保坂和志の『カンバセーション・ピース』(新潮文庫)を読了。
昔読んだ、谷川俊太郎の、「哲学者だってゲップする。僕は哲学者の息子だったから知っている。」という意味の詩をなぜだか思い出した。
語り手でもある主人公は「小説家」ということになっているけれど、彼は哲学者だ。
哲学者だって、三匹の飼い猫を、それぞれの用を足した後の始末の仕方まで「聞き分け」られるほど溺愛してしまうし、昔飼っていて夭折した「チャーちゃん」を思い出すと、今でも心がしわしわになってしまう。
哲学者だって、その妻に言わせれば、物事をこねくり回して考える「こまったおじさん」であり、
哲学者だって、横浜ベースターズからローズが引退することには「落胆するどころか怒りさえ感じる」のだ。
それでも彼が哲学者たる所以は、たぶん、野球を見ながら、メルロ・ポンティの「ソナタがソナタたる所以はソナタ演奏者がソナタに奉仕しているからだ」という一説を思い出し、「野球が野球たる所以は選手と観客が野球に奉仕しているからだ」などと思ってしまうところ。なんだか、ばかばかしくて微笑ましい。
彼を含む六人の同居人プラス三匹プラス思い出たちの日常の風景は、退屈だけど面白く、平坦だけど奥が深い。
にしても、「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に我慢して踏ん張って考えつづけなければいけないんだな、これが」という主人公の名前が「内田」なのには、意味があるね。たぶん。
でも私は、内田のおじさんに「僕はいやですよ20年も踏ん張ってらんないですよ」と騒ぐ森中くんのまっすぐな若さにも惹かれます。暑苦しいのでもうちょっと痩せて欲しいけど。
久しぶりに「出会ってしまった」小説でした。
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