普通学校で育った重度運動障害児 ー自殺未遂を越えて、たくさんの人に愛され、生きていくー(仮)

普通学校で育った重度運動障害児 ー自殺未遂を越えて、たくさんの人に愛され、生きていくー(仮)

2016年4月、いよいよ障害者差別解消法が施行され、今後さらに、普通学校に通う障害児が増えることが予想される。しかし、その前に、もう一度、その利点と弊害を、多くの人に考えてみてほしい。これは、重度運動障害を持ちながら、小中高を普通学校で育った私の全記録である。

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 私は中学時代、介助員との関係に悩み、自殺未遂を繰り返し、その後、高校・大学に進学しても、「死にたい」と「生きたい」の狭間でもがき苦しんだ。もちろん、その全ての原因を中学時代の出来事に押し付けるつもりは全くない。私は小学校時代から母とのあいだに葛藤を抱えていたし、もともとの自尊心が低かったからこそ、「死にたい気持ち」という渦の中から抜け出すことがなかなかできなかったのかもしれない。しかし、介助員との関係が、中学時代の私を自殺未遂に追い込むきっかけになったことも事実である。
 強調しておきたいのは、私は当時の介助員の方を責めようという気はさらさらないということだ。その方にとっては、当時、大学を卒業したばかりで、障害児に関する知識も経験もないまま、いきなり重度障害児の介助を一日中することになったら、不安や戸惑いを感じて当然である。そのような感情を誰にも打ち明けられない環境の中で、一年間、私の介助を投げ出さなかったその方を責めることはできない。改善されるべきは、普通学校に通う障害児と、それを支援する人たちを取り巻く環境である。
 二〇〇七年、我が国の障害児教育は、特殊教育から特別支援教育へと制度的に転換した。それまでの盲学校、聾学校、養護学校は、障害種を超えて、特別支援学校という名称に統一された。これにより、視覚障害と知的障害というような、重複した障害を併せ持つ子どもへの教育も比較的容易になった。さらに、従来の特殊教育では対象とされていなかった、通常学級に在籍する学習障害や注意欠陥多動性障害、高機能自閉症などの発達障害を持つ子どもも、特別支援教育の対象になった。つまり従来の特殊教育は、その対象を障害カテゴリーに照らして、「障害児童生徒」として捉え、障害の種類や程度に応じて、盲・聾・養護学校や特殊学級という特別な場で指導してきたのに対して、特別支援教育では、その対象を、障害等により生活上、学習上の困難を有する「特別な教育的支援を必要とする児童生徒」として捉え、その一人一人のニーズに応じた適切な教育的支援を、通常学級を含む、その子どもが実際に学習している場で行われることを意図している。以上のような制度転換の結果、従来は担任教師や保護者の自助努力で行われていた、通常学級で健常児とともに学んでいる障害児への支援が、特別支援教育という制度の枠内で行われるようになった。
 さらに、二〇一六年には障害者差別解消法が施行され、今後ますます、発達障害だけではなく、様々な障害を持つ子どもが通常学校の通常学級に入ってくることが予想される。一方、学校教育法では、特別支援学校に就学させるべき障害の程度が定められている。それに該当する程度の障害を持つ子どもが、それでも障害のない子どもと一緒に学びたいと、通常学校に通うとき、今まではその子どもや保護者に対する学校教育の風当たりは強いこともあった。障害者差別解消法の施行により、その風当たりが弱まり、重度の障害があっても、本人や保護者が希望すれば、通常学校に当然のようにいられる社会になることを期待している。
 ただ、その一方で、これから通常学校、通常学級に通う障害児が増えていくことに対して不安を持ってしまう自分もいる。確かに、障害児が通常学校・通常学級に通うことで、多様性を認め合える学校・学級になったり、障害児本人もいろいろなことに挑戦する機会が増えたり、メリットもたくさんある。しかし、障害児を通常学校・通常学級に入れるときには、それにより起こりうるデメリットも考える必要がある。健常児と一緒に生活する時間が長いほど、本人の障害特性に応じた支援は受けづらくなる。もちろん、通常学級で学ぶ障害児に対しても、障害特性に応じた支援を十分に受けられるようにするべきなのだが、その子どもの障害について理解し、適切な支援計画を立てられる教員が通常学校にいるとは限らない。特別支援学校なら、障害児教育についての知識や経験のある教員と相談しながら、その子どもにあった学習方法を考えることができるのに、通常学校には障害についての相談に乗ることのできる教員がいないため、授業についていくために、子ども自身や保護者が手探りで、独自の学習方法を見つけなければならない場合もある。もちろん、担任教師によっては、その子どもの障害を理解しようと努力を惜しまない先生もいるが、すべての教員がそうだとは言い切れない。そして、障害児が健常児に囲まれて生活するということは、ほとんどの場合、学級や学年の中で障害があるのは自分ひとりだけという環境で毎日生活するということだ。自分の障害のことで悩んでも、その悩みを話せる友達がいないのだ。私は高校時代、言語障害で悩んだ時、「似たような障害を持つ友達が近くにいたら、私の気持ちを分かってくれるかな」と思ったことがある。障害児を通常学級に入れる場合には、そのようなデメリットもあるということもぜひ考えてほしい。
そして、障害者差別解消法により、通常学級で学ぶ障害児が増える前に、通常学級に在籍していても、障害特性に合わせた教育的支援が十分に受けられるような制度づくりを、国は性急に行って欲しい。通常学級には入れたが、そのあと、子供の障害特性に配慮した適切な支援は何も行われていないという状態では、本末転倒である。具体的には、通常学級に在籍する障害児やその担任教員が悩みを抱えた時に、気軽に相談できる、障害児教育についての専門知識を持っている教員を各学校ごとに配置して欲しい。現行の制度では、小・中学校には特別支援教育コーディネーターが置かれ、障害児の保護者や学校内の関係者間の連携協力、特別支援学校などの教育機関、医療・福祉機関との連携協力の推進役とされているが、この特別支援教育コーディネーターになるために特別、障害児教育の知識を有している必要はない。つまり障害児が通常学校に在籍しているにもかかわらず、教員側に障害児教育の専門知識を持つ教員が一人もいない状態でも、制度上は何の問題もないのだ。
 私が一番心配しているのは、通常学校に通う障害児の中で、中学時代の私のような経験をする子どもが出てくるのではないかということである。文部科学省では、通常の小・中学校において障害のある児童生徒に対し、食事、排泄、教室の移動補助等学校における日常生活動作の介助を行ったり、発達障害の児童生徒に対し学習活動上のサポートを行ったりする職員を「特別支援教育支援員」としている。私が小・中学校時代に介助をお願いしていた介助員もこの「特別支援教育支援員」にあたるだろう。文部科学省は、「特別支援教育支援員が、特別な支援が必要な児童生徒に、適切な対応をするためには、効果的な研修が必要」であるとしている。しかし、研修期間は各自治体に任されており、長く設定されているところで数日、短いところは半日で研修が終了とされてしまう。特別支援教育支援員になるための特別な資格は設定されておらず、その採用基準は自治体によってバラバラである。教員免許や障害児支援に対する知識を持っていることを条件に採用している自治体もあるが、平成二十年の国立特別支援教育総合研究所の調査では、特に資格・経験等を問わずに、特別支援教育支援員を採用している自治体が約六割である。今まで障害児に関わったこともなければ、障害に関する知識も全くない者が、数日研修を受けたくらいで、障害児の介助や支援ができるようになるとは思えない。もちろん、障害児を介助するという仕事を選んだ人なのだから、ある程度、障害児教育に対しての思いはあるだろう。しかし、全く初めて障害児と接した次の日には、その子の食事や排泄の介助をする。仕事を進めていく中で、不安や戸惑いが出てきて当然だ。でも、その時点ではもう研修も終わっており、自分以外に、障害児教育に関する知識を持っている職員は誰もいない。そんな仕事に対する行き場のない不安が不満に変わり、毎日接している障害児に不満をぶつけてしまうことも起こりえてしまう。そのような悲劇が起こらないように、特別支援教育支援員が仕事上の不安を抱えたときにすぐに誰かに相談できるような体制が必要だろう。もっと言えば、毎日、障害児と一対一で関わる特別支援教育支援員には、障害児の教育や福祉に精通している者を採用するべきだ。さらに、障害児やその保護者が、特別支援教育支援員についての悩みを持った時に、すぐに誰かに相談できるような体制を作って欲しい。中学時代の私に、介助員についての悩みを相談できる大人がいてくれたら、もっと早く生き地獄から脱出できたかもしれない。

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