどこかネガティブで単調で平凡な認識しかないという状態がずっと続いていると思います。(52)」

ここに書かれてあるということは、今後この状態は必ず良い方向に変わるということだと、私は思う。変わったとき、今ある認識が強く非難されるであろうことは、女性差別や民族差別の歴史から想像することができる。


Be Aware.

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