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オルタナティブな学びを探求する

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圧倒的な“学びの原体験”をはたらく全ての人に 社会人教育3.0

テーマ:
2016年の終わりに。2017年に向けて。

 

産業革命以降の近代化の過程で、日本で起きたのは、農村から地方都市(marginal area)を経て東京などの中核都市への人口移動だった。

 
そして都市ではありとあらゆるものが区分けされてきた。
 
区画整備された都市。
生産する人と消費する人。
働く場と暮らす場。
働く時間と暮らす時間。
自分が所属する組織と他の組織。
管理する人と管理される人。
自分の役割と他者の役割。
自分の座席と他人の座席。
 
都市に暮らすということは、時に物理的に、時に社会構成的に(認識上のものとして)細やかに存在する境界線で区切られgrid(格子状/碁盤目)化した世界に生きることとも言える。
 
そんな緻密に整備されgrid化した都市を抜け出し、地方を訪れる時に感じるのは、都会にはあるはずの境界線がないことへの驚きだ。働くと暮らすということが近く、空間的にも時間的にも余白があり、その余白がまた境界線を曖昧にしている。「そうか、本来、社会とはこんなにもgradationなものなのか」と何度となく考えさせられる。そして、働くとは何か、暮らすとは何かについて考えざるを得なくなる。2016年ほど、都市と地方とを行き来したことがなかったがために、常にそんなことを考え続けた一年だった。
 
昨今、この国で、エリートと呼ばれる人たちが起こそうとしていることの一つは、地方都市を経由した都市から地方への人口移動だ。東京一極集中と地方の過疎化によるインフラ問題を解消することがその目的だ。かつて産業化のために都市では人が不足していることが問題視されていたが、今は都市に人が増えすぎて問題視されている。人口とは少なくても、多すぎても問題になるようだ。
 
現実には、地方から都市への人口移動、とりわけ東京一極集中への傾向は未だ強まっている。一方で、都市から地方への移住する人の数もまた年々増加している。至る所で移住を推奨する情報が飛び交っている。そして都市から移住した人たちが織りなす地方での暮らしが<新たな豊かさ>の物差しとともに、上質なものとして描かれる。そして今、gradationな社会では、社会をgridなものにしていた境界線を越え、新たなる公(public)や共有資源(commons)を創造・共創しようとする挑戦が盛んに行われつつある。
 

gradation >>> grid >>> network >>> cluster

 
grid化した社会の枠組みを越えようする営みは必ずしも新しいものではない。例えば、grid化しスペクタクル(視覚的に派手で記号化した)な表現で溢れた近代社会へのアンチテーゼとして1952〜1972年にかけて活動していた、Guy Debordらシチュアシオニスト派の表現活動などがまさにそれである。
 
シチュアシオニスト派の表現活動は、未完にして終焉を迎えた。しかしシチュアシオニストの一部はシリコンバレーに移り住み、電脳世界の中でネットワークのように拡がりを見せている。そして、電脳世界で証明された集合知の効能が、今度は現実世界において、官民という垣根を超えた協働と共創から新たなる公を生み出そうという活動につながっている。
 
いつだって思想は先に誕生する。技術が発達することで、現実世界に思想は姿をあらわしていく。gradationな社会は、grid化し、network化していった。
 
さらに社会は変化し続けている。2016年、国際的にはbrexitやトランプの大統領候補選出など、エリート達にとって予想だにしなかった出来事が起きたのも記憶に新しい。エリート達にとって、本当にこれらの出来事が予想できなかったのであれば、そこに分断があるからだろう。
 
network化した社会は様々なエリート同士を繋ぐだけでなく、gridの中に押し込まれていた様々な人を繋げていき、様々なcluster(群れ)を生み出した。それらのclusterの内部では、SNSなどを通じて豊富な情報が行き来する。一方で、cluster同士は、こちら側とそちら側といった分かりやすい二項対立の関係にないが故に、互いのことを認識しずらい。あるいは、自分が特定のclusterの中にいることすら認識できない時すらある。

トランプの大統領選出が決まった時に、帰国子女の友人が「信じられない。私のtime lineには誰一人として彼を支持していた人はいなかったのに。なぜこんなことが起きたのかが全く理解できない。一体誰が彼を支持したの?」と呟いていた。彼女にはトランプを支持するclusterを認識できなかったようだし、そもそもそんなclusterがあることすら信じられないようだった。より自分に近しい志向性を持つ人どうしが繋がり合い、cluster化し他と分断されていくことで、自分とは異なる志向性を持つ人たちのことを認識できず、見えなくなってしまっている
 
grid化した都会、gradationなままの地方都市。
そんな都会と地方とを覆うnetworkによってcluster化した社会。
そんな社会のあり方が混在する世界に僕らは生きている。
 
cluster化が進み、世界は一層分断され、カオスになっていく。理性的・合理的な一部のレイヤーが世界というシステムをデザイン・統治し、残りのレイヤーがシステムに参加するという分かりやすい二項対立型の社会構造は崩れ去っていこうとしている。

そんなカオスの中において、僕らはお互いが持ちうるリソースを持ち寄り、新たな文化や価値を生み出していくことができるのだろうか。先行きの見えない状況に悲観する人も増えつつある。でも、僕はいたってポジティブにこの状況を迎えている。なぜならば、わかりやすく引かれた境界線を越えるだけではなく、日々生み出されていく分断を越え、共創を生み出していくことこそ、この時代を生きる僕らに与えられた権利ともいえるから。そして何より目の前の現実を能動的に楽しむことができれば、僕らは繋がり合えるし、自分たちが望む世界をデザインできると確信しているからだ。
 
 

分断された世界を「遊び」でつなげ

 
空間と時間の区別を解消するために、シチュアシオニスト派が求めたのは、「祝祭の場」を生み出すことにあった。
 
シチュアシオニスト派の最も象徴的かつ壮大な挑戦といえば、コンスタント・ニーヴェンホイスの「ニューバビロン」だろう。コンスタントが描いたニューバビロンにおける、理想的な住人(ニューバビロニアン)は、定住する家を持たず、労働と余暇という二元論を乗り越えたホモ・ルーデンス(遊戯人)である。そして、ホモ・ルーデンスが遊戯生活そのものが新たな価値を生み出していく、とした。
 
ホモ・ルーデンスという概念を提唱したのは、ヨハン・ホイジンガは言う。

 
遊びはものを結びつけ、また解き放つ

と。そして、

文化は「遊び」として始まるのでもなく、「遊び」から始まるのでもない。「遊びの中」にはじまるのだ。

お互いがお互いのことを認識することすらできないcluster化していく社会において、お互いが持ちうるリソースを持ち寄り、新たな文化や価値を生み出し続けるためにこそ、必要となってくるのは「遊び」なのかもしれない。分断化された社会をつなぎ、新たな価値を紡ぐための社会的な機能が遊びの中に備わっているのではないか。
 
現に、分断を「遊び」でつなぐことから、新たな価値を創造しようとする営みは、様々なところで生まれつつある
 
例えば、コペンハーゲンのone love city、ミラノの旧オリンダ精神科病院のサマーフェスティバル、ストウマーケット(イギリス)のmuseum of east anglian life(meal)などは、公共の場や閉鎖施設を舞台に「遊び」を生み出し、地域の中で分断化された様々な人達を交流させ、考えるべき問題に対する議論が進む起爆剤になっている。
 
僕は、そのような「遊び」を社会の中に生み出す存在でありたい。
あるいは、そのような「遊び」のような存在でありたい。
 
遊びの中で繋ぐ人であり続け、遊びの中から紡ぐ場であり続けることから。
 
真摯に向き合い、エレガントに遊ぼう。
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