太郎冠者の是好日

実はあるがままで完璧で、それに気づけば大いなる安心に包まれます。

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33、心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする____弓師が矢の弦を直くするように。

34、水の中の住処から引き出されて陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。

35、心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。
心をおさめたならば、安楽をもたらす。



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実は動揺しているのは、「私」の心(=自我)なのですが、33では、制止難いとお釈迦様はおっしゃられています。

つまり制するのではないということですね。

この制するという心理は、常識の範囲内で通常行われるものですが、制する必要が生じた場面で起こりうる心理ですから、我慢が足りなかったとか、自制心が弱かったなどの、自戒も生じさせてしまいます。

言い換えると自分を責める状態ですから、自信を無くしたりして、自分を支える新たな根拠を求めることになります。

つまり、次の動揺を呼び込む呼び水になるわけです。



これでは、いつまでも平安を追い求める状態に陥って、結局平安は得られないということにつながります。

そして追い求めるという状態は34の陸に上がった魚のようにもがき苦しむということです。

ところが、35で心をおさめたなら安楽をもたらすとあって、この心をおさめるということはどういう意味かといいますと、33で述べたように制するものではなく、その状態を知るということだと思います。

後年、大日経の住心品でその智慧が凝縮された句としての「菩提心を因となし、大悲を根本とし、方便を究竟となす」の解説として、「如実知自心」という言葉が生み出されますが、まさに自分の心をそのまま知るということです。

ただ、これも33と同じく常識の感覚で見ると、良し悪しを見つめて、自戒に陥る状況になりますから、それをせず、ただ、集中力を発揮して、目の前の出来事に取り組むということになります。

…ん、なんで?

って思われるかもしれません。

実は私達はどうしても良し悪しを見つめる心の動きを見てしまいます。

これにどっぷり浸かることが33~35で言われる動揺している心の状態なのですが、これに浸からない状態になるには、目の前の景色で、あれこれ深く考えず懸命に生きるというのがとても重要になってきます。

そして、集中力を発揮するようになってくると、例えば、考えさせられる場面にあっても、次の瞬間に場面が変わった時にまた、その目の前の景色で生きようとしますから、自戒を呼び込むことが極めて減ってくるようになります。

さらに集中力が高まってくると、自戒という安楽を遠ざける感覚がなくなり、自分を客観視する余裕が出てきます。

これが如実知自心の状態で、落ち込むことなどが生じても、あとに引かない落ち着いた状態になっていきます。

そして、これが35の心をおさめる、あるいは33の弓師が直くする状態と言えるのです。



最後に、ですから、何も理想を追い求めず、今、目の前の景色に没頭してくださいね。

それが、欲望と評価されるものであっても、実は構いません。

どんどん、実行していきましょう。

本当の欲望は、目の前の景色にない、架空の世界、理想像を追い求めることですから。




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これを書きながら、たくさんの人が元気を見つけて欲しいなぁって願っています。

別に理由はありません。

そもそも元気に理由などありませんね。

それでも、何某らの理由をつけてしまうことはあるでしょうね。


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例えば、神仏、聖霊に対して、その意味付け…ネーミングも含めて、それをしたとき、その瞬間、何某らの概念の枠にはまります。

そしてそれは私とはかけ離れた存在になってしまいます。

それは常識に囚われた日常を過ごすとどうしてもそうなってしまいますね。



ところが、私と異なった存在…他人もそのうちに入るのですが、自他を分けるその瞬間に、比較と不全感が生まれます。

神仏もそうですね。

ところが、実際にそれを分けているのは、常識に囚われた私自身です。

もっとも、じゃぁ、私は神だ!と、名乗るのは違いますが…(笑)。

結局、他人を蔑んで、自分を完全と見立てただけで、比較と不全感は変わりません。




やがて、この比較と不全感は、自分自身を束縛していきます。

例えば、癒しグッズや、技法、あるいはセラピストに頼ることになっていきます。

セラピストも自分の技法、あるいは先生、他の何かに頼ることになります。



頼ることを否定しているわけではありません。

ただ、頼ることは、それがないと生きづらくさせますから、とても不自由な状態にさせてしまいます。

頼らずに、それでもセラピーをする…。

それがここでのエールです。

元気を見つけて欲しいと願っています。

つまり、理由付けなんて必要ありません。

自分がしたいことを正当化させなくても、そのまま心の赴くままに過ごしてほしいと思っています。

それが、ここでブログを書き続ける私の願いです。


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私の文章は、どうも禁止に見えるところが多いようです。

でも、そんなところはありません。

私がよく「自我の満足すること」について、しないほうがいいという表現をよくします。

例えば、ヒーリングは「必要ない」とかいう表現です。

それでも、やりたいことがあればどんどんすべきで、それはヒーリングも同じなのです。

ですから、どうしてもヒーリングがやりたいと相談されれば、どんどんしてくださいと言います(笑)。



逆に〇〇してはいけないと思っているのですが…。なんて相談されると「どうして〇〇することがいけないのですか?」と煽るような質問を返してしまいます。

実はこのような質問は自我を創りだす価値観から出ているものです。

私はその存在に気づいてほしいと願っています。

しかし、その存在を認めた瞬間、自分を否定したり卑下したりする感情も上がってくるのですが、そのことは本意ではありません。

実はそれも自我が創りだしたもので、ただ、そのことに気づくだけでいいんです。

スピリチュアルな観点も、宗教的な観点も、その他社会的な観点も全て、そこに起因しています。

いろいろなチャネリングメッセージとかもありますが、それを求めている自我の存在に気づいていけば、それに頼らなくなっていきます。

実はそこに、自我に縛られ、自我に頼る姿があって、それに気づいていけば、どんどん、本来の姿に帰って行きます。

そして、縛られたり、頼ったりしない、真の自由な姿になっていきます。

それに気づくだけで、行為行動は関係なくて、否定も肯定もないんです。





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