宇喜多詮家 (うきた あきいえ) | げむおた街道をゆく

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坂崎 直盛(さかざき なおもり) / 宇喜多 詮家(うきた あきいえ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。宇喜多忠家の長男。宇喜多直家の甥にあたる。



ー 生涯 -

宇喜多家時代と関ヶ原
従弟の宇喜多秀家に仕えた(知行2万4000石)が、折り合いが悪かった。そのため慶長5年(1600年)1月に宇喜多氏において御家騒動が発生すると、秀家と対立することとなる。徳川家康の裁定によってそのまま家康のもとに御預けとなり、直後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後その功績により石見浜田2万石を与えられ、後に同国津和野に3万石(のち大坂の陣の功により加増され4万3468石)を与えられた。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降坂崎直盛と名乗るようになった。

千姫事件
元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城の際に、直盛は家康の依頼を受け(実際には家康は千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないとされる[1])、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出した(実際には千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、とする説が有力)。直盛は火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたことで、千姫奪取計画を立てる事件を起こしたと言われている(ただし火傷に関しては俗説とする説も有力[1])。
この事件は秀頼死後、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに[1]、突然姫路新田藩主本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てたと言われる[2]。
しかし、計画は幕府に露見した。幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否したため、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したとも伝わる[2]。また、立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われており、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている[2]。
一方、当時江戸に滞在していたイギリス商館長リチャード・コックスの日記によれば、

1616年10月10日夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり。

とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(中村家などが子孫として続いている)。
関ヶ原の戦いに敗れ、改易された出羽横手城主小野寺義道は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後、13回忌に義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく「坂井出羽守」と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる(一説に一時、坂井(酒井)を名乗っていたとも言われる)。



ー 人物 -

藩政においては、側溝を多く作ったことによる蚊の大量発生に備えて、鯉の養殖を創始したと伝えられる。また、紙の原料であるコウゾの植樹を奨励するなど、のちの津和野藩に与えた影響は大きい。
直盛の性格は、直情的で愚直、偏執気質だった[1]。宇和島藩主で縁戚にあたる富田信高が直盛の家臣を殺した宇喜多左門を匿っていたのを知ると引き渡しを求め、拒否されると武力衝突覚悟で一戦に及ぼうとしたり[3]、引き渡しの一件を家康や秀忠に訴えてまで求めたりするなど、性格にかなりの執拗性が見られる[4]。なお最終的に、幕府は直盛の訴えを受け、富田を改易に処した。


以上、Wikiより。



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