速水守久 (はやみ もりひさ) | げむおた街道をゆく

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速水 守久(はやみ もりひさ、生年不詳 - 1615年6月4日(慶長20年5月8日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。幼名は勝太。通称少太夫。名は他に時久・種久・時之・種之など。甲斐守。祖父速水實政。父速水時久、子に守治・宗久・保久・貞久。



ー 生涯 -
はじめ近江国浅井郡の土豪であり(速水城)、浅井氏に仕えた。滅亡後にお市の方の子お茶々らの家臣として主従、羽柴秀吉に仕え、近習組頭、黄母衣衆となる。
小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに歴戦し、朝鮮出兵では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務めた。
平時には秀吉の身辺警護にも当たった。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増された。
秀吉死後も秀頼に仕え、七手組頭兼検地(越前)奉行として活躍。旗本部隊の中核を担った七手組の筆頭となる。
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘問題が起こり、和平交渉に奔走した片桐且元が逆に内通を疑われるようになると、その調停に尽力する。結局且元は大坂城を退去させられ、その後も続いた豊臣家中の調停に努めた。
大坂冬の陣が始まると、鴫野の戦いで上杉景勝の軍勢相手に奮戦。同様に夏の陣では天王寺の戦いで真田信繁らと並んで藤堂高虎を蹴散らすなど活躍したものの、衆寡敵せず大阪城に退却した。
千姫教育係であった守久は千姫を無事に徳川陣屋に送り届けた。徳川家康に秀頼らの助命を嘆願するものの聞き入れられることはなく、自害する秀頼の介錯(毛利勝永とする説も)を務め、殉死した。



ー その他 -
且元の代わりに和平調停役を買って出た。だが且元の疑いは晴れることはなく身の危険を感じ武装したまま家臣100餘名を連れだって下城。守久は且元が大坂城を後にする時その護衛をしている。
茶人古田織部より手ほどきを受けた。
夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦(1615年5月7日)では遊軍として真田幸村隊の殿を勤めている。
天守閣が炎上、速水守久が先導して万が一の場合は、と打合せられていた山里曲輪の朱三矢倉へ、秀頼・茶々・千姫・大野治長ら側近30名程を誘導。千姫教育係であった守久は千姫を無事に徳川陣屋に送り届けた。徳川陣屋にて秀忠より褒美として馬具一式、槍、金を下賜されている[1]。


以上、Wikiより。



速水守久