土方雄久 (ひじかた かつひさ) | げむおた街道をゆく

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土方 雄久(ひじかた かつひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越中布市藩主、のち能登石崎藩主、下総田子藩初代藩主。土方信治(のぶはる)の長男。
主として織田信雄に仕え、その1字を拝領して[5]初め雄良(かつよし)、のち雄久と名乗った。
一説によれば前田利長・前田利政は雄久の従兄弟にあたるとされ[2]、実際に弟の太田長知(ながとも、但馬守)が利長に仕えている。



ー 生涯 -
土方氏は源頼親に始まる大和源氏(宇野氏)の流れを汲む家柄であり[6]、父の代から織田氏の家臣[7]であり、雄久は織田信長とその次男の信雄に仕えた。天正4年(1576年)の三瀬の変では田丸城での北畠一門粛清に関わった。信長のもとでは伊賀国平定で功を挙げ、同12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは信雄の命令で家老の岡田重孝を殺害した。これらの功績から、信雄より尾張国犬山に4万5000石の所領を与えられた。天正18年(1590年)、小田原征伐にも従軍し、夜襲を行ってきた北条氏房の軍と戦い撃退している[8]。小田原征伐後、信雄が改易された後は、豊臣秀吉の家臣として仕え、1万石の所領を与えられた(後に2万4000石まで加増)。
慶長3年(1598年)、秀吉が死去した後は豊臣秀頼に仕えたが、慶長4年(1599年)の徳川家康と本多正信主従が企んだいわゆる[要出典]「幻の家康暗殺計画」で、家康の暗殺を企でたとして改易され、大野治長と共にその身柄を常陸国の佐竹義宣に預けられた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い前の会津遠征で治長と共にその罪を許されて家康に仕え、従兄弟の前田利長を東軍へ勧誘する使者を務めた功により、同年越中国布市(富山市布市)に1万石の所領を与えられた(布市藩)。のち越中の所領は能登国石崎(七尾市)ほか同国内散在所領1万石(実高1万3000石)に替地され、下総国田子に5000石が加増され、陣屋は田子に移された(これをもって能登石崎藩の成立とする説(『大日本史料』慶長13年11月13日条 土方雄久卒伝)と、下総田子藩の成立とする説がある)。晩年は徳川秀忠の伽衆となり、秀忠は外桜田の雄久邸にたびたび御成を行った。
慶長13年(1608年)、56歳で死去した。過多な喫煙による咽頭の病気が原因と伝える。法号は功運院建忠(『大日本史料』土方雄久卒伝)。長男の雄氏は既に伊勢菰野藩1万3000石を得ていたため、雄久の遺領は秀忠の近習だった次男の雄重が継承した。三重県三重郡菰野町見性寺に位牌がある。


以上、Wikiより。



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