西瓜が好きだ
テーマ:バイオマス・エネルギー西瓜がうまい。
毎日食べている。
毎日値段が違う。
夜になると、半額になるが、夜まで待てない。夕方、定価で買ってしまう。
それでいて、翌朝食べる。
朝、冷え切った西瓜が、うまい。
この皮をバイオマスの原料にするといいのではないか。
(もちろん、だめなのは、わかっている)
来年は、西瓜の栽培に挑戦してみるか・・・・
(トマトも満足につくれないけど・・・)
西瓜がうまい。
毎日食べている。
毎日値段が違う。
夜になると、半額になるが、夜まで待てない。夕方、定価で買ってしまう。
それでいて、翌朝食べる。
朝、冷え切った西瓜が、うまい。
この皮をバイオマスの原料にするといいのではないか。
(もちろん、だめなのは、わかっている)
来年は、西瓜の栽培に挑戦してみるか・・・・
(トマトも満足につくれないけど・・・)
エアコンのベルトが切れたのは確認した。
エアコンを停める。
それだけのこと。
しかし、ベルトが切れたとき、あちこちに切れ端があたっている。しばらく運転を続けたからだ。
何が壊れているか分からない。
ファンベルトに傷がついてるような気もする。
おそるおそる再スタートした。
しばらく行くと、渋滞だ。
なんと、トラックが横転している。
よくよく見ると、そのトラックはさっきまで私の前を走っていたトラックだ。
なんだか、変な走行なので、一度横に並んで運転者を見てみた・・・・・ 目がいってた・・・・
その直後に異音が始まったので自分はとまったが、こいつはこんなところでひっくり返っている。
トラックを避けて、旧道に出る。
そのとき、自転車がぶっとばされ、運転者が歩道に転がっているのを見た。
エアコンベルト切れなかったら、こういうやっかいな出来事に巻き込まれていたような気がする・・・
ぞーーっとした。
つづく
土曜日の朝、何の問題もなく国道をはしっていると、「パチパチパチ」という音がどこかから聞こえてきた。
何だろうとおもってスピードを落とすと、音もゆっくりになるので、自分の車だとわかった。
たちまち、焦げ臭いにおいがしてくる。
あわてて左に寄ろうとしたら、二車線の国道の左側には、びっしりと車が並んでいて寄れない。
しかたないので、信号のところで右により、右折して道路脇に停めた。
エンジンを止め、おおいそぎで車の下をのぞき込む。
何も、異常はない。
何か、踏んで、からまっただけだったのか・・・
そう思ってターンし、右折してもとの国道に戻った。
ダメだ。
またバチバチと音がする。
そして、何か黒い板のようなものが落下したのがバックミラーでみえた。
やばすぎ
今度は左折して、少しひろいところに停めて、エンジンルームを開けてみた。
エアコンのベルトが切れていた。
そうだ。
エンジンは、ときどきベルトを交換しなくてはならないのだった。
完璧に忘れていた。
つづく
理解が得られないから惨敗という結果になったんだろう!
そこのところがわからないらしい。
辞めるべきだとか、続けるのがいいとかいう気はない。
ただ、国民の理解が得られなくなっていることに気づかないと、自民党は終わってしまう。
自民党型選挙をひっぱってきた方々は、もう高齢者だ。
やる気、なくなっちゃってる。
なにしろ、さんざん応援してきたのに、自民党は地方切り捨ての方針に出たのだ。地方に住んでいる者なら、すぐ分かる。
そんなデタラメをやる政党、だれが応援するものか。もちろん、長いつきあいもあるだろうから、口先だけは調子を合わせるだろうけど、実際には自民党とは書かない。
平成の大合併。
こんなことして、自民党、やっていけると思ったのだろうか??
浅はかな政策だった。
自分の首を絞める政策だったのに、(官僚かなんかに)だまされて、気づかなかったのだ。
官僚は、民主党の力の無さを知っている。
だから、自民党を追い出して、民主党の政権ができるよう陰謀したのかもしれない。
自民党政治家は、それに気づかず、結果として、だまされたのかもしれない。
だからといって、許せるわけでもない。
東北の一人区、自民党の全滅だった。
保守王国は夢の彼方。今は、野党の地盤だ。
ここまで国民をバカにしたことを連発した自民党。
次回の選挙が楽しみだ。
ステンレスのあやしい輝きに惹かれながら、木肌のやさしさが忘れられない。
金属の肌は、指の皮膚を貼り付けるような力をもっている。
これは、すこし不気味だ。
木の肌は、やさしく受け返してくれるような感じがある。
木は、いい。
ただ、木は、使うと無くなってしまう。
木の生長には100年待たなければならない。
いい加減に木をつかったら、たちまち無くなってしまう。そして、それが現実には、いい加減に使われ、無くなろうとしている。
金属を使って日常の用に足し、木を使って特別なものをつくる。
そういう、資源エネルギー的な棲み分けはできないものだろうか。
マーケットの問題ではなく、地球環境の問題からそう思えてならない。
こんなことでだまされてしまうのが、情けない。
新聞のうそ。
写真まで載せて「クレーン落下」とくれば、クレーンが落ちたのだとおもうじゃないか。
実際は、まったくちがう。
クレーンを動かすモーターとクレーンの車輪をつなぐジョイントが落ちたのだ。
これは、クレーンとは言わない。
こんなことまでして原発を悪者にしたいか。
バカが丸出しになっていくのは、新聞だ。
そのあげくに、今年の夏の電力は大丈夫ですか?ときたもんだ。バカか、こいつらは。
東京電力は、原発を停めて総点検を3年くらいやるべきだ。
都市は崩壊するだろう。
リサイクルはやりだが、以前から何かあやしいと思っていた。
そんなにうまくいくはずがない、という感じ。
でも、昨日買った「リサイクル幻想」(文芸春秋社-文春文庫131)を読んで、すっきりと納得することができた。
使える資源を廃棄しないで何度も使う。
それが悪いはずがない。
しかし、エネルギーコストを考えると、リサイクルしないほうが合理的な場合が多い。
「銭金(ぜにかね)の問題じゃない」
という主張もあり、まったくそれはそれでいいのだが、たとえば1トンくらいなら根性や善意や良心や人間として取り組むことができるが、実は1トン程度の廃棄物しか出ないのなら、そもそもリサイクルなどは成立しない。
大量に、始末のつけようがないほど出てくるから、その対策として廃棄するのがもったいないから(あるいは、ただ捨てると環境に負荷がかかるから)リサイクルしたほうがいいのではないか、という考えが出てくるのだ。
ただ、生(なま)の原料から作るよりリサイクルしたほうがエネルギーコストがよけいかかる場合はどうか。
リサイクルしないほうが環境にやさしい。
そういうことになる。
昨日は同時に、砂漠化防止への挑戦の本も買った。
これも、リサイクルと同じような問題をかかえている。
(無茶な放牧などの)人為的に沙漠化した土地ならともかく、自然に沙漠化したところは、植林しても育たないのだ。
水と栄養を根性やら人間としてやら予算があるからなどの理由で補給し続ける間は枯れないだろうが、そのうちの何かが足りなくなると(まあ、予算だろうが)、せっかくの労力も情熱もむなしく、枯れてしまうのだ。あたりまえだ。植物がそだたないから沙漠になったのだから。
ロマンをもとめて環境を語る時代は、だいたい終わりに来ているように思う。
これからは、現実を直視しながら、しっかりとリサイクルに取り組むべき時がきた。
リサイクル・沙漠の緑化のすべてがダメだといっているのではない。
アメリカ人のこ理屈はおもしろい。
連中が研究開発した新型銃で救われる命とは何なのか?
何の疑問も持たず「高性能の銃の開発は、人の命を救うためだ」と断言できる。
どうやって?
もちろん「敵を素早く殺して」だ。
「敵」とは何か?
アメリカが「敵」と認定したものが「敵」だ。
こういう精神構造だから、「原子爆弾の投下によって100万人の命が救われた」と臆面もなく断言できるわけだ。
あと10年もたったら、アメリカという国家は史上最悪の侵略国家であった、と歴史家は記述することになるだろう。
もちろん、すべてのアメリカ人がこういう鉄面皮でないことは承知している。
明日が終われば、少し時間に余裕ができる。
瞬間製鉄に挑戦してみようと思う。
電子レンジで、一瞬で鉄を作ってしまうのだ。
二種類のやり方があるようだ。
第一は、アルミニュウムの粉と砂鉄を紙で包んで電子レンジの中に入れるもの。
テルミット反応が起きて、瞬間に鉄ができる(らしい)。
もうひとつは、砂鉄と炭の粉をアルミフォイルで撒いて電子レンジの中で燃焼させるもの。
10分くらいかかるらしい。
どちらも、電子レンジを傷めそうだ。
私がやってみたいのは、どっちでもない。
田んぼや、石垣などの隙間から出てくる、赤いドロドロの鉄。
あれを乾燥させて鉄を取りだしてみたい。
昔は、このあたりにもあの気持ち悪いドロドロがあった。
もう、無くなった。
田んぼは、ほ場整備が入ってグジャグジャにいじくりまくられ、均質化されて出てこなくなった。
だが、世の中は広い。
そういう場所をみつけてある。
何グラム採れるか分からないが、100グラムもあれば、5グラムくらいの鉄はできるだろう。
楽しみだ。
夕方、まだ暑い中、地震雲について話し合った。
地震雲で地震が予知できるとは思わない。
自分ができないからだ。
私ができなくても、誰か特別の力を持った人ならできるというのなら、それは科学ではなく、超能力だろう。
誰か、特定の人だけができる地震予知。
そういうものは科学とは言わない。
また「予知価値」という概念があると思う。
どれほど予知に成功したといっても、地震が起きてから予知が証明されても、予知の価値がない。
また、予知価値は、地震が半年以内に起こるなどというものでは意味がない。
どの地震を予知したのか、本人以外は分からなくなるからだ。
超能力者がいて、ほんとに予知価値のある予知をしてくれるのなら、ありがたいのだが・・・・
人は、自分が超能力を持っているというかすかな体験におぼれてしまうものだ。
科学とは、ちがう。
Amebaおすすめキーワード