大学のスーパーで、「Philosophy Now」という薄っぺらい雑誌を発見。
思わず購入。
これが結構面白い哲学入門雑誌だった。
高校生にも読めるくらい簡単というのが味噌。
哲学は難しくなきゃいけないわけじゃない、という「哲学」を感じる。
今号の特集は「エンパシー=共感」。
一体人は他人に共感することができるのだろうか。この問題にはじめて取り組んだのは、デービッド・ヒューム(David Hume)だそうだ。
ヒューム曰く、人は他人の痛みを見ると自分も痛みを感じるので、他人の痛みも取り除いてやりたいと思う、それが「共感」するということ。
そして彼は「共感」こそが倫理の基礎と論じた。
これに対し、「人間の条件」の中でハンナ・アレントは「人間が絶対に理解しあえないのは、その痛みである」と述べていたなあと思い出した。
開いてみると、次のようなくだりがある。
"Indeed, the most intense feeling we know of, intense to the point of blotting out all other experiences, namely, the experiences of great bodily pain, is at the same time the most private and least communicable of all" (Arendt, 1998:50-51).
興味深い。
「女性の倫理学」を提唱しているPurdyは「かわいそうだから産まない方がいい」という「未来の人間に対する愛」に基づく議論を展開している。
ちなみに私はPurdyの議論が本当に好きじゃない。
実は功利主義的思想から「障碍のある命は堕ろせ」と言っているのに、その思想を「未来の人間に対する愛」とか「女性の倫理学」とかいうことばで隠そうとする(としか思えない)、その偽善的な態度が嫌だ。
これで騙されると思うなんて、女性なのに女性をばかにしている。
でもこういう議論をする人は結構いて、ハリスなんかもその一人だ。
まあそれはとにかく、これは未来の人間の痛みへの「共感」に基づく倫理と言えるんじゃないかと思ったのだ。
とすると「共感」は、生殖における人間の質の選択と関る重要な概念と言えるかもしれない。
「共感」というと、一般的には聞こえが良いし、「あなたに私の気持ちなんてわからないわ」なんていうと、ニヒルなエゴイストだと思われる。
だけど、実は共感を前提に行動することは結構危険なんじゃないだろうか。
アレントは次のようにも言っている。
"Because of its inherent worldlessness, love can only become false and perverted when it is used for political purposes such as the change or salvation of the world" (Arendt, 1998:52).
もっとよく読みたいと思う。
公共の場において他者の存在を認めるということは、「共感」することではないとアレントは言っている。
ここに重要な何かがあるはずだ。
あ、「Philosophy Now」の宣伝のはずだったのに、思い切り脱線してしまいました。
本題はまた今度。