羽柴秀長 (はしば ひでなが) | げむおた街道をゆく

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豊臣 秀長(とよとみ の ひでなが、とよとみ-) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
豊臣秀吉の異父弟(小和田哲男の『豊臣秀吉』では同父弟)。秀吉の信頼厚くその片腕として辣腕を揮い、豊臣政権において内外の政務および軍事の両面で活躍を見せ、天下統一に大きく貢献した。
最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であった。豊臣秀吉政権で徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった。



ー 生涯 -

織田信長の時代
天文9年(1540年)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。幼少時に秀吉が家を飛び出したため、面識は少ないと思われる。秀吉に仕え始めた時期の正確な記述はなく、秀吉とねね(高台院)との婚礼(永禄7年(1564年)の後という説が多い。
斎藤龍興との戦いでは、合戦に参加する秀吉に代わって城の留守居役を務めることが多かった。
天正元年(1573年)、秀吉が浅井氏を滅ぼした功により長浜城主となると、城代を務めることもあった。この数年後には秀長の右腕となる藤堂高虎が仕官し、この主従関係は秀長の養子である秀保が早世するまで続いた。この時期から、秀吉と丹羽長秀または織田信長から一字ずつ貰って長秀(後に秀長と改名)の諱を使用し始めたと思われる。天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、秀吉の代理人として長島一向一揆討伐に出陣する(『信長公記』)。
天正3年(1575年)、羽柴の名字を与えられる。[1]
秀吉が織田信長の命令により中国攻めの総司令官となると、山陰道及び但馬国平定の指揮を委ねられる。黒田孝高宛の秀吉直筆の手紙に、信頼の代名詞として「小一郎」(秀長の通称)の名が出るなど、秀吉陣営の最重要の人物に成長する[2]。天正5年(1577年)に秀吉に従い播磨国に赴き、その後は但馬攻めに参戦した。竹田城が斎村政広によって落城(竹田城の戦い)すると、城代に任命される(『信長公記』)。
天正6年(1578年)に東播磨地域で別所長治が反旗を翻し、兄と共に制圧に明け暮れることとなり、動揺により支配の後退した但馬を再度攻めることとなった。同年、黒井城の戦いに援軍として参戦する。天正7年(1579年)、別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃する。続いて淡河城を攻めるが、淡河定範の奇策により撤退した。しかし定範が城に火を放ち、三木城に後退したため補給路を断つことに成功する(三木合戦)。
天正8年(1580年)1月に別所一族が切腹、三木合戦が終戦する。同年、秀吉軍が山名氏の但馬出石城・有子山城を落城させ、当主・山名祐豊を滅ぼし但馬国平定が完了する。秀長は出石城主となる。
天正9年(1581年)3月に毛利家から吉川経家が鳥取城に入城する。秀吉は鳥取城を取り囲み、兵糧攻めが開始される(鳥取城の戦い)。秀長も鳥取城の包囲する陣城の一つを指揮する。同年10月、経家の切腹により終戦する。
天正10年(1582年)4月、秀吉軍は備中高松城を包囲、その後水攻めを行う(備中高松城の戦い)。秀長は鼓山付近に陣を張り参戦する。6月には水攻めの効果により、城主・清水宗治が切腹する。

秀吉の時代
天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長が明智光秀による謀叛(本能寺の変)で死亡すると、秀吉軍はすぐさま戦闘状態であった毛利家と和睦協定を結び、畿内へ撤退を開始する。秀吉のこの有名な「中国大返し」に従って、秀長も山崎の戦いに参戦、黒田孝高と共に天王山の守備にあたる。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦する。美濃守に任官し、播磨・但馬の2ヶ国を拝領して姫路城を居城にした。
天正12年(1584年)、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きる。秀長は守山に進軍し、家康と連合を組んでいる織田信雄を監視した。信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉に赴いている。この戦いでは甥の羽柴秀次が失態により秀吉に激しく叱責されたが、その後の紀伊・四国への遠征では秀長と共に従軍し、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力した。
天正13年(1585年)、紀州征伐では、秀次と共に秀吉の副将に任命される。紀州制圧後、秀吉から功績として紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられる。同年、和歌山城の築城時に藤堂高虎を普請奉行に任命する。また紀州征伐で豊臣軍を悩ませ続けた湯川直春を、大和郡山城で毒殺したという。
同年6月、四国攻めでは病気で出陣できない秀吉の代理人として、10万を超える軍勢の総大将に任じられる。しかし長宗我部氏の抵抗も激しく、また毛利氏・宇喜多氏の合同軍のため侵攻が遅れ気味となった。心配した秀吉から援軍の申し出がなされたが、秀長は断りの書状を秀吉に送った(『四国御発向事』)。同年閏8月、長宗我部元親を降した功績を賞され、播磨国、但馬に、大和国を加増されて、合計100万石で郡山城に入る(かつての領主・筒井定次は伊賀国へ転封)。秀長の領国である紀伊・大和・河内地方は寺社勢力が非常に強く、決して治めやすい土地柄ではなかったが、諸問題の解決に時に苛烈な処置を辞さなかったものの、後に大きな問題も残さなかったところを見ると、内政面でも辣腕であったことが伺える。現に大和入国と同時期に盗賊の追補を通達(廊坊家文書)、検地実施(諸家単一文書)、全5ヶ条の掟の制定(法隆寺文書)を行うなど多くの政策を実施している。また、大和の陶器・赤膚焼を開窯するなど広い政策も行った。このころ豊臣の本姓を与えられる。[1]
従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称される。
天正14年2月8日(1586年3月27日)、摂津国有馬湯山へ入る(『多聞院日記』)。この頃から体調が崩れやすくなったと思われ、この後も数度にわたり湯治に訪れている。また、湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者が訪れている。同年10月26日(12月6日)、上洛を拒み続けた徳川家康が大坂に到着し、秀長邸に宿泊した。その晩、秀吉自ら家康の前に現れて臣従を求める出来事が起きる。これを記す文献は多く存在する(『家忠日記』、『徳川実紀』)。
天正14年(1586年)、大友宗麟が島津氏の圧迫により窮地に陥り、秀吉の参戦介入と救済を求めて上洛。秀吉は宗麟を親切にもてなし「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べた[3]。同年8月、奥熊野の地侍たちによる一揆が発起する(北山一揆)。秀長も出陣したが、豪雪のため征伐は留まった。天正17年には一揆は鎮圧された。
天正15年(1587年)、九州征伐では日向方面の総大将として出陣する。耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛ける(根白坂の戦い)。継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・黒田孝高が合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退する。その後、島津家久が講和に秀長を訪ね、日向方面の進軍は終了する。この功績により、8月に従二位権大納言に叙任された。しかし秀長は、九州征伐に参加した大名に割高な兵糧を売り付けようとして秀吉に止められている。
天正16年(1588年)、紀伊の雑賀において材木の管理をしていた代官・吉川平介が、秀長に売買を命じられた熊野の材木2万本の代金を着服する事件が起きた。秀吉の耳に届き、吉川が処刑される。秀長自身も責任を問われ、秀吉から翌年の年頭の挨拶を拒否された。
天正17年1月1日(1589年2月15日)、大坂城にて諸大名と共に、秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う[4]。この後、秀長が大坂城を訪れたという記録はない。天正18年(1590年)1月頃から病が悪化、小田原征伐には参加できなかった。10月頃に秀次が秀長の病気回復の祈願のため談山神社に訪れており、両者の関係も良かったと思われる[5]。
天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長は大和郡山城内で病死した。享年52。男子がいなかったため、家督は養嗣子になっていた甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保に継がせた[6]。大和郡山城には金子5万6000余枚、銀子は2間四方の部屋に満杯になる程の金銀が備蓄されていたという(多聞院日記)。
戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」。現在の大和郡山市箕山町に「大納言塚」が伝わる。また大阪市中央区の豊國神社には、兄・秀吉及び甥・秀頼と共に祀られている。
秀長の家系は4年後、秀保の早世により断絶した[6]。



ー 人物像 -

秀長は温厚、真面目、寛容であり、豊臣秀吉の名補佐役であった[7]。秀長は縁の下の力持ちの存在であり良きブレーキ役でもあった。そのため秀長が死去すると秀吉の前途には暗雲がたれこめ始め、秀長の死去から1か月後には千利休が切腹、さらに朝鮮出兵を始めて諸大名を疲弊させ[6]、後継者に迎えていた秀次一族を虐殺するなど豊臣政権は秀長の死で秀吉により破壊されていく事になる。
もし秀長が長命を保っていたならば家康に豊臣家を滅ぼされる事は無かったと言われる事が多い[6]。秀長の死は平氏政権の平清盛が重盛を失った状況と同じとされている[6]。


以上、Wikiより。



羽柴秀長