根岸のおじさん
東京へ3日間、ひとっとび。
母親としての任務の間、半日母に付き合えと上野へ。
たまたまなんだけど、JR鶯谷の駅近くで根岸の散策コース発見!
このあたりは、お寺がいたるところにあって、お寺を中心にした散策なんだけど、
別にガイドさんがいるわけでなし、道端の壁にペタリと地図を貼っているだけ。
「どれどれ。」と見ていると、近くに正岡子規が住んでいたという「子規庵」がすぐ
そばみたい。
早速、路地裏をうろうろ。
書道博物館や子規庵があるというから、風情がある景色なのかと思ったら、そこは
右も左も前も後ろもホテル街。
「ほんまに、こんなところにあるんかいの。」
と半信半疑でいたところへ、突如地味~な建物出現。
「お~、子規庵。」
そこへ、
「子規庵へ来たんですか?」
と自転車で通りがかったおじさん。
ちょっと、ふうてんの虎さん風の口調で、そこからがガイド顔負けの説明。
正岡子規は、明治27年故郷の松山から母親と妹を呼び寄せこの地に移り
住み、亡くなるまでの8年間、執筆活動を続けたそう。
生活は、新聞社からの給料でまかなっていて、入社した当時は当時のお金で
15円だったけれど、晩年には40円+俳人の会の「ほととぎす」から10円出て
いたので、贅沢さえしなければ十分に生活できる金額だったと言います。
ここには、夏目漱石、森鴎外、与謝野鉄幹、高浜虚子などが訪れ、この根岸
周辺には、文人墨客がたくさん住んでいたとか。
実際に、「漱石が来て、虚子が来たおおみそか」という子規の唄を発見。
おじさんは言います。
子規は新聞社の社長をはじめ、知人、弟子などの好意、人脈によって支えら
れていたんですな。
そして話はまだまだ続きます。
根岸の根は上野の山を指し、根岸の岸は東京湾を指すこと。
鶯谷の名前の由来は、
200年くらい前は大名などが住んでいた高級住宅地だったけれど、だんだん
すたれてしまって、そのうち無人の館が増えていった。
そして、時を経て、軍人や墨客の町と変わっていった。
もともと高級住宅地であったので、庭には梅や竹やぶがたくさん植えてあった
けれど、庭で鳴く鶯の声はもうひとつ良くなかった。
そこで、京都から声のいい鶯を連れてきて鳴かし、大正時代までうぐいすの鳴き
声コンテストまで開かれていた。
なんとこの間30分以上、ず~と立ち話。
でも、こうやってガイドさんがいなくても地元の人達が語れるって本当に理想の形
ですね。
木戸に子規の俳句を貼っている家もあちらこちらに…。
子規庵では撮影禁止な為、写真は撮れませんでしたが、子規保存会の方がボラン
ティアで維持、保存にがんばっておられます。
源内さんが顕彰会の方によって語られ守られているように…。
渡部のおじさん、楽しい話どうもありがとう。