太郎冠者の是好日

実はあるがままで完璧で、それに気づけば大いなる安心に包まれます。

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60、眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。




時間、空間について、とてもよく表された言葉だと思います。

集中して何かをしているとき、時間があっという間に過ぎたってことは多くの人が体験していると思います。

逆に嫌な時間は長く感じることも…。



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自分という感覚が強いと時間が流れるという感覚に支配されますから、ハッと集中が途切れるとただ感じ方が違った程度にしか感じませんが、時間を感じようとすると…例えば早く過ぎてほしいと思うのであれば、それだけ未来(=幻)の時間を捉えようとするので、長く感じてしまいます。

この世には体験しに来ていますから、どうしても時間が流れるという感覚は得やすくなります。

生老病死は、時間が流れることを植えつけてしまいます。

しかし、逆説的ですが、体験をしに来ているのですから、瞬間、瞬間の体験で完結しているだけなんです。

お釈迦様は、この感覚がわからなければ、生死の道のりは長く感じるとおっしゃられているんですね。

しかし、私達は、肉体の成長を経験しますから、心の成長も感じたり、今よりもっと優れた未来を追い求めることもしてしまいます。

思考も経験の一つですから、それも全く構いませんが、私の最近思うところとして、5歳の娘と接していて、やっぱり子どもの頃から何一つ変わっていないと感じることが多くなっています。

大人のように振る舞いますし、知識や技術も多くなっていますが、実のところ何も変わっていない…つまり、時間が過ぎたように見えて、魂は何も変わっていないというのが見えてきます。

この世の常識として、死は必ずやってきますが、時間に惑わされないようになると、変わらないものがたった一つあることが見えてきます。



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第2段では、「寂靜法性」、すなわち常に静寂な真理の世界の覚者を生み出す般若理趣が説かれています。




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理趣経では金剛平等、義平等、法平等、一切業平等、それぞれ金剛、蓮華、法、羯磨という4つの角度から般若理趣を説明していると解説されていますが、金剛~羯磨の意味は、煩雑になるので、ここでは脇に置きます。

平易な言い方をすると、金剛平等であるがゆえに義平等であり、法平等であり…という感じで、実はすべてが関連しているというか、全く一つのものです。

一つの気づきがあった瞬間に、一気にすべての見方が変わっていくのですが、それをよく表していると思います。

この気づきを助けるのは、無分別、すなわち無思考という状態と言えます。

この思考は、自我の活動の最たるものですが、この無思考という状態に長くあるのに大変役立つのは寂静法性という静寂といいますか、えもいわれぬ安心感です。

思考は自我が動こうとする欲求の元に生じますが、この寂静法性に触れていると、動こうとする感覚がとても鈍ります。

何もしたくなくなるといいますか、それでも不安など動機は惹起しませんので、どうでもよくなります。欲望としてはその寂静法性に触れ続けていたいという感覚です。

そして、無思考、無分別に住するようになり、一気に金剛平等、義平等とわけ隔てのない感覚がやってきます。

ただ、それに触れているだけなのですが、すべてがそれに包まれていきます。





何も求める必要はありませんが、強いて言うなら、如来、すなわちこのことに気づいている人に近づくことで、自然と得られる波動(=人の生み出す波動ではありません)に触れて、そこに居続ける…。

これはダンマパダでも盛んにお釈迦様がおっしゃっている努力ということで、理趣経はそのことを第2段に明確に述べています。





時薄伽梵毘盧遮那如來復説一切如來寂靜法性現等覺出生般若理趣所謂金剛平等現等覺以大菩提金剛堅固故義平等現等覺以大菩提一義利故法平等現等覺以大菩提自性淸淨故一切業平等現等覺以大菩提一切分別無分別性故金剛手若有聞此四出生法讀誦受持設使現行無量重罪必能超越一切惡趣乃至當坐菩提道場速能剋證無上正覺時薄伽梵如是説已欲重顯明此義故熙怡微咲持智拳印説一切法自性平等心



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21、つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。
つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

22、このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。

91、こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。



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言葉は難しいもので、この世で誤解が必ず存在するのも、言葉が二元の感覚を持つからなのでしょう。

ダンマパダの21.22.はそれぞれ、つとめはげむという意味として、おそらく常識にとらわれないようにする、「努力」という感じでしょう。

また91.は21.22.と同じようにも読めますし、真逆の二元的な言葉にも取れます。

すなわち満足を得ようと努力しても、どんどん足りないものを捨てていく…。



読み取るにはもう少し情報が必要なのかもしれませんが、ここでは意味の詳細を捉えることは本義ではありませんので、読み飛ばしていきます。





努力というのは、誰がするのでしょうね。

そして、その努力の動機を捉えると、その努力する主体の「思い」が見えてきます。

例えば今以上の名声やお金を得るための努力もあるでしょう。

あるいは、今ある何かを失わない、エイジングケアのような努力もあるでしょう。

これらはみんな、得ようとする努力ですから、対極にある失いたくないという「思い」があります。

ちなみに、仏教哲学的には、これらの心の動きを「戒律」などで取り除こうとします。

しかし、ここにも理想を求める努力ですから、対極に不純という「思い」が内在します。




ですから、努力をしたって何も悪くはありません。

思うがままにすればいいと思います。

仮に後悔することがあったとしても、しばらくすれば過去の出来事に気持ちを強く持たなければ、やがて後悔の念は消えてなくなってしまいます。




話が横に反れましたが、このダンマパダの言葉で私が言いたいのは、こうしたお釈迦様の言葉を戒めや、哲学のように読んでしまえば、対極のものを内在させてしまって、22.でお釈迦様のおっしゃる聖者の境地には到達しないということです。

逆に、思うがままに任せて、心を過去の出来事に残さなければ、あるいは未来の理想に向けなければ、やがて後悔の念など自分を責めるものは消えてなくなっていきます。

理想などはありません。

結局はどうあったって、この世の経験をしに来ているのですから、この世の経験とずれた理想主義などは吹っ飛んでしまうんです。



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