岩手県知事・たっそ(達増)拓也ブログ

岩手県知事、たっそ(達増)拓也です。
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明治維新150年記念論考

「明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた」

平成30年4月 達増拓也

<岩手県と明治維新の関係>

 

 明治維新150年ですが、岩手県と明治維新の関係と言えば、南部藩も伊達藩も賊軍とされ、明治維新後には蔑視されて苦労した、というイメージを持つ人が多いと思います。昨年末には『東北を置き去りにした明治維新 戊辰戦争の謝罪なしに、日本の融和はない』という題の本が出ています。

 私も基本的にそのような歴史認識でしたが、そこで不思議なのが、明治以降、岩手県から総理大臣が4人(東条英機首相を含めると5人)も出ており、新渡戸稲造という日本を代表する国際人や、大臣を歴任して活躍する後藤新平のような人物も出ている、ということです。戊辰戦争のくやしさを力にした、というだけでは説明しきれないものを感じていました。

 釜石の橋野高炉跡が「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産登録された時も、大変喜ばしいと思う反面、不思議な気持ちも感じました。「明治日本の産業革命遺産」は、23の構成資産のうち21が九州と山口県にあり、それ以外は幕府天領の韮山(今の静岡県)と釜石市の橋野だけ。賊軍とされた藩からは、橋野だけが世界遺産に含まれたのです。

 

<幕末における岩手の先進性>

 

 橋野高炉が作られたのは明治維新前、幕末であり、その頃、岩手には、薩長など西南雄藩に匹敵する先進性があったということです。橋野に近代西洋式の製鉄場を開発したのは盛岡藩士、大島高任ですが、彼が1863年に書いた「藩政改革書」は、開国貿易、殖産興業、富国強兵、義務教育など、明治日本の近代化路線を先取りするような内容でした。明治維新の五年前、攘夷か開国か、全国的に議論が混乱していた時期、長州藩が外国船を砲撃していたような年に、そのような改革論が書かれたのです。

 

<ロシアへの警戒、北方警備>

 

今年の大河ドラマは『西郷どん』で、日本の南の端にある薩摩藩が、イギリス等の欧米列強アジア進出をいち早く察知し、渡辺謙演じる島津斉彬の下、近代化を進めようとする様子を描いています。その時代より50年ほど前、日本の北の端にあった盛岡藩では、ロシアの進出に対応する動きがありました。1800年頃からロシア船が蝦夷地(今の北海道)周辺に出没するようになり、東北諸藩が徳川幕府から北方警備を命じられたのです。盛岡藩は今の青森県下北半島の北端まで領地でしたので、北海道に一番近いということで、真っ先に北海道駐留を命じられました。盛岡藩はロシアとの交戦も経験し、黒船来航より約50年も前に、外交防衛の洗礼を受けました。このことが、幕末における岩手の先進性につながったと思います。

 

<志士第1号、相馬大作>

 

 その頃の盛岡藩で、北方警備の重要性を唱え、郷里の福岡(今の二戸市)に私塾を開き、武家や町人への教育に力を入れたのが、相馬大作こと下斗米秀之進です。彼は、1821年、津軽藩主に恨みを抱いて死んだ盛岡藩主の無念を晴らすため、津軽藩主の参勤交代行列襲撃を企て、天下を騒がせます。この「相馬大作事件」は、忠臣蔵以来の義挙として、大いに人気を博し、明治になってから講談、小説、映画になっています。映画は、明治、大正、昭和初期に、様々な映画会社で何度も作られており、相馬大作を巡る物語が、幕末から戦前にかけて、日本文化の重要な柱だったことが分かります。

 「相馬大作事件」は、明治維新史上の重要人物、水戸藩の藤田東湖と長州藩の吉田松陰に強い影響を与えました。二人とも、相馬大作をたたえる文章を書いています。藤田東湖は、薩摩藩の西郷隆盛が尊敬する二人の人物の一人です(もう一人は越前福井藩の橋本佐内)ので、相馬大作は間接的に西郷隆盛に影響を与えたと言えるでしょう。吉田松陰は、若いころ、対ロシアの北方警備の実情を知るために、脱藩してまで東北旅行を敢行するのですが、その時、相馬大作の事を詳しく調べています。吉田松陰の妹を主人公にした大河ドラマ『花燃ゆ』が放映された時、NHK出版から『吉田松陰 大和燦々』という小説が出ますが、その小説は、吉田松陰は東北旅行で相馬大作事件について調べることで、大和魂に目覚め、松下村塾を開いて教えるようになった、と描いています。

 相馬大作は主君のために身を犠牲にした「義士」として、日本中でたたえられたのですが、藤田東湖や吉田松陰は、相馬大作が日本全体の防衛の事も考えて行動していた「志士」でもあったことに気付き、大いに参考にしたのだと思います。主従関係の下での忠義を貫く「義士」から、封建的な主従関係の枠を超えて日本全体のために行動する「志士」の時代へ、という転機の中で、「義士」として死ぬことでかえって「志士」性を際立たせ、「志士」の時代を切り拓いた相馬大作こそ、「志士第1号」であると思います。

 ちなみに、『壬生義士伝』の主人公、吉村貫一郎は、妻や子への忠義が最優先で、家族に対する「義士」である、という所が近代的でありました。

 

<相馬大作の開塾が明治維新の起点>

 

 相馬大作が私塾を開いたのは1818年で、奇しくも明治維新のちょうど50年前、今から200年前になります。この時を、明治維新の起点とみることができるのではないでしょうか。

 

<岩手県南伊達領の役割>

 

 ちなみに、岩手県南の伊達-仙台藩領と田村-一関藩領だった地域は、仙台藩の魂と頭脳の役割を果たしてきたと思います。魂というのは、平泉が奥州王伊達政宗の心のよりどころであり、歴代藩主が庇護してきたからです。また、頭脳というのは、仙台藩の藩校の教師や、藩を代表するような学者たちが、今の岩手県南から何人も出ているからです。

 水沢に生まれた高野長英は、非常に先進的な学問を身に着け、藤田東湖とも交流し、欧米列強の日本近海進出にも敏感でした。対外政策を論じた『夢物語』で幕府に捕らえられましたが、高野長英の考え方と志は、日本中の多くの「志士」たちに引き継がれました。

 岩手県南伊達領の精神性と先進性は、同地域が盛岡藩の明治維新後に岩手県になった部分と合わさると、明治以降の岩手が歴史の要所要所で重要な役割を果たしていく原動力となります。水沢出身の大谷翔平くんも、源義経の飛翔するイメージと平泉から「翔平」と名付けられたとのことで、岩手県南の精神性と先進性は今も受け継がれ、花開いています。

 

<原敬首相就任が明治維新の完成>

 

 明治維新150年については、明治維新は薩長藩閥政治を生み出し、それはやがて日本軍国主義につながったのだから、とても祝うようなことではない、という批判もあります。

 私は、原敬首相就任(これがまた、奇しくも明治維新のちょうど50年後、今から100年前の1918年)で明治維新が完成したとみることで、大正デモクラシーを花開かせたところに明治維新の意義を見出せると考えます。

 明治維新は有司専制の薩長藩閥政治をもたらしましたが、それに対抗する自由民権運動も生み出しました。明治政府は民権運動家に、やがて政党に、徐々に妥協を強いられ、議会開設、憲法制定、と民主化を進めました。それが大正デモクラシーで花開き、岩手県出身の原敬が、平民宰相として政党内閣の首班となります。

 その後、原敬が暗殺されなければ、原敬の対米協調外交が日本に根付き、日本は、米国と連携しながら、中国大陸や朝鮮半島での軍事支配をゆるめ、中国との協商や韓国の独立を実現していた可能性があります。そうなれば日本の軍国主義化は無く、デモクラシーのさらなる発展が期待できたと考えます。

 

<原敬以後の日本のあり方を深く反省する必要>

 

 明治維新は、その50年前からと50年後までを視野に入れた時に、それが薩長等西南雄藩だけの偉業ではなく、日本全体で実現したことだったという理解が深まり、日本の近代化と民主化という意義も認められる、ということになるでしょう。

 今を生きる私たちは、さらに、原敬暗殺がなかった場合の日本の可能性に思いをはせながら、国際協調と民主主義を失っていった原敬以後の日本のあり方を深く反省することで、現在、そしてこれからの日本のあるべき姿を描いていくことができるでしょう。

(終)

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