中山道№150 後半戦

 


 

 

「金吾の裏切り」

 

西軍の優勢を目の当たりにして家康の焦りは極限に達した。

東軍の劣性を挽回するには、松尾山に屯している小早川15,000の逆流ししか残されていなかった。

家康にしてみれば、これまで周到の上にも周到を重ねて準備し、この戦いに臨んだのに、これまで50年余の生涯が、松尾山のバカ殿に自分の運命を左右されている現状に、思わず爪を噛み、「口惜し口惜し」と叫んだと云われる。

 

 

 

 

正午過ぎになって、家康は内応を約していた小早川隊が、動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるよう、久保島孫兵衛を差し向け、鉄砲大将の布施源兵衛に命じた。
世に言う「問鉄砲」である。

 

 

 

源兵衛は宇喜多隊の流弾を避けながら松尾山の山麓まで駆け上がり、秀秋の陣に向けて威嚇射撃をした。

撃ちかけてきた旗指物が、家康の鉄砲頭布施源兵衛だと分かった秀秋は、恐れをなして松尾山を降り、東軍に寝返ったとされているが、真相は分からない。

 
 

 

 

この寝返りに一人だけ従わなかった武将がいる。

小早川隊の先鋒隊長で1万石を領し、槍鬼と異名をとる松野主馬重元である。

小早川の重臣ながら豊臣の姓を許された武功者で、太閤の恩を重視し裏切りに抵抗し動かなかった。

小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃した。

  

 

大谷吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を押し返した。

                             
 

 

ところが、それまで中山道ラインで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊が突如、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。

脇坂らにも藤堂高虎から内応の手が伸びていたのである。

予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った吉継も午後1時頃、藤川台の奥へ退却した。

 
 

 

 

 
 

 

 

吉継は士卒に残らず軍用金を分け与え、「敗軍と決まった以上、一軍こぞって討死したところで何の益もない。落ちよ。この金銀をば、道中の費用にせよ」と言って、どなるようにして追い散らし、そのあと湯浅五助をまねき、介錯を命じた。

「わが首を敵に渡すな」と言いざま腹を掻き切った。

 
 

 

 

五助は、すぐさま穴を掘り吉継の首を埋め終わったところに、藤堂高虎の甥で侍大将の藤堂仁右衛門が上って来た。

旧知の二人は槍を交わし、五助は倒れながら仁右衛門に吉継の首のありかを秘密にしてほしいと懇願した。

 
 

 

 

仁右衛門が了解したので、五助はわざと突き伏せられ、仁右衛門は五助の首だけを家康の本陣に送った。

このとき、吉継の最後を問い詰めたが、仁右衛門は「約束でござれは、たとえ死を賜おうとも申せませぬ」と答えたので、家康は大いに笑い、それ以上は追求せず、仁右衛門に備前忠好の刀をあたえ、その功を賞した。

目頭が熱くなるような話である。

  
 

 

 

大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、死闘を繰り広げている宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍し、関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。

 

小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅によって、家康本隊も参戦し東軍は西軍に総攻撃をかけた。

宇喜多隊は小早川隊攻撃に耐えていたが、やがて3倍以上の東軍勢の前に壊滅した。

宇喜多秀家は、「金吾っ、寝返ったか」と叫び、馬首を小早川隊にむけ、「かの子せがれと刺し違えて死ぬまでのこと」と馬腹を蹴ろうとしたとき、明石全登がとびかかって馬を押さえ「生きて秀頼様のおゆくすえを計り候え」と、近臣20人をつけてむりやり秀家を戦場から脱出させた。

 
 

 

 

小西隊も早々に壊滅し、小西行長が敗走した。

                             
 

 

 

石田隊も東軍の総攻撃に対して粘りを見せていたものの、蒲生郷舎は「今から冥途にゆかんと存ずるゆえ、たれぞ供をするものはいないか」と敵に呼びかけつつ進み、馬を突かれて徒歩立ちとなり、混乱の中、旧知の織田有楽斉に遭遇。

「内府に乞うて一命をたすけて進ぜよう」と言う有楽斉に「これは信長公の弟君とも思えぬ御不覚人かな、いまさらあわれみを乞う備中と思われるか」と槍ぶすまに倒れた。

 

 

 

  

 

 

 

 

大将の三成は、自刃せずに敗走するに際して、左近に「頼朝も石橋山で敗れたが、身一つでのがれ、後に平家を倒して鎌倉幕府を起こした」という源平の故事に倣い、志のある者は十たび敗れても、最後の一戦でその志を遂げるべきだと言って、伊吹山方面へ逃走した。

 
 

 

 

三成が落延びるのを確認した島左近は、京極高知隊を一撃で蹴散らし、ついで生駒一正隊に突き入った。

「あれが内府の陣ぞ、一騎でも行きつけや」と声を涸らして士卒をはげまし、叫びながら、一匹の鬼に化したとしか思われないすさまじさで東軍の馳駆する中に切り込み、激闘30分後には、馬蹄に踏みにじられ、誰がどの死骸かとも分らない状況になり、左近の首はついに見つからなかった。

石田隊は島・蒲生などの重臣が討死し、とうとう壊滅したのである。

 

 

 

 

 

 

 

午後2時になって、三成の陣の隣にいながら、救援もせず中立を保っているような島津隊には、東軍のほとんどが仕掛けて行かなかったし、逃げ込んでくる宇喜多隊に銃撃をくらわせる始末であった。

そうはいっても西軍に陣する以上放置もできず、家康は徳川最強の井伊隊と本多隊を差し向けた。

 

 

 

 

最後に残った島津隊も東軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥ったが、島津義弘・豊久隊1,500が一斉に鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央に突撃を開始した。

まさかの反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、正則の「見送れ」の命令も届かず、その間に島津隊は強行突破に成功した。

ついで、井伊・本多の両隊とも激闘のすえこれも突破した。


 

 

家康本陣の間近まで迫って来た島津隊の勢いに驚いた家康は、迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いたという。

しかし島津隊は直前で転進し、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始した。

松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を執拗に追撃するが、島津隊は座禅陣というトカゲのしっぽ切りのような捨て奸すてがまり戦法を用いて戦線離脱を試み入道陣羽織を羽織って身代になった島津豊久らが玉砕するなど、多くの家臣の犠牲の下、兵も80前後に激減しながらも東軍の追撃をかわし、逃げ延びた。

この時、井伊直政はステガマリの銃弾を右腕に受け落馬した。

松平忠吉も銃弾を浴びて、士卒の介抱を受け後ろに送られた。

世に言う「島津の退き口」である。


 

 

時はすでに午後4時になっていた。

この後、島津義弘以下の敗残兵は、伊勢路から土寇達と戦いながら伊賀を突破し、奈良、大坂を経て堺から船を仕立て、内海を走って日向へ至り、ようやく薩摩へ帰った。

 

西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢も、戦わずして撤退を開始。

浅野幸長・池田輝政らの追撃を受けるが、無事に戦線を離脱し、伊勢街道から大坂方面へ撤退した。


 

 

午後3時、天下分け目の戦いは、たつたの一日で東軍の勝利となり決着が付いた。

 

次回は明後日 「戦後処理」へつづく