Facebookにこんな投稿をしました。
発達障害の記事に添えた一文です。

「生徒があまりに服薬を拒むというので、試しに1錠飲んでみました。
死ぬかと思いました。
大人しくなるというより、動けなくなっているだけ。
ということもあるのではないかと思います。

子ども達に無理やり飲ませている大人の方も
飲んでみたんですよね?」


色々問題があったようです。
専門医をはじめ
多くの方から指摘頂きました。

・私の健康上の問題
・法律上の問題
・問題提起の仕方の問題

頂いたご意見は大きく分けて3つ
以下それぞれに対する
私なりの考えです。


・私の健康上の問題

症状に合わせて処方された薬
それを他人が服用する。
良いはずがありません。
それは分かります。
と言いたいですが分かりません。

一人一人の患者の症状に合わせ
丁寧に調合しているのではなく
出来合いの錠剤を
いくつかの種類から選んで
量を調整しているだけ。

私から見たら十把一からげです。
毎日子どもに飲ませるそんな薬。
「大人が一錠飲んでも大丈夫だろう」
そんな素人判断で飲みました。
そして強烈な頭痛と吐き気とメマイ。

「気持ち悪くなるから飲まない」
そう言って服薬を拒む子がいます。
それは嘘、大げさ、仮病ではなく
本当に苦しいのだと実感しました。


誤解のないように
これは薬の賛否の話ではありません。
服薬により大変な状態から
自分を取り戻し落ち着く。
そんな現場を何回も見ました。

薬があって、その力を借りて
毎日上手く生活している人もいます。

ここで私が言いたいのは
薬は合う人合わない人がいる
ということです。


ろくに診察もせず薬を出し
薬の不安を言うと怒り出すことで
有名な医者が新潟市にいます。
そういう人にこそ飲んで欲しい。

苦しめば考えを改める
かも知れませんし
効けば薬の無理強いを止める
かも知れません。


・法律上の問題。

他人が処方されたものを飲むことは
薬事法違反だそうです。

それと
保険適用の薬を他の人間が飲む。
これは詐欺行為かと思います。

逮捕でも、投獄でも、拷問でも
なんでもしたらいい。
そんなのは覚悟の上です。


・問題提起の仕方の問題

「子ども達に無理やり飲ませている
大人の方も
飲んでみたんですよね?」

このような書き方では
まず親に飲めと
言っているように聞こえる
という意見も頂きました。

私ごときに言われなくても
そんなに苦しいのかと
自ら飲まれている親御さん
少なくないです。

無理やり飲ませているとは
薬の害は大丈夫だとしている
医療関係者。
服薬を再登校の条件にしている
学校関係者です。

服薬後の変化を毎日見守り
生涯お子さんに寄り添う
そんな覚悟のある親御さんと
自分の都合で服薬を強いる
大人達とは全く異なります。

私が薬を飲んで死にそうになった
という話を聞き
服薬を止めたケースもあります。

中には服薬が登校の条件
というケースもありました。
その場合は
飲んでいることにして登校。

数日経たないうちに
「薬を飲んでから落ち着いて
とても良い子になった」
そう言われたケースもあります。

薬など飲まなくてもいい子だった
周りの見方接し方が変われば
本来の姿
いい子に戻るということです。


他にも実際に服薬を強いられ
飲んだことにして生活を続け
学校を卒業し社会と関わっている
そんなうちの卒業生。
卒業生以外にも相談にこられた方
少なくないです。


日本には合法的に若者や
立場の弱い人を矢面に立たせる
文化があります。
そんなものに
私は馴染む気はありません。

名言

テーマ:

数年前に叔父が他界しました。

私には多くの叔父叔母がいます。
その中でも特に
印象的な叔父でした。

 

叔父は経営者でした。
妙に羽振りがよく
正月は酔いが回ってくると
追加のお年玉。
世間一般の相場(?)より

「0」が一つ多かったです。


子どもの頃はそんなことが印象的
と思っていましたが
改めて思うと叔父が語る一言一言
それがとても心に残っています。
正に名言、時に迷言でしたが。


他の人とは全く異なる
視点を持っていました。

私が商船学校に入学する時

 

多くの親戚が

「最後まで挫けずにがんばれ」

と言ってくれた中で唯一

「ダメなら帰って来い
なにやっても生きていける」

そんな言葉をかけてくれました。


厳しさを感じる叔父でしたので
そんな優しさを意外に思いました。
嬉しかったです。

 

叔父も中学を出て直ぐ
工場に丁稚に出されたそうで
それがあっての言葉だったのか?
今となっては分かりませんが。


私が地元船会社に入ったこと
誰よりも喜んでくれました。
そして辞めた時は

「自営業もいいもんだぞ
金に困ったらいつでも来い」

そう声掛けしてもらいました。


世の常識や他の叔父叔母の考えと
常に真逆の考えと意見でした。

 

 

名言

辞書によると

「事柄の本質を
上手くとらえた言葉」(広辞苑)

とあります。

 

どんなものがあるか?
・気付けていなかったことを
言葉にしたもの

・漫然と分かってはいたものを
明確に言葉にしたもの

・今までの優劣善悪の概念を
反転させたもの

 

こんなところでしょうk。
他にもあるでしょうね。

私が考える名言の条件は

「新しい価値観に触れられて
受け容れてもらえるもの」

です。


広辞苑の定義

「事柄の本質を捉え」

これは抽象的に見るという意味です。
従来とは異なる高い視点で見ること。
新しい価値観に触れることです。

そして

「受け容れてもらえること」

 

新しい価値観に触れるとは
今までの自身を否定すること
破壊することでもあります。

伝える側の納得させる力量と
受け取る側の受容する力
その両方が必要です。


この時にこそ伝える者の
日頃の行動が問われます。

「姿勢で伝える」

とはそういうことでしょう。

 

私が思う名言の定義

「新しい価値観に触れられて
受け容れてもらえるもの」

新しい価値観に触れて
受け容れたら
その人は本質的に変わります。


ですから名言を更に抽象的に表すと

「その人が変わる言葉」

ということにもなります。


その人が変わる言葉とは
行動に繋がる、感動させるではなく

ゆっくりでも僅かであっても
一度触れたことで忘れられず
意識せず、時に思い出し
なんらかの影響を受け続ける
そんな言葉です。

 

今思うこと。
発して受け取ってもらった言葉は
死んだ後も誰かの中で生き続ける。

そんな言葉そのものがその人の人生
なのかと思いました。

 

『聴き方教室』

テーマ:
毎月末は
『聴き方教室』が続きます。


月に一度の場所に行き
月に一度の人に会う。

「あぁ、今月も終わるか」
と思います。


長いところで7年目。
7年前といえば
まだ教室を手探りで運営していた頃です。

その頃からの参加者様もいらっしゃって
私が学ばせてもらっていたんだなと思います。


各会場特徴があります。
講師が吊るしあげられる
じゃなくて、
学んでいるシーンを見る自信がない方は
オススメできない会場もあります。
詳細はお尋ねください。


私が学んできたことの最たるは
たとえ今どうであっても
大丈夫だということです。

そんなこと、
参加者様とそのお子様方から学んできました。

そして今の『聴き方教室』は
それをお伝えする場。
それで少しでも一時でも気持ちが楽になっていただけたら。
それが一番の目的です。

少しでも、一時でも
それで良いのか?
よく尋ねられますが
全てはそこからです。




明日は県央
19:00-
吉田産業会館

テーマは「気付き」
気付こうとするより、気づかせない何かを探る方が
気付きやすくなるようです。

明後日は長岡
10:00-
さいわいプラザ

テーマは「赦し」
赦すとは二度と怒りを感じないことではなくて
ゆるしたいと思うことそのものが
赦したことではないでしょうか。


同日午後は柏崎
14:00-
中通コミュニティーセンター

テーマは「自己対話」
苦しんでいる人がなにかに気づき立ち上がる
その過程で必要な物が自己対話です。
聴くとはその手伝いをすることです。


来週月曜日は新潟
10:00-
『寺子屋ありがとう』

メインテーマは言葉
サブテーマは「受容」
受容的な雰囲気で終えられますように。


来月1日からは
web『聴き方教室』

30日から隔週3回
福島県本宮市で行います。




考える

テーマ:
昨日は方眼ノートのワンディ講座

当講座
「考えるとは?」
ということがテーマです。

考えるとは?
どういうことだと思われますか?




随分前になりますが
生徒に言われました。

生徒:「先生も大変ですね、いつも相談ばかり受けて
時々大変な相談もあるんでしょ?」

私 :「あるよ」

生徒:「今までで一番大変だった相談はどんなの?」

私 :「それは・・・
高卒認定試験受けないって言われたことかな」

生徒:「ははは、あれはそう言ったらどう言うか試しただけ」


こんなものみたいです。
本当はその時はそれだけじゃなかったはずですが。




話は変わって
冒頭の問いかけについて

考えるとは?
様々な意味付けがあると思います。


「全ての思考は事実を基点に進めていかないと、事実とはかけ離れた結論に至りやすく、そうした結論はなんの意味ももたらしません」

これは「二重螺旋」で有名なジェームス・ワトソンの言葉です。

※「頭のいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?」
高橋政史著 P173


「事実を基点に」
基点である事実を知るには
事実でないものを知らなければなりません。

思考に含まれるもであって事実でないもの。
それは解釈です。

ということで
考えることの基本は事実と解釈を分けることから。



人の苦しみ。
その原因の一つは事実と解釈を混在させること。
それが人を混乱させ特定の受け止め方意味付けをさせ苦しめる。


人が訴える苦しさがある。
そこには二つの要素事実とその人の解釈があり
それを分けるだけで頭の中を埋め尽す苦しさが少しだけ整理される。


気持ちにも余裕ができる。
客観的に現実を見ることができそれだけで解決できるものもある。


聴くとは
解かろうとするとは
起きた「事実」とその人の「解釈」を分けてフィードバックすること。



「高卒認定試験受けない」
そう言った事実。

そこに

「受けたくないんだ」

残念な気持ちで受け止めることが私の解釈。


「事実」と「解釈」。
分けるべきはまずは目の前の人ではなく
私自身の事実と解釈でした。

目の前の人が言った言葉。
その言葉を口にしたことは全て事実です。
それをこちらが勝手に意味づけして事実から乖離させる。


そんなことを避けるためにも
自身の事実と解釈を分けること認識すること。

そうすると
意外と冷静に聴けますよ。

聴いていて取り乱す時は
受け止め方にこちらの事実と解釈を混在させるからです。


今週は県内で『聴き方教室』が続きます。
詳細はこちらをどうぞ

http://goo.gl/xAdP9T

【参考書籍】
頭がいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?/かんき出版

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信じて待つという逃げ

テーマ:
「信じて待つという逃げ」

以前『聴き方教室』で何気なく言った一言が
物議を醸しました。



誰かに対し
このままではよくない。
ということは分かっていても
その人に言いづらくて言えない。


そんな時によく使う言い訳が
「信じて待つ」
というもの。

という意味が一つでもう一つ
更に根の深い形の逃げがあります。


それは
「信じて待つと言いながら
悩むことによる逃げ」
です。


分かりにくいですね。


「信じて待つ」
と言いながら言うべきを言わず、改めるべきを改めず
目の前の現象から目を逸らし逃げている時
心中穏やかではありません。


特に教育、躾に類することは本能にはないものです。
基本的なことを伝えなければ教えなければ
信じて待っても変わりません。
本能にないことと、依存症の状態の時は
信じて待っても自身の力で立ち上がることは
難しいかも知れません。

身を置く環境によっては
状況は改善どころか悪化します。


そんな時は見守ると言いつつ
心中穏やかではありません。

これ自体も問題ですが
さらに大きな問題があります。
心中穏やかでいられない状態を手放せないことです。


「穏やかでない状態を手放せない」

それは
穏やかになるとさらに大きな問題に
気付いてしまうから。
対峙しなければならないから。



「信じて待つ」
そう言って目を逸らしている問題。
そしてその背後にさらに大きな問題がある。
ということはないでしょうか。

私にはたくさんありました。
今もたくさんあるはずです。

考えなくても良い枠

テーマ:
無意識でいるとついストレスを避けようとします。

今の日本で日常的にあるストレスで
避けても、逃げてもたいして影響のなさそうなもの。
簡単に避けられるもの。
なんだと思われますか?


私が思うに一番は
「考えなければならないこと」
です。


本来考えなければならないのに
考えずにすます。
今の日本人その傾向が強いと思います。



その原因を戦後の教育のせいにしたり
責任丸投げの考えもありますが

その理由の最たるは、考えなくても済む環境に
長年自ら身を置いてきたからだと私は考えています。



考えさせられないではなく、考えなくてもいい環境に身を置いた結果です。
これは考えてもいいということでもあるのですが
あえてストレスを受け入れるには、ある程度の意志が必要です。


今の日本は決して考えられない環境ではない。
むしろ他国と比較すると
考えることも
考えたことを発することも
それを元に行動することも
今はまだ自由です。

考えなくても問題なかったから
むしろ考えると余計大変なことになるから
それで考えない選択をしてきただけではないでしょうか。
そしてその状態は変えようと意識しなければ
これからも続くでしょう。


社会で、会社で、学校で、地域で、家庭で
上に立つ人は自身に都合の悪いことは考えて欲しくない。
ということもあるでしょう。

考えさせないために自身にとって都合の良い
思考の「枠」を作りたがる人もいます。
特定の考えだけを触れさせたり
他の考えに触れることを禁じたり。
これが刷り込みや強制です。


これは策としては下の下。
気持ちに余裕がある人からは
反感を持たれ抵抗され余計考えさせてしまいます。

圧政は覆される。
人から力ずくで思考を奪うことは不可能です。
これは歴史も証明しています。


考えさせない為の上策とは、考えなくても済む環境を与えること。
そんな環境を整えるほうが簡単なのかも知れません。



最近私があちらこちで言っていること
考える人を育てる為の改革
「教育の2020年問題」
このままでは失敗するでしょう。

なぜか。
教育で子ども達だけを変えようとしているからです。
「ゆとり教育」の失敗と同じです。

仮に新制度の教育を受け考えられる人が育っても
社会に出た瞬間考えられない人達が作る環境が
考える人を叩くから。
自分たちの安住の地を脅かすからです。


考えられる人を育てる教育の前に
日本に考える文化を根付かすことからです。



では具体的にはどうやって?
子ども達ではなく
社会環境を創る大人から考えることを取り戻すこと。

考えることを取り戻すとは
「考える」という言葉の定義を明確にし
その「考える」という実践を繰り返し
なんらかの「考える」ことによる結果に繋げること。
そこからだと思います。


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枠 お片づけ

テーマ:
この春の教室移転時に
お片付けの先生からご指導いただきました。


教えていただいた一番大きなことは
『枠』創るということです。


引っ越しからまもなく6ヶ月。
今もそれなりに片付いているのは

『枠』を設けたお陰です。
あくまで私の考えですが。


なにゆえ『枠』なのか?
その前に『枠』とは。



ここで私が言う『枠』とは
狭義では置き場所を決めることです。

どこになにを片付けるか
決めることです。


使ったあと
片付ける場所が決まっていると
なにも考えずに
それが習慣化されると
無意識に片付けられます。


この無意識がポイントで
脳を浪費させずに済みます。
ストレスの軽減に繋がります。



毎回どこに片付けるか悩む
このストレス故に片付けられなくなる。

今さらながら
そうだったのかなと思います。



「毎回創造性豊かに片付けたい」

という人は別ですが

「いつも整理整頓したい」

ということであれば
置き場所を決めることは
とても有効なようです。



さらに
その前段階でお片付けの先生には
動線と見え方を元に片付けやすい配置
を考えていただきました。

どのような枠をどこに配置するか。
動線と見え方を元にした配置
これが「仕組み」です。

この仕組が私が思う広義の「枠」です。


動線を意識するから
脳だけでなく行動のストレスも軽減されます。


そしてもう一つの

「見え方を考える」

これは人から綺麗に見える
という意味で受け止めていましたが
そうではなく
私自身が片付いている状態が視野に入りやすく
いつの間にかそれが私の中の当たり前の状態
となってしまったようです。

少しでも乱雑に物が置かれていると違和感が生じます。
その違和感を放置している方がストレスで
ついつい片付けてしまいます。


どんな枠をどこに置くか。
この仕組みづくりがとても有効でした。

ルーティンワークですむものは
仕組み化

それがあってはじめて独創性を求められることに
エネルギーを注ぐことができる。
私の中で一番の発見でした。


仕組み化できるもの
お片づけ以外でも、私にはたくさんありそうです。



お片付けの先生のブログ
快適に暮らすための
心穏やかに豊かに過ごすための
そんなヒントが書かれています。

http://ameblo.jp/sudukuri/

ご家庭に出向いてのアドバイス
片付け苦手な方には
そうでない方にも
プロの視点はおすすめです。

【参考書籍】

頭がいい人はなぜ、方眼ノートを使うのか?/かんき出版

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テーマ:
「人の行動の大部分が無意識で
習慣で行われている」

よく聞く話です。


確かにそうですね。
今は午後11時。
例えば本日の私の今までの流れ

遅めの8時起床。
準備をして家を出て
教室近くのタリーズ。

その後で
教室授業、訪問授業
夜10時帰宅。


その他にもあれをして、これをしてと
色々思い出せはしますが
改めて意識して思い出さなければ
そのまま記憶は消えるでしょう。

要は
無意識でやっていた。
ということです。



一つ一つ丁寧にやる
いつもと違う行動パターンをとる
そんな時は新鮮に感じます。

この新鮮さが頭を活性化する。
だから脱ワンパターン

これが良いこだと
思い込んでいました。



逆にあえて枠を作るメリットもあります。
枠があることで無駄な思考を省けることです。
それにより
大切なことにより意識を向けられます。


例えば
私は車で移動が多いです。
移動時間のロスと渋滞のイライラ防止のため
裏道を走ることが多いです。


最近私が使う裏道は
川沿いの土手上の道。
車も信号も少なく良い感じです。


ただし
道路は狭くセンターラインがありません。
場所によってはガードレールもありません。


対向車が来ると極端に減速して
やり過ごします。
意外と道幅には余裕があると
すれ違う時にはじめて分かります。

センターライン、ガードレール
これらの枠がないことで
随分気を使い運転していること
その時はじめて気づきます。



枠を外すメリット
枠を設けるメリット

双方から枠自体に良いも悪いもなく
設けたほうが良い場合と
無い方が良い場合と両方ある。

何らかの条件が両者を分けるだけ
のようです。



ではその条件とは

「意識を集中させる必要の有無」

集中してやるべきことは
他に意識が分散しないように
枠があった方が
より深く集中できます。


続きます


【参考書籍】
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「A Magic Box」の続き

テーマ:
今日は昨日の続きです

中学2年生の英語の教科書。
「A Magic Box」というテーマ。

3回だけ何でも望みを叶えてくれる箱がある。
既に2回叶えてもらった。
最後の1つ、なにを頼みますか?
という内容です。


教室立ち上げ間もない頃、
生徒に質問しました。
その答えが「SMILE」
笑顔です。


何でも何回でも望みが叶う。
それを望む理由はただ一つ。
幸せになりたいから。
笑顔で過ごしたいから。

そうであるなら、
最初から幸せを得られるもの。
笑顔を望めば良いではないか。
生徒の答えに感嘆しました。

叶えたいもの。
なにかを所有すること。
なんらかの評価を得ること。
多くの人がそう答える気がします。


幸せと笑顔
これは全ての欲望を包括しています。
それを最初から望めばいいことです。


では、なんでも、なん回でも叶う箱。
笑顔でいられるなら、
これに意味はないのでしょうか?

私はそうは思いません。
生徒相手に負け惜しみみたいですが。

これが欲しい。
こう評化されたい。
それを追い求め得る過程。
これも必要な意味あることと思います。

所有も評価も、
得れば得るほど更に欲しくなる。
そして一度得ると失う恐怖が生じる。

この繰り返しがあってはじめて、
それだけ求めてもしょうがない。
そう気づけるもの。

戦後から高度経済成長期を経て今迄。
そんな価値観が世間を覆っていました。
私もそれに踊らされていました。
そしてそれが苦しかった。


その苦しさに対峙してこその今。
最初から悩みなく笑顔で過ごせたら、


そして、
「SMILE」と答えてくれた生徒も
そんな過程を経なかったら
自分や周りの人がなにを求めているか
感じ取れなかったのかも知れません。


なるべく早く気付ける人が
頭のいい人。
なのでしょうね。

「A Magic Box」

テーマ:

中学2年生の英語の教科書で、
「A Magic Box」
というテーマがあります。

 

魔法の箱。
3回だけ何でも望みが叶う箱がある。

2回望みを叶えてもらった。

最後の1回。
あなたならなにを頼みますか?

そんな内容です。

 

アラジンの魔法のランプや、
ハクション大魔王と似た話です。

 

小学生時代別のストーリーを聞いて

私なりに考えての答え。


「何回でも望みを叶えてくれる箱」

 

そう答えていました。

意味は分かりますか?

これで残り1回ではなく

何回でも望みを叶えてもらえます。

 

今さらながら可愛げがない小学生ですね。
でも、これぞ本当の正解と自負していました。

 

何回でも何でも望み叶えてくれる。
そんな箱があったら、幸せでしょう。
ずっとそう思っていました。
 

 

ところが生徒と勉強している時に

生徒になにを望むか質問したところ
驚くべき答えが。

 

その生徒の答え。
なんだと思われますか?

 

 


答えは

 

『SMILE』

でした。

 

笑顔です。
英語で答えたところが粋です。

 

意味は分かりますよね?
恥ずかしながら

私は一瞬理解できませんでした。

お恥ずかしい。

 


「一つだけ叶うなら、なにを望みますか?」
この質問最近あちらこちらで良くしています。


色んな答えが返ってきます。
それらも一つ一つ全てが結局は、
幸せになりたいから。
笑顔で過ごしたいから。

 

私を含め多くの人は

なにか条件をあげ

それさえ叶えば幸せになれる。

そう思い込んでいます。

 

それを手に入れて本当に満たされるのか?

そう思いがちですが実際は

所有する者はさらなる所有を。
評価された者もさらなる評価を。
際限なく追い求めます。


それこそが社会の問題の根本原因となっている。

私はそう考えます。

 

笑顔に幸せになりたくて

何かを望むのであればそのまま笑顔に幸せに
なればいい。

 

では、
なんでも、なん回でも叶う箱。
笑顔でいられるなら、
これに意味はないのでしょうか?

私はそうは思いません。
生徒相手に負け惜しみみたいですね。


明日に続きます